書きかけシリーズ1.ニュースサイトは工夫するほど読まれない

同じ素材で組まれた、ある閉じた構造において、強さと弱さの総和は変わらない。ある部分を強くすると、ほかのある部分が弱くなるということに、留意せねばならない。強いものは壊れない。ただ、弱いものを壊すだけである。強いところがあるというのは、その周りが弱いということだ。強さに隣り合った弱さは、壊されるしかない。その一点の欠落が、構造そのものを崩壊させる。
ニュースサイトは外部からの情報を扱うことで成り立っている。いわば、素材を提供している。素材を自分で作り出す必要はない。ただ読むことを通して、出来合いのものを調達すればよい。良い素材は光っている。素材を集めるには読み解くまでもない。眺めれば、わかる。そうやって目にちらついた素材を拾っていけば、それなりのニュースサイトができあがる。
そのうち運営者は飽き足らなくなってくる。ニュースサイトとしての個性を見出そうとして、模索しはじめる。自分探しの時代ですか。まったくやっかいなものです。模索の仕方はさまざまである。素材を広くかき集める、一定分野に絞る、日記を融合させる、深く言及するなど。素材を加工したり組み立てたりすることで、構造を形作る。
(後略)

書きかけシリーズ2.息を切らして悶える少女たち

最近こんなことしか書いていない。萌えすぎて学べていないようにも思えるが、学びのことよりも萌えのことのほうが文章にしやすいということだろう。感じることと書くことの距離感が少ないことが原因だと思う。萌えは理屈づけや再構築をしなくてもよい。そのぶん、書きやすい。
ということは、理屈づけや再構築するのを習慣にすれば、学びのことでもたやすく書けるはずである。僕は書くことよりも考えることのほうが好きだ。考えることは、感じることと書くことの距離を埋めてくれる。ならば考えたい。書くことで苦しむのは、僕の望むことでないからだ。
さて、ここからが(むしろ書くべきでない)本題である。
息を切らして走っている女の子をみるのは興奮する。体育の授業でもよいのだが、授業ではあまり激しいランニングをやらない。部活のトレーニングで校舎周りを走っている彼女たちはいっそうすばらしい。
体操服は白である。白は清純の象徴である。その清純さをまとった彼女たちは、しかし、悶えながら走っている。まるで「犯してはならない禁忌」を象徴しているようなこの違和に、僕はいっそう奮い立つ。また、白は透けやすい。あわよくば透けた下着が目に映るのではないかと、期待が膨らむ。ただし、男根を膨らますつもりはない。なぜなら、僕は萌えるからである。
(後略)

書きかけシリーズ3.僕はゆえゆえのことをどう思っているのか

(メモ)
・僕はゆえゆえに萌えているか。あるいは、恋しているのか。
 ・萌え:萌えとは「安堵」を念頭においた「内」への感情である。「内」とは「対象を内面世界で展開すること」である。ふつう萌える対象は「不完全」であるため、妄想などによって補わなければならない。それが萌えるということであり、さらに「安堵」を伴ったものが僕にとっての「萌え」である。
 ・恋:恋は「外」へ向かう感情である。「片思い」の段階ではむしろ萌えに近いが、恋の最大の目標は「両思い」にもちこむことであり、「内」では完結しない。また「恋は甘酸っぱい」や「恋愛は冒険である」などと言われ、「安堵」を求める萌えとは相反している。
(中略)
 ・自己投影
 ・羨み
・僕がゆえゆえに萌えていない理由:


・永遠に実らない恋を求めるのはつらい。僕がゆえゆえに恋しても、得られるものは何一つない。



(文章)
(方針:僕は、ゆえゆえ!)
このまえ「萌えるなら本屋ちゃん。友達にしたいのはゆえゆえ。」と言った。何かが違う。やはり僕はゆえゆえに萌えているわけはない。かといって、友達にしたいわけではない。言い表せないゆえゆえへの気持ちは大きくなるばかりで、どう説明づければよいのか途方にくれている。もしかして、これは恋という感情なのではないか。
恋とは何か。萌えは感情を自己完結させるのに対して、恋は外へ向かう感情である。「片思い」の段階ではむしろ萌えに近いが、恋の最大の目標は「両思い」にもちこむことであり、外への感情である。また「恋は甘酸っぱい」や「恋愛は冒険である」などと言われることがある。したがって、恋は萌えと相反するものである。僕にとっての萌えとは、「安堵」を念頭においた「内」へ向かう感情であるからだ。
ゆえゆえに萌えているオタクなんて日本にいくらでもいる。「萌え」の定義にこだわらなければ、おそらく僕もその一人である。客観的にみればくだらないことである。だから人は萌えるのだろう。「たくさんのオタクに萌えられているゆえゆえ」でなく、「自分にとってのゆえゆえ」として、ゆえゆえを愛でるのだ。そこにはかけがいのない一対一の関係が生まれる。当人にとっては、くだらなくなどない。
僕はゆえゆえに萌えていない。僕の言う「内」とは、「対象を内面世界で展開すること」である。萌える対象は常に「不完全」であるため、妄想などによって補わねばならない。それが萌えるということである。しかし、僕はゆえゆえという対象を何も展開していない。絵で映されるゆえゆえの姿、言葉で示されるゆえゆえの気持ちに、一切の補完なしに感情を抱いている。
(後略)


