死についての断章

 誰からも欲しがられない貨幣は貨幣とは呼べないように、死への恐怖がなくなった人間は人間とは呼べない。貨幣には「欲しがられる」という本質があるのように、人間には「死ぬのが怖い」という生理がある。

人間が感じるあらゆる恐怖は、「死への恐怖」を総本山にした支部寺のようなものだ。

人間がすっかり死への恐怖を消滅させたら、文明も文化も伝統も一緒に滅びるだろう。視点を変えれば、動物や植物は、人間のような死への恐怖心を持たないから、文明も文化も伝統も築けずにいるのだ。

死ぬことの恐ろしさからは逃れるすべはないが、そう忌むことばかりでもない。徒然草にある「人みな生を楽しまざるは死を恐れざるがゆえなり」という記述が当を得ているのであれば、死への恐怖は、生の愉楽を味わう必要条件ということになる。

死の観念に蹂躙されて身動きが取れなくなる状態でなければ、死が常に自分に寄り添っていることを自覚することはけっして無益なことではない。通常の人間社会は「日常感覚」を共有することで成立しているが、「死の感覚」という非日常感覚を共有することでも繋がることができるだろうし、ひょっとすると、そちらの方が人間同士の本質的なコミュニケーションかもしれない。

いわゆる女性の「アンチエイジング」や男性の「筋トレ」は、死への道程である肉体の滅びへの抵抗であり、その行動の根底にはやはり「死への恐怖」という情動がある。しかしその恐怖が人間の意欲を喚起し、行動に駆り立て、精神を活性化し、経済市場を形成している、という存在意義がある。

一口に「死」といっても多様なとらえかたがある。ひとつの論点整理の仕方として、死には、「一人称(自分の死)」と「二人称(ちかしい人の死)」と「三人称(他人の死)」がある、というものがある。

個人がシビアに向き合うのは、一人称の死と、ついで二人称の死である。三人称の死は、あくまで脳内での論理のやり取りで終始する。

日本において、死刑廃絶論がまとまらないのは、この場合の死(加害者の死と被害者の死)が、多くの人にとってあくまでも三人称の死であり、日本では、死を、例えば神の視点から三人称で論じる精神土壌が、欧米ほど肥沃ではないからだろう。あんまり肥沃なのもどうかと思うが。

三人称の死を、二人称の死や、一人称の死にまで引き寄せるには、日本人には、かなりの想像力、あるいは創造力が要る。わたしたちには、ほんの数十年前に失われた300万人の自国民の命さえ、他人ごとで終わらせるような、一種度し難い一面がある。

しかし、この度し難い面があればこそ、死をも恐れず、生も楽しまず、うかうかと人間は、その日暮らしを続けていけるのであり、それもまた人間の人間らしい生き方のひとつだといえるかもしれない。