月の鮮やかな夜空にただひとつ大きな星の「ある」ことに気づき、星の「ない」ことを思い出した

日増しに夜が長くなる。風は冷たく肌を刺す。夏か冬のどちらが好きかという問いをよく聞くが、どちらにも良いところと嫌いなところがあり一様に答えられるはずがないと考えていた。しかし僕はこの風を好きだ。「AはBを好きだ」というのは文法的に正しそうにみえるけれど、「あなたを犯人です」のように違和感を感じる言い回しだ。しかし僕はこの寒さを好きだ。暗さを好きだ。

空を見上げると月が映る。ぼやけて映るそれはテレビゲームに明け暮れた過去とウェブに浸る現在の僕を責めるようだ。この目はひとつ、美しさを失った。たしかに見ることはできるけれど、レンズを通した先に映るのは、果たして同じものだろうか。この目が進化したのは、遠くに映える美をさらに遠ざけるためだ。僕が眼鏡を掛けるのは、進化してしまったこの身体を退化させるためだ。
月から離れたところで輝く大きな星に驚いた。いけない動画で大きなクリトリスを見たことがあるが、そのときの驚きに似ている。小さいものであったはずだ。しかし大きいのだ。では、それまで僕が「小さい」と思っていた対象はいったい何であるか(この問いはクリトリスに対しては向けられていない)。記憶にある星だ、と答えることができる。小さな星についての記憶は小さな星から刻まれる。小さな星があったから、僕は小さな星を見ていた。
僕は小さな星を見つづけていた。なぜなら、小さな星を妨げるものはなかったからだ。夜空に星は映らない。ゆえに記憶は刻まれない。
見上げて映った大きな星は、いったいどれほどぶりであろうか、僕に刻まれた小さな星に干渉した。星は大きなものである。では、いま僕が「大きい」と思っている対象はいったい何であるか。ただひとつ、星とは見上げた先にあるそれだ。いままでたくさんに輝いていた星たちは消えた。そして気づいた。そこには星がある。さらに気づいた。こんなにも、そこには星がない。

星がないからといって気力を失うような美学をもっているわけではない。けれど、きれいなものは好きだ。どさくさにまぎれて言うと、かわいいものも好きだ。だから星が大切なものであると言うのも、とくに恥ずかしくはない。僕は星を大切だ。大切なものが消えてしまっているのは意外と気づかないものかもしれない。

星はないのだろう。おそらく相当の昔から。その間、幾度となく夜空を見上げたはずであろう僕は、何もない夜空を目にしていたはずだ。したがって、何もない夜空があることを知っていたはずだ。では、何もない夜空であることを認識していたか。気づいたのはいまだ。相当の昔から知っていたことにいま気づいたのだから、この精神のはたらきは「思い出した」とよぶのがふさわしいだろう。大切なものが失われたことを思い出したのは、いまである。
失ったのだと思い出した途端、恋しく感じてくるものだ。仕方ないだろうとも思う。僕は大切なはずである星を見ていなかったからだ。いまさら恋しがるのも虫がいい話だ。大切であると感じたものをたくさん失っているかもしれない。思い出さないだけで、大切に感じたものはとても豊かにあったのかもしれない。
物事について忘れがちであったり慣れがちであったりする人間にとって、失ったときにだけ気づくのは宿命かもしれない。いや、失ってしまったら二度と気づかないだろう。この夜空において僕は、失われつつあるものに気づいた。星については難しいが、失われつつあるものを守ることはできるかもしれない。気づき、守ろう。なぜなら「どうやら僕はいままで以上にあなたを大切であると思い出したようです」女の子を口説くのにはとても遣えない。返答を求めるものではないから、別によいだろうと思う。(2005-11-08)