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2018-09-20

「人を助けて我が身たすかる」を再考するー生物学的本質主義に向けてー

「人間文化研究所所報」44号(2018年9月刊行)

<題名>「人をたすけて我が身たすかる」を再考する−生物学的本質主義に向けて−

<著者>熊田一雄(宗教文化学科)

 私はかつて、「人をたすけて我が身たすかる」という天理教の信仰指導を実行に移したら、長年苦しめられてきた不安障害パニック障害)が治癒したという天理教信者の体験談を分析して、天理教で「おたすけ」を行う際の「たすかりたい」から「たすけたい」という視点の転換には、一種の「認知行動療法」の側面がある、と論じた(熊田2012)。今もその考えに変化はない。しかし、その後、他宗教の事例や医学情報を知るにつけ、「助け合う」ことには、一種の「認知行動療法」の側面があるだけではなく、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されているのではないか、という「生物学的本質主義」の見解を抱くようになった。この小論では、その間の事情を説明したい。

 1935年にアメリカで誕生し、その後世界中に広がったアルコール依存症患者の自助グループAA(Alcoholics Anonymous)は、アルコール依存症だけではなく、現代の様々な依存症の自助グループの原点ともなったという点で、宗教史上重要な存在である。AAの出発点は、以下のような二人のアルコール依存症患者の出会いである。


1935年、オハイオ州アクロンで二人の男の出会いがあった。当時二人とも絶望的な酔っ払いと見られていた。彼らの知り合いたちにとってもそれは恥ずべきことだった。一人はウォール街の腕利きで、一人は名うての外科医だった。二人とも死にそうなほど酒浸りになっていた。それはそれは数多くの「治療法」を試し、何度も入退院を繰り返していた。確かに彼ら自身から見ても、もう手の施しようがないように思えた。

 お互いが知り合ってから、ほとんど偶然に、驚くべき事実をつかんだ。その事実とは、お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられることだった。二人はこの考えを得て、病院のベッドに閉じ込められたアルコホーリクの弁護士のところへ話に行った。その弁護士もやってみる気になった。

 この三人はそれぞれの生活の中で、アルコホーリクの手助けを次々に続けた。手助けが望まれないこともあったが、彼ら自身にとってその試みは値打ちのあるものだった。なぜなら、たとえ「患者」は飲み続けていたとしても、自称「援助者」は飲まずにいられたからだった(AA日本ゼネラルサービス1979、p177)。


 なぜ「お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられる」のかは、神学的に「人たすけて我が身たすかる」という天理教の宗教的教義によっても説明できるだろう。また、心理学的にそれを一種の認知行動療法(社会構築主義)と言い換えてもよいだろう。しかし、次のような医学的情報となると、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されている、と生物学的本質主義に依拠しなければ、もう説明がつかないのではないだろうか。


 ある実験では実は人に親切にする行動を1か月間1日3回行うと、寝たきり予防に効果があるというデータが出たそうです。

 人間は昔から群れで行動し、協力し合って生き残ってきたため人に親切にするということは仲間と暮らしていくうえでとても大切でした。

 そのため人に親切にするということが体にとっていい影響があるようにプログラムされているんだそうです。

 人は常に体の中で炎症が起きていますが、人とのつながりが少ないと体に起こる炎症が強くなることがわかっています。

日本の実験でも、寝たきりの危険度を調べた実験で

・運動なし人とのつながりなし

・運動だけあり

・つながりだけあり

・運動ありつながりあり

の4つのグループでは、運動ありつながりありのグループが最も危険度が低く、運動なし人とのつながりなしのグループが危険度が最も高くなっていました。

 また注目すべきは運動だけありとつながりだけありのグループで、普通に考えたら運動だけありのグループの方が寝たきりの危険度は低くなりそうですが、実際は人とのつながりだけありのグループの方が危険度が低かったという点です。

つまり1人でしっかりと運動するよりもグループで軽めの運動をしたほうが介護予防に効果があるというわけなんですね(「ガッテン究極の寝たきり予防法!人とのつながりが対策になる!」)。


 約20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、「集団で狩りをする」(オオカミの真似をしたという説もある)ことによって、狩猟採集時代に一気に増殖した。約1万年前に農耕社会に移行したが、農耕も集団でなければ不可能な仕事である。さらに、脳が大きくなりすぎた現生人類は、他人の手助けなしには、産道を通過させて「出産」することも難しい。こうした条件下で、「助け合わない」個体は自然淘汰され、「助け合う」と健康になるように遺伝的に設計された個体のみが今日まで生き延びたのではないだろうか。

