きみはその身体において自由であると自覚するかい。

きみはその身体において自由であると自覚するかい。
僕はきょう、この身体において不自由であるよ。風邪をひいたようだ。しんどい。こういう状況は僕において珍しい。身体を酷使する、ということが、一般の健全な高校生に比べて少ないであろうからだ。要するに、ひきこもりである。だから、こういう身体の不自由から何かを感得したりする。お恥ずかしい話。
僕がこの身体において自由であるとはどういうことか。身体をもつことで、ひとはいろいろな行動を起こすことができる。もたなければ、起こせない。何もできない。よって僕がこの身体をもつことは、それ自体、自由なのだ。
おはよう。いまきみは自由かい。あくまでね、上記の意味においては自由だろうよ。それを自覚するかい。しないだろうね。きょうも僕は、この身体において自由である。そんなことは当たり前だ。であればいいのにな。あいにく、風邪である。
ところで僕は、緊張は身体のはたらきであり、精神のはたらきとは関わりがない、と考えている。聞きかじりの言葉で衒(てら)うなら、いわば、心身二元論の実践、さ。どんなに鼓動が激しくとも、声が、手が、足が、震えようとも、たとえば僕はいつもどおりにプレゼンテーションができる。この精神は、なにものにも侵されていないからさ。
このとき、この身体というものに対して不思議な感覚が芽生えてくるんだ。友達? その程度しか適当な言葉は浮かばないけれど、友達なんだ。僕から独立してコイツになる。僕はコイツをコイツと呼ぶんだ。お偉いひとはさ、こういうのを客体化とか対象化というらしいぜ。僕かい。メイク・フレンズとでもよぼうか。すまないね。友達、少ないからさ。
余談する。「make friends with」で「──と友達になる」という意味だ。何か気にならないか。そう、フレンドではなくて、複数のフレンズなんだ。それもそのはず、僕と、コイツが、いなければ、友達という関係は結ばれえない。似たようなのに「change trains」というのがある。自分自身、あるいは主体そのもの、を、見落とすな、という戒めに聞こえておもしろんだ。まあふつうは気にしないよな。
さて、僕はメイク・フレンズするわけだ。この身体をコイツと呼ぶ。それはすなわち、僕がいま、この身体において不自由であることを意味する。頭が朦朧とする。関節がだるい。顔が熱い。なのに寒い。身体と精神を切り離せないことは、だれしもが納得できよう。ああ僕だって、きょうは勉学がはかどらなかった。だが、どこまで関わっているのだ。
ただ不自由としてのみ、コイツは存在する。不自由であるとは、コイツが独立し、自己主張することだ。このt
だめだ。余談のあたりから収集のつく気配がなくなった。ごきげんよう