Hatena::ブログ(Diary)

熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-12-26

戦闘美少女への憧れ

 私は、小さいころから変わらず、戦闘美少女に憧れている。幼稚園や小学校の低学年くらいのころはよく弟2人と戦隊ものごっこや戦いごっこをしていた。また、アニメ放送でいつもはアニメが終わるのがいやだったのに、『おじゃ魔女どれみちゃん』が終わり、新アニメとして『プリキュア』がはじまるのをとても楽しみだったことを覚えている。そして、現在でもアニメ等でいて、スカートをひるがえしながら戦う女の子をみる度にかっこいいと思うし、とてもひかれる。前回の授業では、「昔はよく戦隊ごっこをしていたし、ヒーローにあこがれていたなぁ」と思ったが、この章を終え、今でもあこがれていたんだなぁと思うようになった。また、この章にあった、「守られるお姫様よりも王子様になりたい。」(熊田注―アニメ少女革命ウテナ』のなかのセリフ)というところに共感した。私もよく「守られるより守りたい」と思うし、実際、誰かを守れるくらい強くなりたいと空手を習っていたこともある。そして、今でも、強くありたいと思っている。私は、この章(熊田注―拙著『男らしさという病?』の第1章「現代日本の大衆文化における『女性の男性性』」)を通して、自分がいかに強い人にひかれているのかがわかった(私の授業『ジェンダー論入門』を受講している女子学生の小レポート)。


*ひとつの典型例でしょう。いわば、世界同時少女革命ですね。

2016-04-25

女の子だって暴れたい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

プリキュアシリーズ


企画当時、まだアニメに疎く女児向けアニメの担当もしたことがなかった鷲尾天が要請を受けプロデューサーとしてシリーズを立ち上げ5年間指揮を執る。主に幼児から小学校中学年までの女児を対象とした作品であるが、その分野について詳しくなかった鷲尾は開き直って「自分のやりたいことをやる」と腹をくくったといい、従来の同系列作品と異なった試みがなされている。『仮面ライダー』や『ウルトラマン』が放映されていた世代の鷲尾は、「とりあえず変身して戦う物の方がかっこいいだろう」という発想から、同枠で放映されていた『夢のクレヨン王国』や『おジャ魔女どれみ』シリーズ、『ナージャ』などの柔和なイメージとは違う「戦い」をメインとして本シリーズの企画を推し進める。さらに鷲尾は「幼児期の男女に差はほとんどなく公園や幼稚園では男女関係なく飛び跳ねて遊びたいはず」という考えからそれは生まれ、企画書に「女の子だって暴れたい」と書いたという。


https://www.youtube.com/watch?v=GvD3CHA48pA

BABYMETAL - KARATE (OFFICIAL)


*こういうパフォーマンスは、日本でよりも、むしろ「戦う少女」という伝統がなかった欧米で受けるでしょう。

2015-01-07

因果律の世界と妖怪ウォッチ

 これは、因果律によって織られた絨毯を仮定する「硬い現実主義」に対して、少なくとも「やわらかな現実主義」のほうが“現実的”であることを示している。共時性についてその証拠を出せということは、わざわざ「硬い現実主義」に立脚することである。現実が硬い因果律の世界であることを要求する人は、すべてを知れば因果関係がたどれるはずだと考える。しかし、それは神もなしえないことである。現にすべての宗教の神は非決定的である。祈りや奇蹟を持ち出すまでもなかろう(中井久夫「共時性などのこと」『隣の病』ちくま学芸文庫、2010年(初出1990年)、p21)。


ー「どうして朝は眠いんだ?妖怪のせいなのね。そうなのね。」


*現代日本の「妖怪ウォッチ」のブームには、「因果律の世界」に対する「融即律」(レヴィ=ブリュル)の反撃という側面があると思います。

2014-12-21

フーコー・吉本・アンパンマン

http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol1 より転載

――小熊英二さん『〈民主〉と〈愛国〉』を語る(上)


 ついでに言えば、フーコー(熊田註;1926-1984)は吉本隆明(熊田註;1924-2012)とほぼ同世代です。吉本さんは明らかに、「聖戦」を掲げていた国家や大人が民主主義礼賛にひっくり返って、裏切られたという思いがある。ある時代に支配的なディスクール(言説)なり、共同幻想というものは、簡単にひっくり返るものなんだという感覚は、フーコーと吉本に共通していますね。フーコーの著作というのは、ある支配的な言説が一度ひっくり返り、またまたひっくり返って近代に至った、という筋書きばかり書いていたと思います。


