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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-03-24

天理教教祖と「民衆の暴力」

 天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年の八月に公卿中山忠光を擁した天誅組が五条の幕府代官所を襲撃し倒幕を目指す内戦の口火を切った。翌年の元治元(一八六四)年五月五日には、教祖の生家がある三昧田村で幕府の間諜とみなされた絵師冷泉為恭が長州浪人の手によって暗殺されている。

 こうした体制変革の担い手は公家や武士といった特定の階級だけではなく、特に幕末期には一揆や打ち壊しという形で庶民階層にまで広がっていった。ある研究者の統計によれば、一揆の発生件数は「慶応三か年に限れば年平均は四四・三件となり、江戸時代最大」となっている。それにつれて、都市の打ち壊し件数も相当数に上ったであろう。じっさい、大和の町々でも強訴や打ち壊しが頻繁に発生していたことを地方文書は伝えている。

 このような時代状況のなかで、教祖の最初の体系的な教えが「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』として展開された。「陽気ぐらし」を教える教祖は、暴力と流言の横行する騒然とした世情のなかで「こ々はこのよのごくらくや」と宣言し、不安におびえていた多くの民衆に不思議な心の安らぎを与えた。そして、平安を希求する人々の願望に一つの道筋をつけるための方法として「つとめ」を教えはじめた。時に慶応三(一八六七)年。江戸幕府が音を立てて崩れ落ちる年のことであった。この年には、教祖の膝元といってもよい街道沿いの宿場町である丹波市村でも打ち壊しが起こっている(池田士郎『中山みきの足跡と群像ー被差別民衆と天理教ー』明石書店、2007年、pp.100-101)。


*「特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった」からこそ、教祖は男性たちと「力比べ」をして「神の方には倍の力」と説いて、暴力に訴えることなく「神にもたれて通る」ことを教え諭す必要があったのであろう。

 しかし、私は池田の次の見解には賛成しない。


 教祖が「むほんづとめ」(平和を祈る歌と踊り)を教えた頃(熊田註;明治八(一八七五)年)、日本では明治維新という近代革命後の政権のあり方をめぐって旧士族の反乱が相次いでいた。明治七(一八七四)年には佐賀の乱、九年には熊本神風連の乱長州萩の乱、一〇年には西南戦争が起こっている。こうした内乱は地方軍閥の武装蜂起という形をとっているが、根本的には、教祖が「高山」と呼ぶ権力者階層の覇権争いにほかならず、民衆はその犠牲者あった(同上、pp.105-106)。


*ここで池田は、「民衆は権力者の一方的な被害者であった」という旧左翼的な民衆観に囚われているように思われる。池田に欠けているのは、「<暴力>の主体としての民衆」という視点である。教祖が「むほん(謀反)」という時、もちろん「高山」(権力者)の暴力も念頭に置かれていたが、同時に教祖は江戸時代なら「一揆・打ち壊し」、明治時代なら「農民騒擾」という形で現れるような、「谷底」(民衆)の暴力も念頭に置いていたと思う。事実、教祖存命中の明治一五年から一八年ころにかけて、明治一四年に始まる「松方デフレ政策」で窮乏した各地の農村で農民の騒擾事件が続発している(長谷川昇『博徒と自由民権ー名古屋事件始末記ー』中公新書、1977年)。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで(村上註・人間のしていることが、その人の真実からのこととは見うけられないので) そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(村上註;力の強い者)たるも若(はか)き(村上註;若く元気な者)ても これを頼(たよ)り(村上註;頼りにできる)と更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


 天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治10年(1877年)に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。この暴力否定の「おふでさき」が、次の「おふでさき」とおなじ13号で同日に書かれていることは、<暴力>の問題は、「高山」(権力者)だけの問題ではなく、「谷底」(民衆)の問題でもあると教祖が考えていたことを示している。


この話(話)何処(とこ)の事とも言(ゆ)わんでな 高山にても谷底(たにそこ)までも(村上註;「民衆の側でもよく聞いておかねばならない」)(中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p153)


 明治14年から大蔵卿松方正義の手によって始められる不換紙幣の整理は、世に“松方デフレ政策”といわれるように、極端な低米価政策と増税によって、明治七年から十年にいたる一連の西南動乱の軍事費調達のために発行された 膨大な不換紙幣を一気に消却しようとする強硬策であった。

 この政策の煽りをまともにうけた農民層の社会変動は深刻であった。明治十六、七年には米価はそれまでの半分以下に低落し、他の農産物の価格も大幅に値下がりした。しかも是と併行して地方税が増加したため、税金は実質的にはそれまでの三倍ぐらいの重さで農民の肩にのしかかった。官憲は容赦なく税金不納の農民のわずかな所持品をどんどん公売に付した。農民の多くは先祖伝来の零細な土地を手放さなければ税金も払えず、生きてゆくこともできないという深刻な状態が全国の農村を巻きこんでいった。明治十七年を頂点とする数年間のこの不況の波は、農民層に大きな階層的変動を与え、自作農は土地を失って大量に小作農に転落し、小作農はますます貧窮化して賃労働者化してゆく。そして一方には、貸金を代償にこれらの土地を集積する寄生地主(所有地をもっぱら小作人に工作させる地主)が発生していった。

