「不幸」だからこそ生み出される「良い作品」が存在するという仮説


今回の仮説は、あるクリエイター(あるいはアーティスト)が、
良い作品を生み出すためには「不幸」という状態が必要なのではないか?
という仮説である。


今回の記事(仮説)のもともとの発端は、僕が大好きなアーティストである
ミスチル(Mr.children)の「深海」や「ボレロ」という作品を
これでもか、これでもかという勢いで聞き込んでいた時に感じていたことである。


深海

深海

BOLERO

BOLERO


その仮説とは…


(2005年8月22日 テーマの整理 〜ライブドア堀江社長からSEXまで〜
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20050822 より引用開始)


ミスチル(Mr.children)の桜井和寿さんは、
「やっぱり昔からつきあっていた彼女より
 元ギリギリガールズの現在の妻を選びたいけど、
 それは良くないことかもしれない」と
 もがいていたときの方が、イイ作品を作っていたのではないか?
 という仮説(ミスチル好きだからこそ)


(引用ここまで)


と、問題提起(アイデア出し)をしていたが、放置してきたテーマであり、


そして、もう一つは、2年ぐらい前に気付いたことなのだが、
10年以上前にデビューして、時代の寵児となったのち
再び注目を集め、今なお活躍している女性アーティストが皆、共通して
「離婚」(or長い間つきあって結局「破局」)という「不幸」を背負っているのではないか?
と思ったところがこの仮説の出発点である。


「離婚こそ女性トップアーティストが生き残る道!?」という仮説それは…


(2008-01-11 あれからもう10年経ったのね・・・
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20080111 より引用開始)


10年前の1998年は、今(2008年)も第一線で活躍する女性アーティスト(DIVA)達が

続々デビューした年で、彼女達は今年(2008年)デビュー10周年を迎えるわけです。


宇多田ヒカル
 

Automatic/time will tell

Automatic/time will tell

 
First Love

First Love

 

椎名林檎
 

幸福論

幸福論

 
無罪モラトリアム

無罪モラトリアム

 

浜崎あゆみ
 

poker face

poker face

 
A Song for ××

A Song for ××

MISIA
 

つつみ込むように・・・

つつみ込むように・・・

 
Mother Father Brother Sister

Mother Father Brother Sister


ここで、ん、とちょっと思ったわけです。


宇多田ヒカル⇒2007年離婚

浜崎あゆみ⇒2007年破局

椎名林檎⇒2002年離婚

MISIAはとりあえず置いといて、

安室奈美恵⇒2002年離婚


これは、何らかの仮説が成立するんじゃないかな、

と思ったわけです。


「離婚こそ女性トップアーティストが生き残る道!?」

という仮説を次回検証してみようと思います。


(引用ここまで)


と、言いっぱなしでこの仮説も放置しておりました。


そして、自分自身の体験としてもこんなことがありました。
自分の彼女が「不幸から生まれるもの」というのをかつて信仰しており、
その「不幸」と「クリエイティブ」の因果関係を信じるあまり、
「不幸じゃないと私が私じゃなくなる(=つまり何もクリエイティブなことが出来なくなる)」
といって、突然、泣きわめき出し、当時うまくいっていた僕との関係を
「不幸じゃない」=「幸せ」はマズイという理由でぶち壊そうとする事件も起きました。
※今、彼女は落ち着きを取り戻し仲良くしていますが、一時期は本当に大変でした。


そう、この問題、確かに結構、芯を食っている問題だと思うのです。


こういう言い方も可能です。


「向上心が幸せの邪魔をする」「向上心は時に人を不幸にする」


これは、論理学的に表現すれば「向上心⇒不幸」という命題であり、


この逆を考えてみると、「不幸になれば(向上心が刺激され)いい作品が生まれるかもしれない」


つまり「不幸⇒いい作品」という仮説が生じうるということだと思います。

宇多田ヒカルが「不幸から生まれるもの」について言及した


それにしても、なぜ今このタイミングでこんな仮説を検証しようと思ったかというと…
宇多田ヒカルさんがこんな発言をしていたからです。最後のつぶやきに注目!