*『アンパンマン』の原作者・やなせたかし(1919-2013)のアナーキックな思想にも、フーコーや吉本と同様、若い頃に「(国家に)裏切られたという思い」があると思います。


アンパンマンの孤独−愛と勇気とホモソーシャル−

http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20140329/p1

2014-03-08

アンパンマンと「食べること」

http://anpanman.jp/sekai/qanda/010.html より転載

アンパンマンQ&A


頭の中にあんこが入っています。

アンパンマンは、そのあんこがエネルギーになっているから、

食事をする必要がないんですよ。


*アンパンマンは、人間を含む生き物の「食べるー食べられる」という関係から自由なのです。


「アンパンマンとカニバリズム」

http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20131114/p1

「断食芸人」と「アンパンマン」

 文学史上で有名な「食べない」主人公は、なんと言っても、フランツ・カフカの短編小説『断食芸人』(1922年)の「断食芸人」でしょう。見世物として「断食芸」を続け、「自分の口に合う食べ物はなかった」と最後にサーカスの支配人に告白して、餓死し、代わりに檻に「豹」を入れられ、豹は「もうすっかり飽きられていた」断食芸人と対照的に、観客の人気を集めます。このサーカス芸人の物語は、キリスト教の禁欲的理想が陰り、代わりにニーチェ的な超人思想が台頭してきたことを表している、という読みも可能でしょう(カフカの妹は、ナチスの強制収容所で殺されました)。

 『アンパンマン』は、頭の中の餡をエネルギー源にしているので、食事する必要はないし、食事しません。断食芸人と違って、食べなくても生きていけるのです。見方によっては、やなせたかしの絵本=アニメ『アンパンマン』は、このように設定することで、カフカが描いた「食べる―食べられる」関係についてのニーチェが提起したような近代的問題をクリアしてみせた、と見ることも可能でしょう。

2013-11-14

アンパンマンとカニバリズム

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20080717/1216228401 より転載

アンパンマンほど哲学的なアニメはない


「僕の顔を食べなよ」

これほど深遠な哲学を内包したセリフはないでしょう。


1.食パン主義

一見狂気に満ちたカニバリズムですが、動物のキャラクターたちは何の抵抗もなく差し出された肉片ならぬパン片を頬張るのです。おどろおどろしい儀式の最中でもない、牧歌的な日常の中でこのような蛮行を目にするのは、より狂想的です。しかしさらに恐ろしいことに、多くの日本の子どもたちはこの光景になんら違和感を持たないのです。私も齢20歳になってようやくこの狂気に気づきました。日本人はカニバリズムのアニメを見て育つんだぜ! HAHAHA そいつはクレイジーだ! という会話が海外でなされていると聞き、ああ、たしかにこいつはクレイジーだと今さらながら実感した次第です。


2.自己犠牲の意味

しかしこのアニメは深い。まず人間をはじめとする動物が基本的に「食う―食われる」関係にあることをグロ描写を一切せずに明示したのです。私たちは生きるために他者を殺さなければいけません。スーパーで売っている肉も野菜も全て人間の都合のためだけに殺されました。私たちは食べるために殺し続ける存在なのです。そんな弱肉強食サバイバルな世界において他人を助けようと思ったら、自己を犠牲にするしかありません。つまり他人に自分が「食われる」必要があるのです。そりゃあ資源が有り余っていたら自己を犠牲にすることなく人助けができるでしょうが、パイが有限の場合、自分のパイを相手に譲らなければいけません。つまり自分のパイならぬパンを相手に与えるわけです。一見これは美徳ですが、その本質は「僕の顔をたべなよ」というようなおぞましい行為です。お前自分が食われるんだぞそれでいいのか! というツッコミが必要な、生命の本質に反した邪教なのです。

ニーチェは生命の本質を「権力への意志」だとしました。これは「食う―食われる」関係しかないのだから、自分が食われる前に他者を食うべきだ、それが人間の最も根本的な意志である、という考え方です。そして自己犠牲を説くキリスト教はこの生命に本質に反した邪教だと批判しました。この自己犠牲のおぞましさを最も端的に示したのがアンパンマンです。

