国立西洋美術館「ミケランジェロと理想の身体」展


地獄の門((オーギュスト・ロダン作)

 国立西洋美術館で「ミケランジェロと理想の身体」展をみる。

 ミケランジェロの作品は2点しか無く、彼の作品を観るつもりでいった自分はやや拍子抜けしたが、代わりギリシャ・ローマ時代の彫刻が豊富で、また同美術館の常設展が素晴らしかった。

 自分が惹かれたのは、「円盤投げ」の彫像で有名なミュロンの作と伝えられる男性の大理石のトルソである。

これは、頭と足を復活させたらおそらく2メートルは優に超えるサイズの像で、こういう作品が形成される背景になった古代人の人間の肉体に対する熱狂的執着は、いったいどこから出てくるのだろうか。


ミュロン作と伝えられる男のトルソ(ネットより。撮影者は主催者の許可を得ているとのこと)

人間の肉体は、異性愛、同性愛を問わず、人間同士の性的な欲動を喚起するものだから、その執着の熱源は先ずはそこにあると見なすべきだろうが、話はそこで終わらない。

展示会場内の解説にもあったが、古代人は、人間の肉体はその精神が外に顕在化したものであると考えていたから、心や精神、あるいは魂といった目で見ることができない形の無いものよりも、肉体という、目で見え手で触れることができる具体的存在を信用していた。

小林秀雄に「イデア(理念)などつまらない。フォルム(形)だけが美しい」という言葉がある。

この言葉に小林が込めた価値観は、ギリシャ・ローマ人の美意識とほぼ符合している。これは、「理念」と「形」を天秤に掛けて後者の勝ちと判定したのではない。

そもそも、形には理念が含有されている。あるいは、形とは理念が可視化されたものだ、という確信である。

この外形重視の立場は、「かたちより心が大切」「大切なのものは目に見えない」といった言葉が流通している当世には、受け入れられにくいかもしれない。

本居宣長に「意は似せやすし、形は似せ難し」という言葉がある。これは当たり前の話で、意識の中で美しい景色を思い描くことと、実際に絵筆をとって画布の上に描写するのとは別次元の話で、前者より後者の方が格段に難しいのは道理である。

また、小林秀雄の「「イデアなどつまらない。フォルムだけが美しい」と言う言葉には、もう一つの芸術論が隠れている。それは「色などつまらない。線だけが美しい」、言葉を換えれば、「色など無くても、線があれば作品としては十全だ」という美術観である。

大理石彫刻に色は施さない。表現されているのは、鑿の当て具合で生まれる凹凸と、光線の当て具合で変化する陰影だけだ。そこに更に彩色をすることは、何かを加えるより何かを減ずることになりかねない。

一般論として、見せかけより内実が優先されるべきではあるし、色彩の美しさが芸術的感興をもたらすのも本当で、その常識は堅牢だ。フォルム至上主義はその常道をふまえた一種の逆説であるが、真実は往々にして逆説でしか表現できない筋のものではある。

なお、この美術館で圧巻なのは、何ともいってもロダンの作品群である。

ロダンの人間の肉体への執着も尋常ではないが、彼の場合、その源泉はギリシャ・ローマの彫刻家とは違っていて、こちらは性的な欲動だと思う。それは、彼の作品に男女の性的な濃厚な絡みを描写したものが多いことにはっきりと表れている。

芸術家はその作品の、職人はその製品の完成を目指して作業を続けるわけだが、ロダンの場合、作業時間そのものを耽溺していて、その耽溺と没入の様相、あるいは異様なまでの情動の高まりは、性的行為のそれと近似しているように思える。これは、モネが睡蓮を描く時間を耽溺していたのより、より強烈な印象がある。


ロダンの作品


地獄の門(部分)

圧巻のロダンとは別に、常設展から、一点だけ挙げると、このセザンヌの作品であろうか。

セザンヌは通常の意味での上手い絵描きではないが、不思議と長い時間眺めていて飽きないものがある。この正体を分析するのは容易ではないが、彼の絵には、なんだか見る人を生理的に安定させる因子があるような気がする。

絵を見る愉しみとは、描いているときの絵描きの心理状態をなぞることでもあるから、おそらくこの「安定感」は、セザンヌ自身が制作と向き合っているときの心理状態のおすそ分けなのではないか、という気もする。

セザンヌの絵画作法は、部分に拘泥することなく、画面全体を同時並行的に仕上げていくところにあると思うが、その作業プロセスの知的な着実さが安定感を醸し出しているのではないだろうか。稀有な画家のこういうすぐれた作品が、「常設展示コーナーにある」という理由だけで撮影可能になっておるのは、有難いがなんだか不思議な気もする。