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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-05-30

Basic Fault

 ただ、氏には、何の瑕疵も全く無いかと言えば、この私にも、一つだけ指摘できることがある。それは、バリントの主著《Basic Fault》を氏は《基底欠損》と訳された。私からすれば、此の「欠損」という訳はいただけない。なぜなら、欠損とは、「根本的に欠けている」という意味であり、もう補いようがないからだ。テニスのフォールトだって、ルール上、線の外にでただけであって、ボールが無くなるわけではない。第一、地質学では、これを《断層》と訳している。だから、私は、《基底断層》としたい。「ズレている」だけなので、何らかの工夫さえすれば、繋がる可能性の余地があろうからである(山中康裕「中井久夫氏の人と書物のことなど」『中井久夫精神科医のことばと作法』河出書房新社、2017年、pp.86-87)。


*確かに、中井久夫氏は精神分析家バリントのいう“Basic Fault”ー精神医学でいう「境界例」と重なるところが多いーの治療に関しては、ペシミスティックすぎたのかもしれません。

2016-01-12

基底欠損

 こうして、客観的・受身的治療関係の維持が困難となり、治療者は巻き込まれて、時には患者を誰よりも優先しなければならない時にはテレパシーで治療者の私生活や内心を透視できる超能力者ではないかと畏怖したりする。患者は嗜癖的依存と荒れたアクティング・アウトに陥りがちとなる。しかし、障害は葛藤ではなく欠損である。実際、患者は自らの障害を「何かが私には欠けている」と表現する。したがって治療は、徹底操作ではなく、指示的・補完的アプローチが適当であって、バリントによれば、治療者は四大(Four elements)のようでなければならない。すなわち、魚を浮かべる水、鳥を浮かべる風などとなって、荒れたアクティング・アウトをも支えとおし、外的満足を求める「悪性退行」(malignant regression)と対比される、認識を求める「良性退行」(benign regression)への転化とそのなかにおける「転機」(new beginning)を契機とする前進とを忍耐強く待たなければならない。治療の目標は、「欠損をかつてもっていたことを受容し、完全治癒を断念すること」である。

 彼は、師フェレンツィこそ対象関係論の祖であって、おのれはその遺志を継承するものであるとし、理論を立てていった。それは、師が治療しようとして自ら倒れた患者と同じタイプの患者を理解し、治療しようとするものであって、「基底欠損」に極まる彼の理論はその文脈におくと理解しやすい。実際、基底欠損の患者とは、しばしば境界例あるいは境界例的な患者であり、この概念はそれらの治療に資するところが少なくない。しかし、「魚を浮かべる水のごとくあれ」という治療指針は欧米よりもわが国のメンタリティに受け入れられる傾向があるやもしれず、邦訳はこの種のものとしては例外的に版を重ねている(中井久夫「基底欠損」『隣の病』ちくま学芸文庫、2010年(初出1991年)、pp.57-58)。


*基底欠損の概念は、境界例の治療にいまでも十分に参考になると思います。

2016-01-07

境界例は拘束を嫌う

 内面化のような機制に訴えることはできず、投影的同一視(熊田註;自分が怒ると相手が怒っているように認知すること)のような原始的機制が表に出る患者の治療に、精妙な言語的精神療法はありえない。おそらく、バリントが言ったように、大地や水のように、患者に対するのがよいのであろう。地のごとく支え、水のごとく浮かべ、激しい行動化に耐えていると、患者はいつか「再出発」(病い抜け)new beginningを開始する地点に到達するかもしれない。そうはならないかもしれないが、少なくとも害はないであろう。バリントの表現は西欧の人には異質なものに聞こえるかもしれないが、われわれにはよくわかるような気がする(中井久夫「軽症境界例」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(初出1987年)、p221-222)。


*私も、境界例には、カウンセリングよりセルフヘルプのほうが合うと思います。

2015-12-12

「欠落人間」だった椎名林檎

 久しぶりに椎名林檎のデビュー・アルバム『無罪モラトリアム』を聴いてみたら、彼女はスリーヴで自分のことを「欠落人間」と称していました。精神分析家・バリントがいうように、「基底欠損」(Basic Fault、精神医学でいう境界例と重なることが多い)の治療の目的が、「欠損をかつてもっていたことを受容し完全治癒を断念すること」であるなら、椎名林檎はデビュー時からすでに「治癒」していたのでしょう。

