あるアイドルの「出家」

 宗教というものは貨幣と同じで、その価値を信じている周囲に感化されて自分も信ずるようになる。つまり今渦中の清水富美加嬢の周りにはそういう人が一定数いて彼女はどっぷりその感化を受けたということになる。

北朝鮮の国民は自国ウォンの価値など信じていないが、日本人は円の価値を信じている。ただその信・不信の根拠といえば「自分の周りがそうしているから」という以外に何もなく、北朝鮮ウォンも円も、単なる紙切れや電子データであるという実体には違いはない。

幸福の科学」教も、葬式仏教も、キリスト教も、周囲の人間たちから感化されてなんとなく価値があるように思いこんでいる、という本質には変わりはない。

ひと昔前、こういった「他人からの感化の応酬によってなんとなく価値を信じている」状態を「共同幻想」と称し、「そういったものは怪しからんものなんだ」と糾弾する立場が知的とされていた。この視座からかつて槍玉にあげられていたのが「国家」だったり「宗教」だったり、したわけだが、

しかし、現代の思想的本流(そんなものがあると仮構して)はそこから一歩進化していて、人間が社会を構成したり、精神生活や物質生活を安寧に送るには、どういう形のものにせよある種の「お約束」の存在と、その他者との共有が欠かせない、という考え方をするような趨勢になっている。

それらの「共同幻想」性はひとまず肯定する、そして、それが頼むに足るものなのかどうが、という次の段階にて価値判断がなされるようになっている。

つまり、「カネなんてたんなる紙切れ」だ、と十把一からげに否定するのではなく、「北朝鮮ウォンは信用できないが、ジャパニーズエンは信用できる」というふうに、「宗教って結局のところみんなウソ物語でしょ」と頭から全否定するのではなく、

各の「幻想」の成立過程の歴史的な背景や厚み、主張している論理の妥当性や、描くコスモロジーの知的美観、それを奉じている人々の人格の深さや善良さ、社会における受け入れられ方等から、多角的にその宗教の価値を判定すべき、というふうになっている(と思う)。

蛇足ながら、そういう視点からくだんの「幸福の科学」は宗教としてどうなのかを肌感覚にて一言でいえば「インチキ」、教祖も信者もきわめて「気色わるく」、その信用レベルは北朝鮮ウォンなみの「紙くず」であると思うが、

しかし、それに入信する一人ひとりの人間たちを、「鼻のきかない愚か者」のように見下す位置には自分はいない。独りの人間を、こういったキワモノの磁力に引き寄せられざるをえないほどに、容赦なく追い詰める今の世界の(日本の)有様が、こういった異形の教理集団が生まれ、あまつさえ社会で棲息できる背景には在ると思われ、そこに浅からぬ関心を抱いているからだ。