「おもしろくない」という批判ほど弱いものはない

鍵本聡『理系志望のための高校生活ガイド』p.184
覚えられないもっとも大きな原因は、第一に「メリハリをつけずに覚えようとしている」ことにある。流れもわからずにすべてのキーワードを同じ重みで覚えていくのは無謀だ。社会の暗記に苦しんでいる多くの理系学生にこのような傾向が見られる。
だからまずはざっと教科書を読む。歴史の教科書は1冊の壮大な小説、地理の教科書は1冊の壮大な紀行文、現代社会の教科書は1冊の壮大な新聞記事だと思えばよい。そういう感じで読んでいけば、とりあえず大切な言葉すぐに覚えてしまうだろう。
さいきん僕のなかで哲学と数学がつながりつつある。「式化」した段階でもはや別な問題にみえる(2005-11-01)のを認識しだしてからだろうか。つい先日に読んだ野矢茂樹『無限論の教室』が素晴らしくて、そちらに感化されているかもしれない。タカムラさん、すてきです。オコジョ! オコジョ!

おもしろがり方がある。おもしろいものは、おもしろがり方をいっしょに伝えてくれる。おもしろがり方を教えてくれるから、「本当はおもしろいのに……」という無念はありえない。それが、まがうことなく、おもしろい、ということだろう。だとしたら、おもしろさというのは、おもしろがり方の上で成立する。それを濃縮したのが評論である。では、おもしろがり方を伝える評論は、それ自体おもしろいのか。評論のおもしろがり方を知らなければならない。そうやって、ずりずりと後退してしまう。(論理的におかしい。要推敲。)どこかに広く通じるおもしろがり方がなければ収拾がつかないではないか。あるか。あると思う。問い、物語、などである、というのはどうだろう。評論の場合は、とくに問いである。鮮明な問いをもって論じ始める評論に、僕は「強い」という感想を抱く。問いは答える意志を伝える。問わなければ答えなくてもよい、けれど、彼は問うた! おもしろがり方のひとつがこれだ。そうして評論を読み解いた先で、僕は新しいおもしろがり方を学ぶことができる。
哲学に魅せられたから、僕にとって数学は哲学の一部だ。そうやって数学をおもしろがっている。たいていのことなんて「じつは哲学だ」。この言い換えが難しい。『詳説日本史』に対して「じつは『小説日本史』だ」と視線を向けるのは、けれど画期的だ。評論というのは突き詰めれば「じつは──だ」という言い換えだ。もとから知っているおもしろがり方なんてたかがしれている、ほんの一点でしかない。優れた評論家の発する「じつは──だ」という妙句は、その一点を大きく広げ渡す。たいていのことなんて、じつは──