(メモ)
自己投影と羨み。

(後記:この文章はいつかしっかり書きたい)

書きかけシリーズ4.「サイト巡回にハマっている」という幻想

なぜゲームはハマるのか。

  • 読書、勉強、テレビや映画の試聴、それらとは比べ物にならないほどゲームはハマる。サイト巡回にも近いものがあると思う。何時間も同じことを続けられるなんて、ゲームでもなけりゃ異常だ。とにかく、僕にとってゲームはハマる。
  • なぜか。その理由を考えるのは有益である。ハマるメカニズムがわかれば、それを応用して、様々なことにハマる手掛かりとなりうるからだ。もし勉強にハマれたらしめたものである。

ハマるというのは、嫌な気持ちが湧かずにあることを続けられる状態である。

  • 先日style-[dp]:Day of daysさんでファーレントゥーガについて書かれているのを見て、僕もプレイしてみた。この作品をプレイするのは何度目かになるが、またもやハマってしまった。テスト勉強そっちのけで一日に数時間(もしかしたら二桁?)もプレイした。
  • 勉強からの逃避ということもあるが、それ自体のハメ要素からここまでハマったのだろう。その内実は定かではないが、人をハメさせる要素をハメ要素と呼ぶことにする。ハマる理由を問うには、このハメ要素の性質を考えることが重要であろう。

なぜハマらないのか。

  • (ここで述べるのは「僕にとってハマらないもの」でしかなく、同様に、この文章から得られる結論は特殊なものでしかない。それでも、「僕のような人」には少しでも価値はあるだろう)
  • 読書、テレビや映画の視聴はなぜハマらないのか。
    • 受身だからだ、と考えみよう。これらは書き手の用意した情報を受け取る営みである。自分から何かを表現することはない、つまり主体性を欠いている。したがって、「自分らしさ」を見出すモチベーションが薄れ、真剣さがいくらか萎えてしまう。
    • しかし、これは正しくない。これらの営みにおいて、主体性を十分に発揮することもできる。つまり、読書などでも「自分らしさ」は見出せる。記号や映像に対して意味付けをすること、つまり解釈ができるからだ。解釈の仕方は人によって異なり、絶対の答はない。対象に解釈を試みることで、「自分らしさ」を見出せる。つまり、読書などでも主体性を発揮できる。
    • 「受身だからハマらない」というのは正しそうだが、本当に受身であることなどわずかだ。多くの営みには主体性が欠かせない。それにも関わらず、ハマらないことがほとんどだ。したがって、「主体性があれば(必ず)ハマる」というのは間違っている。ハメ要素は、単なる主体性だけではない。とはいっても、ハメ要素の一つとして主体性を欠かすことはできないように思える。
  • 勉強はなぜハマらないのか。
    • 勉強を嫌がる要因として、やらされるものだからだ、という考えがある。これはモチベーションのメカニズムなどに深く関わる考え方だとは思うが、「ハマる/ハマらない」の話には関わりが薄いと思う。「やらされている」と感じるのは、ある種の社会的な感情である。いわば勢力に対する反発であり、やや高度な感情であるともいえる。一方で、ハマっている状態というのは原始的である。他のことを何も考えず、ある一つの対象に注意を注いでいる。いわば「我を忘れてい」て、このときに「やらされている」という社会的な感情を抱くことは考えにくい。つまり、「やらされている」という事実はモチベーション(行為の始まり)には大きく関わるが、ハメ要素(行為の最中)とは深いつながりをもっていない。(だからこんなに長く書く必要はない節なんだけど)
    • 僕はどのように勉強にハマらないか。「(ア)Aであれば(必ず)勉強にハマらない」と命題を立て、「A」の内容を考えよう(これは僕の体験によるものだから、少なくとも僕の中でこの命題は「真」である)。このとき命題(ア)を定めれば、命題(ア)の対偶である「(イ)勉強にハマるのは(少なくとも)Aでないときである」も定まる(同様に、「真」である)。命題(イ)は、「なぜハマるのか」という問いに答える大きな手がかりとなるだろう。(なんてゆーか、なぜこんな回りくどい書き方をしているのか自分でも不可解だw)(「必ず」と「少なくとも」というのは直感で付けたんですけど、論理してどうなんでしょう。なんか混乱してわかんなくなっちゃった。つーか最初から崩壊している?)
    • では、命題(ア)の「A」を考えよう。僕が勉強にハマらないのは、「(A1)書いていないとき」および「(A2)できないとき」である。これは僕の経験であり、証明はできない。もっとも、この文章は私的な論考なので、経験であることが証明に相当するだろう。要するに、(ア)に(A1)(A2)を補ったものは「真」であると言いたい。この(A1)(A2)を元に、命題(イ)を考えていこう。
      • 「(イ−A1)勉強にハマるのは(少なくとも)書いているときである」。書くとはどういうことか。意味というのは本来、頭の中に存在する目に見えないものである。それを文字にすることで、意味を目に見えるようにできる。意味を解することは頭の中が変化することであり、書くとは、その変化を目に見える形にするということである。ハマるには刺激がいる。たとえば、変化である。そして、それは目に見える変化でなければ実感が湧きにくい。書く勉強は変化が目に見える。この変化の可視性が、ハメ要素の一つである。
      • 「(イ−A2)勉強にハマるのは(少なくとも)わかるときである」。理解にさく労力が少なくて済むほど、それはわかり易いということであろう。ここで疑問が浮かぶ。わかり易さの極限は、理解する必要がまったくないことである。だが、これは主体性と矛盾する。理解しようとしないことは、主体性を捨てることであるからだ。したがって、ただわかり易ければよいというわけではない。思考停止に陥らない程度の、かつ適度なわかり易さがハメ要素の一つである。たとえば、テレビのニュースなどを理解するのは簡単だが、それにハマることはない。ニュースのようなわかり易すぎるすぎる情報は、視聴者を思考停止に落とし入れやすいからだろう。
    • 主体性とわかり易さは矛盾しそうで危なっかしい。また「難しいことを必死で努力するからこそハマるんだ」あるいは「主体性を発揮するために自力で頑張るからこそハマるんだ」という人もいるだろう。僕にしてみれば、そういった営みにハマるとは考えにくい。たしかに達成感などを味わえる素晴らしい営みであるが、ここでいう「ハマる」すなわち「嫌な気持ちが湧かずにあることを続けられる」ことは難しい。「嫌な気持ち」に立ち向かうことも立派だが、僕のいう「ハマる」はそういうものでない。あくまでわかり易さが保たれつつ、なおかつ主体性との絶妙なバランスが重要である。