 もちろん、こうした「助け合い」を生物学的本質主義によって説明する進化心理学的・医学的仮説は、医学的研究のさらなる蓄積によって裏付けられる必要がある。しかし、「人間関係の希薄化」が進行する現代の先進国の現状を見るにつけ、「助け合い」についてのこうした生物学的本質主義による説明は、人間性についていかにも的を射た説明のように思えるのである。


<参考文献>

AA日本ゼネラルサービス『どうやって飲まないでいるか』AA日本出版局、1979年

熊田一雄「不安障害の信仰治療について―天理教の事例から―」『愛知学院大学文学紀要』41号、愛知学院大学、2012年

ガッテン究極の寝たきり予防法!人とのつながりが対策になる!」

https://hamsonic.net/bedridden-2/2018年6月28日アクセス

2018-09-19

「天理教教祖と暴力」を再論する

愛知学院大学大学文学紀要48号原稿(2019年3月刊行予定)


<題名>「天理教教祖と暴力」を再論する

<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)

<Title>Rethinking “The Foundress of Tenrikyo and Violence”

<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor, Department of Religious Culture)


<要旨>

 天理教教祖の中山みき(1798-1887)は、年老いてから、男性信者としばしば力比べを行い、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。本論では、第一に社会的弱者・困窮者の救済を目指した自分の宗教運動が、貧窮者の現実の暴動にならないように、教祖は力比べを行う必要があったと論じる。また、ジェンダーに基づく暴力に関して、教祖は、妻は夫を立てるべし、とは言っていなかったことを確認する。最後に、現在の天理教子ども食堂の取り組みを紹介する。


<キーワード>

天理教教祖/力比べ/民衆による暴力/ジェンダーに基づく暴力/子ども食堂


―いちに百姓たすけたい

 学者・高山、後回し(中山みき


1.教祖の幼少期と暴力

 池田は、教祖の幼少期と暴力との関係について次のように説明している。


 今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。

 教祖の誕生した寛政年間は、いわゆる寛政の改革が行われた時代である。天明の大飢饉とその後の物価騰貴で幕府や諸藩の財政は疲弊しだし、商業資本の成長は農民の土地放棄に拍車をかけ、幕藩支配体制の危機をもたらした。そこで幕府は、極端な緊縮政策に基づく幕藩体制の建て直しを図ろうとしたが、財政基盤の弱い諸藩は倹約と年貢の取り立てぐらいではとても財政再建など望むべくもなかつた。逆に厳しい倹約は人々の不満をつのらせ、各地で一揆や打ち壊しという騒動が頻発するようになった。

 教祖が誕生する二年前の寛政八年には、西三昧田と同じ津の藤堂藩領の伊勢一志郡で三万人の農民が一斉蜂起するという騒動が起こっている。また、誕生翌年の寛政一一年には、旗本山口官兵衛所領の農民たちが三昧田から一里も離れていない岩室村の源兵衛方を襲って打ち壊しをするという大騒ぎが起こっている。こうした農民騒動の噂は三昧田をはじめ近在の村々でも人々の話のたねになったにちがいない。

 わけても、父半七は後に藤堂藩より無足人に列せられ苗字帯刀を許されているが、同時に目付庄屋を兼ねていたようでもあり、農民騒擾には特に敏感であったと思われる。ともあれ、教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない(池田士郎「まえがき」池田・島薗・関1998、p5)。


 「教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない」ことは、生育期の多感なみきにいや応なく暴力の問題を真剣に考えさせたことだろう。


2.天理教と民衆による暴力

 池田は、天理教と暴力の関係を次のように説明している。


 天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年の八月に公卿中山忠光を擁した天誅組が五条の幕府代官所を襲撃し倒幕を目指す内戦の口火を切った。翌年の元治元(一八六四)年五月五日には、教祖の生家がある三昧田村で幕府の間諜とみなされた絵師冷泉為恭が長州浪人の手によって暗殺されている。

こうした体制変革の担い手は公家や武士といった特定の階級だけではなく、特に幕末期には一揆や打ち壊しという形で庶民階層にまで広がっていった。ある研究者の統計によれば、一揆の発生件数は「慶応三か年に限れば年平均は四四・三件となり、江戸時代最大」となっている。それにつれて、都市の打ち壊し件数も相当数に上ったであろう。じっさい、大和の町々でも強訴や打ち壊しが頻繁に発生していたことを地方文書は伝えている。

