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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-01-31

連休最終日

 今日は連休最終日で、まったりと憩いました。

おっぱい水割り

 「おっぱい水割り」とは、私が子供の頃読んだギャグ漫画(作品名は忘れました)において、酒場で男性たちが「ママ」に注文していた飲み物の名前です。日本の古い世代に属する男性たちが、女性たちを「聖母か娼婦か」に分断し、酒場の「ママ」に前者を求めていることをうまく表現していると思います。

2011-01-30

サッカー

 真夜中に、サッカーアジアカップの決勝戦・日本vs.オーストラリアを見ました。日本優勝、おめでとう。

2011-01-29

連休

 1月の残りの日々は、「ま、いいか」の精神に基づき、連休にすることにしました。

児童虐待と性行動・自傷

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1485145&media_id=4 より転載

虐待体験「あり」5%=性行動や自傷に影響も―厚労省研究班


 児童虐待を受けた経験を持つ人が5%に上ることが、厚生労働省研究班の「男女の生活と意識に関する調査」で分かった。虐待経験のある人は、初の性交渉を否定的に捉える傾向が強いなど、成長後への影響もうかがえた。

 調査は昨年9月、無作為に抽出した全国の16〜49歳の男女3000人を対象に実施、1540人から回答を得た。

 18歳くらいまでに両親などから虐待を受けたことがあるかとの設問に、5%が「ある」と回答。男性は2.2%、女性は7.1%だった。男性は身体的な虐待、女性は心理的な虐待が最も多かった。

 手首を切るなどの自傷行為は、虐待体験のない人の場合「何回も」「1度だけ」を合わせ5.7%、「思ったことはある」15.9%で、したことも思ったこともない人が大半。しかし、虐待体験のある人では「何回も」20.8%、「1度だけ」も11.7%に上り、「したことも思ったこともない」は37.7%にとどまった。

 初めて性交渉を経験した時の気持ちは、虐待体験のない人は「うれしかった」が半数近く、「期待はずれで落胆」「むなしかった、後悔した」は10.6%。これに対し、虐待体験のある人は「うれしかった」が約3分の1にとどまり、落胆などの否定的な回答が27.9%に上った。

若い男性の草食化

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201101/2011011200852&rel=m&g=soc より転載

セックス無関心が倍増=若い男性、草食化進む?−厚労省研究班


 セックスをすることに関心がない、または嫌いという若い男性が2年間で倍増していることが12日、厚生労働省研究班の調査で分かった。性交渉のない既婚者も増加傾向で約4割に達し、研究班の北村邦夫家族計画研究センター所長は「少子化の背景としてセックスレスの問題は重要」と話している。

 この調査は性に関する意識や行動をテーマに、2年ごとに実施。昨年9月、無作為に抽出した16〜49歳の男女3000人を対象に調査票を配布、1540人から回答を得た。

 性交渉をすることに「とても」または「ある程度」関心がある人は、男性81.4%、女性49.0%で、ともに2008年の前回調査より低下した。

 「関心がない」もしくは「嫌悪している」と回答したのは、男性17.7%、女性48.4%。特に16〜19歳男性では36.1%(前回17.5%)、20〜24歳男性では21.5%(同11.8%)と2年でほぼ倍増していた。

 結婚している人のうち、1カ月間性交渉をしなかったという人は40.8%。04年調査から31.9%、34.6%、36.5%と増加している。主な理由は、男性は「仕事で疲れている」「出産後何となく」、女性は「面倒くさい」「出産後何となく」の順だった。(2011/01/12-19:10)


*マクロに見れば、「<性>に取り憑かれた近代」が終わりつつあるということではないでしょうか。

2011-01-28

定休日

 今日は定休日。せんたくをし、Eric Dolphyのアルバム“Out There”を聴きました。

2011-01-27

口頭試問試験

 今日は卒論の口頭試問試験で、朝からネクタイを締めて出校しました。夜は卒業パーティーでした。

2011-01-26

お休み

 今日はお休みにしました。明日は卒論の口頭試問試験と卒業パーティーがあります。

2011-01-25

採点

 今日は給料日。午前中は定期試験の答案と卒論の副査分を採点し、午後は休みました。最近はまっているEric Dolphyのアルバム“Last Date”を聴きました。夜はサッカーの日韓戦を視ました。

RRLのバンダナストール

 ヤフオクで、RRLのバンダナストール(紺・ドット)をゲット。30000円(送料込み)なり。学生たちの言う「ちょい悪おやじ」風のスタイルに磨きをかけます。次の出品では、33000円に値上がりしていました。

http://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k132448724

http://ameblo.jp/illminate/day-20100622.html

http://ps03.aucfan.com/aucview/yahoo/k132626574/

2011-01-24

定期試験監督

 今日は、朝から自分の定期試験の監督をしました。

完全である「べき」主義

 完全欲ー物事をきちんと完全にしたいという欲求は、多かれ少なかれとらわれやすい人には共通して見られるものです。しかし考えてみると、この完全主義的傾向は社会生活をしていくうえで必要なものです。みながまったくずぼらでしたら、社会、家庭が成り立っていきません。ただそれに「かくあるべし」としばられるかどうかが問題なのです。

(中略)

 このようにとらわれる人の背後には、必ずといってよいほどこの完全主義的「べき」主義があります(北西健二『実践 森田療法ー悩みを生かす生き方ー』講談社、1998年;pp.98-99)。

2011-01-23

時事報道番組

 日曜日は、時事報道番組を視ます。明日は朝から定期試験の監督です。

2011-01-22

連休

 「ま、いいか」の精神で、今日は連休にしました。疲れていたようで、終日寝たり起きたりでした。

2011-01-21

定休日

 今日は定休日です。音楽を聴いて憩いました。

60点主義ー「ま、いいか」と思うことー

「六〇点主義」で満足して生活する

 完璧を求めても、自分も周囲も苦しいだけです。その「こだわり」は実は「とらわれ」なのです。「一〇〇点でなければ〇点と同じ」と考えず、六〇点でもよしとしましょう。


この世に完璧なものはない

 冷静に考えるとばかげたような観念や考え方にとらわれ、抜け出せなくなる人がいます。最も多いのが不潔をおそれて手を洗うタイプで、日常生活が送れなくなるほど手を洗い続けます。

 すべてに完璧を求めても無理な話です。あいまいさを許し、自分のこだわりは先送りにしていきましょう。そのため、目をつぶること、具体的には欲求しすぎないようがまんすることです。

 また、こだわっていたもののためにあきらめていたことに目を向けてみましょう。たとえば自分が楽しめる趣味などを始めます。すると、こだわっていることが後回しにできるようになり、徐々にとらわれから脱却できます(北西憲二(監修)『森田療法のすべてがわかる本』講談社、2007年;pp.90-91)。


*「ま、いいか」と思える余裕をもちたいものです。「欲求しすぎないようがまんする」ように心がけます。自分の楽しめること、大切なものはなにか、考えたいものです。

2011-01-20

定期試験監督

 今日は、午前中は休みで、午後は定期試験の監督をしました。夕方クリニックに寄って、高脂血症の薬をもらいました。

2011-01-19

会議日

 今日は、昼過ぎに学科会議があるだけでした。午前中に来年度の講義シラバスをパソコン入力し、音楽を聴いて憩いました。北西憲二『実践 森田療法ー悩みを生かす生き方ー』(講談社、1998年)を読了しました。

