消費をやる

(追記:「日記」とか準無題なインターネットリソースを作成するのは単純にインターネットリソースとしてクズなのでとりあえずタイトルをつけてみたけど準無題のほうがましなタイトルでここに自己アピールしてしまっている)
日記書こうとして過去の記述を検索したり読み返したりするとつながりがあたまのなかでできてしまって書きたい気持ちがなくなってしまう。パーツが出ることで構築へのモチベーションがでてしまって自分にとっての表現のモチベーションと合わないんだろう。スキル的な問題なのかなんのかわからないが。
コンテンツの消費を楽しいで満足して継続できていると表現したい気もなくなくなっていくけれど、ふと何が楽しみなのかわからなくなったとき追体験のための表現を欲してしまう。そもそも楽しみはあったのか、なんでそれが楽しみだったのか。表現があれば思い出せたのではと無責任に非実在自分に期待する。たぶん書いても質的な復元のための記述はできなくて、でも案外なんの質的でもない記述からただ記憶の不思議に依って質が復元されるというのが便利でつまらない実際のような気がする。だからなんでもない淡泊な無機質な記述は自分にとっては価値ある日記であるといえるかもしれないし、だったらもうなんでもいい気もする。
ファイルのタイムスタンプとか、ゲームのセーブ日時とか好きで、その数字を見るだけできもちよくなったりする。記憶の気持ちよさは記憶の質じゃなくて記憶の骨格にけっこう依っているのかもしれないし、やっぱり連想による質群による気持ちよさもあるのかもしれないしわからない。
何をしたとか、いまどうだかとか、ひらけた日記にとくに書くつもりもないのだけれど、その制約が書くこと表現記述の邪魔になってしまうならとくにこだわる道理はないし、でもそれが自然ならそもそも制約でもないからそのままでいいと思う。
ここさいきんのコンテンツ消費、アトラクション消費を思い出して何か思ってみるとしたら、おもしろくないものを堪え忍んで楽しみを冒険することをおもしろいものを浅はかに選り好むことよりも尊ぶだけの富裕と情操はもっていないこととか、インクリメンタルなわずかばかりのアクティブ性によっておもしろがるということがアクティビティとして可能であることの感触であるとか、形式的に同じようなコンテンツを何度も消費しても中期的にはマイナスの飽きを獲得できることとか、単純におもしろいものを消費して楽しむことは元気であるとか、そういうことを思う。子どもがふつうに遊んでいればこういう感触をふつうにつかむのか、というとどうかわからないし、そんな気もするけど、程度の低いことを覚えたのかわからないし、自分には大きさは無関係に新規な発見としてクリエイティブだから。