ニュートラル

はじめて海をみたときのことを覚えているか。
はじめて波に触れたときを。
波とは何か。パターンをもってマクロに流動する海水。ざぶーん。ざあざあ。その目に届く視界のすべて。足もとに押し寄せてくるせせらぎ。濡れる足。さらう砂。それらのどれをもって、ひとは波に触れたといえるのだろうか。そのすべてを、だ。そして、その瞬間は間違いなくあった。
自然は広大だ、なんていう観念は知性をもってすれば誰にでも紡げる。その実感に際しては、一切の言葉を要しない。それはいままでに語りえなかったものを、目の前のそれとして、身のなかのこれとして、新しく受け止めることだから。
いつからだろうか。みたことがないものがなくなったのは。本当はそんなはずがないのに。当たり前のことと思ってしまうのは仕方がない。それを新しい身体で受け止め直すことに、気づくことができるのだろうか。わたしは「本当の世界」を知っているのだろうか。
僕は、自分が経験的に認識している「認識の世界」の奥に、それ以前に存在するよりカオスな「本当の世界」があると思っている。そして、「本当の世界」は僕が豊かな人生をおくるために重要であると思っている。ありのままをみる、ということだ。
何も知らなかったときを思い出すことはできない。思い出すという枠組みによってアプローチすることが、そもそも食い違う。どうやってニュートラルにあればよいか。ただ動きつづけるしかない。揺さぶりつづけるほかない。
結果とは後ろを振り返ったときにみえてくるものだ。過去と未来があい対するとき、いまというリアルこそが幻想と化す。
ところで、まったくべつの話がある。ニュートラルは常に生産されている。その過程に干渉にする意味は、未だ知りえぬこと。