(2010年12月15日&16日 utadahikaru 宇多田ヒカルtwitterでのつぶやきより引用開始)


宇多田ヒカル
「もしかしたら私、明日(2010年12月16日)から活動休止なのかも(笑)
 今日、最後の「世に出る」系の仕事を終えました。
 プロのヘアメークさんにキレイにしてもらうのも、
 スタイリストのアシさんと事務所のちえちゃんの前で着替えることも
 (変な下着着てって笑わせることも)もう当分ないんだな〜。」


別の人
「 ヒッキー、お疲れ様でした★ずっと昔に携帯を拾った者ですo(^-^)o
  これからのヒッキーに更なるhappyを!」


宇多田ヒカル
「あわわわ!!その節は大変お世話になりました!!本当にありがとうございました!
(*昔ケータイを外で落っことした時に拾って直接届けてくれた方です↑)」


別の人「シュワーッチってやってて落とした時?」


宇多田ヒカル
「そう!4、5年位前、一人で散歩してて高いとこからシュワーッチ!ってジャンプして
 降りた弾みにケータイを落としたの…そういえばMステでこの話、したんだっけ(笑)
 本当に良い人に拾ってもらえてヨカッタデス(´;ω;`)」 


宇多田ヒカル
「恵比寿のTSUTAYAの前で待ち合わせしてケータイ受け取ったんだった…懐かしいです。
 ULTRA BLUEというアルバムの製作中で内面的にすこく病んでた時だったなあ。
 今となっては自分で一番好きなアルバムかも! おやすみなさい (:D)┼─┤バタッ」

 
別の人
「本当に苦悩しているときにこそ、
 素晴らしい作品を捻り出せる、そういうアーティストに惹かれます。」


宇多田ヒカル
「むしろ苦悩してる時の方が作品は作り易いんじゃないかな。
 そういうのも良いけど、真価が問われるのは
 何もない時や周りに目を向ける余裕ができた時の作品かもね。」


(引用ここまで)


この発言(つぶやき)を聞いて、昔の自分が立てた2つの仮説を思い出したのだった。


だが、宇多田ヒカルさんの発言で、もう十分なのかもしれない。


彼女は「むしろ苦悩している時の方が作品は作りやすい」と


「不幸が生み出すもの」の有用性を認めながらも、


「真価が問われるのは何もない時や周りに目を向ける余裕ができた時の作品」だと言っており


「不幸」ではない時のクリエイティブこそ、クリエイターが越えなければならない壁であり、


そこに挑戦することこそ真のクリエイティブだと言っているのだと思う。


かつて紹介した、「真実の期間計算」という概念で言えば、


歴史的に(時代が変わっても)評価されるアーティストになるためには、基本的には


10年以上コンスタントに評価される作品を生み出し続けなければならない。


(※「真実の期間計算」については
   http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20091028/1292615480 を参照 
   参考のため過去の記事より引用開始)


「真実の期間計算」とは簡単に言えば、


ものごとのホントウ(真)の価値を決定するには、


少なくとも10年以上の期間をもって判断されなくてはならない、という考え方である。


(中略)


10年前に輝いていたとしても、その10年後までそれが続いていなければ、


真に価値があることだったとは結局言えなくなる。(歴史上は評価されなくなる)


もちろんほとんどの人が、たとえ瞬間風速的にでも、輝くことなんて出来やしないのだから、


一瞬でも輝くことが出来た人はそれだけでもスゴイことなのだが、


それが将来的に、さらには歴史的に評価されるためには「継続」というのが


何よりのキーワードになってくるのだと思う。


(引用ここまで)


仮に「不幸」が生んだ「良い作品」がヒットしたとしても、


「不幸」を原動力としている限りは、そのクオリティを維持するために


10年以上不幸で居続けなければならない。


これっていくらアーティストだからって相当つらいことだよなーと思う。


だからこそ、「不幸」以外の原動力を見つけられなければ、


そのアーティストは短命で終わってしまうということも言えるのではないだろうか?


