また別の話

テストがあるのに勉強に集中できない。何もテスト勉強に価値がないと思っているわけではない。点数を稼ぐことも無駄ではないと思う。だから、最低限の動機づけは保障されている。
単につまらないからだろう。ゲームのような要素をでっちあげないと。細切れにしたり。あるいは、その環境そのものを楽しむデコレーション。または、友人を利用して責任感を発生させる。
おもしろいことばかりが世の中ではないから、そうやって小細工しないとやっていけない。そもそもそんなことに本当に価値はあるか、というのはまた別の話。
具体案をひとつ考えてみる。もっともシンプルな時間管理。時間を区切る。ついったーみたっていいじゃない。もうオフラインなんて考えられない。オンライン=ライフライン。話が逸れた。区切る。休憩を時間に含めるといいかもしれない。22分で区切るとして、22分経ったところでリセット・開始してフレキシブルに休憩。おのずと最適な休憩が得られるような気がする。ま、こんなのはとりあえず試してレビューしていけばいいんだけどね。
ゴールはどこか、時間で決めるか、進捗で決めるか、というのはまた別の話。
22分で内容を切り替えるか、同じことを続けてもよいか、というのはまた別の話。

優しさについて

ツンデレを「根は優しい」と解釈することはそれほど無茶ではないと思う。ただ、「根」ってなんだ? ひとを気遣って、助けてあげたいと願う。それこそが優しさじゃないか。もちろん、行動こそが本質なんだと考えるのも結構だ。しかし、優しい行動をとった瞬間に優しさが評価されたり、日常的におこなう優しい行動によって優しさが評価されるのだとしたら、ツン期だったキャラがデレに移行することで、そのキャラが「優しくなった」ということか? それはオカシイだろう(←印象論すぎる)。優しさとはこころ。陳腐には聞こえるが僕はそう言いたい。
さて、そうやって考えたとき、ツンデレというのは本質的に優しいのである。ある優しい行動に関与するツンという現象は、キャラの優しさを属性づけるステータスである。つまり、ツンやデレは属性であり、そのキャラの優しさは前提として成り立っている。
これはひどい……。自分でも図式化できない。
いや、そうじゃないか。ツンだろうがデレだろうが優しいキャラは優しいんだ、ということを言いたい。このキャラをひとと言い換えるにはためらいを感じるけれど。

きょうのついったー:かがみ愛

時系列を遵守しているので階層構造に明確な意味や意図はありません。

  • 【アニメ】『らき☆すた』第17話。かがみと友達になりたいがなれるコミュスキルがないので悩ましい。ということを本気で思った今日この頃
  • つかさは二次元で十分だが、かがみはそうじゃない。かといって、三次元にいてほしいというわけでもない。なんなんだろう、このきもち。理想の自分?
    • そうだ、かがみになろう、おれ……。
    • ゆんゆゆんゆんゆゆんゆん☆
    • そうか、こういうひとがいてほしい、という愛情は、自分がそのひとになることで満たされるんだ。それが非現実を現実に変えるもっとも現実的なやり方
    • もしそういうひとが実際にいたとき、それを恋愛とか尊敬とよぶのだろうな。僕がたまたまそういう感情をもたないのは、現代が豊かだから(二次元的に
      • まあそれは生身の人間に対する経験と想像力の欠陥なのかもしれないが、ならば二次元に対する想像力がその本質からどれだけ逸れるというのか。
      • 萌えオタに知識は必要ない。これがたくさんのひとを救い、しかしその裏側で渦巻くルサンチマンとコンプレックスは計り知れない。
      • 結論:童貞
  • ところで、ひとに関して、理想を現実に求めるのは失礼なのだろうか。しかし、理想を諦めるのも失礼ではないだろうか。「わたしの理想」なのは注意だが
    • とはいえ、たいていは「どうでもいい」という関係性に落ち着くよな。一般人が一般人という言葉を、リア充リア充という言葉を知らないのと同じように
    • この場合の言葉を知るというのは、その言葉をとりまくバックグラウンドの構造をも把握するという意味で。それこそが言葉を知っているという状態だし
  • 自分とは本質的に自分ではない。当たり前といえば当たり前だが、これにしたってある種の時代的・文化的な背景に根づいた常識に過ぎないのだろうな
    • 演技やコスプレによって感得できる「本当のわたし」とは、単なる「いつもと違うわたし」なのか。あるいは、「だれか」なのか。
  • おれのかがみ、っていうか、むしろ、おれはかがみ。かがみはおれで、おれの嫁。したがって、おれはおれの嫁。そしておれは嫁。あはは
  • 柊家のお母さんはすてきだなあ