現代人の悩みと森田療法

 つまり、現代社会では、森田の時代のようなはっきりとした表現をもつ神経症(典型的な森田神経質)が減って、境界のはっきりしない不安、恐怖、抑うつを訴える神経症(現代的な森田神経質)が増えてきました。そして自分はなに者で、どのように生きていったらよいのか、という自分自身を形成していく途中での挫折という形をしばしばとります。やはり自分のあり方、生き方をめぐる深刻な悩みが中心になってきます。

 それとともに現代の悩める人たちはしばしば自己愛的であります。頭でっかちで自己中心的、他人に対して共感できにくい人たちがふえてきたようです。そのような自己愛的な人は自分の感情、身体、周囲の人間関係を自分の思うようにコントロールしようと試みます。そのような人たちは、家族をふくめた他者と対人関係を維持し、それを深めていくことが苦手なようです。しかし自分のなかにある自然、あるいは現実をコントロールしようという試みは容易に行きづまります。また助けを求めたとしても、治療者の対応に傷つきやすく、怒りや落ち込みで反応してしまいます。このような現代の森田神経症のは、しばしば伝統的な森田療法では対応が困難となります。

 ではこのような人々に対して、森田療法は対応が可能でしょうか。私は可能だと考えます(北西憲二『実践 森田療法ー悩みを生かす生き方ー』講談社、1998年;11-12)。


*「頭でっかちで自己中心的な」自己愛的人間という表現は、自分にも思い当たる点があります。

2011-01-18

定休日

 火曜日は定休日です。『サンデー毎日』を読んで、ジャズを聴いて憩いました。

完全欲と60点主義

 神経質症にかかる人は、一般に要求することが多い。これも完全欲の強いのと同じ意義のことである。自分の能力をはるかに超えることを望むものは、つねに欲求不満に悩まされるのは当然である。おもしろいことには欲求水準テストを行うと、神経質症の人は一般に実際の能力に比べて欲求水準の高いことがわかる。しかし治療してなおると、それが普通の水準に戻ることが示される。このことは、神経質症がなおると彼らが観念的でなくなり、より現実的実際的になることを証明するものと考えられる(高良武久『森田療法のすすめーノイローゼ克服法ー』白楊社、2000年(初版1976年)、p.118)。


*「60点主義」で生きること、「足るを知る」ことが大切なようです。「よくにきりないどろみずや/こころすみきれごくらくや」(中山みき『おふでさき』より)

小谷野敦さん、芥川賞を逃す

 今日新聞で、小谷野敦さんの小説が芥川賞候補になっていたことを知りました。受賞を逃されてご愁傷様です。

2011-01-17

最終授業日

 今日は今年度の最終授業日で、3コマ教えました。学生のレポートも採点しました。夜は、高良武久『森田療法のすすめーノイローゼ克服法ー(新版)』(白楊社、2000年(初版1976年))を読了しました。

2011-01-16

時事報道番組

 今日は、今年初の積雪を見ました。日曜日は時事報道番組を視ます。午後は、日本の右派のホンネを知るために、『たかじんのそこまで言って委員会』を視ます。夕方は、レンタルDVDで『バイオハザード検璽▲侫拭璽薀ぅ奸戮鮖襪泙靴拭ゾンビの造形は、日本のマンガ『寄生獣』のパクリに見えました。

2011-01-15

お休み

 今日はお休みにしました。のんびりと憩いました。TVで少年院OBが作った自助グループ『セカンド・チャンス』の特集番組を視て、感心しました。

222,222アクセス

 今日、222,222アクセスを達成しました。

2011-01-14

定休日

 今日は定休日です。音楽を聴いてまったりと憩いました。一日中寝たり起きたりでした。

2011-01-13

授業日

 今日は授業日で、1限から3コマ教えました。学生のレポートを採点しました。帰りはクリニックに寄って、持病の薬を受け取りました。大学の個人研究費で、ノート型パソコンの二台目を購入しました。

2011-01-12

美容院

 今日は、ランチ会議だけ。午後は美容院へ行って髪を切りました。

2011-01-11

定休日

 火曜日は定休日です。卒論を採点し、『サンデー毎日』を読んで憩いました。夜はNHKクローズアップ現代『ウーマノミクス』を視ました。

2011-01-10

不安障害と日本の新宗教ー天理教の事例ー

 以下に引用するのは、ある天理教信者が書いた信仰体験談である。この資料は、天理教教団のご厚意で入手した。著者は、執筆の時点(2010年)で五十才になる主婦で、信仰は初代である。ご主人と二人の子供がおり、娘さんは結婚して二人目がお腹にいる。毎日朝教会に来て、夕つとめ(天理教儀礼)をして帰る信仰生活を送っているそうである。


 これから私の体験したところをお話しします。自分がドッヂボールをしていて、その時にボールが当たったときに仰向けに倒れました。それが原因で自律神経失調症の中の不安神経症(熊田註;現代の精神医学では「不安障害」の一種である「パニック障害」)という病気になりました。二十四時間全身がしびれ、心臓も体から出てしまうぐらいドキドキして、頭痛もひどく、一時はどうにかなってしまうのではと思い、もうこんなに苦しいのなら、命も絶ってしまおうかと、思いましたが、子供のことを思うとそれも出来ず、毎日生きているのが、こんなに苦しいのかと思いました。

 そんな時、天理教のパンフレットが郵便受けに入っていました。そのパンフレットに『人をたすけて我が身たすかる』という言葉が書いてありました。天理教なら助けてくれると思いました。すぐに教会に電話して助けを求めました。そこから私の天理教が始まりました。

 私の家に教会の人が毎日二ヶ月来てくれました。その時教会の人は私の病気の事をよく聞いてくれました。その当時は今とは違って、心の病気はなかなか理解してくれませんでした。怪我と違って見た目にもわからなくて、でも話しを教会の人はよく理解してくれました。その後、教会の奥さんのお産があり、教会にこちらから行くようになりました。

 教会では、できることをいろいろさせて頂きました。今まで家からでられなかった私が、教会でいろいろな人と出会い、世界が広がった気がしました。それから毎日教会に通っていましたが、二・三年したら、姪っ子が旦那さんと姑さんとうまくいかなくなり、私に相談してきました。教会に一回行っただけで、姪っ子は夏のこどもおぢばがえりに行きました。そして、その年の秋に天理修養科修養科という所は神様の話をしたり、心の勉強したり三ヶ月研修する所です)へ行きました。

 そして、修養科を出て、教会に三ヶ月住み込みし、今度は一才の娘とふたりでアパートぐらしを始めました、それから私は教会の人たちと姪っ子のお世話をしていたのです。一才の娘の面倒を見たり、アパートの手伝いをしたりしました。それから何もわからず一軒一軒パンフレットをみんなと配ったりしました。