ハメ要素とは、自分の望む変化が目に見えて現れ易い性質である。

  • 以上で太字にした言葉を拾っていこう(ちなみに「dfn」タグです。なにか知的な感じがするので、僕はこのタグが好きです)。すなわち「ハメ要素」「主体性」「変化の可視性」「わかり易さ」である。主体性は、自分の望みを生み出す。その望みの叶い易さが、すなわちわかり易さである。また、望みが叶ったという変化が、目に見えて現れることで刺激になる。以上より、ハメ要素をこう定義する。ハメ要素とは、自分の望む変化が目に見えて現れ易い性質である。
  • あまりに抽象的になりすぎた感がある。ここで改めてゲームの話に戻ろう。「ファーレントゥーガ」は戦略系のシミュレーション・ゲームである。
    • ゲームを営む者は、読者や視聴者でなく、プレイヤーである。ゲーム性の少ないノベル・ゲームなどでも、プレイヤーは自身の判断によって選択をおこなう。その選択によってゲームの展開に変化が起こる。この相互性が、プレイヤーに主体性を求めていることを示している。とくに「ファーレントゥーガ」は戦略ゲーである以上、プレイヤーの主体性はなおさら重要である。
    • 「ゲームの展開に変化」というのは目に見えて現れる。これはゲームや機器に組みこまれたテクノロジの賜物であろう。コントローラを触るだけで画面が変化する。戦略ゲーは動きの少ない方だが、たとえばアクション・ゲームの場合は目に見える変化が大きい。自分の操作で画面が躍動する、この変化の可視性が、ある種のゲームにおける醍醐味である。
      • (見えない部分での展開の変化を「フラグが立つ」などと言いますが、最終的にはそれも目に見えて現れてきます。もしかしたら、セックスするかもしれません。どーでもいいけど、僕は、フラグは立つものでなく立てるものだと思うのである。でもどーやって立てればよいのわかりません)
    • 勉強では自分の手で字を書かなくてはならないが、上記のように、ゲームだと勝手に動いてくれる。ここにわかり易さがある。自動化された部分が多いということだ。たとえば、実際に戦争を指揮するのは難しいが、戦略ゲーではそれが簡単にできる。操作と動きの自動化(コントローラだけ触ればよい)に加え、思考の自動化(勝手に戦争してくれる)もおこなわれているのだ。主体性が保たれつつ、ゲームはわかり易い。
  • 以上が、僕がゲームにハマる理由である。また例に挙げたように、この理由は勉強においても当てはまる。

サイト巡回にハマるには。

  • (後略)