しかしその自己犠牲も消費者や第三者にとって見たら「アンパンって美味しいよね」みたいな下らない感想しか引き出しません。身を削っている方はどんな思いをしていようが、搾取する側にとっては文字通りおいしい話なのです。この自己犠牲の割に合わなさも巧みに表現しています。

巧みといえば、その哲学性をうまく隠して立派に子供向けアニメとして確立しているのも驚嘆に値します。

痛いニュース(ノ∀`) : 「元気に育ってね」 園児がアイガモ40羽放す 秋には園児に食べさせる予定 - ライブドアブログ

たとえばこの教育は個人的には賛成ですが、反発も多いと思います。しかし、アンパンマンも同じような理由で放送中止にしようという批判は聞いたことがありません。「食う―食われる」関係を最高にメルヘンに表現し、子どものハートを鷲掴みにしたアンパンマンは偉大です。


3.生命の本質

まだまだ続きます。アンパンマンは顔が濡れると力が出ないという設定があります。ふつうならドライヤーで乾かしたりタオルで拭いたりするわけですが、バタコさんは顔ごと取り替えるという暴挙に出ます。それも臓器移植のような繊細なオペではなく、バタコさんのコントロール抜群のピッチングによって新しい顔をぶん投げ、強引に古い顔を弾き飛ばすという方法です。しかしこんな野蛮な方法でも、アンパンマンは元気100倍になり復活するようです。

この寓話はなかなか興味深い。ふつう私たちは人間の本質は脳であり、脳内の精神活動こそが生命であると考えています。しかしアンパンマンはそんな脳をそっくり取り替えてしまうのです。アイデンティティはどうなるんでしょうか。イーガンもびっくりです。

アンパンマンの脳は胴体に存在し、顔は動力源にすぎないという仮説も立てられますが、もっと深い考察もできます。つまり生命の本質は物質ではなく、同じ物質の状態を再構成しようとする流れである、という寓意を導くことができます。私たちは日々異物を食べ、消化し、排出しています。その過程で古くなった細胞は廃棄され、次々と新しい細胞に入れ替わっています。おそらく生まれた直後と今の自分では、身体を構成する分子がほとんど入れ替わっているでしょう。アイデンティティは物質ではない、それゆえに身体は取替え可能なのだ、というメッセージを視覚的に表現したのが、あのアンパンマン顔とっかえシーンだったのです。

臓器移植や精神の電子コピーなどの倫理的問題を豪快に解決するアンパンマン。なんて高踏的なんでしょうか。神林長平「戦闘妖精・雪風(改)」にも通じる哲学です。

そしてアンパンマン自身はパンを焼くことができず、新しい顔を作れないという設定も奥深い。パン職人のジャムおじさんと稀代のピッチャー・バタコさんがいてはじめてアンパンマンという存在は成り立つのです。私たちが口にする食品も、ただ単に「食べられる」存在ではなく、また別の何かを「食べる」こともあれば、植物のように自身の分身をコピーすることもあります。人間が食料抜きには生きてゆけないように、一切の存在が別の存在に依存しているのです。このどこまでも続く「食う―食われる」関係を想起させるアンパンマンの思想は仏教における縁の概念と似ています。


……というようなネタで小林泰三あたりが小説化しないかなあ。

2012-11-28

プリキュアと「大きいお友達」

http://news.mixi.jp/view_news.pl?cluster=1&media_id=128&id=2238324&from=home&position=6 より転載

プリキュア」新シリーズは「ドキドキ! プリキュア」――!


 東映アニメーションのサイトにて、来春より放送される「プリキュア」のタイトルが発表された。現時点ではタイトルとロゴのみの発表で、内容や詳細については不明。

 日曜朝の女児向けアニメとして、2004年に放送を開始した「プリキュア」シリーズも、来年でいよいよ10年目に突入する。近年ではニチアサ実況勢をはじめ「大きいお友達」の人気も高まってきており(最初からという説も)、来年もますます目が離せない作品となりそうだ。


*私は、21世紀の日本を担うのは、「強くなった女性」と、それについていく「ワガママになった男子」だと思っています(拙著「男らしさという病?」参照)。