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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-01-04

天理教教祖の侠気

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。

 

 教祖様がきかせられましたが、

『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田注;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田注;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田注;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、p259)

 

 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、非暴力主義者であったみきがこのような発言をしたとは思わない。

 しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が献金するのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。民衆宗教のなかの、弱きを助け強気を挫く「侠気」の伝統である。

2017-01-03

女性の侠気

 たしか、「女々しい」太宰治が『人間失格』で、「男性よりも女性に侠気を感じることが多い」と述べていましたが、賛成です。特に太宰治の時代には、『忠臣蔵』という強力な「男のなかの男」のイメージが流布していたので、「民衆的正義感のふるさと」である侠気は、男性よりも女性によって体現されることが多かったでしょう。拙著『男らしさという病?』は、「これからの日本を支えるのは、年配の男性ではなく、強くなった女性と、女性についていくわがままになった若者である」という鶴見俊輔の言葉を、「女性の侠気」をキーワードとして、理論化したものです。典型的な具体例は、マンガ=TVドラマの『ごくせん』(やくざの組長の娘がヤンキー男子高校の教師になる物語)のヒロイン・「ヤンクミ」です。


明治日本の宗教者とエートスとしての<侠>」

http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20080910/p1

ヒーロー像の変貌―「忠臣蔵」幻想の後に―

今回の章を終えて、時代が変わると、人々の考え方や理想も変わるということがわかりました。私は、弱いものを助け、悪い者をやっつけるような人がヒーローだと思っていました。しかし、私よりも上の年代の人達の中では自分を犠牲にしても特定のものを自分以上に大切にする人こそヒーローであるという考え方があるということを知り、戦争中の日本人がよく言うような「国のために」という言葉を使っている人々みたいな考え方だなと思いました。また「覇権的男性性」について、男性であるから男らしくなければならないというような考え方があり、男らしくない男性に対して「女の腐ったような〜・・・」という言葉が投げかけられることを知り、その当時は女性という性が男性という性より低いものだったんだなということがわかりました(私の授業「ジェンダー論入門」を受講している女子学生の小レポート)。


*近代日本「忠臣蔵」幻想は、もう終わったようです。時代の変化は、速いようです。そういえば、マッチョ同士、石原慎太郎三島由紀夫を「女の腐ったような奴」と批判していました。ただし、「学生のフェミニストなんか信用しない」(小倉千加子)。学生は、性差別のなんたるかをまだ実感できていない、ということです。この学生も、まだわかっていないのだと思います。

2016-03-21

天理教教祖の「力だめし」について

力だめしの話


 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。

 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛のものと雖も、神の方には、敵一倍、皆この通りやとお聞かせ被下。是れ教祖様、御自身の力にあらず、正しく神様の入込み給ふ事を示し給ふなり。

 又手の甲を出さしめて、御自身のひとさし指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給ふに、痛さ身にしみて堪え兼ね、恐入らぬ者はなかりしと。

 かゝかる力だめしを受けし人々は、あまたある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあひ給う時、くはしきお咄あり。

『この道の最初、かゝかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬほうがましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとしたことは、三度まで有つたがな。井戸側へすつくと立って、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、聲がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねたる〃、かへれ〃」と仰有る。

 是れは、神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば戻られる。是非なく、そつと寝床へはいつて、知らぬ顔して寝て終わつたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終わつて、どうも仕様がなかつた。すると、やつぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに「短気をだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねる〃、かへれ〃」と仰有るから、ぜひなく、戻つて寝てしまう。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふように死ぬことは出来なんだ。

 そこで、今日は神さんがな、けふの日をまちかねたのやで。もう八十すぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がない、と誰も思ふやろう。こゝで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうない。よって、力だめしをして見せよと仰有るでな。おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つ張つて見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれ共、忽ち引上げらるゝ様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをしてみせよ、と仰有るから、してみせるのやで』とお聞かせ被下さりたりと。又仰有らるゝに、

『年のよるのをまちかねるといふは、一つには、四十臺や五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑ふ者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年のよるのを、えろう、お待ちかねでござったのやで』と聞かせ給ふ。尤もの事にこそ(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、pp.138-141)。


天理教教祖の「力比べ」を見聞したものは、社会的不正義に対して<暴力>に訴えたり、大塩平八郎のように<謀反>を起こしたりする必要はなく、安心して<神にもたれて通る>信仰一筋の生活をしていればよい、と確信できたでしょう。

2016-03-11

天理教教祖の侠気について

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


 教祖様がきかせられましたが、

『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田註;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田註;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、p259)


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田註;聖典)『おふでさき』で、次のように信者が<暴力>に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


 天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治10年(1877年)に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上、p259)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が多額の献金するのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も少なからずいたからこそであろう。明治10年に書かれた『おふでさき』のこの文章の背後は、まるで政府の「松方デフレ政策」による農民層の生活困窮を予見していたかのようである。


 明治14年から大蔵卿松方正義の手によって始められる不換紙幣の整理は、世に“松方デフレ政策”といわれるように、極端な低米価政策と増税によって、明治七年から十年にいたる一連の西南動乱の軍事費調達のために発行された 膨大な不換紙幣を一気に消却しようとする強硬策であった。