(メモ)達成動機とゲーマー病

書きかけシリーズ5.学びの展望

僕なりの学びの展望をここに記す。
●目的と手段──皆が学びを楽しむように、そのために賢くなる。
僕が学ぶ目的とは。誰もが当たり前のように学びを楽しめる環境を作り出すこと。あるいは、選択肢を生み出すこと、というほうがニュアンスが近い。それぞれの望みに応じて自由に学び、それを楽しむ。「ゆとり教育」の方針にも近い。いわば「学びの多様化」と「学びの娯楽化」を目指している。もちろん、学ぶことが人生のすべてではない。だから、選択肢なのだ。学びやその楽しさに価値を見出す人たちは、誰もがその選択肢を掴み取れるべきである。彼らの手の先に選択肢を差し向けるのが、僕の目的である。
そのために、僕は賢くならねばならない。賢くなるとはどういうことか。「僕が賢くなる」ということについて、二つの視点から眺めよう。一つは「今の僕」からの視点で、もう一つは「そのときの僕」(=賢くなった僕)からの視点である。
まずは、「今の僕」から「賢くなった僕」を眺めよう。「賢くなった僕」は、「今の僕」がわからないことを理解できるだろう。要するに、難しいことがわかる。「今の僕」がわかることなどたかが知れている。日々の学習において、「今の僕」は易しいことを懸命に理解しようとしている段階にすぎない。「賢くなった僕」はそうでなく、難しいことを懸命に理解しようとしていることだろう。「今の僕」からみて、「賢くなった僕」は難しさに向かっているのだ。
つぎに、「そのときの僕」から「賢くなった僕」を眺めよう。未来の自分をイメージして、その視点から未来の自分をかんがみるということだ。「今の僕」とくらべて、「そのときの僕」は賢くなっている。「今の僕」にとって難しいことが、「そのときの僕」には易しいことに思え、たやすく理解できるだろう。難しいことを多く学んだことで、相対的に易しく思えることが増えたからだ。先ほどとは逆に、「そのときの僕」からみれば、「賢くなった僕」は易しさに向かっているのだ。
●一般化──学者と一般人とでは、何を楽しむかが違う。
このギャップについて考えよう。「難しさ」と「易しさ」というのは、人によって判断が大きくわかれる。ある人にとっては易しい事柄が、誰からも理解されないおそれもある。このギャップが、僕の目的「学びの娯楽化」における障壁である。
「今の僕」を一般化して言えば、(学者とかでない)「一般人」のことである。同様に、「賢くなった僕」を「学者」と呼ぼう。「一般人」と「学者」のギャップとは。「学者」は論文によって学びを表現したり、受け取ったりする。論文という洗練された表現が、「学者」にとっては易しいからだ。論文が易しいというのは語弊があるかもしれない。少なくとも「学者」には論文が適している、という意味である。
しかし、「一般人」には論文は適さない。用語や論理を読み解く訓練を受けていないからだ。つまり、論文は難しい。「一般人」に適した学びの媒体は、エッセイやコラムなどの軽い読み物や、新書レベルの書籍である。だからといって、楽しめないわけではない。「学者」が論文に没頭するように、「一般人」もまた学びに没頭することができる。ただ、その対象が違うのだ。求めるものが、ずれているのだ。
ここで危惧されることがある。僕が賢くなったとしても、多くの人々が学びを楽しむのとは無関係なのではないか。賢くなった僕の見出した楽しみは、わずかな人にしか伝わらないのではないか。僕と彼らとは、ずれいているからだ。
●解決策──わかりやすい文章を書く。

(メモ)
このギャップを埋めなければいけない。

物語のおもしろさ、結果論的わかりやすさ
文章力
経験言語 そのうち詳しく説明したいが、
 言葉、構造、具体例と心
型は個性を最大限に発揮するために作られた

●志──皆にとっての易しさを追う。

(メモ)
優しさ。
書けることと知っていることのレベルのちがい、いいこともわるいことも。
書くこと、心を読むこと、構造を見抜くこと、楽しむこと、自分自身が!

