ジャンヌ・ダルクと任侠ー新渡戸稲造再考−

愛知学院大学人間文化研究所所報』36号より転載(2010年9月刊行)


<題名>「ジャンヌ・ダルクと任侠ー新渡戸稲造再考ー」

1.新渡戸稲造ジャンヌ・ダルク
 「武士道」(1900年)で知られる新渡戸稲造(1862-1933)が生涯ジャンヌ・ダルクを崇拝していたことは案外知られていないと思われる。


 祖父のジャンヌ・ダルクに対する崇敬の思いは、明治十一年、札幌にいた十六歳頃に始まり、当時のノートによれば、彼はキリスト、ジャンヌ・ダルク仏陀、モハメッドを精神の糧にしていた。ジャンヌの神と国王への献身は、祖父の心奥にあった武士の忠誠心と呼応して相通じるものがあったに違いない、と後年祖母はしみじみと語っている。しかも祖父自身若いときから、神秘的な体験をしていたそうである(加藤1997)。


 要するに、新渡戸は実は西欧の騎士道的な「女性の男性性」に自己同一化していたのである。新渡戸自身、自分が「神経質で感情的で、自ら女性の性質を帯びて居ると思ふております。」と自己分析している(新渡戸1969;p.19)。新渡戸が<発明>した「武士道」に依拠している2003年のハリウッド映画「ラスト・サムライ」に端を発する現代日本のサムライ・ブームの正体は、ジャンヌ・ダルクのブームなのである。
 新渡戸は、同時代の第一期フェミニズム(「新しい女たち」)に対して批判的だったというのが通説だが、そんな単純な話だったのか、疑問である。「ジャンヌ・ダルクになるだけの覚悟はない中途半端な女性たち(新渡戸は『新しい女』たちを『半開の女性』たちと評している)よりは、当時の状況では良妻賢母になる方がよいではないか」と考えていたのではないだろうか。藤原正彦の大ベストセラー「国家の品格」(2005)は、新渡戸のキリスト教信仰およびこういうナヨっとした女性的な側面をきれいに切り捨ててしまっていると思われる。藤原は、フェミニズムをまともに敵に回すほどバカではないが、「女性天皇女系天皇には断固として反対する」という立場を表明している。藤原さんは、いわば「半開の男性」にして「エリート主義者の男性」である。


 要するに、かゝる女の新しい思潮(熊田註;女性解放運動)は、何うしても避けられないことであるから、成るべく其説を聞き、取るべきは採り、過激なるところは和らげなければなりません。それには宗教の力が最も適当であるが、日本の宗教には、若い婦人を支配するほどの、偉大なる力のなきことを私は悲しむのであります(新渡戸、同上、p.192)。


 これは、新渡戸が1917年(大正6年)に書いた文章である。90年たって、日本の女性たちは「半開の女性」から「全開の女性」へと変貌を遂げつつある。しかし、日本における宗教とフェミニズムの関係は、90年たっても何も変わっていないようである。

2.新渡戸稲造と任侠
 新渡戸稲造が幡随院長兵衛について書いた、「男一匹」と題された文章を紹介する。1916年(大正6年)に実業之日本社から出版された新渡戸稲造の修養書・「自警」は、昭和4年には15版を数えた当時のベストセラーである。この文章で幡随院長兵衛について何の説明もしていないことから、当時の読書人にとっては、「幡随院長兵衛」は講談や講談本を通して説明の必要がない一般常識として共有されていたことがわかる。


男伊達の行為よりその精神を酌め
 我輩は常に男伊達の制度を景慕するものである。就中(なかんずく)幡随院長兵衛の如き、之を談話に聞いても、書籍に読んでも、実に我意を得た者として尊崇せざるを得ぬ。任侠の標榜する所には、些細なる点に於いて誠に児戯に似たることも少なくない。例えば手拭はどう持つものかとか、尺八はどう挿すかとか、帯は如何に結ぶかとか、語尾は如何に発音するかといふが如き、愚なことではあるが、其子分として用いた者が多くは無学の熊公八公の類であったから、斯くの如き紋切型(コンベンション)を設け、之に由りて統御の便を計ったのも、或は止むを得なかったことであろう。此等の些細の事柄は笑ふべきではあったが、又大体に於いて彼等の為す所、物騒の傾向なきにあらざりしも、その動機に於ては如何にも男性的で、子分の顔を立てる為には自分に不利益なるけんかも買うたことであろう。自分の命を投げ出したこともあり、強を挫き弱を扶(たす)くるを主義とし、義と見れば如何なることにも躊躇しなかった。この任侠の勇猛な性質は、勘定高き現今の社会に於いて大に珍重すべきものと思ふ。さりとて我輩は、法律もロク⌒備はらなかった社会に発達した風俗を、法治国たる憲法政治の下にそのまゝに実行することは断じて非なりと信ずる故に、仮令当年の男伊達の意気を思慕するとは云へ、今日の男一匹は長兵衛その儘を写して可なりとも思わぬ。争議起れば、今日は之を治むる為に相応の法定機関がある。之によりて是非曲直を判断すべく、妄りに腕力を用ふることを許さぬ。故に我輩は外部に表れた男伊達の行為よりも、寧ろこの行為を生み出した任侠の心持が欲しいのである。即ち「男は気で食へ」「男前よりは気前」などと云ふ所の男性的気象が欲しいのである(新渡戸1970;pp.423-424)。


3.ジャンヌ・ダルクと任侠−新渡戸稲造再考ー
 近代日本の思想史を研究している武田清子は、新渡戸稲造キリスト教受容の方法を、「接木型」と分類している(武田1995)。


 日本の伝統的な価値の中から、台木になる要素のあるものを掘り起こしてくる。そこへキリスト教、いいかえれば普遍的な価値を接ぐという考え方です(同上、p.79)。


 武田の議論を拡張して、新渡戸稲造は、日本の任侠の伝統(「エートスとしての<侠>」)(熊田2009)を、ジャンヌ・ダルクという具体的な女性像を媒介として、キリスト教(クェーカー派)と「接木」しようとしていたと見ることも可能であろう。


<参考文献>
加藤武子「新渡戸稲造ジャンヌ・ダルク」YANASE LIFE編集室(編)『とっておきのものとっておきの話』第3巻、芸神出版社、1997
     年
熊田一雄「明治日本の宗教者とエートスとしての<侠>」『愛知学院大学文学部紀要』38号、2009年
武田清子「戦後デモクラシーの源流」岩波書店、1995年
新渡戸稲造「婦人に勧めて」『新渡戸稲造全集』第11巻、教文館、1969年(初出1917年)
新渡戸稲造「自警」『新渡戸稲造全集』第7巻、教文社、1970年(初出1916年)
藤原正彦国家の品格新潮文庫、2005年