 すると、いつの間にか自分の病気がよくなっていくことに気がつきました。まさに『人をたすけて我が身たすかる』です。そして、今では姪っ子は旦那さんと二人の子供、お腹には三人目の子供がいます。今では、私は教会に行って、掃除をしたり、教会の子供の世話をしたり、スポーツもできるようになりました。毎日がとても楽しいです。

 もしあの時天理教のパンフレットがポストに入っていなかったら、天理教と出会わなかったら、私はどうなっていたかわかりません。病気は辛いけど、今は病気になって、人の病気の痛みも理解することができるし、いろいろな人との出会いもあり、病気になって少しは良かったなと思えるようになりました。そして、天理教の信者さん同志なら誰にも相談できないこともできるし、天理教でよかったと思います。

 これからは、たすけてもらった分、困っている人をたすけたいと思います。会長さんからは人をたすけたり、パンフレットを配ることで、いんねんが切れると教わりました。いんねんとは「その家の代々受けついできたもの」です。私の家のいんねんでもある心の病気です。

 人は、どこでどんな人とめぐり会うかわかりません。パンフレットをポストに入れ、感謝・恩を忘れず歩んでいきたいと思います。これが天理教だと思います。

 みなさんも、困ったことや悩みごとがありましたら、ぜひ近くの天理教の教会に相談して下さい。


 この信者の場合、天理教の信仰生活が、精神医学でいう認知行動療法森田療法の代わりとなって、「不安神経症」(=現代の精神医学では「不安障害」の一種である「パニック障害」)が治癒したのであろう。

 この信者は、「不安と恐怖」と疼痛という「症状」に「精神交互作用」(注意するほど感覚が鋭敏になるという精神過程)によって「とらわれ」、それを「はからう」ことを試みては「気分本位」の生活から脱することができず、「不安障害」の一種である「パニック障害」の症状に苦しんでいたのであろう。それが、教会の人に親身に話を聴いて貰うことによって転機を迎える。精神科医中井久夫は、名著『治療文化論』(岩波書店、2001年)において、精神病発病時においてその人の予後を決定する最大の要因は、「なんでも話せる友人が一人いるかいないか」ということではないかと指摘している(p.129)。この人の場合、教会の人が「なんでも話せる友人」の役目を果たしたのであろう。

 規則正しい生活リズムの中で教会の御用をすることが「作業療法」の代わりになり、症状を悪化させる「安全行動」(恐れている状況に入るときには、いつも安全策をとるという行動)や「回避行動」(不安のために避けている行動)をやめることになったのであろう。そして、「人をたすけて我が身たすかる」という教えに基づいて、姪の子育てを「お世話」することによって、「気分本位」の生活を脱して「目的本位」の生活を送ることができるようになり、「不安や恐怖」を「あるがまま」に受け止められるようになり、不安神経症が「治癒」したのであろう。

 森田療法の専門医など近くにはいなかったのであろうこの信者が、病の中において直感で一縷の望みを託した天理教の教えが「人をたすけて我が身たすかる」であったことは、重要なことだと思う。「人をたすけて我が身たすかる」とは、天理教に限らず、日本の新宗教、その中でもいわゆる教団組織を作るタイプの新宗教で広く説かれている教えである。従来、森田療法と宗教の関係としては、宇佐晋一と木下勇作が『あるがままの世界―仏教森田療法―』(東方出版、1987年)や『続あるがままの世界―宗教と森田療法の接点―』(東方出版、1995年)で指摘しているように、仏教、特に禅宗の伝統との類似性が強調される傾向にあった。しかし、新宗教の「人をたすけて我が身たすかる」という教えとの類似性にも注目すべきだと思う。


 そこで自分というものを守りますと、とたんに動きがとれなくなってしまいます。始終、仕事をさがし、そのものにかかわっていらっしゃるということが、さっきのお話しにもありました。皆さんのお世話、ご町内、ご近所のこと、何でも引き受けられまして、責任をもって精いっぱいなさることが一番よろしいです。お世話がよろしいです。その点で、ここの役員さんが他の皆さん方のためにお骨折りくださるという意味も全治そのものといってよろしいですね(宇佐・木下1987、p.88)。


晋一先生(熊田註:宇佐晋一、森田療法を専門とする精神科医)は明快にこう語られる。

「本来祈りというのは他人のためにすべきなのです」

 晋一先生に提出する日記(熊田註;森田療法の日記療法)にはよく「一日も早く良くなるように祈っています」と自分のための祈りごとを書く人が多い。これでは治りっこないというのが、晋一先生の強調される点だ。世間的な人情としては全治することを祈願するのはごく当たり前のように思えるが、こと心に関してはこれは逆効果になるというわけだ(同上、p.176)。


 晋一先生がいつも言われているように他人のために尽くすのが人間として最も素晴らしい行為であるわけである。無論、自分への見返りの期待なしにである。もう少し、森田療法の観点から分かりやすく述べると、他人にいくら奉仕してもそれが自分可愛さのためから、出発している限り、全く無駄であろう、さらに言おう、それは自分の心の安心のためにする社会奉仕などは無為の実相とはいえないのである。はたまた、そうとなれば安心を得るばかりか、見返りを期待して却って不安をつのらすだけになる。これをさらにいうと安心を得るためにする、ありとあらゆる計らいが逆に不安をつのらすのと同じことになるではないか(宇佐・木下、1995;pp.179-180)。


 いわゆる「神経症」の治療法として発展してきた森田療法は、不安や恐怖への対処法を示すことで、心のストレスに対する問題を解決してきました。森田療法の根底には、不自然な生き方の変換を促そうとする考えがあります。「生き方」の処方箋としてさまざまな悩みを解決できる可能性があります(北西2007;pp.18-19)


 森田療法を施せる専門医の数は少なく、2009年時点で、全国でもわずか42ヶ所の医療機関においてしか行われていない(同上)。このことを考えるとこのように森田療法が適用範囲を広げていく中で、禅宗だけではなく、今後上記の体験談のように森田療法が宗教教団の信仰生活に吸収されていくことが予想される。

 現代日本に広がっている「各自が個性に即した自己実現を追求する」個人主義的な生活スタイルは、群居性動物である人間にとっては「不自然な生き方」なのであり、宗教教団が説くような「人をたすけたて我が身たすかる」という教えは、人間を本来あるべき姿に戻そうという教えなのかもしれない。逆に言えば、「各自が個性に即した自己実現を追求する」個人主義的な生活スタイルが普及した現代日本の「無縁社会」は、「(森田正馬が言う意味での)神経症(=不安障害)に誰もがなりやすい時代」にあるのかもしれない。

 精神科医の伊藤雅臣は、著書「不安の病」において、不安の病を1.パニック障害、2.社会恐怖(対人恐怖、社会不安障害)、3.強迫性障害、4.疼痛性障害と心気症の四つに大別している(伊藤2009)。そして、「不安の病」に対する治療法として、1.薬物療法、2.認知行動療法、3.森田療法の三つを挙げている。