書きかけシリーズ6.勉強しないのはカッコワルイから

学習調査:中学生以上で学習時間二極分化 民間調査[読売]
勉強は大人になって役立つ? 高学年ほど否定的琉球新報
勉強の意欲低下は「勉強カッコワルイ」という空気があるからだと思います。「勉強って楽しいね!」なんてことを言った日には(たとえそれがかわいい女の子でも)、周りから冷たい目で見らねかねません。受験を控えてピリピリしているクラスでこんなことを言ってしまうと、お前は何様だと思われるかもしれません(ここで「ご、ごめんなさい、あたし、そんなつもりじゃ……ふえーん」と弁解するかわいい女の子ならば問題ないでしょう)。
なぜ「勉強カッコワルイ」のか
では、なぜ「勉強カッコワルイ」という空気が生じるのでしょうか。
一つは、生死のレベルにおいて、勉強は無意味だからです。それなりのばかでも生活できるほど豊かになった今、文字通り死ぬものぐるいで勉強する必要はありません。個人的には、良いことだと思います。経済が発展したから勉強の意味が薄れた。これは仕方のないことです。もちろんこれは生死のレベルに限った話で、ここから勉強の娯楽化という活路がうかがえます。これはあとで述べます。
もう一つは、大人が勉強しないからだ。嫌々仕事して何も勉強しない大人の背中を見て、子どもが勉強するわけあらへん。という考え方です。大人に責任を押し付けるのは、子どもの僕からしてみればとても楽ちんな考え方なのですが、やはり生産的ではありません。大人の勉強の姿勢も大切ではありますが、結局、勉強するのは子ども自身です。だから、「勉強カッコワルイ」空気を打ち破るには、子ども自身の認識が重要になってきます。(たとえば、僕が勉強しないのは僕のせいだ)
「勉強カッコワルイ」というのは、つまり文化です。今述べた「経済」や「大人」なども含めて形成された文化です。「お受験」「受験戦争」「ガリ勉」などの言葉が示すように、勉強には不健康なイメージがつきまとっています。子どもたちは理屈では勉強の意味をわかっている(理解している)かもしれません。それでも理解が実感につながらないのは、文化がそのあいだを隔てているからではないでしょうか。
しかし、ここで「文化のせいだ」などと言ってしまうと、ますます責任逃れな感じがします。文化なんて変えようと思って変えられるのではありません。勉強するのは「個人」であり「子ども」なのです。極論すれば、大人がどう思おうと、文化がどうであろうと、子どもだけが「勉強カッコワルイ」という認識を捨てられればそれでよいのです。
小まとめ:経済や大人や文化はたしかに「原因」だが、改善の道はそこにない。
いかに「勉強カッコワルイ」を打ち破るか

(メモ)
教育、自分

正直なところ、生活が今以上に「豊か」になったり「便利」になったりすることが、僕には想像できません(想像力がないだけかも)。

社会における勉強の位置付けと『ドラゴン桜

(メモ)
なぜ企業は高学歴か


(後記:ドラゴン桜の批評は、いつかしっかり書きたい)

(メモ)

学ぶ意欲 文化
勉強は嫌々やるものという風潮
アンケートのときに抵抗
すなわち成長
文化の問題である。
カサさんのやつ。知的好奇心、もっと難しいの、でもおもしろうそうなの!
カリーさんのやつ

教員のサラリーマン化[やえ一四歳](一軒家@メモ帳より)
ゆとり教育(前編)(後編)[もなみ9歳](一軒家@メモ帳より)
学級崩壊はしつけでくいとめられるのか?Child Research Net Top Page](成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN―より)

書きかけシリーズ7.経験するとはどういうことか

失敗を恐れつづける怠惰
僕は失敗することが嫌いだ。しかし、失敗を経験することで、能力の不足や意識の欠如に気づき、改善の道が示される。自分の至らないところを受け入れられるのなら、失敗はときに成功以上の価値をもつ。至らないところを受け入れるといっても、それは自らの人間性を否定することではないし、喜びや達成感につながる有意義な心構えである。また失敗そのものについても、高校生である僕にはほとんどリスクがない。大いに失敗し、大いに学ぶべきときである。

──というのは理解している。それでも失敗が嫌いなのだ。正直にいえば、僕は失敗を恐れている。「細かいことは気にせず、実際にやってみるのがよい」というのは広く通用するアドバイスだが、それも受け入れられない。これは「怠惰」の一言で説明がつくのだが、なぜ怠惰なままでいられるのだろうか。実践すれば問題を解消できる、という確かな実感が欠けているからだ。つまり、経験による裏づけがないからだ。

「理屈ではわかっているの。でも……」という言い回しはシチュエーションによっては萌えるが、僕はこれを怠惰の言い訳にしている。
もう一つ言い訳がある。僕は自分の納得できないことをやりたくない。これは悩みの一つだが、悩みはいずれ解決または解消されていく。その過程を人に伝わりうる形にすれば、同じような悩みに苦しんでいる人への助けになる。僕と同じように「納得できないことをやりたくない」と悩んでいる人と出会ったとき、僕はどのように助言すればよいのだろうか。「やってみればよい」と言っても、聞いてもらえない。自分自身が納得できないことを、人にどうやって納得させられるのか。
納得することを諦めて「やってみれば」、僕の中で問題は解消されるだろう。しかし、救われるのは僕だけである。結局「やってみればよい」という苦言をしぶしぶ受け入れるほか、選択肢がない。そうやって多くの人々が苦しんだことだろう。これからも僕と同じように苦しむ人々が生まれつづけるだろう。それが、忍びない。人からみればくだらない悩みだが、僕にとって、僕のような人々にとって、それは代えようのないこだわりである。
要するに、わがままを通したいのだ。僕自身のために、そして過去に生きた僕のような人々への哀悼と、未来に生きる僕のような人々へのはなむけのために。これがもう一つの言い訳である。
(「怠惰でいる」と「わがままを通す」というのは、消極/積極でそう反している、

繰り返される後悔「あのとき──していれば」
すべてを経験することはできない。だから、教育や説教がおこなわれる。「やってみればよい」というアドバイスも、先人たちが導いたすばらしい説教である(皮肉ではない)。しかし、経験の浅い者はたいてい教育や説教に耳を傾けないものだ。今の僕がそうである。そうやって「語るオトナ」と「聞かぬコドモ」が、それぞれのこだわりを守りつづけている。経験したがゆえに語る。経験していないがゆえに聞かない。なんともはがゆい行き違いである。

(後略)



(メモ)
経験は論証にまさる。

「小説を読むとは、一度限りの体験を得るということだ」

書きかけシリーズ8.ホームページを忘れていませんか?