 この政策の煽りをまともにうけた農民層の社会変動は深刻であった。明治十六、七年には米価はそれまでの半分以下に低落し、他の農産物の価格も大幅に値下がりした。しかも是と併行して地方税が増加したため、税金は実質的にはそれまでの三倍ぐらいの重さで農民の肩にのしかかった。官憲は容赦なく税金不納の農民のわずかな所持品をどんどん公売に付した。農民の多くは先祖伝来の零細な土地を手放さなければ税金も払えず、生きてゆくこともできないという深刻な状態が全国の農村を巻きこんでいった。明治十七年を頂点とする数年間のこの不況の波は、農民層に大きな階層的変動を与え、自作農は土地を失って大量に小作農に転落し、小作農はますます貧窮化して賃労働者化してゆく。そして一方には、貸金を代償にこれらの土地を集積する寄生地主(所有地をもっぱら小作人に工作させる地主)が発生していった。

 こうした情勢を背景として、明治十五年から十八年ころにかけて、全国的に農民の騒擾事件が続発してゆく。とくに東山養蚕地帯に属する福島・群馬・埼玉・長野・山崎・静岡・岐阜などの各県では、負債の返済を求める集団行動や、それが激発して高利貸を襲撃して借金証文を破棄するような直接行動が、困民党・借金党などの名称を名のる集団を主体にして行われていく。

 自由民権運動の激化事件といわれる福島・群馬・秩父・飯田・静岡などの諸事件は、「自由党実行派」の企画する革命方式が、これらの農民騒擾とさまざまな形で連関しつつ、同じ地域で同じ基盤の上に起こってくるのである(長谷川昇『博徒と自由民権ー名古屋事件始末記ー』中公新書、1977年、pp.146-147)。


 みきの上記にある暴力否定の『おふでさき』は、松方デフレに起因するようなこうした農民騒擾と天理教との間に、はっきりと暴力否定という一線を引こうとしたものであろう。『正文遺韻抄』所収の上記の逸話は、教祖のなにかの発言と講談のような大衆文芸のなかの「義賊もの」が混線したのであろう。

 「いかほどの剛的(熊田註;力の強い者)あらば出してみよ 神のほうには倍の力や」(『おふでさき』第3号、明治7年)という「おふでさき」の文章を読み、みきが力自慢の男たちと「力比べ」をして簡単に負かしていたという「逸話」を聞いていた信者たちは、官憲の弾圧や社会的不正義に対して、暴力に訴えなくとも、「神にもたれて通る」生き方をしてさえいればそれで大丈夫なのだ、と納得しただろう。

2012-07-06

アキハバラの<侠>と<粋>

 AKB商法に代表される最近のアイドル商法ついて、テレビで荒俣宏が、「推しメン」(応援メンバー)の文化は相撲の「タニマチ」の「育てる」という楽しみを大衆化(商業化)したもので、「百も承知で馬鹿を楽しむ」江戸町人の<粋>の美意識を引き継ぐものだ、と解説していました。私もそう思います。

 東大宗教学の島薗先生に、「熊田氏が興味を持つのは、釜ヶ崎よりもまずアキハバラであるように思うが、そのふたつはどう関係しているのか?」という意味のことを問われたことがありますが、「弱きを助け、強きを挫く」という<侠>の文化と<粋>の文化は、江戸時代との関連では、<武士>の文化ではなく<平民>の文化の精髄であるという点が共通していると思います。

2011-07-23

天理教教祖の侠気

 (熊田註;天理教の原典である)おふでさきに地震・大風などの文言が登場するのは「第6号」からだが、そのお歌のご執筆は教祖が奈良県庁の呼び出しに応じて円昭寺(山村御殿)へ行かれた後のことである。


 月日よりたんゝ心つくしきり

 そのゆえなるのにんけんである(六 88)

(村上重良註;親神が創造以来現在まで、心を尽くして人間を守護しているからこそ、人間がこんにち在り生活している ことを忘れてはならない、という意味)

 それしらす今のところハ高山ハ

 みなはびかりてまゝにしている(六 89)

 この月日大一(村上註;第一)これがさんねんな

 どんなかやしをするやしれんで(六 90)

 このせかい山ぐゑ(村上註;山崩れ)なそもかみなりも

 ぢしんをふかぜ月日りいふく (六 91)


 まことに激烈である。ただ、この「高山」という意味を政治権力や世の上層階級でなく、「たすけ一条の親心を妨げるもの」と解するなら、私たち一人ひとりの胸に住まう「高山」を糺(ただ)していかなければなるまい。

 とはいえ、災害は決して天罰ではない。教祖はどこまでも万人のをやである。


 どのようふなものも一れつ(村上註;平等に)ハかこ(村上註;我が子)なり

 月日の心しんぱいをみよ   (六 119)


(井筒正孝「災害にをやの思いを尋ねて」『みちのとも』2011年8月号、天理教道友社、2011年、p45)


天理教教祖のいう「高山」をこのように解釈することには無理があるように思います。文字通りに、「政治権力や世の上層階級」ととり、天理教教祖の「(女性の)侠気」がよく表現されている部分と解釈するべきではないでしょうか。   

2008-09-30

映画「次郎長三国志」について

 マキノ雅彦監督の角川映画「次郎長三国志」が、9月20日から全国公開されています。

http://www.jirocho-movie.jp/

 1990年代(「失われた10年」)には「忠臣蔵=プロジェクトX」的男性性が、2005年には新渡戸稲造の<発明>した「キリスト教的武士道」に依拠した藤原雅彦の「国家の品格」が、大いにもてはやされました。もし映画「次郎長三国志」がヒットすれば、日本人の男性性は、ようやく「侠気」へと変貌を遂げ始めた、ということでしょう。