 このような時代状況のなかで、教祖の最初の体系的な教えが「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』として展開された。「陽気暮らし」を教える教祖は、暴力と流言の横行する騒然とした世情のなかで「こ々はこのよのごくらくや」と宣言し、不安におびえていた多くの民衆に不思議な心の安らぎを与えた。そして、平安を希求する人々の願望に一つの道筋をつけるための方法として「つとめ」を教えはじめた。時に慶応三(一八六七)年。江戸幕府が音を立てて崩れ落ちる年のことであった。この年には、教祖の膝元といってもよい街道沿いの宿場町である丹波市村でも打ち壊しが起こっている(池田2007:pp.100-101)。


 「特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった」からこそ、教祖は男性たちと「力比べ」をして「神の方には倍の力」と説いて、暴力に訴えることなく「神にもたれて通る」ことを教え諭す必要があったのであろう。

 しかし、私は池田の次の見解には賛成しない。


 教祖が「むほんづとめ」(平和を祈る歌と踊り)を教えた頃(熊田註;明治八(一八七五)年)、日本では明治維新という近代革命後の政権のあり方をめぐって旧士族の反乱が相次いでいた。明治七(一八七四)年には佐賀の乱、九年には熊本の神風連や長州萩の乱、一〇年には西南戦争が起こっている。こうした内乱は地方軍閥の武装蜂起という形をとっているが、根本的には、教祖が「高山」と呼ぶ権力者階層の覇権争いにほかならず、民衆はその犠牲者あった(同上、pp.105-106)。


 ここで池田は、「民衆は権力者の一方的な被害者であった」という旧左翼的な民衆観に囚われているように思われる。池田に欠けているのは、「<暴力>の主体としての民衆」という視点である。教祖が「むほん(謀反)」という時、もちろん「高山」(権力者)の暴力も念頭に置かれていたが、同時に教祖は江戸時代なら「一揆・打ち壊し」、明治時代なら「農民騒擾」という形で現れるような、「谷底」(民衆)の暴力も念頭に置いていたと思う。事実、教祖存命中の明治一五年から一八年ころにかけて、明治一四年に始まる「松方デフレ政策」で窮乏した各地の農村で農民の騒擾事件が続発している(長谷川1977)。


3.力試しの話―教祖による説明−

 教祖自身は、自分の力試しについて以下のように説明している。


 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。

 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛のものと雖も、神の方には、敵一倍、皆この通りやとお聞かせ被下。。是れ教祖様、御自身の力にあらず、正しく神様の入込み給ふ事を示し給ふなり。

 又手の甲を出さしめて、御自身のひとさし指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給ふに、痛さ身にしみて堪え兼ね、恐入らぬ者はなかりしと。

 かゝかる力だめしを受けし人々は、あまたある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあひ給う時、くはしきお咄あり(1)。

『この道の最初、かゝかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬほうがましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとしたことは、三度まで有つたがな。井戸側へすつくと立って、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、聲がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねたる〃、かへれ〃」と仰有る。

 是れは、神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば戻られる。是非なく、そつと寝床へはいつて、知らぬ顔して寝て終わつたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終わつて、どうも仕様がなかつた。すると、やつぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに「短気をだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねる〃、かへれ〃」と仰有るから、ぜひなく、戻つて寝てしまう。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふように死ぬことは出来なんだ。

そこで、今日は神さんがな、けふの日をまちかねたのやで。もう八十すぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がない、と誰も思ふやろう。こゝで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうない。よって、力だめしをして見せよと仰有るでな。おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つ張つて見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれ共、忽ち引上げらるゝ様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをしてみせよ、と仰有るから、してみせるのやで』とお聞かせ被下さりたりと。又仰有らるゝ に、

 『年のよるのをまちかねるといふは、一つには、四十臺や五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑ふ者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年のよるのを、えろう、お待ちかねでござったのやで』と聞かせ給ふ。尤もの事にこそ(諸井1970;pp.138-141)。


 『正文遺韻抄』はあくまで教祖についての伝承の記録である。著者の諸井政一は、教祖には会ったこともない。しかし、この部分は伝聞先が「梅谷四郎兵衛」と明記してあるので、信頼性が高い。

 天理教教祖の「力比べ」を見聞したものは、社会的不正義に対して暴力に訴えたり、天理教への迫害に対しても暴力に訴えたりする必要はなく、安心して「神にもたれて通る」信仰一筋の生活をしていればよい、と確信できただろう。


4.天理教は暴力を肯定したか?