  1. 世界と場の認識──たまに頑張ってたまに息抜きするものだよという話。
  2. ウェブという世界と場の模索──なにごとでも馴れると楽しいやという話。
  3. 場のあり方を強制するアーキテクチャ──技術は文化を被い尽くすぜという話。
  4. 家という安らぎ、そしてホームページ──家ってやっぱ特別だねという話。
  5. ただいま、おかえり──蛇足なメタサイト論、自分語り、自サイト語り。

世界と場の認識
 人が漠然と「世界」を口にしたとき、それは何を指しているのだろうか。物理的な空間でなく、その人の内にある観念であると思う。誰かが「世界へ羽ばたく」や「社会へ旅立つ」という行為をしたところで、世界や社会が変わることはない。それは、個人が世界に目を向けること、すなわち志をもったり改めたりすることといった、心の内で済む行為なのだ。社会人が存在するのは、その人が社会を認識するからである。世界というものが存在するのは、人が世界を認識するからである。
 世界は、物理的な空間でない、観念である。書を読むことを「世界に触れる」と言い表したり、斬新なものと出会ったとき「世界は広い」と感じたりする。このとき世界はとても大きな何かを意味している。この大きさゆえに、ときに人を惑わしたり、不安に落としいれたりすることもある。「大きな世界のちっぽけな自分」に打ちひしがれないよう、強い意志や実力をもつ必要がある。このリスクに立ち向かうことが「世界へ羽ばたく」行為ではないだろうか。
 ここで世界よりも小さな何かを認識する必要性がうかがえる。人は必ず何らかの空間や関係に所属している。国や学校や会社などの空間、あるいは家族や恋人や友人などの関係である。これらの空間と関係により作られるものをと呼ぶことにする。
 ときに観念までをも含み無限に広がる世界と比べて、場は把握しやすく、安息を得やすい。場が小さいほど住みやすく感じる。会社や学校よりも小さな家庭の方が安らぐし、(僕には想像のしようがないが)恋人どうしでいるときはなおさらだろう。逆に、世界に馴れるなどというのは想像しがたい(悟りを開くということか)。
 人は冒険をおかそうと大きな世界の中に立つ。一方で、そこで我を失わないために、小さな場にも安住する。小さな場、把握しやすい場ほど、安息を得やすい。大きな世界と小さな場を認識することで、心のバランスを保つことができるのだ。

ウェブという世界と場の模索
 人が漠然と「ウェブ」を口にしたとき、それは何を意味しているのだろう。こんなことを思うのはヘビーユーザだけかもしれないが(というか僕だけかもしれないが)、それは、ウェブ上の読み手と書き手の心や、娯楽や知的営みに精をだす人々の「現実」行為が入り混じった、観念である。物理量で表せるような単なるデータの集まりではない。つまり、把握しきれない大きな世界。
 (今こんな文章を読んでいるくらいだから)みなさんはいつもウェブを見ているだろうが、そもそも「ウェブを見る」ことなどできない。見ることができるのは、ウェブの一側面にすぎない。たとえ、あらゆるサイトを見て回ったとしても不充分だ。情報の背景にある人の心をすべて読み取ることはできないからだ。限られた情報、秘められた心、これらの一部をつかみ取ることが「ウェブ(の一部)を見る」ということなのだ。
 どの「一部」に視点を当てるかで、ウェブという世界は大きく違って見える。これは現実の社会よりも顕著である。ウェブには絶対的に必要な情報がないため、「見る/見ない」をきっぱりと区別できるからだ。政治や経済(これが「絶対的に必要」なのかはわからないが)に関心のない僕でも、ニュースなどから知らずのうちに情報を得ている。一方ウェブでは、たとえば日記サイトに関心のない人はまったく見ない。そうすると、その人にとってのウェブは、日記サイトのない世界となる。
 ウェブ(全体)に目を向けても多すぎる情報に惑わされるだけだ。したがって、「巡回サイト」を絞っていったり、自分に合ったサービスの使い方を模索していくことで、ウェブを把握しやすいものへと認識していく。人によっては自分のサイトを運営し、そこを自分の場の基軸とする。そこからウェブ特有のハイパーリンクあるいは心的なつながりによって関係が構築されていく。ウェブという大きすぎる世界の中で、自分なりの把握可能なを模索していくのだ。どこを見るか、どう使うか、何と関わるか、何を感じるか、サイトをもつかもたないか、これらの問いへの答を探してくことで、安息を得ていくのである。
 以前から流行っているホスティング型のブログサービスをみると、うまく場を形成しているなと思う。あのサービスに登録することで、まずサイトをもつ。それはウェブの利用方法を決定することでもある。そして、ブログを運営することでブログに関心が向き、閲覧するサイトもブログが多くなるだろう。さらには、ホスティング型サービス特有の適度に閉鎖的なコミュニティが用意されていて、関係を構築するのも容易だ。ウェブに立ち尽くす初心者を、住みやすい場に案内してあげるのにうってつけのサービスだと思う。