 この天理教信者の場合のように、人によっては、抗不安薬や抗うつ薬SSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の投与を中心とした現代日本の精神科医療における薬物療法よりも、こうした「人をたすけて我が身たすかる」という宗教教団の信仰指導の方がより効果があるのであろう。抗うつ薬SSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬)によって「不安」を鎮めるという「不安の病」に対する治療法は、あくまで対症療法であって、根本療法ではないのであろう。不安障害に対するSSRI治療は、患者が「人間が向き合うべき主体的な生き方の探求を回避するようになる」(島薗2009)ようにする危険を孕んでいると思う。


<参考文献>

伊藤雅臣『不安の病』星和書店、2009年

宇佐晋一・木下勇作『あるがままの世界―仏教森田療法―』東方出版、1987年

宇佐晋一・木下勇作『続あるがままの世界―宗教と森田療法の接点―』東方出版、1995年

北西憲二(監修)『森田療法のすべてがわかる本』講談社、2007年

島薗進「慎重論の論拠を求めて―エンハンスメント論争と抗うつ薬―」『日本学報』28号、大阪大学、2009年

中井久夫『治療文化論』岩波書店、2001年

2011-01-09

時事報道番組

 日曜日は、時事報道番組を視ることにしています。夜は、TVドラマ『任侠ヘルパーSP』を視ました。

齋藤環さんと「家族の絆」

(前略)家族って、結局なんて言うか、人間関係とかいろいろな価値観を支える「一番強力なインフラ」で、これがなくなっちゃうと、多分国としての体をなさなくなってしまうと僕は思うところがあるんですね。まさに先ほどの、中間がなくなっちゃって、個人と世界としかなくなっちゃったみたいな「セカイ系」な状況に、せめて何かそれを回復させようと思ったら、「家族の絆」しかないんじゃないかなっていうことで、何かと今家族もバラバラになりつつありますから、それを何とかできないかなっていうのが、社会問題としての僕の意識なんです(『爆笑問題のニッポンの教養ひきこもりで世界が開く時「精神医学・齋藤環」』、講談社、2008年、pp.108-109)。


*こんな保守オヤジに本当に「ひきこもり」の「治療」ができるのか、疑問に思います。

ある天理教信者の体験談

 これから私の体験したところをお話しします。自分がドッヂボールをしていて、その時にボールが当たったときに仰向けに倒れました。それが原因で自律神経失調症の中の不安神経症という病気になりました。二十四時間全身がしびれ、心臓も体から出てしまうぐらいドキドキして、頭痛もひどく、一時はどうにかなってしまうのではと思い、もうこんなに苦しいのなら、命も絶ってしまおうかと、思いましたが、子供のことを思うとそれも出来ず、毎日生きているのが、こんなに苦しいのかと思いました。

 そんな時、天理教のパンフレットが郵便受けに入っていました。そのパンフレットに『人をたすけて我が身たすかる』という言葉が書いてありました。天理教なら助けてくれると思いました。すぐに教会に電話して助けを求めました。そこから私の天理教が始まりました。

 私の家に教会の人が毎日二ヶ月来てくれました。その時教会の人は私の病気の事をよく聞いてくれました。その当時は今とは違って、心の病気はなかなか理解してくれませんでした。怪我と違って見た目にもわからなくて、でも話しを教会の人はよく理解してくれました。その後、教会の奥さんのお産があり、教会にこちらから行くようになりました。

 教会では、できることをいろいろさせて頂きました。今まで家からでられなかった私が、教会でいろいろな人と出会い、世界が広がった気がしました。それから毎日教会に通っていましたが、二・三年したら、姪っ子が旦那さんと姑さんとうまくいかなくなり、私に相談してきました。教会に一回行っただけで、姪っ子は夏のこどもおぢばがえりに行きました。そして、その年の秋に天理の修養科(修養科という所は神様の話をしたり、心の勉強したり三ヶ月研修する所です)へ行きました。

 そして、修養科を出て、教会に三ヶ月住み込みし、今度は一才の娘とふたりでアパートぐらしを始めました、それから私は教会の人たちと姪っ子のお世話をしていたのです。一才の娘の面倒を見たり、アパートの手伝いをしたりしました。それから何もわからず一軒一軒パンフレットをみんなと配ったりしました。

 すると、いつの間にか自分の病気がよくなっていくことに気がつきました。まさに『人をたすけて我が身たすかる』です。そして、今では姪っ子は旦那さんと二人の子供、お腹には三人目の子供がいます。今では、私は教会に行って、掃除をしたり、教会の子供の世話をしたり、スポーツもできるようになりました。毎日がとても楽しいです。

 もしあの時天理教のパンフレットがポストに入っていなかったら、天理教と出会わなかったら、私はどうなっていたかわかりません。病気は辛いけど、今は病気になって、人の病気の痛みも理解することができるし、いろいろな人との出会いもあり、病気になって少しは良かったなと思えるようになりました。そして、天理教の信者さん同志なら誰にも相談できないこともできるし、天理教でよかったと思います。

 これからは、たすけてもらった分、困っている人をたすけたいと思います。会長さんからは人をたすけたり、パンフレットを配ることで、いんねんが切れると教わりました。いんねんとは「その家の代々受けついできたもの」です。私の家のいんねんでもある心の病気です。

 人は、どこでどんな人とめぐり会うかわかりません。パンフレットをポストに入れ、感謝・恩を忘れず歩んでいきたいと思います。これが天理教だと思います。

 みなさんも、困ったことや悩みごとがありましたら、ぜひ近くの天理教の教会に相談して下さい。


*この方は今年五十才(熊田註;2010年時点)になる主婦です。信仰は初代です。旦那さんと二人の子供がおり、娘さんは結婚して二人目がお腹にいます。毎日朝教会に来て、夕つとめをして帰ります。

マイク・タイソンと伝書バト

http://news.livedoor.com/article/detail/5256702/ より転載

M・タイソン余生をハトに捧げる…下着姿でたわむれる


 元ボクシング世界ヘビー級王者、マイク・タイソンさん(44)が、米TVのドキュメンタリー番組に出演することが決まり、6日、米カリフォルニア州で行われた発表会見に出席した。波瀾万丈の人生を送ってきたタイソンさんは、伝書バトレースに残りの生涯をささげると誓った。

 3月6日から米TV局アニマル・プラネットで放送されることが決まったのは「テイキング・オン・タイソン」。レイプ事件などで転落の人生を送ることになったタイソンさんが、ハトの飼育に情熱を燃やす姿を描いている。

 タイソンさんは少年時代、ニューヨーク郊外の貧民街で育った。当時、飼っていたハトがギャング団に殺されたことに激怒し、相手を殴り倒したことからボクシングの才能に目覚めたという。

 「子供のころは学校にもいかなかった。いじめられたからね。そんなときに出合ったのがハトだった。ハトは毛の生えた最初の友人だったんだ」とタイソンさん。最近は一日中、下着姿のままハトとたわむれる生活を続けているという。

