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襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『美濃牛』(4)

殊能将之『美濃牛』の展開について触れていますので、未読の方はご注意ください】
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夜の力、昼の力
横溝作品が“暗い”いっぽう、『美濃牛』は“明るい”といわれる。しかし注意して読むならば、金田一ものでも殺人事件の渦中とは思えないほどのんびりした雰囲気を持つ箇所が多々見られるし、『美濃牛』のプロローグとエピローグは、その後の石動シリーズを考えるとビックリするほど“暗い”。
近代化が進むと、世の中はどんどん(物理的に)明るくなる。そしてモダニズムの形式である探偵小説は合理的精神によって、暗い闇を払う役割を持っている。石動シリーズに大きな影響を与えただろう、金田一耕助シリーズ(横溝正史)と物部太郎シリーズ(都筑道夫)の第一作『本陣殺人事件』と『七十五羽の烏』はそれぞれ、滅びゆく旧家を舞台にしているけれど、金田一耕助→物部太郎→石動戯作と新しくなるほど、作風は(当り前だが)現代的に、明るくなってゆく。伝統と革新の確執が事件の強い引き金となっていた『本陣』や『七十五羽』に比べると、『美濃牛』ではもはや、“伝統”の実体がもうほぼ、キッチュなものになってしまっている。とはいえこれらの作品では、もちろん、文明バンザイ一辺倒というわけではなくて、その衰退の際に、何か共感とか憐れみとといった視線が向けられているように思われるのだけれども。
それどころか、いまや、探偵小説そのものが危機に瀕しているのだ。“名探偵”という存在自体がなりたちづらくなっている。ミステリの探偵とは、社会からはみだした“余白”の存在でありつつ、最終的には共同体の倫理を守る側にいる。しかし文明化が進んで、“余白”が少なくなればなるほど(たとえば嵐の山荘や密室といった状況がリアリティを失えば失うほど)、自分の居場所も狭くなってくる、アンビバレンツな存在だ。『美濃牛 MINOTAUR』というタイトルが、伝説のミノタウロスと、飛騨牛(ホンモノ)に対する美濃牛(ニセモノ)を意味するのだとすれば(しかし飛騨牛の歴史だって若い)、この小説は、犯人も探偵も、ニセモノの役回りを演じているということになりそうだ。
ポーの時代には最先端だったはずの探偵小説ですら、古臭いものになってしまう。古臭いからこそいいんだ、という積極的な人さえいる(「なかには、監禁されたがってるやつもいるだろう」プロローグ)。いや、もしかすると、“ホンモノ”とか“ニセモノ”とかいう枠組みでとらえることも、無意味かもしれない。本当は、“ニセモノ”が“ホンモノ”に劣っているかどうかだって、わからない。むしろ、優っていなくても、かまわないのでないか。発展するものと、衰退するものとのあいだで起こる、一瞬のせめぎあい。もしそれを捉えるのが“探偵小説”なのだとすれば、大切なのは、無理に優劣の枠に押し込めないことだろう。
このどっちつかずの、宙吊り状態。
ハサミの蝶番。
現代のテーセウス
『美濃牛』の主人公は天瀬啓介だ。「美濃牛」らしき声もそう認めている(「われらが主人公とその相棒が、誰かを探しながら歩いているのが見える」第二章14節)。それでもなんだかあまり主人公らしくないのは、殺人事件の謎解きに深く関わってこないからだろうか。いわば巻き込まれ役。
しかし暮枝村での経験は、一人の青年を変えてしまった。それは人生に関わる出来事だった。
大きくいって二つ――美濃牛との対決と、窓音との出会いとがあるが、そもそもの天瀬は、どのような人間だったのだろうか。背景となる情報は少ない。雑誌のフリーライターで、都会派。とはいえ、コミューン主宰者・保龍のように田舎暮らしへの熱烈なあこがれはないものの、「地に足のつかない業界人」にシニカルな眼も持つことも。生活に特に不満があるわけではないが、不景気となって、フリーでいることに忍び寄る不安は感じている(「ライターもカメラマンも、代わりはいくらでもいる」第一章1節)。
実際の自分と、あるべき自分とがズレている。作中の多くの人物がそう感じている。だから、事件が終わって石動が保龍に向かっていう次の台詞は象徴的だ。「純朴な村人と自然豊かな村ですか。保龍さん、そんな理想郷はあなたの頭の中にしかないんですよ。日本の、いや世界のどこへ行ったって、住んでるのは同じ生身の人間だ。欲望し、憎悪し、時には罪を犯す人間たちです」(第四章15節)。『ハサミ男』の回で紹介した「切り返しショット」の文脈でいえば、「向かい合っている二人の人間の視線は撮れない」というテーゼにも繋がってくるように思う。
しかし、それは単に「現実を受け入れよ」ということではない。『ハサミ男』の樽宮由紀子や「わたし」のように、ズレは自然と生じてくるということがあるし、そうしたズレを無理矢理に抑えこもうとすれば、暴発してしまう。
暮枝に来る前の天瀬には、現実と理想とのズレなどなかった。それなりに満足しながら生活していた。そんな青年が、しまいには、東京と暮枝とを二極とする磁場に投げ込まれ、白髪の面相となってしまうのである。それもこれも、窓音に魅入られてしまったためだ。
いったい、天瀬は窓音のどこに惹かれたのだろう? きっかけはこんなふう。石動と町田とともに、羅堂の家を訪れて。

黒い一枚板の扉が開き、サンダルをつっかけた十代の少女が顔をのぞかせた。
少女はすらりとした細身の体つきで、白い無地のTシャツとデニムのジーンズを着ていた。赤みがかった髪を短く切りそろえ、大きな瞳の整った顔だちに、いかにも意志の強そうな濃い眉が、くっきりと弧を描いている。服装のせいもあったが、美少女というより、美少年という形容のほうがふさわしい要望だった。(第一章4節)

これがファースト・コンタクトだが、ここではそれほど接触はない。その後、回を重ねるごとに、天瀬は自分の気持ちがわからなくなってゆく。
そして、あの鍾乳洞のシーンだ。『八つ墓村』の主人公が、鍾乳洞をえんえん逃げ回ったあげくお宝を発見するのに比べ、天瀬のらしくなさはここでも徹底している。なにしろ、「美濃牛」との対決は、10ページくらいしかない。1000枚近い大長編の重要な場面としては迫力に欠けるし、どうして「美濃牛」が急にフェードアウトしてしまうのかもわかりにくい。
ともあれ、天瀬は窓音と美濃牛とに捉えられた。それまでの日々がまるでゼロであるかのようにまったく転換した。いったい、天瀬と窓音のあいだにあるものは本当に恋愛なのか。天瀬が窓音を見る。ふかい闇が広がっている。天瀬が窓音に見られる。なんだか自分が人形のように感じられる。「代わりはいくらでも居る」ライターから、「代わりのいない」窓音の伴侶へと変貌したはずなのだが……。(続く)