そしてこの「短命」というのが比喩ではなく、


本当に命を落としてしまうアーティストも存在しているから怖いのだ。


これは、「天才」は常に「孤独」だというかつての私の仮説ともリンクしてくる。


(※「天才」は「孤独」だ論 については
  http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20051222/1292616543 参照)


簡単に言うと、「天才」は理解されないからこそ、「天才」であり、


だからこそ、自分のことを誰も理解してくれない、という絶望的な感情(=つまり絶望的な孤独)と


常に向き合い続けなければならなくなるという仮説なのだが、


「不幸」を原動力にして表現を続けるアーティストが「天才」だった場合、


クオリティを維持するうえで「不幸」が生み出すものによりかかればよりかかるほど、


その「孤独」感、そしてそれに付随する「絶望感」が増し続けていくため、


そりゃあ、長続きしないよなーと納得してしまうのである。


尾崎豊という人はたぶん「不幸が生み出すもの」をフルに利用した「天才」であったがゆえに、


あのような悲劇的な最後を迎えてしまったように思うのだ。


(参考文献:「編集者という病」見城徹

編集者という病い

編集者という病い

編集者という病い (集英社文庫)

編集者という病い (集英社文庫)


ただし、アーティストの世界では、才能を惜しまれながら、早く亡くなった方が


結果的に「伝説」となり時を超えて「天才」だったと語り継がれることが多いという


皮肉な現実があるというのもまた事実である。


だが、クオリティを維持するために「不幸」に寄りかかるという壁を乗り越え、


生き続けることを選び、「幸せ」でありながら「良い作品」を生み出していく


そんな新しい「天才」のかたちを宇多田ヒカルという人が、


目指してくれているのであれば、僕も一ファンとして喜ばしいと思う。

偉大な娘「宇多田ヒカル」を産んだ偉大な母「藤圭子」


(※大タイトルの『「不幸が生み出すもの」について〜ミスチル宇多田ヒカルから考える』を
  最初から読みたい方は日付をクリックするか、
  http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20101218 へジャンプ!)


全然関係ないけど、宇多田ヒカルのお母さんである藤圭子っていう人、


個人的にすげーなーって思ってます。


僕がすごいなあと思ったのは、有名な「圭子の夢は夜ひらく」ではなくて、


「京都から博多まで」というちょっとマニアックな曲のPVを見たときです。


残念ながらネット上ではこのPVは見れないみたい。あ〜残念だ。


仕事の関係で何度も見たんですけど、見れば見るほど魅力的なのです、これが。


「あのお母さんにしてあの娘あり」かと妙に納得したのを思い出します。


そんな宇多田ヒカルさんと母藤圭子さんの共通点を指摘した記事を引用して今日は終わります。


(2010年8月11日 スポニチニュースアネックスより引用開始)
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/08/11/01.html


運命のいたずら…宇多田 母・藤圭子と同じ道 


歌手の宇多田ヒカル(27)が無期限の活動休止を発表してから一夜明けた10日、


所属レコード会社のEMIミュージックは宇多田の公式ブログに100万件以上のアクセスがあったと明らかにした。


10代で記録的なヒットを放ち、結婚と離婚を経験、


28歳になるタイミングで休業に至る過程はくしくも母親で歌手の藤圭子(59)と同じ。


運命としか言いようがない道を歩んでいる。


宇多田が休業を選択したのは、米国での活動を終え、


日本で2年半ぶりに再スタートを切るタイミング。


「この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、


一個人としての本当の自分と向き合う期間」と明かす言葉は、


家族と離れてひとり海外を放浪する母親とダブってみえる。


 藤は昨年夏、一時帰国した際、今回のことを予期したかのような言葉を残していた。


「日本はガラスで囲まれているようですね。外から見ると開放的でたやすく入れそうだけれど、


 実際は見えない分厚い壁がある。いつか、ヒカルも感じるのではないでしょうか」


 日本で頂点を極めた宇多田の前に、米国で高い壁が立ちはだかった。


 目的を見失い、戻るべき日本の音楽シーンはどう映ったのか。

 
 宇多田の選択は、28歳で突然引退を表明した母の人生をたどっているようでもある。


 歌手としての歩みも似ている。10代でデビューして、


 宇多田は翌年に初アルバム「First Love」が日本記録の800万枚以上をセールス。


 藤は「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットをきっかけにオリコンアルバムチャート41週連続1位という不滅の記録を打ち立てた。