 「派手な人生を送ってきたオレだが、今はこのハト一筋さ。イカれているという人もいるだろうが、これがオレのすべきことなんだ」とタイソンさんは、やはりすごんでいた。


*「(ボクシングのせいで)失われた少年時代」を取り戻そうとしているのだと思います。この人、少年時代で精神的成長が止まっていますね。一種の精神的なフリークです。

2011-01-08

連休

 世間並みに、私も3連休をとることにしました。研究上のいいアイデアは、ある程度時間的に余裕のある生活からしか出てこないものです。

第3のトイレ

http://www.asahi.com/international/update/0108/TKY201101080105.html より転載

南米リオに「第3のトイレ」 同性愛者や女装男性向け


サンパウロ=平山亜理】ブラジルリオデジャネイロに男性用、女性用とは別にゲイやレズビアンら専用の「第3のトイレ」が設置される。「興味本位の目にさらされず、自由に化粧や、用が足せるようにしてほしい」との要望を受けたものだ。

 地元メディアによると、専用トイレが設置されるのは、昨年のリオのカーニバルで優勝したサンバチーム「ウニドス・ダ・チジュカ」が拠点とする施設内。カーニバルを3月に控え、チームの参加者や関係者から要望が出ていたという。女装が趣味の男性も利用できる。

 一方、同性愛者の人権活動家は、同性愛者らを隔離するものだと批判、「同性愛者が社会に受け入れられるために闘ってきたのに、差別を助長するだけだ」としている。


*私は、「マチズモ」(男性異性愛者中心主義)という言葉を生んだ中南米のカトリック国らしい、実に差別的な発想だと思います。

2011-01-07

定休日

 今日は定休日で、まったりと憩いました。夜は、レンタルDVD北野武監督の映画『アウトレイジ』を視ました。

人を助けて我が身たすかるー森田療法との関連においてー

 そこで自分というものを守りますと、とたんに動きがとれなくなってしまいます。始終、仕事をさがし、そのものにかかわっていらっしゃるということが、さっきのお話しにもありました。皆さんのお世話、ご町内、ご近所のこと、何でも引き受けられまして、責任をもって精いっぱいなさることが一番よろしいです。お世話がよろしいです。その点で、ここの役員さんが他の皆さん方のためにお骨折りくださるという意味も全治そのものといってよろしいですね(宇佐晋一・木下勇作「あるがままの世界ー仏教森田療法ー」東方出版、1987年、p.88)。


 晋一先生(熊田註:宇佐晋一、森田療法を専門とする精神科医)は明快にこう語られる。

「本来祈りというのは他人のためにすべきなのです」

 晋一先生に提出する日記(熊田註;森田療法の日記療法)にはよく「一日も早く良くなるように祈っています」と自分のための祈りごとを書く人が多い。これでは治りっこないというのが、晋一先生の強調される点だ。世間的な人情としては全治することを祈願するのはごく当たり前のように思えるが、こと心に関してはこれは逆効果になるというわけだ(同上、p.176)。


 晋一先生がいつも言われているように他人のために尽くすのが人間として最も素晴らしい行為であるわけである。無論、自分への見返りの期待なしにである。もう少し、森田療法の観点から分かりやすく述べると、他人にいくら奉仕してもそれが自分可愛さのためから、出発している限り、全く無駄であろう、さらに言おう、それは自分の心の安心のためにする社会奉仕などは無為の実相とはいえないのである。

 はたまた、そうとなれば安心を得るばかりか、見返りを期待して却って不安をつのらすだけになる。これをさらにいうと安心を得るためにする、ありとあらゆる計らいが逆に不安をつのらすのと同じことになるではないか(宇佐晋一・木下勇作『続あるがままの世界ー宗教と森田療法の接点ー』東方出版、1995年、pp.179-180)

不安障害に対するSSRI治療の問題点

 その後、米国SSRI(熊田註;選択的セロトニン再取り込み阻害薬抗うつ薬の一種)の嵐に呑み込まれ、慢性疼痛の患者の大部分は、何らかのSSRIを服用しながら、ペイン・マネジメント・プログラムに参加し、SSRIを継続したまま退院してゆくことになった。その大きな流れの是非はとにかく、1つ、どうしても強調しておきたいのは、「投薬」という行為が持つ、医師患者関係における意味合いである。投薬という行為は、基本的に、医師が患者に何かをし、患者はそれを施してもらうという意味合いを含む。このやりとりが、慢性の疾患では、「治す責任は医者にある」と置き換えられて、患者の依存性を高めたり、治療に対する患者側の責任放棄を招くことも少なくない。もちろん、投薬が、「先生は何かをしてくれているから、こちらもそれなりに何かをしなくては」と、患者の自助努力を高めることも急性疾患では多々ある。しかし、慢性疼痛の世界では、そういう例は残念ながら少ない。「投薬」それ自体、投薬を開始することだけでなく、薬を1つ増やすことも含めて、その行為の持つ意味を念頭においておく必要がある(丸太俊彦「慢性疼痛患者への精神療法的アプローチ:Mayo Clinicでの経験から」『アディクションと家族』vol.27-2、家族機能研究所、2010年、p.97)。


*ここで丸太氏が慢性疼痛患者について述べていることは、各種の不安障害の患者にもそのまま当てはまるでしょう。

2011-01-06

授業日

 今日は授業日で、1限から4コマ教えました。明日からまた5連休です。

都条例より怖い“自主規制”

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1460436&media_id=40&m=1&ref=news%3Aright%3Anoteworthy より引用


 過激な性描写を盛り込んだ漫画販売を規制する「改正青少年育成条例」が12月の東京都議会で成立したのはご存じの通り。小説や漫画原作の執筆を生業とする筆者は、同条例に明確に反対する。

 言うまでもないが、同条例が販売規制に名を借り、表現の自由を冒すことにつながると危惧するからだ。また、こうした条例が成立したことで、出版業界内部で事なかれの“自主規制”が強まることへの危機感を抱いている。【相場英雄,Business Media 誠】


●コンビニ対策

 「この見開き、差し替えだ」――。

 数年前、ある青年誌の人気作品の監修を担当していたときのこと。筆者は経済事件の解説、ストーリーへの練り込み、セリフの確認作業などを任されていた。このため、毎週手元に漫画家さんが描いたネーム(漫画の下書き)が送られてきた。ある日、送付されたネームには編集部幹部によるこんなメモが添えられていたのだ。

 問題のページは、主人公とサブキャラクターが絡むラブシーンだった。下書き段階では、両者の感情の高ぶりを表現する紅潮した顔、それとともに情緒的な風景が2ページの見開きで展開される予定だった。

 もちろん、過激な性描写などではなく、女性キャラクターの上半身が軽く露出する程度のものだった。だが、当時「某コンビニエンスチェーンから『裸』のシーンをなるべく減らしてくれるよう、内々のお達しが出ていた」(元編集部員)ことから、件の見開きは編集部幹部の指示通りに差し替えを余儀なくされた。

 「一般青年誌の売場から成人指定棚に移動させられたら、売り上げがガタ落ちになる」(同)ことから、担当編集者は同社幹部とともに漫画家さんを説得し、ネームの差し替えに至ったわけだ。

 今回の条例の対象となる、刑法に触れる性行為や近親間の性行為を不当に賛美したり、誇張するように描写している漫画が多数発行されていることはもちろん筆者も承知している。ただ、コンビニ、あるいは一般書店でもこうした作品は成人指定がかかっており、あえて新たに規制を設ける必要はないと筆者は考える。

