図解

「表現」って過程のためにも結果のためにも使われる。ここに算数の解答用紙があるとする。いままさに消しゴムで消されようとしている「間違っていた途中式」は過程としての表現だ。のちほど赤ペンでなんらかのしるしをつけられる「残された途中式と答え」は結果としての表現だ。つまり、過程としての表現は思考的・個人的に使われ、結果としての表現は説得的・間個人的に使われる。この違いは意識されないこともあるし、されることもある。たとえば「これは清書だから緊張する」ことがある。
この意識がよいかわるいかは場合によるけれど、うまく使い分けようという意志を伴った意識ならば有用だろうと思う。逆にこれを混同してしまうと、「ぐちゃぐちゃな表現」と「きれいな表現」との葛藤に答えを見失い、手は止まってしまうだろう。
個人の印象だけれど、たとえば「絵」なんかは「結果」をみられやすいと思う。逆に、ある文字列があって、ひとがそれを「メモ」とよぶとき、それに「結果」は期待されていないと安心しやすい。
「図」はどうだろう。KJ法のような洗練された思考の技をみていると、なるほど図とは過程だ!と膝を打つ。他方、どこかのパワポマスターが作った見事な図をみていると、僕はその圧倒的な「結果」感に気圧される。でも、いろんな表現ツール(言語)がそうであるように、図だって過程としての使い道、結果としての使い道があって、うまく使い分けることができるはずだ。
その、言い分けを自分なりに作ってみようと思う。図の表現といえばまず「図解」という言葉が浮かぶ。この言葉を本のタイトルにつけるだけで難しい専門分野が一般向けの装いをもつ、つまりは「わかりやすさ」の印象がこの言葉にはある。本に載っている図は錬られた「結果」だ。しかし、図に思考の技としての側面を強く見出す僕は、「図解」は過程であるという立場をもちたい。単純に定義するならば、

  • 図解:図で考えること

ここでべつの言葉を作りたい。図の結果としての側面を強調する言葉。……として「図示」が思い浮かんだ。すなわち、

  • 図示:図でかくこと

ポイントは図「で」かく。何「を」かくかというと、それは「図そのもの」ではない。「本当は図そのものではないもの」(易しくいうなら「考えごと」、難しくいうなら「観念」、好みでいうなら「モデル」)を図でかくことが図示である。
「図解」は「考えること」だ。でも「かくこと」ことも「考えること」と絡み合う。よく「あたまのなかがこんがらがる」でしょ。そのとき「かくこと」と組み合わせて「考えること」で、ちょっとすっきりする。図示というとひとに説明する姿が思い浮かぶけれど、ひとりで考えるためにも図示は使える。せっかく「図示」という言葉を作ったので、さらに「図解」を再定義する。

  • 図解:図示しながら考えること

さて「考えること」をさらに考える。ふつう「考えること」は自分のあたまのなかですること、ひとりですることだ。でも図解は図示しながら考えること。だから自分がかいた図をみながら考えることになる。では「自分がかいた図」は「自分」だろうか。っていう質問は日本語として怪しいのでもう忘れて、「自分がかいた図」と「ひとがかいた図」の違いは何か。たとえば、どちらがわかりやすいか、どちらが忘れやすいか、どちらが考えごとの役に立つか。これって、僕がいくつか想像した限りでの話だけれど、けっこう場合による気がする。だからいっそ図解というのは、図示された図という「自分のあたまの外にある考えごとのヒント」と相談しながら考える、つまりコミュニケーションによる考えごととして一括りにしてもいいんじゃないかと思う。結局「図示しながら考えること」は、コミュニケーションしながら考えるという効果がある。効果というのは、あたまのなかで延々と考えてもわからないようなことがわかるということだ。コミュニケーションなんだからもちろんひとといっしょに図解したっていい。
言葉の話から僕の日常の話に戻ると、パソコンで使えるいい感じの図解ツールがほしい。いい感じのやつはすでにみつけていて、いままで日記に貼りつけたことのある図はそういうのを使っている。でもあたらめて自分なりの「図解」の意味を反省して探してみると、じつは「図解」のためのツール(思考ツール)というのは「図示」のためのツール(作図ツール)ほど多くないのかもしれないと気づいた。そんで「図解」のためのツールは、それが「図解」のためのツールであることを強調している感じがした。そういう違いを感じとれて、なんか気分がいい。
最後にセルフツッコミが浮かんだ。「図解の話なんだから図示して説明したほうがよいのでは?」→言い訳:図解の意味を考える流れをかきたかったので、流れをかきやすい文章を使ってかいた。図は時間の流れを飛び越えやすい。