 絶頂期に結婚し、離婚したのも同じ。宇多田は卵巣腫瘍(しゅよう)、藤はのどのポリープの摘出手術を受けており、


 それぞれ「休業」「引退」の違いはあるものの、28歳になるタイミングで大きな決断をした。


 藤はその後、2年で復帰し、音楽プロデューサーの宇多田照實氏と再婚。その翌年に出産した。


 これから先の宇多田が同じような道をたどるかは分からないが、大きな違いがあるのも事実。


 宇多田は金と人に恵まれている。


これからの道のりに最も大切な要素でもあり、特にスタッフとの信頼関係は、


当時、母が置かれた状況とは大きく異なる。


母娘の初めての分かれ道になるかもしれない。


(引用ここまで)


「この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、


一個人としての本当の自分と向き合う期間」を設けるということで、


休業期間に入る宇多田ヒカルさんにおっせかいながら送りたい


メッセージは、「本当の自分」という概念に対する僕なりの解釈である。


実は、このブログの記念すべき第一稿が「本当の自分」に関する言及だった。


(2005-01-26 自分という現象の連続〜本当の自分というという幻想〜
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20050126 より引用開始)


村上龍は、本(すべての男は消耗品である)の中で次のようにまとめている。


(引用開始)


すなわち、人間には「自己」という確固としたものなどなく、
自分という現象の蓄積でしかあり得ないということ。
そして、自分という現象の蓄積というのは、
つまり、自分の中に自分でも制御不可能な何人もの自分が、いるということ。


乳児の頃の、幼児の頃の、六歳の、十歳の、十七歳の、自分がいて、
それらがせめぎ合いながら(言ってみればそれぞれ他人として)現在の自分を形造っているわけである。


(引用ここまで)


とまあ、本文中では、これが恋愛関係と信密度のテーマのくだりでまとめられている。


これを読んでなるほどなあ、と自分の中でかなりしっくりきたと同時に、


勝手に発展的な解釈をしたのを覚えている。


それは「本当の自分」などというのは幻想にすぎないのではないかという仮説である。


つまり、「本当の自分」など存在せず、


「その場その場、そのときそのときの、行動、発言そのものの雑多な集合体が自分である」という発見である。


これはありがたい発想であり、時には冷酷な事実だと思う。


(中略)


人って(少なくとも自分に関しては)自分ひとりでいるときと、


学校、あるいは会社の中にいるときと、さらには恋人といるとき、


友達といるときとでは、程度の差こそあれ、


ある程度、その場面場面で、違う自分の一面を出している、


あるいは結果として違う自分を演じているのではないか?ということが、


むしろ自然なことだと感じられるようになったのである。



自分がいろいろな面を持っていることは、


「どれがホントウなのか」ではなく、「どれもホントウ」なのである。


(中略)


これは現在の日本の世相に照らし合わせても、特に若者層にとって有用な発想だと思う。


浜崎あゆみの流行以来、若者の間で、「自分探し」なるものが流行っている。


(ちなみに浜崎あゆみのせいではない。あくまで彼女に勝手に感化された人たちがいるということに過ぎない。念のため。)



その結果、「ホントウの自分」をさがそうとするあまり、


自分というものがよく分からなくなってしまい


社会と折り合いをつけられなくなっている若者が増加しているのではないか?という思いがあるのだが


(例えば、フリーターやニートの増加、ひきこもり、パラサイトシングルという現象など)、


この状況を打破するのにこの発想が使えるのではないかと思うのである。



自分というのは探すものではなく、せいぜい普段どんな行動を取っているか、


どんな話をしているかをせいぜい発見して、それを蓄積していくものに過ぎないのである。


今の自分や状況がイヤで、仮に新しい「ホントウの自分」を探したいのであれば、


過去の自分の歴史を紐解いて迷路にまよい込むのではなく、


これからいわゆる「ホントウの自分」であればとるであろう行動や発言を蓄積していくほかに方法に、


「ホントウの自分」とやらを発見する方法は無いのではないだろうか?


(引用ここまで)


う〜ん。やはり宇多田ヒカルという人はこれぐらいのことは、


言われなくてもわかっていそうだな。余計なお世話にもほどがある(笑)


とにかく、頑張れ!宇多田ヒカル!!


また音楽活動を再開してくれることを願い


一ファンとして世界の片隅から応援し続けたいと思います!