「概念」に触発されるのか? その奥に「ひと」はいないか?

若者らしい恥ずかしい文章を書きました。やれやれ、言葉選びが雑だし(「現象」とか「概念」とか)、まとまりのない文章だけれど、こういうのは旬のものだと思いますのでもう公開しましょう。さて、
エロゲの体験版をやって何か触発されるだろ。で、何かやろうと思いきや、もう実践を諦める。というか、いつもどおり怠ける。で、こう合理化する。たかがエロゲに、なに触発されちゃってんの。あるいは順序が逆かもしれない。たかがエロゲ、で、怠ける。ともかく、その瞬間っていうのは、これだ、いまだ、と思って、たしかに強く触発されている。そこに習慣化した怠惰が入り込んで冷めるわけだ。エロゲでなくても、なんでも。
エロゲでなかったら、たとえば社会だ。たかが社会に、なに触発されちゃっての。でも、おかしい。エロゲとか、社会なんて、存在するのか?
もちろん、ものの見方次第ではどんな概念も存在しうる。ただし、「触発する」という述語に結ばれる主語として、「エロゲ」とか「社会」は、どうだ? 妥当か? 不適だ、と僕は思う。触発するというのは、ひとのこころを動かすことだ。何が? ひとのこころが、ひとのこころを動かすのだ。「触発する」ための主語は「ひとのこころ」である。ひとがひとにはたらきかけるとき、はじめて「触発する」という事態が発生する。
その奥に、ひとがいるのだ。エロゲで言うなら、シナリオライターだかテキストライターだかがいる。彼らは僕よりも立派である、ということを僕は知っている。彼らの触発をつっぱねるのはただのツンデレだ、ということを僕は知っている。本当はデレデレしたい! エロゲでなくても、なんでも。その思索を巡らせた彼がいる。その言葉を発した彼がいる。彼らが僕を触発する。すばらしい、と気づく。こんな僕、愚かだった、と気づく。
その奥に、ひとがいるのだ。だが、そうだろうか? ほんとうに、「触発する」主体は「ひと」または「ひとのこころ」に限られるのか? たとえば、急に頭上を落下してくる巨大な「物体」は、また就職難であるという「現象」は、どうだろう。「物体」や「現象」が、危険から逃れることを触発したり、就職活動に励むことを触発するというのは、大いに考えられるではないか。そしてまた、その奥に、「ひと」や「ひとのこころ」などない。そもそも「物体」や「現象」の「その奥」を想定することが不可能なのだから。たしかに、もっともだと思う。そしてまた、これが現実であると思う。
奥でなくてもいい。どこかに、ひとはいないか?
物体。どうだろう。頭上を落下する物体。危機感をいだき、逃げる。どうも「触発」という言葉の意味合いからは外れている。その他の自然現象はどうだろか。目の前に見える貴重な鉱物、という物体は、ひとを触発するだろう。そこには何者の作為も混じっていない。僕は、よろこんでその鉱物を取り去るだろう。めでたし。
現象。どうだろう。勉学の価値を煽り立てるような社会、という現象は、ひとを触発するだろう。嫌らしい。しかし僕は、本当にそんなものに触発されているのか? ある偉人の言葉に胸を打たれたとき、僕は思い出したように「現象」を気にかける。彼の言葉と嫌らしい社会をごちゃ混ぜにして、怠惰なままである自分を合理化するのだ。よほど、嫌らしい。何よりも前に、ひとがいるというのに! ひとでもないあいまいな概念ごときに、そもそも何かを触発されることはないのだ。
エロゲ。これ以上ないほど明確に、いる。彼はすごい。物語の書き手であるという時点で敬うに値する。「エロゲ」といえば聞こえは悪い。けれどそれも身勝手な概念。その奥にいる、ひとりひとりの書き手に対して見ないふりをしていただけ。これも同じ。「エロゲ」という概念を認識する前に、ある書き手の生んだ物語に感嘆をもらしているではないか。彼の言葉になら、僕はいくらでも触発されてやる。多少、ツンツンするけれど。
デレデレしたいのが本心。先日の「ひとから触発されることは安っぽくないか?」という文章。これは反論されることを期待して書いたものだ。甘えである。まなめさんの全く安っぽくないよ。むしろ、触発されたのにまるで自分で考えてやったかのように見せる方が安っぽくてかっこわるいと思う。(2006-01-02)というご指摘で目が覚めた。仮に僕がまなめさんに何か触発されて、それを「安っぽい」と思うだろうか。とても恐れ多い。
「社会」に対しては別にいい。だって、そんなもの、僕を触発するに値しない。「ひとのこころ」には、はたらきかけない。ひとがひとを触発するのだ、と気づいた。「ひとから触発されることは安っぽくないか?」という見出しの不適さを恥じた。「ひとから触発されること」について、何も述べていなかったからだ。いまやっと、そのことを述べたのだ。
僕は傲慢である。だからこう考える。そもそも僕は、触発されることに厳しいフィルタをかけている。だから、つまらないものに触発されることはないし、ゆえに「つまらない触発」そのものがありえない。僕を触発する主体は、敬うに値するひとりのひとである。