大人として生きるとはどういうことか

僕は大学生です。大学生は大人ですか?
僕のなかで大人な姿勢というのはだいたい定まっていて、さきのこと、ひとのことを考えられるのが僕の大人です。それは、いまのこと、わたしのことしか考えられない、自分に対する戒めでもあります。
小学生の自分と大学生の自分で何が一番違うでしょうか。戦略を意識するか、の違いだと思います。僕はいま大学生であることに意味を感じていますし、その意味は大学生としての生き方に依存することを知っています。僕はこれまでの短い人生においても可能性を広げつ絞りつしていて、あいまいではあれ、将来に対する方向性を自覚しています。僕は自分のすることに意味を見出す一方で、意味を考えてから行動を練ることがあります。
結局は意識の違いです。小学生の自分は、いま何をしているのか、何のためにしているか、知りませんでした。しかしそれでも、いろいろなことをすることができます。そのおかげでいまがあることも確かです。「さきのこと」をしようと思ったとき、ひとは「できない」ことを「する」のです。なぜなら、できないからです。しかし、するのです。
現在というレンジが前に伸び始めます。僕は事実としての未来を先取ることはできません。しかし、現在とわたしによって実現できる未来に先駆けることができます。このとき、いまできないことは、わたしにとってできることとして姿を変えます。それは、子どもの自分にはみえなかった姿です。
しかしそれはひどくもやがかかっています。意識は一過的なものだからです。そこに計画や記録というフェイズを組み込むことで、意識としての大人はその機能をも果たします。一般的な中高生においても、受験勉強というテーマを通してそういったスキルは身につけるかもしれません。しかし、それは目的を果たした途端に、それ自体が消失する、子どもにしかみることのできない「さきのこと」なのです。
さきのことを考えるには、わたしに精通しなければなりません。ある程度はそれができてきたと、気のせいかもしれませんが僕は自覚しています。さらに意識をもつこと。これは要するにやる気で、ただの精神論です。そして、サイクルを回すフェイズの必要を感じました。
わたしがいまを考えれば考えるほど、視野はより深みを増します。だからこそ、ときには辿ってきた道、目指すべき方角を見失います。それは未熟なことではありません。しかし愚かには違いありません。つまり、解決するのではなく、補足する必要があるのです。僕はこの点に関して根本的な悩みをもつべきではないと思います。
まだまだ、それだけでは不十分です。わたしの将来は、ひとにも影響されます。個人に対する社会、とも言い換えることができます。さらに、社会の将来、などと考えると、いっそう問題は複雑になります。
しかし、そこに大きな違いはないと、まったく根拠はもちませんが、僕は思います。ひとは知性を共有できる、と信じるからです。そのとき、わたしという知性と同じように、グループや組織における戦略というものが成立します。あとは、同じことのなぞり返しです。
もっとも、その過程こそが重要で困難なのでしょう。さきのこと、ひとのことの、両方を考慮したときに生まれてくる戦略をどう扱うか、興味深いです。

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