 件の“コンビニ対策”でもこのような状態なのだ。今回の都条例の成立を受け、先々、出版社内部で条例を念頭においた事なかれ主義がはびこり、作品を作り出す漫画家、あるいは作家のやる気を削ぐことが目に見えない損失につながると筆者はみる。

 他府県の動向はまだ不透明だが、東京都の条例に倣ったような動きが出てこないことを筆者は切に願っている。


(中略)


 先に触れたように、コンビニの流通の都合に配慮したり、あるいは超保守的知事が主導した条例が出来たことで、今後、筆者が体験したような「事なかれ主義」から自主規制が幅を利かせることを危惧しているのだ。

 現状、大手出版各社は都条例に反対する意向を示し、結束を強めている。この連携が崩れることがないように願うばかりだ。


*賛成です。

2011-01-05

冬休み最終日

 今日は、冬休みの最終日です。大学の個人研究費で落とす本をまとめて発注し、コルトレーンのアルバム『ジャイアント・ステップス』を聴きました。

自分の中にいる“小さな石原”

 石原も、おそらく己の中の「ゲイ的なもの」に怯えて、テレビの中にゲイが出てくるたびに震え上がり、ゲイを憎んで軽蔑して差別的な発言をする事で、必死に自己防衛しているんだと思う。かわいそうなジジイよね(中村うさぎうさぎとマツコの往復書簡」『サンデー毎日』2011年1月16日号、p.109)。

石原都庁「マンガ焚書条例」の走狗となった都庁記者(クラブ)の不勉強

 (前略)条例に反対した都議のひとりがいう。

知事条例担当者の会見で懐疑的な質問をするのはインターネットメディアや雑誌の記者ばかりで、大メディアは質問もせずにダンマリ。それで都の主張を鵜呑みにした記事を作ってきたのです」

 (中略)

 なぜ読売をはじめとするクラブ記者は、曲がりなりにも活字メディアの担い手でありながら都庁の宣伝マンに成り下がっているのか。前出・都議の指摘は明快だ。

提灯記事を書けば、都政の情報を優先的に流してもらいやすいのでしょう。昨年末の読売新聞には、都が漏らさないとわかるはずのない予算案の内容が、発表前に紙面化されていました」

 これが“健全新聞”だそうだ(『週刊ポスト』2011年1月14日号、pp.61-62)。


*民は依らしむべし、知らせるべからず?マスコミに就職しなくてよかったとつくづく思います。

2011-01-04

定休日

 火曜日は定休日。『サンデー毎日』を読んで憩いました。

ノルウェイの森

http://eiga.com/movie/53950/review/ より転載


観終わった後出口に向かって歩いていると

後ろから女子高生仲間達の会話が聞こえてきた。

「さっぱりわからん!

何を悩んでるの?彼は。 

ただヤリたいだけやん!」


*「(ノーベル賞候補という)王様は裸だ!」ですね。ジェンダーフリー教育を受けてきたのであろう女子高生たちによる、「男流文学」(上野富岡小倉『男流文学論』筑摩書房、1992年)に対するこの率直な感想は、実に健康的だと思います。

2011-01-03

アクセス急増

 昨日、突如1日のアクセス数が800以上にはね上がりました。GSML(ジェンダー・スタディーズ・メーリング・リスト)の関係者がアクセスしてくれたのでしょう。

人を助けて我が身たすかる

 『すきっと』第十号の企画で対談した石蔵文信氏は、不定愁訴や不安障害などに悩む中高年男性のために「男性更年期外来」を立ち上げ、治療に当たっているというユニークな医師である。

 氏の発言の中に「六十過ぎの方でちょっと体調の悪い方にお仕事に行きなさいよ、人のお助けをしに行きなさいよとよく言うんです。自分が病気でも、もっと体調の悪い人を世話してあげようという気持ちが出ると、どんどん健康になっていく」という一節がある。医者としての体験を通しての実感なのであろう。

 筆者は「天理教では、人を助けて我が身たすかると教えられています」と応じたが、石蔵氏の言は、「人を助けて我が身たすかる」という教えの、広く深い含蓄の一端を示す例のように思う(上田嘉太郎『お道の視点から』天理教道友社、2010年、p.218)。


*定年後の男性の場合、「自分の健康のことしか考えない」がゆえに「不安や恐怖」にとらわれやすく、「疾病利得」(例えば家族に甘えられるなど、病気であることによって利益を得ること)ゆえに病気が治りにくいというのは、いかにもありそうな話です。

パキシル飲みの男女比

 mixiに「パキシル」というコミュニティがあり、5000人強の人が参加しています。パキシルは、SSRI(選択性セロトニン再取り込み阻害薬)の代表格であり、うつ病うつ状態パニック障害強迫性障害などに効果があるとされています。そのコミュニティのアンケートで「パキシル飲みの男女比」が調べられています(サンプルは900人強)。なんと、参加者の男女比は3:7です。これは、おそらく男性は、自分は「抑うつ状態」や「不安障害」という治療を要する病気だと認めたがらない傾向があるためでしょう。

2011-01-02

春休みの論文

 大学教員は論文を書かなくてもクビにはなりませんが、怠け出すときりがない仕事なので、私は最低でも春休みと夏休みには修論レベルの論文を1本ずつ書くことにしています。今度の春休みに書く論文は、「森田療法と日本の新宗教天理教の事例ー」にすることにしました。キーワードは、「宗教と心理療法/天理教/自己実現的立身出世主義/不安と恐怖/森田療法」にするつもりです。天理大学おやさと研究所にもアドヴァイスを仰ぎながら、そろそろ資料集めを始めます。

禅と森田療法

http://shinkeishitsu.cocolog-suruga.com/blog/2006/12/post_c540.html より転載


 わが国独自の神経症の治療法である森田療法は、禅の思想に基づいていると思われていることが多い。京都東福寺の近くで森田療法を行っている三聖病院の開設者・(故)宇佐玄雄先生(森田先生の高弟)は禅僧であったし、息子さんで現院長の宇佐晋一先生は同病院での治療を「禅的森田療法」と表現されている。森田先生が患者さんを指導する際に用いた言葉は禅の言葉が多いし、実際森田先生の治療を受けた患者さんにも、森田療法は禅から出たものだと思われていた。しかし、森田先生御自身はそれを否定しておられた。


 私の著書に、禅語の引用されているのは、みな強迫観念の治療に成功して後に、初めて禅の意味がわかるようになったものである。すなわち、禅と一致するからといっても、禅から出たのではない。私が神経質の研究から得た多くの心理的原理から、禅の語を便利に説明する事ができるようになったのである(森田正馬森田正馬全集』第5巻、白楊社、1975年、p.388)。

 私は禅の事は知らない。ただ聞きかじりだけである。昔、三十年ほど前に、釈宗禅師の提唱を聴き、また参禅すること四回でありましたが、その時の公案「父母未生以前、自己本来の面目如何」という事を、一度も通過する事ができないでやめてしまいました。それで禅の体験は全く知らないものですが、神経質の病的心理の研究から、禅に対して相当の批評ができるようになったという事は、自分も大分偉いのではないかと密かに思ったのであります。(笑)(同上、p.643)


