命の値段

 小学生の男の子を去年の夏祭りの爆発事故で亡くした両親とその子の姉が、事故以来深い悲しみに打ちひしがれ続けている、という新聞記事を読んだ。

もともと人間は独りなのだから、残った三人家族だって十分じゃないか、という考え方もある。しかしそれは単なる「考え方」であって、「現実」ではない。

人間は家族を持つと、その人数分だけ一種の自己拡張が起き、家族全体が自分とほぼイコールになる。比喩ではなく、家族一人の悦びが自分の悦びになり、家族一人の苦しみが自分の苦しみなる。

だから家族の一人が欠けることは、一個の人間にとっては手や足のような身体の一部が突如無くなるのに等しい、現実的な痛みと衝撃になる。

人間が家族の突然の喪失から立ちあがるには、事故や病気で手や足を失った人がそれを受け入れるのと同様の、目がくらむような葛藤と、気の遠くなるような時間が要る。

命の教育とは、なにも原爆や空襲でいかに人間がむごたらしく死んでいったかを教えることだけではない。それは、家族という人間の生きる基盤において、自分自身がいかに重要な、断じて替えのきかない存在かを、子供たちに繰り返し説き、納得させることではないだろうか。

自分自身が家族においていかに尊い存在であるかを理解すれば、他人も同じように家族の中でかけがえの効かない存在であることが、腑に落ちるようになるだろう。

人間が他人の命を軽んじるのは、自分自身を重く見た反作用で他人のことを軽く見るから、ではない。自分自身をとるに足らない存在だと思っているからこそ、他人のことも同じように考えるようになるのだ。

逆に、人間を他人の命を軽んじるように(平気で人を殺せるように)仕込もうとするなら、その人を徹底的に軽んじればいいことになる。戦時中、軍人勅諭が「死は鴻毛より軽し」と述べたり、上官が兵隊に向かって「おまえらの命は一銭五厘(当時のハガキの配達料金)だ」といったのは、その点、悲惨なまでに合理的だったといえる。