『北千島占守島国端崎の戦闘』その4

 時間的にどの位経過しているのか全然分からず、唯何とかして通信連絡が途絶しているので城ケ崎と連絡を取る方法がないものか、上陸地点が小泊海岸だから、城ケ崎なら連絡が取れるのではないかと野呂軍曹が適応小隊長と相談したが、連絡に果たして誰を出したかは記憶にないが、名簿からでは、笹岡健作ではなかったかと思う。
 昼頃になって砲を十末位後方に下げ、必要に応じ前に出して射撃していたが、敵も我が陣地の砲門に気付いて攻撃してくるようになったので、又も十朱位下げて配置に着いておった。十八日の一〇、00〜二、00であったろうか、四番砲手の古川金三兵長の頭部に弾が命中し、顎を残して頭部が吹き飛ばされた。戦闘情況からして弾は機関砲らしく、砲門の内壁に当たり反転して障地内に飛込んだものであった。古川兵長の外には負傷者は無く、山本分隊長はその時古川の返り血を浴びた。
 戦死した古川兵長は、男らしく気性はさっぱりしていて小隊長の信頼も厚く、砲手としても技量も優れた立派の兵であった。唯残念に思うのは、本人の遺品を小隊長が持っていたと思うのだが、ソ連に渡ってから、恐らく全部取り上げられて、遺族の方に渡ったかどうか不明の事である。
 十八日の午後あたりか、霧の間から、敵の上陸用舟艇が海岸線で撃破され、敵兵が漂流しているのが見えたので散弾を発射しようとしたが、その前に弾を装填していたのでこれを抜き取ろうとしたが、薬茎だけが抜けて弾が砲身に残ったので、それを抜こうとした時に砲門下方よりの手相弾が破裂して、その破片が古川要作の右手に当たり負傷した。
 こうした事があったので陣地内の砲を十米位後方に下げた(一五、00頃か)。この頃には敵は砲門の位置が明確になったと見え、第二監視所に居た山畑軍曹から砲門に近寄ろうとする敵の動きが良く見えた。
 一八、〇〇頃には敵の多くは約百米下の戦車壕にちらつく程度で陣地には到達していなかった。一部の敵は第一監視所にいる野呂軍曹からは、監視所前方十五米位の壕から、時々頭を出しこちらを見ているのが分かった。この時点では砲の射撃は無く、夜になるにつれて動きが見られなくなった。

『北千島占守島国端崎の戦闘』その3

八月十八日の戦闘開始とその後の経過

 八月十八日〇〇.五〇頃不寝番の「何か小泊海岸の方で艦船のエンジンか何かの音がする」との声で全員起床し、速応小隊長の指示で山本分隊長外下砲車斑は全員障地内に入りすぐ射撃体制に入った。外は暗く濃霧のため視界は○であったが、エンジン等の音からして小泊海岸に敵が上陸しつつありと判断から小隊長は、すぐ射撃の号令を掛けた。
 尚これに先立ち配置に着く前に適応小隊長は全員を集め、十九年八月侍従武官ご差遣の際頂いた恩賜の葡萄酒を部下に飲ませ「小隊長の戦死後は小隊の指揮は山畑軍曹、山畑が戦死したら野呂軍曹、野呂が戦死したら山本軍曹が指揮を取れ」と命じておった。
 山本分隊が陣地内に入り所定の位置の兵を確認すると初弾を込め、分隊長自ら砲手に代わって眼鏡を取り付け、日頃の訓練通り照準を合わせようとしたが、暗くて目盛りが全然分からなかったので、訓練時の感覚で標準点にセットし、第一弾を発射したのが〇一、一〇〜〇一、二〇頃であった。 黙しこの時点で府仰角を誤り、弾が砲門の下部に接触した。この反動で刑部実二番砲手が後方に転倒し、後頭部を打撲裂傷したが、これは敵弾で負傷したものではなかった。
 小隊配属の下士官の配置は、山本軍曹は射撃指揮、野呂軍曹は通信と給与(糧抹の確保)山畑軍菅は監視所よりの敵情監視の任務に分かれそれぞれ任に着いた。
 その後連続して発射するが、時には敵の船に命中して火炎が上がる。次々に炎上する光を頼りに、日頃の訓練通りぶつ続け朝まで射撃を行った。
 夜があけて見ると小泊海岸に四〜五隻の座礁船が見え、炎上したまま海上を旋回する船も見えた。この頃から頭上で敵の銃弾が飛ぶようになった。
 観測所から見ると、小泊海岸の敵は、中には船から上陸して来る者も見えたが、炎上する船の周辺にはゴマを水に浮かべたように人が見えて、自分達の撃った砲弾の命中度に感激したりもした。 敵の上陸作戦は暗いうちに行われたようで、上陸した敵の大部分は四嶺山方面に向かったようであったが、一部は国端崎に向かっていることも確かのようで、時にはバシンと言う弾の音が聞こえるが戦闘状態がどのようになっているのか知る方法がなかった。

八月十五日の動き

 十五日の敗戦については伝えられておられなかったが、近近重大な放送があることを予想していた。山本軍曹の記憶では速応小隊長は「十八日に将校会同があるのでその時重大の指示があるらしい」と言っておられたが、その時点ではまだ敗戦の事は知らなかったようだ。敵上陸等の対応については指示を受けていたかもしれないが部下には何も言っていなかった。

