第30章その3

(第30章その3)


いつの間に戻ってきたのか、先ほど写真を持って部屋を出ていった警官が刑事の横に立っていた。
「ちょっと確認してもらいたいことが起きたので」
「確認…?」
神谷は不安な眼差しで刑事を見つめた。
「まだ、はっきりとは断定できないが…」
途中で言葉を濁し、刑事は神谷の背を軽く手で押し、ドア口へ歩いた。
〈何をしようというんだ〉
徐々に高まる不安を胸に、神谷は黙って刑事のあとについていった。


エレベーターは地下二階で止まり、刑事は狭い通路に靴音を響かせ先に歩いた。
前方から警官に伴われてやってきた二人の婦人とすれ違った。
と同時に、神谷ははっとして後ろを振り返った。
二人の婦人の口から、悲しみをかみ殺したすすり泣きがもれている。
〈まさか! そんな、そんなことがあってたまるか!〉
いっきょに体中に鳥肌がたち、毛が逆立つ思いがした。
不安が苦しいほどに神谷の胸に拡がった。
刑事は、死体安置室の前で神谷を待っていた。
ドアが開き、中に入ると、病院のそれと同じ消毒液の臭いが鼻をついた。
〈だめだ! だめだ! 奴は、アドルフは死んではいけないんだ。奴が死ねば、すべてが無になってしまう!〉


ロッカーの一つが開けられ、ストレッチャーが手前に引き出される。
死体をおおっている白布が、顔の部分だけとりのぞかれる。
神谷は、一瞬、顔をそむけたが、すぐに目の前の死顔に目を戻した。
生きているアドルフ・グレーペを見たことはなくとも、この死顔が写真で見たアドルフ・グレーペであることは一目瞭然だった。
死顔の方が写真のそれよりも老けてはいるが、そんなことは問題外だった。
「間違いないですね」
刑事の声に、神谷は力なくうなずいた。


死因は溺死だった。
死体は、ストックホルム港の沖合い一キロ付近の海上に浮いていたのだった。
死体からは麻薬が検出されていた。
つまり、アドルフは麻薬を服用した末に、誤って海に落ちたということだった。
事故死だった。
死亡推定日時は、六月十二日の午後九時から十一時にかけて、死体が発見されたのは二日後である。
アドルフ・グレーペが死亡して五ヵ月もの間、身元がわからなかったのは、身分証明になる類のものが何一つとして所持されていなかったせいだった。


(第30章その4へ)