 しかしながら、森田療法のバックボーンに東洋思想とりわけ禅があることは誰の目から見ても明らかであろう。それでは森田療法と禅との相違点はどんなところだろうか。


 我々は、人生の丸木橋を渡るのに、足元を恐れないような無鉄砲の人間になるのが目的でなく、彼岸に至りさえすればよい。座禅や腹式呼吸で、心の動かない、すましこんだ人間になるのが目的ではなく、臨機応変、事に当たって、適応して行く人間になる事が大切である(同上、p.519)


 神経質は、とかく練習をしたがる。平常心になるために座禅をするようなことを森田先生は嫌っておられた。よく、北条時宗の逸話を引き合いに出して「事上の禅」の話をされていた。単に作為的な無念無想では隠し芸のようなもので、実際に役に立つものでなければならない、ということである。

 私も禅は門外漢である。母が臨済宗の藤原東演禅師の講演会を聞いて、その著書を買い込んだ。いい本だから読め、と渡されたので通勤の電車の中で読んでみた。成美文庫の「人生はゆっくり変えればいい!」と「心がラクになる生き方」という本である。とても良いことが書いてあるな、と思う反面、森田療法と立場の違いを感じた。禅師は「心が雑念でいっぱいなら、仕事に打ち込めるわけがない」ということで雑念を放り出すことを勧めているが、森田のやり方では、雑念はそのままにして(心はいじらず)仕事をしていくように、ということになる。あれもやらなくては・これもやらなくてはとハラハラしながら仕事をしているうちにいつしか雑念にとらわれていない状態となってくるものだ。禅僧のように修行を積んだ人であれば雑念を放り出すことは容易にできようが、普通の人間にはなかなかできることではない。一方、森田のやり方は誰でも実行可能だと思われる。また、題名の「人生はゆっくり変えればいい」は、うつ病の方にはピッタリであるが、神経質人間の場合、「嫌なことは先送り」癖を推奨しかねない。森田流では、できることはすぐに実行しなさい、である。もちろん禅は大変すばらしいものであるが、修行は必ずしも容易ではない。誰でも・いつでも・日常生活の中で実行できるところが森田のすぐれた面だと思う。

猫たすけたらわがみたすかる?

 「人たすけれたらわがみたすかる」経験は私にはありませんが、猫を飼い始めてから、心身症の持病は確かに症状が改善されました。内心の「不安と恐怖」や身体の「症状」に注意を向ける度合いが減ったからでしょう。そういえば、猫を飼い始める以前から、出校日よりも在宅日の方が症状が出やすい傾向がありました。

ハンディ・ゲームー高橋留美子のラヴ・コメディについてー

 高橋留美子(1957-)は、子ども向けの通俗マンガ家と思われているのか、日本ではサブカル評論家に論じられることが少ない(論考をご存じの方はご教示下さい)マンガ家ですが、私は後世の人はこの人の才能を高く評価するだろう、と予想しています。アメリカのManga Shopで一番売れていたのは、この人の作品でした。

 イギリス文学の古典「ジェーン・エア」(1847)について、ヒロインである孤児院出身のジェーン・エアは、恋人のロチェスター伯爵が火災で家屋敷(と元妻)を失い失明する一方で、自分の方は「叔父の遺産」を相続した時に、始めて伯爵のプロポーズを受け入れるが、そこに女性作者シャルロット・ブロンテ(1816-1855)の男女間の権力関係についての近代的な醒めた認識がある、と聞いたことがあります。伯爵とただの孤児のままでは、結婚しても、男女関係が「支配―従属関係」になってしまう危険性があるのです。近代社会では、男性に何らかのハンディを科さなければ、男女間の「対等な対」を説得的に描くことができなかったのでしょう。

 1980年代に入る頃から、高橋留美子は、ラヴ・コメディ漫画において男性主人公には巧妙にハンディを科した作品設定を用いています。「うる星やつら」(1978-1987)では、鬼娘ラムには「飛行と電撃の能力」を与えました。「めぞん一刻」(1980-1987)では、管理人の響子さんには「アパート一棟の所有権」を与えました。その後、「らんま1/2」(1987-1996)で、男にも女にもなりうる「思春期の怪物的身体」(J・Napia)、J・バトラーが「ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱ー」(青土社、1990=1999年)でいうように「パフォーマンスがジェンダー・アインデンティティをつくる((従ってジェンダー・アイデンティティは可変的である)」というポストモダン的状況を実験的に書いた後、高橋留美子は、「犬夜叉」(1996-2009)においては、ほとんどノー・ハンディの恋愛を描くことにに挑戦しました。

 「犬夜叉」のヒロイン・女子中学生の「かごめ」は、いつもセーラー服を着ていて、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉に守ってもらうのではなく、犬夜叉とともに悪の勢力と戦います。かごめは、もはや超能力も不動産ももっていません。ただし、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉の頭にはわっかがはめられており、かごめが「おすわり」(英訳では“Sit!”)と「玉鎮めの言霊」をかけると、地面にたたきつけられて腰砕け状態になってしまいます。恋愛関係において、男性には、まだわずかにハンディを科す余地が残されていました。

 犬夜叉のこの「おすわり」という言葉に、現代日本の子どもたちがもつ男女間の権力関係についての、「ほとんど対等だが、まだわずかに男性優位」という認識を見ることができます。犬夜叉の頭にはめられたわっかのような製品を実用化すれば、購入して恋人や配偶者の男性に身につけさせたいという女性は、日本にごまんといるのではないでしょうか。

 2009年度から「少年サンデー」で連載されている「境界のRINNE」(続刊中)では、ヒーローの六道りんね(死神と人間のハーフ)は内職をしながら高校に通うほど「貧乏」だが、ヒロインの女子高生真宮桜は中流階級の「普通」の家庭出身と設定することによって、「富の有無」という形を用いて、高橋留美子は依然としてヒーローに巧妙にハンディを科し続けています。

 このように、恋愛関係において常に男性に巧妙にハンディを科すという作品設定によって、高橋留美子のラヴ・コメディ漫画は「対等な対」を説得的に描くことに成功し、男子も女子も不快感なく安心して楽しめる作品になっていると見ることができるでしょう。

 そういえば、いまの大学生に「次に生まれ変わるとすれば、男がいいか女がいいか?」と尋ねると、男子はほぼ全員「男」を選ぶのに対して、女子の答えは割れます。昔よりは男女平等に近づいたことは確かですが、若者の間でも、「わずかに男性優位」の社会状況はやはりまだ続いているようです。

2011-01-01

謹賀新年

 あけましておめでとうざいます。本年度もどうぞよろしくお願い申し上げます。

元旦

 6日にはもう1限から授業だから、正月だからといって生活リズムを崩さないように注意しなければいけません。

人たすけたらわがみたすかるー森田療法と日本の新宗教ー

 私は、自律神経失調症の中の不安神経症という病気になりました。二十四時間、全身のしびれやひどい頭痛に悩まされ、一時は命を絶つことすら考えました。しかし、わが子のことを思うと踏み切れず、生きること自体がつらい毎日でした。