 こうした情勢を背景として、明治十五年から十八年ころにかけて、全国的に農民の騒擾事件が続発してゆく。とくに東山養蚕地帯に属する福島・群馬埼玉長野・山崎・静岡岐阜などの各県では、負債の返済を求める集団行動や、それが激発して高利貸を襲撃して借金証文を破棄するような直接行動が、困民党・借金党などの名称を名のる集団を主体にして行われていく。

 自由民権運動の激化事件といわれる福島・群馬秩父・飯田・静岡などの諸事件は、「自由党実行派」の企画する革命方式が、これらの農民騒擾とさまざまな形で連関しつつ、同じ地域で同じ基盤の上に起こってくるのである(同上、pp.146-147)。

2016-03-23

天理教教祖と暴力

 今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。

 教祖の誕生した寛政年間は、いわゆる寛政の改革が行われた時代である。天明の大飢饉とその後の物価騰貴で幕府や諸藩の財政は疲弊しだし、商業資本の成長は農民の土地放棄に拍車をかけ、幕藩支配体制の危機をもたらした。そこで幕府は、極端な緊縮政策に基づく幕藩体制の建て直しを図ろうとしたが、財政基盤の弱い諸藩は倹約と年貢の取り立てぐらいではとても財政再建など望むべくもなかつた。逆に厳しい倹約は人々の不満をつのらせ、各地で一揆や打ち壊しという騒動が頻発するようになった。教祖が誕生する二年前の寛政八年には、西三昧田と同じ津の藤堂藩領の伊勢一志郡で三万人の農民が一斉蜂起するという騒動が起こっている。また、誕生翌年の寛政一一年には、旗本山口官兵衛所領の農民たちが三昧田から一里も離れていない岩室村の源兵衛方を襲って打ち壊しをするという大騒ぎが起こっている。こうした農民騒動の噂は三昧田をはじめ近在の村々でも人々の話のたねになったにちがいない。わけても、父半七は後に藤堂藩より無足人に列せられ苗字帯刀を許されているが、同時に目付庄屋を兼ねていたようでもあり、農民騒擾には特に敏感であったと思われる。ともあれ、教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない(池田士郎「まえがき」池田・島薗・関(編)『中山みき その生涯と思想―救いと解放の歩み』明石書店、1998年、p5)。


*「教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない」ことは、生育期の多感なみきにいや応なく<暴力>の問題を真剣に考えさせたことでしょう。

2016-03-21

天理教教祖の「力だめし」について

力だめしの話


 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。

 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛のものと雖も、神の方には、敵一倍、皆この通りやとお聞かせ被下。是れ教祖様、御自身の力にあらず、正しく神様の入込み給ふ事を示し給ふなり。

 又手の甲を出さしめて、御自身のひとさし指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給ふに、痛さ身にしみて堪え兼ね、恐入らぬ者はなかりしと。

 かゝかる力だめしを受けし人々は、あまたある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあひ給う時、くはしきお咄あり。

『この道の最初、かゝかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬほうがましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとしたことは、三度まで有つたがな。井戸側へすつくと立って、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、聲がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねたる〃、かへれ〃」と仰有る。

 是れは、神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば戻られる。是非なく、そつと寝床へはいつて、知らぬ顔して寝て終わつたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終わつて、どうも仕様がなかつた。すると、やつぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに「短気をだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねる〃、かへれ〃」と仰有るから、ぜひなく、戻つて寝てしまう。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふように死ぬことは出来なんだ。

 そこで、今日は神さんがな、けふの日をまちかねたのやで。もう八十すぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がない、と誰も思ふやろう。こゝで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうない。よって、力だめしをして見せよと仰有るでな。おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つ張つて見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれ共、忽ち引上げらるゝ様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをしてみせよ、と仰有るから、してみせるのやで』とお聞かせ被下さりたりと。又仰有らるゝに、

『年のよるのをまちかねるといふは、一つには、四十臺や五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑ふ者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年のよるのを、えろう、お待ちかねでござったのやで』と聞かせ給ふ。尤もの事にこそ(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、pp.138-141)。


天理教教祖の「力比べ」を見聞したものは、社会的不正義に対して<暴力>に訴えたり、大塩平八郎のように<謀反>を起こしたりする必要はなく、安心して<神にもたれて通る>信仰一筋の生活をしていればよい、と確信できたでしょう。

天理教教祖のB級グルメ

 教祖(おやさま)は、高齢になられてから、時々、生の薩摩芋を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。

