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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-01-19

記憶の外部化と学問

 灘中の入試は、国語(200点)算数(200点)理科(100点)で、社会が入試科目にありません。これは、社会のような「暗記もの」の努力量ではなく、純粋に思考力のみで学生を選抜したいからです。一理あると思います。特に、IT革命が進み、単純記憶はネット情報へと「外部化」された現代社会では、十分に意味があると思います。宗教社会学でも、辞典編纂型の研究者は、昔より存在価値が低くなってきたと思います。

2016-08-14

オリンピックと国民の兵士化

 安部公房が、オリンピックだって「国民の兵士化」に通じる、と批判していましたが(『死に急ぐ鯨たち』)、一理あると思います。オリンピックの視聴者が、自国以外の選手にもっと関心をもち応援するようになれば、そういう批判は回避できるようになるでしょう。

 しかし、ロシアドーピング問題などを見ると、道は遠そうです。せめて「国別メダル獲得数」を競うことだけでも、やめてほしいものです。


ラファエラの金メダルは日本の勝利でもある

http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160813-column.html

2016-06-07

「世界に一つだけの花」と競争社会

 現代日本の「孤独な競争社会」―明治30年代からの修養的立身出世主義(「慰めの哲学」)と、1980年代からの自己実現的立身出世主義(個性に即した自己実現)との合流―を考えさせるために、授業でSMAPの楽曲「世界にひとつだけの花」(2003年)を流しました。学生約90人のほぼ全員が、「この曲は好きだ」と答えました。学生のひとりは、CDを借りにきました。現代日本の「孤独な競争社会」は、それほど厳しいものになっているのでしょう。

2015-11-09

ミュンマーの「強い女性」

 ミャンマーでは、開発独裁を担った軍事政権が、日本の天皇と同様の「血統カリスマ」である「強い女性」が率いる「民主化勢力」に取って代わられるようです。よく考えてみれば、現代日本も、まだ似たような状況に置かれているのかもしれません。現代の日本に、ミャンマーを「遅れている」と言うことはできないのではないでしょうか。

SEALDs女子を襲うネットの闇

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20151109-00051257/


*比較的性差別は少ない東南アジアのミャンマーと比べて、どちらが「進んでいる」のやら。

2015-09-13

日本人と植民地意識

 しかも、日本人の現実は、いぜんとしてやはりボルタク(熊田註;フランス映画『目には目を』に登場する、アラブ人である植民地原住民)的なのである。ヴァルテル(熊田註;フランス人である植民地支配者)のような、善玉でも悪玉でもない、しかも確信に満ちたアメリカ人が町の中をうろつきまわっているではないか。それもフランスやイギリスをうろつくようにではなく、やはり彼らの東洋をうろつくようにである。(中略)かつて自分がヴァルテルの運命(ボルタクに復讐されて殺される)に出逢ったのだという事実からさえ目をそむけているものに、自分がボルタクであることを認識できるはずもないわけだ(安部公房「砂漠の思想」『砂漠の思想』講談社文芸文庫、1994年(初出1958年)、p342)。


*白井聡氏の『永続敗戦論』をはるかに先取りしている議論です。ここで取り上げられている映画『目には目を』は、少年時代の私にトラウマを与えた映画の一本です。

2015-08-27

日本のアメリカ化と町人文化

 それよりも、問題なのは、日本の中に充満したアメリカの影である。これは、アメリカの帝国主義的な政策の結果であり、また日本の買弁的な政治家の仕業なのだとある種の人は言っていた。だが、はたしてそれだけだろうか?ただ単に外部からの働きだけではなく、日本の内部に、それに照応するものがすでに潜在しており、アメリカの接近によって、それが誘発されたのだと、考えられる余地はまったくないものであろうか?(安部公房「アメリカ発見」『砂漠の思想』講談社学術文庫、1994年(初出1958年)、p377)。


*日本の戦前には、「武士的なもの」に抑圧されていた江戸時代の「町人的なもの」―<侠>と<粋>の文化―が誘発されたのではないでしょうか。アメリカという「お上」への従順さまで含めて。

2015-02-09

妖怪ウォッチと子供の「いじめ」

http://togetter.com/li/713976

『妖怪ウォッチ』が子供社会を救う? 〜 問題の可視化、許しと共存 〜


*ありそうな話です。