 そんなとき、天理教のパンフレットが自宅のポストに入っていました。そこには、「人たすけたらわがみたすかる」という言葉が書いてあったのです。たすかるかもしれないと、すがる思いで記載の教会に電話をかけました。

 以後、教会の方々が毎日のように訪ねてきてくださいました。まだ心の病に対する世間の理解の乏しいころでしたが、皆さんは親身に話を聴いてくださいました。私はそのうち自分から教会へ足を運ぶようになりました。

 それから二、三年経ったころ、家族関係に悩む姪から相談を受けました。姪は、初めて参拝した教会で勧められて、修養科(熊田註;天理教の修行コース)に入ってくれました。

 教会の御用をつとめる傍ら、姪の子育てを見守り、手伝ううちに、あるとき、自分の病気がよくなっていることに気が付いたのです。まさに「人たすけたらわがみたすかる」です。

 もしあのとき、パンフレットがポストに入っていなかったら、どうなっていたか想像もつきません。私は三日講習会(熊田註;天理教の初級コース)を受講し、いまでは自らの体験を路傍講演で語れるまでになりました。

 人はどこでどんな人と巡り会うか分かりません。今度は私がパンフレットをポスティングし、感謝と恩を忘れずに歩んでいきたいと思います(天理教機関誌『みちのとも』より)。


*この天理教信者の場合、信仰生活が森田療法の代わりになったのでしょう。「不安と恐怖」と疼痛という「症状」に「精神交互作用」(注意するほど感覚が鋭敏になるという精神過程)によって「とらわれ」、それを「はからう」ことを試みては「気分本位」の生活から脱することができず「疼痛性障害」の症状に苦しんでいたのでしょう。それが、教会の人に親身に話を聴いて貰うことによって転機を迎えます。精神科医中井久夫さんは、名著『治療文化論』(岩波書店、2001年)において、心を病んだ人の予後を決定する最大の要因は、「なんでも話せる人がそばにいるかどうか」だと指摘しています。この人の場合、教会の人が「なんでも話せる人」の役目を果たしたのでしょう。規則正しい生活リズムの中で教会の御用をすることが「作業療法」の代わりになり、症状を悪化させる「安全行動」や「回避行動」をやめることになったのでしょう。そして、「人たすけたらわがみたすかる」という教えに基づいて、姪の子育てを手助けすることによって、「気分本位」の生活を脱して「目的本位」の生活を送ることができるようになり、「不安や恐怖」を「あるがまま」に受け止められるようになり、不安神経症が「治癒」したのでしょう。

 森田療法の専門医など近くにはいなかったのであろうこの信者さんが、病の中において直感で一縷の望みを託した天理教の教えが「人たすけたらわがみたすかる」であったことは、重要だと思います。「人たすけたらわがみたすかる」とは、天理教に限らず、日本の新宗教、その中でもいわゆる教団組織を作るタイプの新宗教で広く説かれている教えです。従来、森田療法と宗教の関係としては、宇佐晋一と木下勇作が『あるがままの世界ー仏教森田療法ー』(東方出版、1987年)や『続あるがままの世界ー宗教と森田療法の接点ー』(東方出版、1995年)で指摘しているように、仏教、特に禅宗の伝統との類似性が強調される傾向にありました。

 

 いわゆる「神経症」の治療法として発展してきた森田療法は、不安や恐怖への対処法を示すことで、心のストレスに対する問題を解決してきました。森田療法の根底には、不自然な生き方の変換を促そうとする考えがあります。「生き方」の処方箋としてさまざまな悩みを解決できる可能性があります(北西憲二(監修)『森田療法のすべてがわかる本』講談社、2007年;pp.18-19)


 このように森田療法が適用範囲を広げていく中で、森田療法を施せる専門医の数の少なさ(2009年時点で、全国でもわずか42ヶ所の医療機関でしか行われていません)を考えると、禅宗だけではなく、今後上記の体験談のように森田療法新宗教の信仰生活に吸収されていくことが予想されます。森田療法を考案した森田正馬(1874-1938)自身は、新宗教を「迷信と妄想」として非難していたことを考えると、皮肉な話です(森田正馬森田正馬全集』第6巻、白楊社、1975年)。

 現代日本に広がってiいる「各自が個性に即した自己実現を追求する」個人主義的な生活スタイルは、群居性動物である人間にとっては「不自然な生き方」なのであり、新宗教教団が説くような「人たすけたらわがみたすかる」という教えは、人間を本来あるべき姿に戻そうという教えなのかもしれません。

 人によっては、抗うつ薬SSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の投与を中心とした現代日本の精神科医療における薬物療法よりも、こうした「人たすけたらわがみたすかる」という宗教教団の信仰指導の方がより効果があるかもしれません。逆に言えば、「各自が個性に即した自己実現を追求する」個人主義的な生活スタイルが普及した現代日本の「無縁社会」は、「(森田正馬が言う意味での)神経症に誰もがなりやすい時代」にあるのかもしれません。


*疼痛性障害

・1つまたはそれ以上の解剖学的部位における疼痛が臨床像の中で中心を占めており、臨床的関与が妥当なほど重篤である。

・心理的要因が、疼痛の発症、重症度、悪化または持続に重要な役割を果たしていると判断される(伊藤雅臣『不安の病』星和書店、2009年、p.145)。

*回避行動

・不安のために避けている行動

*安全行動

・恐れている状況に入るときには、いつも安全策をとるという行動(同上、p.30)

女は関係を求め、男は所有を求める?

 上野千鶴子さんは、ベストセラー『女ぎらいーニッポンのミソジニーー』(紀伊国屋書店、2010年)の中で、「女は関係を求め、男は所有を求める」というこの表現を、


(前略)「愛」という名で語られる男女関係の根底的なジェンダー非対称性を、これほど簡潔で卓抜な表現で言い表した

文章を他に知らない(p.107)。


と絶賛なさっています。「それはもう一昔前の話でしょう。上野さんにも困ったもんだ。」というのが私の正直な感想です。

 この議論に対する反例を示すために、日本の1980年代を代表するロック・バンドのひとつであるREBECCAの名曲「フレンズ」(1985年)の歌詞を引用します。ドラマの主題歌などによくカバーされているので、殆どの人が耳にしたことがあるはずです。

 この曲で、「君」と呼ばれている「フレンド」が歌手NOKKO(女性)と同性か異性かは明示されていませんが、私は同性(女性)だと思います。いずれにせよ、この曲の魅力は「私」や「君」という「キャラクター」にあるのではなく、「私」と「君」とのつながりのあり方、「関係の対等性」にあるのだと思います。

 自称・乙女派文筆家の嶽本野ばらの表現を借りれば、ファンはこの曲に「キャラ萌え」しているのではなく、「私」と「君」との関係の対等性に「位相萌え」しているのです。この曲が男性ファンの間でも大ヒットしたことから、少なくとも心の底では「所有」ではなく「関係」を求めていた男性が、1980年代にはすでに大勢いたことがわかります。拙著「男らしさという病?」(風媒社、2005年)の第3章「ヤオイ女性と百合男性が出会うときー親密性は変容するかー」は、こうした「関係を求める」男性たちが、2000年代には層として社会の表面に登場してきたことを論じています。