“「便利」さが「貧乏」を生んでいる”という仮説


21世紀が始まって早15年。


やれ「ミレニアム」だ、「2000年問題」だ、と騒いでいた時代が懐かしい。


光陰矢の如し。


あとちょっとしたら「昭和」生まれが、


ちょっと前までの「明治」「大正」生まれみたいに、


「前の時代の人」「前の時代を知っている人」と言われる日があっという間にやってくるだろう。


だからこそ言おう、ここ15年間、21世紀に入ってから


ずっと感じ続けてきた「違和感」を。


ずばり『世の中ちょっと「便利」になり過ぎてやいませんか?


それによって「失われたもの」「失われつつあるもの」「これから失うもの」について


ちょっと立ち止まって「考えて」みませんか?』


その結論こそが、今回の“「便利」さが「貧乏」を生んでいる”という仮説である。


「便利さ」は「価値」の「暴落」を引き起こし、


「価値の暴落」はめぐりめぐって


多くの人々の「給料」の「低下」を導く。


その「負のスパイラル」を延々と繰り返してきたのが、


ここ15年だったと言わざるを得ない。


「価値」とは何か?乱暴に言えば、


「価値」とは「手に入れるために費やした労力」と等価である。


・月980円払えばいくらでも聴ける「ぼわーっと膨大な曲の集合体の音楽」と


 1000円では1枚しか買えない。どうしよう。どのCDを買えばいいのか?


 あれも欲しい、これも欲しい。えいっ決めた。このCDだ。という選び抜かれた「一曲」。


 どっちが「価値」がありますか?


 どっちが「ミュージシャン」や「レコード会社」の「給料」を支える仕組みですか?


・クリックひとつで手に入る「電子書籍


 「本」と同じ「価値」が本当にあるのか?


・クリックひとつでなんでも手に入るamazonでの「買い物」に本当に


 以前と同じだけの「買い物」の喜び=「価値」があるのか?


(脱線するけど、暇な人は読んでみて下さい!単純に読み物として面白いから!
 『ヨドバシ「ここは俺に任せて先に行け!」Amazon「ククク…」 』
 http://hamusoku.com/archives/9099147.html 何を「感じる」かはあなた次第です!)


いや、別に、いいんですよ。そりゃ便利な方がいいに決まってるって、


思いますもの、一生活者として。しかも便利なだけじゃなくて、


どんどん「何もかもが、誰でも、安く、お手軽に、手に入るようになっていって


何が悪いの!?いいことばっかりじゃん!」っていう声が聞こえてきそうだな〜。


いや、私も基本的にはそう思ってます。でもね、


でもね、あたしゃちょっと気づいちまったんですよ、


誰も反対できない「あまりにも良い」方向性には必ず裏がある。


で結論としては、これってみんな気づいてないけど、実は単なる


「20世紀の悪夢」=「社会主義共産主義がたどった道」の「アナロジー(類似現象)」に


過ぎないんじゃいの?って気がしてならないんですよ。


20世紀の「社会主義」「共産主義」が目指したものは「みんなが平等な世界」。


この「きれいごと」を面と向かって否定するのはわりと難しい。


でもって、その「社会主義」「共産主義」がもたらした最終的な結果は、


皮肉なことに「みんなが平等に『貧乏な』世界」だったわけです。


でもって今、誰もがいいことだと思って受け入れている、


21世紀に入ってからの『便利さが加速していく世界』が導こうとしている世界は、


『みんなが平等にタダで何にでもアクセスできる世界』とほぼ同義で、それがもたらす結果は、


「20世紀の悪夢」同様、またしても「みんなが平等に『貧乏な』世界」なんじゃないの?


それこそが「20世紀の悪夢」の再来、つまり「21世紀の悪夢」そのものなんじゃないか?


という気がしてならない。


どうやら私は苛立っているようだ。なぜ俺が苛立っているのか?


突き詰めて考えると、その結果もたらされる21世紀型の「みんなが平等に『貧乏な』世界」は、


本当に「みんなが平等に『貧乏な』世界」なんてわけではなく、その「みんな」の中に入らず、


その外から、高笑いをして見物しているやつらがいるって直観で、肌で感じているからだ。


それは、きっと、この本と同じ結論に達するはずである。


21世紀の資本

21世紀の資本


なぜなら「ホントウ」に大切な情報は、芯をくっているかぎり「シンクロ」するからだ。


かといって『便利さ』を拒絶して生きていくのも、


もはや大変だものね。


「貧乏」でも私は「幸せ」だという人が増えれば、


それはそれでいいのかもしれない。


でも、あなた、本当に誰からも騙されていないって断言できますか?


現に2005年あたりから「年収300万円の豊かな生活」とか


言い始めてたもんな〜。なんか臭うんだよな〜、やっぱり。


新版 年収300万円時代を生き抜く経済学 (知恵の森文庫)

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対処法はあるのか?マクロ(政府)に期待しても無駄だ。


マクロ(政府)に対しては、「無駄な税金を取るのをやめろ!」という以外、


議論の余地はない。「余計なことをするな!党」を私が旗揚げしない限りは、


マクロ(政府)に期待しても無駄である。


これこそが私が「マクロの罠」と呼んでいる、現代の政治的課題である。


世の中のすべての解決策は「ミクロ(個々人)」レベルでしかありえない。


貧困問題だろうが、格差問題だろうが、社会問題は本当はミクロでしか解決不能なのだ。


なまじ「勉強が出来る」とか「頭がいい」連中が、この「マクロの罠」に


ひっかかり、その才能を無駄にする。本当はこの流れ=悪循環をこそ、


なんとかしなければならないのだが、今日はこれぐらいにしておく。


じゃあ、ミクロで個々人が今からでも出来ることは何か?


結局「価値」あるものにはちゃんと「対価」を払う、という意識が


自分だけじゃなく、この世界の「持続性」のカギを握っていると思うのだ。


あなたが好きなもの(食べ物でもお店でもアーティストでも映画でもゲームでもなんでも)を、


ずっとキープしたい、世の中からなくなってほしくないと思うのなら、そういうものが一つでもあるのなら、


「フリーライド(ただ乗り)」するんじゃなくて、「対価(お金)」をちゃんと払うことが大事。


もしあなたが「フリーライド(ただ乗り)」するなら、その時は、たまたま


他の誰かが「あなたの好きなもの」を支えてくれているだけ、なのだから。


その点で、「ジャニオタ」や「AKBファン」は、もはや一周して「偉い」のだ!


あいつらだけが「対価」を払って「アーティスト」を支えている。


だが、それでも私は、あんなやつらがのさばる今のミュージックシーンはクソだと思う。


「ジャニオタ」や「AKBファン」に負けないぐらい


すばらしいと思える「アーティスト」にはちゃんと「お金」を「払って」応援しよう。


時には「便利さ」や「タダ」を「拒絶」することによって見えてくる「新たな世界」も


あるかもしれませんよ。


うまく、まとまらないが、本日はここまで。