2015-08-14

BDPとの関係性ー「世間一般」の代表となるー

 以下は余談である。「うつ」とか不安や不眠を主訴に外来へ通ってくるBDP(熊田註;境界性パーソナリティ障害)に対して、わたしはどのようにゴールを定めているか。もちろん「治る」なんて期待していない。大概は歳を重ねると徐々にエネルギーが落ちてくるから、それまで大過なく暮らしていけるように微力ながら支えていくだけである。つまり相手が老いるのを待つということになる。もちろん私も同時に老いていくので、なんだか差し違いをしているようでうんざりすることがある。

 BDPとの関係性においてベストなのは、わたし自身が「世間一般の考え方や意見の代表となること」だと思っている。(中略)

 BDPは自分が特別な存在でありたいあまりに、月並みであることの気楽さや安心感を軽蔑し、そのくせ月並みであることに憧れているという厄介な人たちなのである(春日武彦『援助者必携ーはじめての精神科/第2版』医学書院、2011年、p125)。


*「世間一般」の代表となる、ということがBDPとの関係性においては大切だ、ということは理解できます。「四大」「魚を浮かべる水」のようになれ、というバリントの「基底欠損」についての見解とも一致します。

2015-01-07

境界例とスピリチュアリティ(研究ノート)

 また、境界例には、おおかれすくなかれ、一種の嗜癖性が成立する。というか、そうでないものは、多分、境界例として認知されないのだろう(中井久夫「説き語り「境界例」」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(原文1984年)、p162)。


 意識変容による解決への真剣性は、嗜癖者が、しばしば安直ならざる意識変容的解決(正確には自己変容というべきか)を求めて、ヨガや断食やなにやかやに走ることからも傍証されよう。これも境界例にみられるものである(同上、p163)。


 といっても(熊田註;境界例の患者が治療者を振り回すといっても)、患者に絶対に振り回されないぞとりきんでもかえってよくないようだ。作用・反作用の法則からしても多少振り回されるのは、むしろ自然である。ある程度のびやかにゆっくりと振り回されることであるが、このコツはヘミングウェーの『老人と海』にある。糸をピンと張らないように、リールをまいたり、もどしたりするという感じである。いつも、少したるんだ糸でつながっているというつながり方が、どうも一番楽で(多分お互いに)なが続きするらしい。患者も朝から晩まで治療者のことを考えているわけでない。そしてそのほうがずっと治療的である。病人といっても、治療中心に人生を設計する必要があるのはごく一時期だけであるようにしたい(同上、p169)。



 一般に患者というものは、なるべく特別扱いしないことが治療的である。少なくともこれは嗜癖の患者すべてに当てはまることだと思う。患者が「ワン・オブ・ゼムである自分」を体験することは健康化に繋がる。

 患者は、「独りでいられる能力」(ウィニコット)の増大とともに治療に向かう。これがいちばんの目安である。

 また患者は、しばしば自己治癒によって改善する。ヨガやその他の民間療法を試みようとする時は、はっきりした理由が無い限り反対する必要はないと思う。

 結局、境界例に対して、ちゃんとした徹底操作をして、立派な終結宣言をしようといとすることは、ないものねだり、治療者のナルシシズムである。いろいろな、一つ一つは不完全な梁によって支えられながら、その日その日を送り迎えすることが、患者の「病い抜け」に通じる道である。そう、境界例は「治癒する」というよりも「病い抜けする」のではなかろうか。どういう形に抜けるかも、治療者の腕による部分があるかもしれないが、そこまで私は定式化する勇気がない(同上、pp172-173)。


 実際、DSM-3の境界例の定義も、かねがね境界例は「不安定の安定」だといわれてきたが、それを色々な局面について言っているにすぎない気が私にはする。そして、この定義によれば何が何時突然変化するか分からないようなものであるから、これを相手に治療の手がかりを見いだそうとすることは考えるだけでも難しそうだ。結局、バリントが彼の「基底欠損患者」について言ったように、地水火風になり切って風が鳥を浮かべ、水が魚を泳がせるように、あらゆるアクティング・アウトに耐えて患者を支え続けることしかなくなるが、これはなかなかのことである。地水火風になりきれるくらい茫洋とした奥の深い大人物でなければつとまるまい。ただ、不思議なことにこういう人物のところには境界例はあまり現れないようにみえる。それとも、境界例性が消えて、それと分からなくなるのだろうか(中井久夫「説き語り「境界例」補遺」同上(初出1985年)、p175)。