 又、味醂も、小さい杯で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。

 又、芋御飯、豆御飯、干瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よくそれでお握りのようなものを拵えて、下された。

 又、柿の葉ずしがお好きでった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである(『稿本天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社、1976年、pp.315-316)。


中山みきは、いまでいう「B級グルメ」だったようです。宗教家と好物の関係は、案外面白いテーマかもしれません。

2016-03-20

教団への迫害

『稿本 天理教教祖伝逸話篇』

一八三 悪風というものは

 明治一八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職、その他、世間の反対攻撃もまた猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それらの反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衛門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から、教祖(おやさま)に、この点をお伺いすると、お言葉があった。

 「さあ^悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまづくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けんことはないで。」

と、お諭し下された。

 又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は、

 「さあ一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」

と、お聞かせ下された。一同は、このお言葉に、逸る旨を抑えた、という(pp.297-299)。

*みきが、社会的不正義に対してだけでなく、教団(お道)に対する迫害に対しても、暴力に訴えることは極力避けようとしていたことがわかります。

2016-03-11

天理教教祖の侠気について

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


 教祖様がきかせられましたが、

『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田註;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田註;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社、1970年、p259)


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田註;聖典)『おふでさき』で、次のように信者が<暴力>に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


 天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治10年(1877年)に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上、p259)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が多額の献金するのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も少なからずいたからこそであろう。明治10年に書かれた『おふでさき』のこの文章の背後は、まるで政府の「松方デフレ政策」による農民層の生活困窮を予見していたかのようである。


 明治14年から大蔵卿松方正義の手によって始められる不換紙幣の整理は、世に“松方デフレ政策”といわれるように、極端な低米価政策と増税によって、明治七年から十年にいたる一連の西南動乱の軍事費調達のために発行された 膨大な不換紙幣を一気に消却しようとする強硬策であった。

 この政策の煽りをまともにうけた農民層の社会変動は深刻であった。明治十六、七年には米価はそれまでの半分以下に低落し、他の農産物の価格も大幅に値下がりした。しかも是と併行して地方税が増加したため、税金は実質的にはそれまでの三倍ぐらいの重さで農民の肩にのしかかった。官憲は容赦なく税金不納の農民のわずかな所持品をどんどん公売に付した。農民の多くは先祖伝来の零細な土地を手放さなければ税金も払えず、生きてゆくこともできないという深刻な状態が全国の農村を巻きこんでいった。明治十七年を頂点とする数年間のこの不況の波は、農民層に大きな階層的変動を与え、自作農は土地を失って大量に小作農に転落し、小作農はますます貧窮化して賃労働者化してゆく。そして一方には、貸金を代償にこれらの土地を集積する寄生地主(所有地をもっぱら小作人に工作させる地主)が発生していった。

 こうした情勢を背景として、明治十五年から十八年ころにかけて、全国的に農民の騒擾事件が続発してゆく。とくに東山養蚕地帯に属する福島・群馬埼玉長野・山崎・静岡岐阜などの各県では、負債の返済を求める集団行動や、それが激発して高利貸を襲撃して借金証文を破棄するような直接行動が、困民党・借金党などの名称を名のる集団を主体にして行われていく。

 自由民権運動の激化事件といわれる福島・群馬秩父・飯田・静岡などの諸事件は、「自由党実行派」の企画する革命方式が、これらの農民騒擾とさまざまな形で連関しつつ、同じ地域で同じ基盤の上に起こってくるのである(長谷川昇『博徒と自由民権ー名古屋事件始末記ー』中公新書、1977年、pp.146-147)。


 みきの上記にある暴力否定の『おふでさき』は、松方デフレに起因するようなこうした農民騒擾と天理教との間に、はっきりと暴力否定という一線を引こうとしたものであろう。『正文遺韻抄』所収の上記の逸話は、教祖のなにかの発言と講談のような大衆文芸のなかの「義賊もの」が混線したのであろう。

 「いかほどの剛的(熊田註;力の強い者)あらば出してみよ 神のほうには倍の力や」(『おふでさき』第3号、明治7年)という「おふでさき」の文章を読み、みきが力自慢の男たちと「力比べ」をして簡単に負かしていたという「逸話」を聞いていた信者たちは、官憲の弾圧や社会的不正義に対して、暴力に訴えなくとも、「神にもたれて通る」生き方をしてさえいればそれで大丈夫なのだ、と納得しただろう。

2011-08-18

天理教/暴動/力比べ

月日にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年、p151)


天理教の原典『おふでさき』のこの部分は、明治15年に書かれた、『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。『おふでさき』のこの記述は、「谷底せりあげ」(社会的弱者の救済)を目指していた当初の天理教が、民衆の暴動(「謀反」)と紙一重の際どい運動であり、中山みきが男性信者たちと「力比べ」を行って、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説き続けていたことの狙いの少なくともひとつが、宗教運動が暴動へと転化することを防ぐことにあったことをよく示している。