考える

いくらでも対立の生じうる世界で自分の意見をもって活動するというのはたいへんに難しそうだ。そんな世界で活躍するひとが偏った意見をもってしまうことには寛容でありたいし、その埋め合わせとしてより大きな構造で静的な対立を成り立たせるのだろう。
だから、たとえば人名で派を名づけることは愚かだと思う。ついでに愚痴をいわせてもらうと、特定の状態を前提にしたような、相対的な名称で派を名づけることも控えていただきたい。



なぜ環境保護が大事なのか。純粋に思うに、美しい自然に価値があるからだ。きれいな空気を吸うことや、豊富な動植物に囲まれることや、新鮮な資源を得られることはすばらしい。産業の愚直な発展はこの価値を妨げるので対策を必要とする。対策は、木を切らなかったり、わるい物質を排出しなかったりする。もうひとつ思うに、豊かな生活をしたいし、続けたいからだ。ところで豊かな自然の姿は豊かな生活の一部になるかもしれない。
環境の物的な姿を維持または繁栄させることと、そこから得られる資源を永続的に確保することの、ふたつの目的意識を思い浮かべる。ある種の気体を削減しようという手段は、その両方の目的を満たすこともあるだろう。しかし、両者の対立するシナリオは簡単に想像できる。われわれは物の姿を変えることによってエネルギを獲得する。
開発と消費によって環境を守ろうという作戦が耳に入るたびに違和感を覚えることは勘違いであるといって拭い去るには忍びない。つまり、なんかおかしいよね。われわれはエネルギを求める。いつまでも求めるし、その保障?保証?を求める。そう考えると筋が通ってしまうのよ。資源の延命をもたらす手段であるというなら、消費によって自然保護に貢献したというステータスを得られるのも、どうしようもなくくそったれな矛盾とはいえない。あなたはエネルギの枯渇を望んでいないのだから、逆に未来永劫のエネルギを望んでいるのだといわれたら、すこし下を向くしかできない。姿はエネルギになるが、エネルギは姿にならないこともある、と申しあげて退散しよう。

ものづくりとは何か。価値のあるものづくりとは。ものづくりの価値とは。工場で機械を組み立てることはものづくりの一種である。からだを動かすことである。技術も必要である。このふたつだけを取ってすばらしいと讃えることは、きょうび難しいだろうか。
工場を経営するひとがいるし、機械を設計するひともいる。経営と設計が間違っていれば汗水は報われない。その逆に、雇用を生み出すという価値をもつ。生きたことのない時代を言及するのも恐縮だが、ひとびとの汗水を輝かせるという側面から彼らを評価することもできるかもしれない。それなら、ものづくりの美しさの根拠が汗水にあると仮定して、ものづくりの世界で活躍しようと学術に取り組むことで、おのれのからだが汗水と無縁になるという矛盾を解消できる。
ものづくりによってものを提供する。ものにこそ価値があるかもしれない。ものは利用によって利益と満足をもたらす。想像や訓練では絶対に補えないものを与えてくれる。新しいものは、いままでできなかったことを可能にする。ものは進歩する。からだを動かせばものをつくる誇りをもつことができ、設計すればものを進歩させる誇りをもつことができ、経営すれば彼らの誇りを生み出したという誇りをもつ。汗水を流すことにだけ価値があるなんて、間違ってもいえない。
あれ。ならば、仕事のある部分をものづくりとして区別するのか。システム開発、あるいはシステムを用いた問題解決という仕事のうち、たとえばプログラミングの部分がものづくりパートです、などといってみる。設計だけではなく実装してはじめて仕事が成り立ちますゆえ、われわれものづくりを担うプログラマを尊重してくださいまし。僕がものづくりをじっくりと考えたら、その主張には説得力を感じない。しかし、経営や設計も含めてものづくりだと主張しても何かが変わるのか。数の都合で軽んじられるのは仕方がないのか。
とにかく、輝いている技術者にはあまり関係ない気がする。