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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-02-18

時代の狩人

(前略)つまり、筆者にとっての安部公房の最大の魅力は、「時代の狩人」としての彼の卓越した感知・予見能力にあったのだと(木村陽子『安部公房とはだれか』笠間書院、2013年、p296)。


*同感です。私も、ささやかながら良き「時代の狩人」たる社会学者の端くれになりたいものです。

2011-03-21

パーソナリティ障害と実存主義

 境界性人格障害などの人格障害の増加は、こうした実存主義的な価値観の浸透とリンクした現象に思える。また、実存主義的な価値観が、現代人の自己愛的な精神構造とうまくマッチし、互いを強化し、人格障害的な行動様式を促進していると考えられる。かつては、不道徳とされた、自己愛的な行動も、「自分に素直に生きろ」「今を輝け」という心強いスローガンに守られて、大きな顔でまかり通ることになるのである(岡田尊司『人格障害の時代』平凡社新書、2004年、p182)。


太宰治の場合は、確かにそうでしょう。

2009-08-14

鶴見俊輔さんの影響

 私は、昔から評論家の鶴見俊輔さんのファンです。拙著「男らしさという病?」も、鶴見さんの「これからの日本で期待できるのは、強くなった女性とわがままになった若者である」という説を発展させたものです。最近の私の仕事も、鶴見さんの「これからの日本社会は、江戸後期あたりをヒントにして、経済大国から中程度の国家へと落ちぶれていくべきである」という説を発展させたものです。

2009-08-12

僕らはみんな生きている、生きているから痛いんだ

 人間とは、苦難を免れがたい(vulnerableな)存在である。

2008-07-25

天使のたまご―個人化された社会における重要な他者

中澤英雄さんは、カフカの思想を「神話的要素を抜き去ったグノーシス主義」として分析しています。

押井守監督の傑作OVA「天使のたまご」も、同様に分析することができると思います。

http://deutsch.c.u-tokyo.ac.jp/~nakazawa/Kafka/nazo1.htmより転載

 ハンス・ヨナスはグノーシス思想の根本特徴を、超越的な神性と闇としての世界の「ラディカルな二元論」としている。「神性は絶対的に超世界的であり、世界とはまったく本質を異にしている。[・・・・]世界は闇の産物であり、[・・・・]神的な光の領域の対極にある」。これは宇宙を調和=コスモスとしてとらえるギリシア思想に対する反逆を意味していた(反宇宙的二元論)。闇であり、霊としての人間を閉じこめる牢獄である世界は、超世界的な神(異邦の神)によってではなく、「アルコーン」と呼ばれる下位の諸権力によって創造された。この低次の神は、プラトンの『ティマイオス』における世界創造者であるデミウルゴスの名で呼ばれることもある。このような神観は善なる神による世界創造を認めるユダヤ教に対する反逆でもあった。神性と世界とのこのような二重性に対応して、人間も霊と肉からなる二重存在者である。この世と無縁な霊的自己は、アルコーンやデミウルゴスが人間を閉じこめておく牢獄として作った肉体に囚われている。しかし、人間は超越的な神の「知識」=「グノーシス」を獲得することによって、宇宙を脱して彼方の神のもとに到達できるのである。

『チューラウ・アフォリズム』は人間を「不壊なるもの」という神的自我と肉体的・現世的自我という二重存在者として、世界を神的自我の住む楽園=精神的世界と現世的自我の属する感覚的世界の二重世界として描き出している。超越的な神性の世界と牢獄としての現世、霊としての「不壊なるもの」とその解放を邪魔する現世的自我という、カフカに見られる「ラディカルな二元論」の構造はまさにグノーシス的である。もちろんカフカの思想をグノーシスとすっかり同一視することはできない。彼はグノーシスの説く邪悪な創造神デミウルゴスを認めていない。古代末期のこのような神話は、啓蒙主義を経過した近代ヨーロッパ人にはとうていそのままの形で受け入れられるはずはない。そもそもカフカの使う神という言葉には人格神という意味はない。彼において神という言葉はほとんど楽園と同じ意味である。『チューラウ・アフォリズム』によれば、人間はデミウルゴスによって牢獄に閉じ込められたのではなく、自分自身の罪によって、罪というよりは認識=意識作用によって、楽園から現世へと転落したのである。カフカのこのような考え方は、いわばデミウルゴスという神話的要素を抜き去ったグノーシス思想と呼ぶことができる。

カフカに本来的に存在していたこのような「ラディカルな二元論」のうち、『彼』では牢獄としての世界のイメージが『チューラウ・アフォリズム』におけるよりもはるかに強く前面に出ている。これに対して、遠近法的二元論のうち、「あるのはただ一つの精神的世界だけである」という楽園的視点は、『彼』ではほとんど消え去っている。これはなぜであろうか。

 「究極の事物」=「不壊なるもの」をめぐる『チューラウ・アフォリズム』はカフカに、人間の内奥に「不壊なるもの」と彼が名づける、人類の共同性の根拠となるべき神的な基盤が存在することを教えた。しかし、それは同時に、現実の世界とそこに住む人間が、この神的な領域からはるかに遠ざかった、虚偽の生を送っていることも明らかにした。この遠近法的二元論は、現世の中にあっても人間は「この世でそれを知る知らないにかかわりなく」、もう楽園にあって救われているのだ、という希望に満ちた肯定的信仰にもなれば、逆に「不壊なるもの」=「楽園」を一度予感した者に、虚偽の世界を、それを知る以前よりももっと堪えがたく思わせる危険も存在した。問題は『チューラウ・アフォリズム』で獲得された認識が、カフカのその後の生をどのような方向に形成するか、ということであったのだが、「不壊なるもの」に関する知は、ユーリエ体験の苦悩と第一次世界大戦後の社会的混乱に出会って、カフカを肯定的信仰と生の肯定にではなく、牢獄としての世界に対する絶望に導くことになった。このグノーシス的世界拒否の感情においては、『チューラウ・アフォリズム』ではあれほど素晴らしい「逃げ道」に思えた認識も、もはやいかなる「慰め」ももたらしてくれない。この間の事情を端的に示しているのが『彼』の中の次の有名なアフォリズムである。

「彼はアルキメデスの点を発見したが、それをただ自分をくつがえすために用いた。明らかに、ただこの条件のもとでのみ、彼はそれを発見することが許されたのであった。」

 カフカの「アルキメデスの点」は、ヴェルナー・ホフマンも指摘するように、「不壊なるもの」の別名である。しかしホフマンのように、この「アルキメデスの点」の発見によってカフカが肯定的な信仰者になった、と考えることは誤りであろう。『彼』が描き出しているのは、ホフマンが考えるようなキルケゴール的信仰者ではなく、「悲惨を指さすことによって、太陽を否定する」絶望者である。「アルキメデスの点」はそれをうまく用いれば、人が世界をくつがえす、すなわち虚偽と悪の世界を覆滅させることができる地点なのであるが、それを逆に用いると、反対に「自分自身をくつがえす」、すなわち、自分を底なしの絶望に陥れることにもなる。カフカが『チューラウ・アフォリズム』で発見した「アルキメデスの点」=「不壊なるもの」は、本来なら虚偽の世界をくつがえす支点となるべき境位であったが、それは逆に、虚偽の世界の破壊しがたさを前にして、世界という牢獄に囚われている自己の姿をいっそう強く浮かび上がらせ、「自分をくつがえす」ことになった。本来最も肯定的であるべきものが、最も否定的に作用する――これがカフカにおける逆説的弁証法である。