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


教祖様がきかせられましたが、

『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田註;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田註;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)。


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田注−天理教の聖典)『おふでさき』で、次のように信者が暴力に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良1977、p151)


 これは『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。教祖は、明治14年に始まる松方デフレによる農民騒擾を念頭においていたのであろう。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が相応の献金をするのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。

 また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田註;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も多数いたからこそであろう。

 『おふでさき』や『正文遺韻抄』は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(教団用語では「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。天理教教祖が男性信者たちと「力比べ」を行って、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説き続けていたことの狙いの少なくともひとつは、宗教運動が暴動へと転化することを防ぐことにあったことがわかる。


5.DVの問題

 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(=「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。

 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません。」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。

 現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。

 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。

 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう(2)。

 逸話三二は、世間の男性の基準から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。

5.教団への迫害

 教団への迫害に関しても、教祖は基本的には非暴力主義者であった(逸話183「悪風というものは」)。


 明治十八、九年のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た(「逸話篇」、p297)


 教祖は、反対者を悪風や泥水に喩えて、非暴力を説いた。


 一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という(同上、p299)

 

 しかし1886年には、どうしようもない状況に追い込まれて、教祖は平野楢造(1843-1907)を屋敷の常詰として彼女の護衛に任命し、自衛のために暴力を行使させている(同上、pp.305-307)。楢造は、その地域の悪名高い元やくざで、天理教に命をたすけられて、やくざ稼業からきれいに足を洗い、天理教の熱心な信者になった。楢造の伝記「道すがら」(1920)は、良いことも悪いことも正直に書いた、と述べている(p.3)。初期の天理教教団には、人々は今更ながらに天理王命(熊田注−天理教における神の名前)に敵たうた不心得者の悲惨な末路に、次のように口ずさんだ、とある。


いかほどの がうてき(熊田注−「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ 

かみのほうには ばいのちからや

(「おふでさき」3-84、「道すがら」1920、pp.74−75)。


 このことからも、教祖の「力比べ」には、信者が実際の暴力に訴えることを抑止する効果があったことがわかる。


7.現在の天理教―「子ども食堂」の挑戦―

 現在の天理教が、教祖の「力比べ」の逸話に、「力比べは、教祖が月日のやしろに坐しますという理を、姿にあらわしてお見せ下されたのである」(「はしがき」『稿本・天理教教祖教祖伝逸話篇』1976年)という説明にならない説明をしてすましているのは、もちろん教祖の至高性や独創性を強調したかったからだろう。それに加えて、教祖の場合とは違って、現在の教典を整備した東大卒の2代目真柱中山正善にとっては、<暴力>はもはや切実な問題ではなく、単に天理教はいつの時代にも「平和」を愛する教団であったと外部社会にアピールしたかったという理由もあったのだろう。

 私は既に、DVの問題に関して、現在の教団に対する疑問を投げかけた。さらに私が問いたいのは、1990年代以降のグローバル化の進展と格差の拡大という問題に関しての疑問で、現代日本における「谷底」は誰か、ということである。天理教は、「谷底せり上げ」(=社会的弱者の救済)を目指す宗教であるはずである。最近(2018)、天理教の多くの教会が、「子ども食堂」の運営を始めた(「子ども食堂のはじめ方」)。現代日本社会では、子どもの6分の1が、貧困ライン以下の暮らしをしている。私は、「親であること」を重視し、「谷底せり上げ」を目指す天理教に「子ども食堂」はとてもよく似合うと思う(3)。教団本部の指示なしに、多くの教会が自主的に運営していることにも注目したい。応援したいと思う。


<謝辞>

 この論文は、熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学紀要』37号、2008年、を全面的に改稿したものである。改稿に当たっては、島薗進氏(上智大学)と池田士郎氏(天理大学)との議論から多くを学んだ。記して深く感謝したい。


<注>

(1)梅谷四朗兵衛は、天理教初期の篤信者のひとりである。

(2)池田は、教祖だけでなく、教祖の夫・善兵衛、長男・修司を含めて、教祖の一家全員を「道のひながた」(=信仰の模範)とする見解を打ち出している(池田2007)。私も、この点は池田に賛成である。天才とは、個人現象ではなく小集団現象である。