*「境界例性が消えて、それと分からなくなる」のだと思います。若い頃の私は、「軽症境界例」だったと思いますが、島薗先生の前では「素直」になることができました。


 患者は、頭で世界と繋がっていても、身体で世界と繋がることは薄いと鈴木茂は指摘している。身体感覚がおぼろであることが多い。患者の訴える疲労感にも、二種類あって、緊張のための疲労感の他に、リラックスした状態が自己になじまないために疲労と感じられる場合があるようだ。身体が硬いか柔らかいかを聞く必要があるゆえんである。こういう質問は比較的無害である。実際、患者はさまざまな民間療法を受けていることが多い。また、占星術などの運命判断・性格判断も好みである。こういう術の境界性が患者に親近感を感じさせるのではないだろうか。そうすると、そもそも、精神科医のところにくるのも、精神科医の境界人性にひかれてのことだろう。境界例を多数抱えてふうふう言っている医師もあれば、境界例なんて一人もいないという医師があるのはそのためかもしれない(中井久夫「軽症境界例」同上(原文1987年)、p220)。


 内面化のような機制に訴えることはできず、投影的同一視のような原始的機制が表にでる患者の治療に、精妙な言語的精神療法はありえない。おそらく、バリントが言ったように、大地や水のように、患者に対するのがよいのであろう。地のごとく支え、水のごとく浮かべ、激しい行動化に耐えていると、患者はいつか「再出発」(病い抜け)new beginningを開始する地点に到達するかみしれない。そうはならないかもしれないが、少なくとも害はないだろう。バリントの表現は西欧の人には異質なものに聞こえるかもしれないが、われわれにはよくわかるような気がする(同上、pp221-222)。


文庫版への付記ーその後、私が気づいたことは、境界例といわれる人たちの日程が1.ぎっしりつまっていて2.多岐多様にわたることである。英語、伝統芸能、詩の諸流、日本古典文学、演奏などである。もちろん、そういう人が皆境界例だというのではない。境界例は、タクシー会社が持っているタクシーを全部出払わせているようなものである。予備車が車庫にないタクシー会社というのが、当時の私のイメージであった(同上、p222)。


*こう見ると、現代日本の「精神世界」周辺にいる人たちには、もし精神科医の診断を受けたらば、「(軽症)境界例」と診断されそうな人が大勢いるように思われます。しかし、1995年のオウム真理教事件のあとでは、「また患者は、しばしば自己治癒によって改善する。ヨガやその他の民間療法を試みようとする時は、はっきりした理由が無い限り反対する必要はないと思う」というのは、あまりにも楽天的過ぎる意見であったように思われます。

2014-12-24

奥の深い大人物と境界例

 実際、DSM-3の境界例の定義も、かねがね境界例は「不安定の安定」だといわれてきたが、それを色々な局面について言っているにすぎない気が私にはする。そして、この定義によれば何が何時突然変化するか分からないようなものであるから、これを相手に治療の手がかりを見いだそうとすることは考えるだけでも難しそうだ。結局、バリントが彼の「基底欠損患者」について言ったように、地水火風になり切って風が鳥を浮かべ、水が魚を泳がせるように、あらゆるアクティング・アウトに耐えて患者を支え続けることしかなくなるが、これはなかなかのことである。地水火風になりきれるくらい茫洋とした奥の深い大人物でなければつとまるまい。ただ、不思議なことにこういう人物のところには境界例はあまり現れないようにみえる。それとも、境界例性が消えて、それと分からなくなるのだろうか(中井久夫「説き語り「境界例」補遺」「世に棲む患者」ちくま学芸文庫、2011年(初出1985年)、p175)。


*「境界例性が消えて、それと分からなくなる」のだと思います。若い頃の私は、「軽症境界例」だったと思いますが、島薗先生の前では「素直」になることができました。