リア充は本当におめでてーのかについて

リア充について私見を述べる。
もともと僕がリア充という言葉を目にしはじめたのは2chの大学関係の板だったと思う。リア充が大学生と深く関わるのは一般的な見方だろう。サークルや合コンなどに精を出しているひとがリア充。こと大学生に限っては、リア充の定義はこれで足るのではないだろうか。
そう捉えたとき、僕がリア充という言葉を軸に現実から見出せるものは少ない。リア充は高校生以下から社会人まで、すべてのひとに対して適用可能な属性であると考えている。また、あるひとの性格や人格を表す静的な属性ではなく、いまおかれている状況という変動的な属性を示すものと捉えている。



僕はリア充という状態をこう解釈している。「人間関係や社会的地位によって与えられた課題や出来事をこなすことに私的な時間を奪われ、しかし活き活きとした一面もあるその生活に満足感を覚える、主体性に関する思考停止の現れ」
テスト勉強や残業など、学生または労働者として公的といえる作業に関しては、その忙しさをもってリア充とよぶことはあまりない。公的な課題をある程度こなしていることがリア充の必要条件として挙げられることもある(そうでないと「DQN」である)。
「学校」や「会社」という画一化された箱によって与えられる点で、勉強や労働はリア充の活動としては区別されるべきかもしれない。しかし、その作業・活動に取り組むことで関与していくソーシャルが、参加者の主体性を絡め取っていくという点で、これらの活動も共通している。主体が「人間関係や社会的地位」に依存していく、という意味である。
入り口は違う。「学校」は学生のすべてが強制的に放り込まれ、「勉強」に対する取り組みは自動的に促される。これは「学生」という社会的地位による。一方、サークルは個人的な意思決定にもとづいてみずから入り込む箱である。そこで活動を深めることで生じる人間関係によって、徐々に立場が定まってくる。
扱うスケールが異なるというだけで、社会的地位と人間関係は、個人に関わるソーシャルには違いない。学園祭は? 就活は? と挙げていくと、活動における箱との関係、および公と私の境界はあいまいにならざるをえない。
ただ箱に入るだけでリア充というわけではない。ソーシャルを根拠にしてソーシャルに参加するという環のなかでリア充という状態が成り立つ。「学生」だから「勉強」する、「勉強」しているからわたしは「学生」である。「メンバー」だから「サークル」に参加する、「サークル」に参加しているからわたしは「メンバー」である。このサイクルに自覚や反省は介さない。ある判断に対する根拠は、その判断による行動と一体であるからだ。

以上のような捉え方は、おそらくあまり共感、というか理解いただけないと思う。不鮮明な表現が多いことも、未熟を悔やむばかりである。
ただ、僕にとってのリア充が「主体性」をキーにしているという点は強調しておきたい。先述のように、僕にとってのリア充とは「状態」だから、もしかしたら僕がリア充であることも考えられる。実際、ここに述べた意味で「リア充」だった時期も思い出せる。それが本当に「いい」ことなのか、それとも「わるい」ことなのか。そう考えたときに反省するのが主体性なのである。
大変だけれど楽しかったこともある。その状況に疑いを向けることはなかった。イヤなことに立ち向かうことがスキになることもある。けれど、それがいまにどうつながっているのか、将来にどうつながるのか、と改めて考えると、あまり有意義な答えは返せない。ソーシャル自体を根拠にしていたから、価値観の入り込む余地がない。つまり、何も考えていなかった。人生のあらゆる地点に意味を求めるのも無粋ではあるが……。
つまるところ主体性など主観によってのみ確かめられるものである。だから、他人の人生に対してリア充を問うことはできない。僕の遣っているリア充は、僕にしか遣えないリア充だから、リア充の定義としては崩壊している。
正直なところ、僕自身、否定的なニュアンスを込めてリア充という言葉を遣うはある。言い訳にしか聞こえないが、それはいまという状況をあらためて自分の眼でみつめて欲しいというメッセージでもある。なんて、大きなお世話も甚だしい。

――で、リア充は「いい」の? 「わるい」の?
場合による、としか思えない。どちらかというと、僕にはリア充が足りていないと思う。
リア充をポジティブな言葉で捉え直すなら「没頭」「猛進」「信念」「使命感」
ネガティブに言うなら「束縛」「動物」「洗脳」「義務感」といったところだろうか。

あまりに抽象的な捉え方ではあるが、大学生という枠を越えてリア充を論じるなら、このようになってしまうのではないか。
個人的には「文化系女子リア充なのか?」というのが気になるが、それはまた別の話。
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