場のあり方を強制するアーキテクチャ
 しかし、ここに問題が潜んでいるように思える。ユーザの認識する場、ひいてはウェブそのものが、アーキテキチャというユーザの操作できないものによって変えられるということだ。もちろん、先のサービスのようにある人にとって住みやすい場を形成することもある。しかし、それによってユーザの試みが制約され、ウェブ文化そのものが一方向に傾いていくおそれもある。(ここで使っているのはローレンス・レッシグ教授のいうアーキテクチャのことですが、僕はよくわからず使ってます)
 blogやRSSSBM(こんなに簡単に表記できるのがまたニクい)の普及により、情報収集がやりやすくなった。無駄の省かれた情報を受け取ることで、多くの情報を見通せ、必要なものだけを選び取ることができるようになった。それを毎日行うことで、ウェブは新聞を代替できそうな(人によってはしている)ほどのメディアになった。とても合理的である。
 合理的ではあるが、受身に徹しすぎではないだろうか。選び取るという点では能動的といえるが、その源は、与えられた選択肢である。ウェブでは検索やリンク巡りから選択肢すらも自ら探し出すことができる。このとき、情報を求めようと具体的に行動を起こさなければ、情報と接することができない。他方で、羅列された見出しを眺めるなら、
 (後略)
 
 
 (メモ)
  ノルマ化
 新しい情報に迫られるせんえつ
 「急かされる」
 墓ニュ

家という安らぎ、そしてホームページ

(メモ)
あらゆるウェブサイトは、誰かにとってのホームページたりうるのだ。
それはまさに、家以外のなにものでもない!


ただいま、おかえり

(メモ)
「自サイト語り」
これだけは自信をもって言える。黒板ほ゜は、僕のホームページである。「まほらほ゜」、「黒板ほ゜〜ぽた〜ん♪」 「情報と認知の輪廻譚」「心とバイナリの融和点」「知性を娯楽する悦び」情報の織り成す物語

(後記:オチは、なんとしても「おかりなさいませ、御主人様」と書きたい!)

書きかけシリーズ9.解消の哲学と根本思想

(メモ)
・哲学は解決→解消
 解決→sin30゜を単位円や三平方の定理
 解消→直結する
・悩み羅列
 ・英語の一回目
 ・読書の楽しみ
 ・得ようとして失った感
 ・テストの当日に起きれない
・根本思想
 ・そうだ、論理的に考えよう
 ・科学の方法論→合理性
 ・根性論を解消するためなら根性論も……っておい!?


(文章)
どこかで見たんですが、「哲学が目指すものは解決ではなく解消である」という考え方があるようです。解決と解消の定義がよくわからないので想像になってしまいますが、今日はこれについて考えてみようと思います。
僕のイメージする解決とは、物事を筋道立てて理解することです。同じく解消とは、過去の経験やその場の体験から理屈抜きに実感がもてること、あるいは実感する暇すらなく暗に納得している状態です。
たとえば数学で「sin30゜」について習います。まずsinの定義から入って、単位円を描いたり三平方の定理をふりかえったりしてsinとはなんぞや、それが30゜ってなんやねん、ということを理解します。これによってsin30゜の値が導けるようになります。これが解決です。
しばらく学習していくと、「sin30゜ = 1/2」と即答できるようになります。(僕の場合)このときイメージしているのは単なる三角形だけであり、sinの定義やそれぞれの辺の比については意識していません。また、三角形をイメージしなくても、なにも考えずに「sin30゜ = 1/2」と答えられるようにもなります。このとき、(僕の中で)「sin30゜」という問題が解消しているといえます。
身の回りには多くの問題が存在していますが、学ぶことや考えること(または忘れること)により、それらはしだいに解消されていきます(忘れた場合は解消なのかしら)。そうしてまた新しい問題をみつけては、発見を繰り返していきます。これが学習や成長といったものの一側面でしょう。
最近、解消したいと思っている事柄。

・小説などを読む「楽しむ読書」に気負ってしまう。「読み逃したところがあったら、楽しみが半減するかも……」と思ってしまい、軽い気持ちで読み始められない、したがって楽しめない。何回も読むことではじめて楽しめることもあるのに。

・先生曰く「英語の勉強ははじめて読む文章への取り組みが大事」だから、はじめて読む英文に気負ってしまう。「これを適当に済ませたら学びの源泉を失ってしまう……」と思ってしまい、軽い気持ちで勉強に入れない、したがって勉強しない。最終的に何を学ぶかが大切なのに。