開戦前の国端の情況

 九十一師団の作戦任務の変更から国端守備に重点を置いた第二中隊も、二十年四月頃編成替えが行われ、前田中隊長の本部は村上崎に移り、国端崎には適応少尉指揮の下十九名、野砲一門が配置されてその守備に就いていた。
 陣地は長い年月をかけ構築したため千島一と言われるだけに、岩盤洞窟で堅固に造られてあり、陣地の上部には観測用の陣地が一米位の土を被って造られ、同様に第二小隊の方にもあってお互いに通路で結ばれていた。第一第二小隊の砲台は三米位の通路で結ばれていて、その中間に弾薬庫があり、やや第一小隊よりの方に観測所への昇降通路があった。以前の守備体制では速応小隊は小泊海岸を、第二小隊は城ケ崎方面を向いておったのであるが、配備の変更に伴い火砲は一門となり、その任務は小泊海岸に上陸する敵を迎撃する水際作戦であった。当時速応小隊の日課は射撃訓練と陣地補強、通行船舶の監視が主で、射撃訓練はたとえ目標が見えなくとも命中させることが出来るように訓練され、また発射速度の向上のために信管の取り付けに特別の工夫を凝らすなど真剣なものであった。これが後の戦闘に多大の効果を挙げることが出来た原因と確信しております。陣地補強は、弾薬、食料の保管設備の外居住設備を造るため昼夜兼行の作業が行われて、下士官以下毎日大ハンマーで一人交代までに三百回たがねを打ち込み発破の穴を掘りダイナマイトを仕掛けるという、必死の補強作業を継続していた。
 国端崎の配備は村上の大隊の歩兵一ケ小隊(片桐少尉指揮正味兵力ニケ分隊)とそれに臼砲一ケ分隊(坂田軍曹指揮)、師団速射砲隊一ケ分隊(佐藤軍曹指揮) これに速応小隊の野砲一門で編成され守備隊長は片桐少尉でした。この外、指揮系続が異なる師団より派遣の向地監視斑へ小川中尉指揮)航空隊の航空情報珪(古城軍曹指揮) がおり総員八十名位の兵力であったかと思う。
 八月上旬(戦闘の十日間位前)の或る霧の深い朝であったが、ソ聯艦船を霧間に発見何事ぞとばかり小隊長以下約四千米の海上を監視致しました。それがソ聯軍の上陸地点の偵察であったようで、その後このような状態が四−五度続き小隊では特に濃霧時及び夜間のエンジン音に注意するように命ぜられた。

「北の防人」その7

九、戦果および損害

 占守島の戦いは、ほとんど交戦意欲のなかったわが第九十一師団が、ソ軍の奇襲攻撃を受けて防衛のため蹶起した戦いであった。戦闘は十数時間に過ぎないものであり、現地守備隊は後退配備というよりもむしろ疎散な遊撃配備であったが、水際撃滅を文字どおり現出したものであった。水際陣地守備部隊や池田戦車聯隊などの反撃により、上陸を企図したソ軍約三〇〇〇は水際達者前に舟艇を撃沈され辛うじて海岸にたどりついたが、死傷またほぼ同数を下らないと言われている。
 ソ連政府機関誌イズベスチヤ紙は、「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月一九日はソ連人の悲しみの日である」とのべている。いかにわが守備隊が激烈な防戦をしたかは 「大祖国戦争史」 でも「千島に於ける激しい戦い」 という表現を採り、水際達着時の様相を色彩版の絵画をもって示しているところでも了解されるのである。
 わが軍の損害は死傷約六〇〇名、野砲二、十加一、十五加一、高射砲一、戦車十数両破壊と言われている。しかし武器解除に引き続く部隊の分割、作業大隊の編成、他方面への転用抑留により詳細に調査ができずに今日に至っているのが実情で痛恨の外はない。
 然しながら終戦後におけるこの果敢な自衛戦闘は.日本軍の真価をソ軍ばかりでなく、ソ軍との対比において世界にまで知らしめ、さらにソ軍の武力占領を慎重にさせた効果は大であったと言い得よう。

九、ソ軍進攻の意図は如何

 ソ軍は何故終戦三日後の八月十八日、それも未明、あえて占守島に進攻したであろうか。この疑問に答えてくれるのが次のソ軍戦史の記述である。
 極東軍総司令部は、この方面の作戦の遂行を遅延させてはならなぬという強い要求に応えて現実の作戦を計画し実行しなければならなかった。この作戦遂行の遅延許されぬとの要求は、航空基地および海軍基地を千島列島内に設定しようとする米国の要求を阻止するためにあった…………………ともあれソ軍は至短期間に千島を日本軍の手から開放し、この問題に終止符を打ってしまったのである。
 右は「日本軍が抵抗をやめるまで攻撃を続行せよ」というソ軍統帥部の司令や「日本軍が抵抗をやめなかったのでソ軍は攻撃を続行した」とするソ軍戦史の記述とは全く次元の異なるものであることは言うまでもない。
 前述のようなソ軍の意図はもとより当時のわが軍として知り得ないことであった。
 只師団は、兵団の受けた終戦処置に関する上司の命令と世界に冠たる大陸軍の名誉こに稽へ、冷静な理性に立って敢然戈をとったものである。