百八記blog

はてなダイアリー「百八記」から引っ越しました。相変わらずの、がさつずぼらぐーたら。

大学でなにする

ツイッタでうっかり反応して書いてたんだけど、ちょっとツイート向きのことじゃなかったので、削除してこちらに転記します。

大学入学まで、私は、自分が勉強が下手ではあるにしても、好きじゃない、どちらかというと嫌いだってことに気付かなかった。入学後に気付いて、教師になろうとしてたのでこれじゃなれないとわかり、パニックになった。でも大学生活は私に何らかの身にはなったと思う。
なんで大学に行ったかというと、ほかに出来ることが無かったからだ。それは私の視野が狭くて選択肢が無かったということでもある。得意と言えることが国語しかなく、その道で食うには大学進学しか手がないと説明し、親も納得した。まあ大学留年卒業後、一度も国語で食えてないんですけどね。
卒業後運良く入社できた会社は採用条件が大卒以上だったので、そこはラッキーだった。ともかくこうして15年間食って行くための基礎教育をしてくれたので、その点でも私の大卒には意味があった。そんなわけで、私は、勉強嫌いが大学進学することについては、そういうこともあるとしか言えない。
勉強嫌いでもほかにより良い選択肢が無いならそりゃ大学行くだろうと、今でも思う。ただし、私の研究にはオリジナリティが無く、そもそも研究とも言えない代物だった。この人が好きです、程度の。ゼミの発表も苦役だった。でも主席のAさんはレベルが違った。彼女の発表はいつも新鮮だった。
周囲には本物の凄い人たちがいた。あの人たちを見られてよかった。あのみじめで無駄な数年間がなければ、私は阿呆のままだったろう。社会人としてそういう時間を過ごすことは、ほんとに難しい。高校までにそういう経験ができる人は一握り。特に田舎では。私は…大学が門戸を広げることを批判できない。

大学入学する時、やりたいと思っていたこと。1.教職の免許取得。2.源氏物語の全文を写本で読めるようになっていること。3.漢詩を作れるようになっていること。3番目だけは漢詩作法の授業があったのでその一端には触れられた。あとはちょっとかじって全滅した。国語で食うとか無茶な夢だったな。
でも1番以外は、大学の方が効率はいいけど、大学行かなくてもまあ取り組むことはできる課題だ。卒論についても書き直したいと思いながら卒業して15年。
いろいろを老後に先送りしている日々だ。それも悪くないんだけど、先送りしてきたことを忘れていたり、他にも人生で先送りにした課題が片付けられてなくてだんだん詰んできたりしてるので、たまたまTLに出てきた大学教育についてのいくつかの話をきっかけに、ちょっと思い出してみた次第。
だんだん増殖する宿題のある人生であるよ。