・得ようとすることで失ってしまうこともあるのではないか。考えていたのに文章に表せないこと(いや、書くということは+αであるから失っていない)。テストの当日は早起きできない、どうせだらだら(サイト巡回)するだけだから(いや、テスト勉強よりサイト巡回の方が価値がある、あるいは起きている限りテスト勉強する可能性は残っている)。「+αなんだ」「可能性を得ているんだ」と理屈付けられるが、どうしても失ったんだと感じてしまう。

・自己言及の渦に飲み込まれる。集中しはじめてきたかなってときに「どのように集中しはじめたんだろう」「集中ってなんだろう」とか横道にそれまくる。ただ無心になろうとしても「無心とはなんぞや」と思い、ぐるぐる。そんなこと気にするだけ無駄だけど、「無駄なのか?」と思い、ぐるぐる。

・すべての学びに価値をもたせたい。学校から学ばされるのは嫌だ。どんなことにも根性論を用いたくない。すべて自分の興味から行動し、それらの行動に意味を持たせ、そして成果を残したい。根性論からも楽しめることはあり、むしろそちらの方が成果を残しやすいのに。

4はここでは置いておきます。1と2はほぼ同じ問題だし、3もそれに近いものだと思っています。1,2,3はたぶん解決しています。それをどうやって解消にもちこむかというと、実際にやってみるしかない。気楽に読んで楽しみを実感する。気負わず取り組んで学びを実感する。そうやって違和感が氷解されていくのです。つまり、「実際にやる」ことによって、納得できない問題を解消できるのです。
5も同様に解消できます。根性論でも、やってみればその良さに気づけます。しかし、ここで根本思想のずれが発生するのです。
2004/10/14の日記にて、僕はこういうことを書いています。「人はときに論理的に考えようとする。そのとき、人は、論理的に、論理的に考えなければならないのではないか。論理的に考えようと思ったいきさつは、論理的でなければいけない。「そうだ、論理的に考えよう」では、既に論理は崩壊している。頭の中は、既に論理でなければいけない」。

(後略)

書きかけシリーズ10.個人サイト論の魅力はその素朴さにある

個人サイト論というのは、「個人が個人サイトにおいて個人サイトを論じる、そしてそれを個人が読む」という素朴な構造の上に成り立っています。多くの個人サイトは「趣味」とか「自己満足」で運営されているものであり(と論じらたりもする)、そこで論じられることは、学術性よりも娯楽性が重んじられます。実際に、うまく感情をまじえて読み手の共感を得るようなサイト論は流行りやすいです。
「個人サイト論なんていうけど、『論』と呼べるほどの価値などない」という批判は、実にそのとおりです。僕は、この論としての素朴さが、個人サイト論の特徴であり、ひとつの魅力であると思っています。
正統派の「論」を論じようとすると、僕たちは窮屈さを感じてしまいます。知識や経験、そしてそれを文章にする能力、また建設的な議論を交わす意識が必要となります。「趣味」「自己満足」によって支えられる個人サイトで、これらを満たした「論」が盛んに交わされることは考えにくいです。
それでも、人は何かを論じたいと思うときがあります。個人サイトを運営していると、さまざまな疑問が見つかります。ときにはその疑問自体が個人サイト論となります。しかしたいがいは、そういった疑問もやはり素朴なものです。サイト運営者ならば誰もが一度感じるようなことで、それについての論も、おそらく出し尽くされています。(いま書いているこの文章も既出かもしれない)
たとえば、「なんでこんなサイトをやっているんだろう」、「どうすればサイトの個性を出せるんだろう」という疑問や、それについての論です。これらは、なんの変哲もない人間が、なんの変哲もないサイトをやっていて感じる、素朴な疑問です(ものすごい変人が、とんでもないサイトをやっていても感じる、素朴な疑問です)。
このような日常の平凡な日々で自然に生まれる疑問だからこそ、個人サイト論は価値を持つのではないでしょうか。サイト運営者に限っていえば、これらの素朴な疑問はとても共有しやすいものだからです。誰もが思うことだからこそ、誰もが平等に論じるチャンスを持っているのです。
さらにいえば、これらの疑問は根源的であるから、人はよけいに論じたくなるのではないでしょうか。自分が賢そうな気になるからです(実際に賢くなることもあると思う、たぶん)。
根源的というなら限りがありません。「世界ってなんだろう」「なぜ生きるのだろう」「本当の自分って何者なんだろう」と、いくらでも疑問は湧いてきます。しかし、これらは素朴さに欠けていると思います。むしろいかにも哲学ちっくな論題で、正統派の「論」でなければ通用しません。

(後略)

(後記:なんか、後半がわけわかんないね。いまでも、僕の脳内では「素朴サイト論」という区分があります。はじめは「素朴」でなく「陳腐」という言葉を遣っていました)