「夫のちんぽが入らない」こだま著

もし、目の前に、「罪と罰」(ドストエフスキー作)と、「金閣寺」(三島由紀夫作)と、「夫のちんぽが入らない」(こだま作)が置かれて、そのどれも読んでいないとして、「一冊持って帰っていい」と言われたら、おそらく十人中七八人が、「夫のちんぽ」を持って帰りたくてたまらなくなるが持って帰れないジレンマに陥るのではないか。

この本が何万部売れたのかしらないが、仄聞するところによると、そうとう売れたようだ。しかし当然ながら、もっと手に取りやすいタイトルだったらさらに売れただろう、とみるのは見当違いだ。

手に取りにくいタイトルだからこそ手に取りたくてたまらなくなり、多くの人は勇を鼓して(あるいはこの欲求に負けて)この本を書店カウンターに持っていき、それが売り上げにつながった、と考えるべきだ。

自分がこの本を図書館備えつけの貸出機にかけ、ディスプレイに「ちんぽ」の文字がデカデカと表示されたときには冷や汗をかいた。幸い、自分の後ろで順番を待っている人がいなかったからよかったようなものの、もし誰かいたら「この本は自分が読むのではなく、頼まれて借りにきているのだ」という演技を背中でしなくてはならないところだった。

9割のシリアスに1割のユーモラスで構成されるこの「私小説(作者本人談)」は、内容・表現共に近頃比類のない出来で、というほど自分は近頃の小説を読んでいないが、少なくとも芥川賞受賞作である「火花」や「コンビニ人間」よりは、数レベル上等な作品である。

「誰でも自分の人生をネタ元にした名作を一冊は書ける」という意味の言葉がある。口さがない世間では、この小説もそのたぐいの「一発屋」的な作品だと囁かれているかもしれない。

たしかに、隠蔽すべき実体験の御開帳をしてあとは野となれ山となれ的なれ的な、よくある刹那的な小説に見えないことはないが、しかし、自分には作者の筆力は本物と思える。

この人ならば、実体験のバーゲンセールですっかり空き箱になり、あとは廃棄されるのを待つのみ、といったよくある作家残酷物語に遭うことなく、上手にテーマを見つけられれば(あるいは与えられれば)、どんなジャンルの文章も器用に書きこなすのではなかろうか。

なお、自分はこの物語の主人公(作者本人)は、かつて世間を賑わした「東電OL殺人事件」の被害者女性に似ていると思った。そもそも健全なエロなどエロではないという議論もあろうが、エロが健全な出口を与えられないと、妙な角度から物凄い速度で飛びだしてはた迷惑になったり、内に滞留すれば、その堆積はやがて毒々しい膿になり身を苦しめるようになる。

この作品は、作者のエロの「健全」を欠いた噴出と堆積の物語であり、作者自身この物語を書くことをその苦痛からの自己救済の手段にしているのだろうし、本来小説とは、そういった作者の内面の切実な動機があってこそ成立するものだ、そんなことも考えさせられた。

この本は、「人並み」から放逐されると人間はどこまで苦しむことになるのか、という、いわばきわめて純度の高い純文学作品である。(なにせ「入る」話ではなく、「入らない」話だから)

自分はこれを読みながら久しぶりに「純文学」というワードが頭に浮かんできて、その言葉をしみじみと味わった。自分なりに定義する純文学とは、「実体験に依拠して人間の業(押しとどめようがない喜怒哀楽の噴出)を描く」というもので、例を挙げると、吉田満の「戦艦大和ノ最期」、中勘助の「銀の匙」などが至高の純文学だと思っているが、この「ちんぽ」が至高かどうかはともなく、カテゴリ的にはそれらに分類してよい作品だと思った。