(3)2018年時点で、日本には既に3,000近い子ども食堂がある。


<参考文献>

長谷川昇『博徒と自由民権』中公新書, 1977年

池田・島薗・関『中山みき―その生涯と思想―』明石書店、1998年

池田士郎『中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教―』明石書店、2007年

高野友治『御存命の頃』天理教道友社, 2001年

天理教教会本部(編)『稿本 天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社 1976年

天理教郡山大教会(編)『道すがら』郡山大教会、1920年

天理大和文化会議(編)『道と現代社会―現代事情を思案する―』天理教道友社、2004年

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年

諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社, 1970年


<参考URL

子ども食堂の始め方(天理教)

https://sites.google.com/view/eoji

(2018/09/11閲覧)

2016-09-16

AC・よそもの・私とあなた―「見捨てられ」感覚をめぐって―

愛知学院大学文学紀要46号原稿(2017年3月刊行)


<題名>AC・よそもの・私とあなた―「見捨てられ」感覚をめぐって―

<著者名>熊田一雄(宗教文化学科)

<英文タイトル>

AC, The Stranger, I and You−about the Sense of “Being Abandoned”―


要旨

 この論文の目的は、通俗心理学で言うアダルトチルドレンの概念を用いて、フランス文学の古典的名作であるアルベール・カミュの「よそもの」、および宗教哲学の古典であるマルティン・ブーバーの「私とあなた」の新しい解釈を提出し、更に1990年代の先進諸国における「AC現象」の社会的背景を考察することにある。「よそもの」には「アダルトチルドレン生活感覚の宣言」としての側面が、「私とあなた」には「回復したアダルトチルドレンの妻に対する親密性の表現」としての側面が、見られる。カミュもブーバーも、彼らの属する社会の「マージナル・マン」であった。1990年代の先進諸国のおける「AC現象」の社会的背景のひとつは、20世紀の後半までは一部のエリートの問題であった親からの「見捨てられ」感覚の問題が、グローバル化による国民国家への帰属意識の低下・産業構造の転換による持続的共同体の減少・地域共同体の弱体化の中で、急速に大衆化したことにあると考えられる。


キーワード:アディクション、アダルトチルドレン、よそもの、私とあなた、「見捨てられ」感覚

1.はじめに―AC概念について 

 最初に、アディクションに関する臨床領域におけるアダルトチルドレンの概念を簡単に説明しておきたい。ここでは、信田さよ子(1996)の定義に従って、アダルトチルドレン(ACOD, Adult Children of Disfunctional Family)を「自分の生きづらさが親との関係に起因すると自覚する人たち」と広く定義する(信田1996)。そもそもはアルコール依存症の治療現場から提出された「アルコール依存者を親にもつ家族で育った子供達」(ACOA, Adult Children of Alchoholic Family)という意味の狭い概念であったが、アディクション・アプローチ(Addiction Approach)を採用するアメリカの臨床家たちは、この概念を拡張解釈して、一般に「機能不全家族で育った子供達」という意味で用いる(1)。なぜかこんな所で「機能不全家族」という機能主義社会学の、現代の家族社会学では古びてしまった概念が転用されている。

 このような広い意味でのアダルトチルドレン(以下ACと略記)の概念は、必ずしも精神科医臨床心理士が全員認める概念ではない。時としてACが通俗心理学(大衆心理学、popular psychology)の概念と呼ばれることもあるゆえんである。「概念を拡張しすぎている」(何でもかんでもアディクション=嗜癖に結びつけている)というのが、少なからぬ精神科医臨床心理士が広い意味でのAC概念に対して突きつける主要な批判点である。筆者はこうした批判はある程度までは正当な批判だと考える。

 しかしながら、こうした批判にも関わらず、AC概念は1990年代には先進国全域で流行するようになった。AC概念が流行する最大の理由は、おそらくこの概念のaccountabilityの高さ、わかりやすさにあるのであろう。摂食障害を例にとってみよう。精神医療の専門家ではない一般生活者には、例えば「食欲に関係するホルモン」の話はほとんど理解できない。しかし、摂食障害者の背後にある家族関係については、専門家でなくともよく理解できる。しかし筆者は、単にそれがわかりやすいからというだけではなく、AC概念が現代の先進国に生きる人たちの精神生活の一面を確実に捉えている、という側面もあると考える。

 この論文では、こうした広い意味でのAC概念を用いて、宗教哲学の古典マルティン・ブーバーの「私とあなた」(2)、およびフランス文学の古典アルベール・カミュの「よそもの」(3)の解釈に新たな光を投げかけて見たい。こうした試みには宮沢賢治の作品群を対象とした矢幡洋の「<賢治>の心理学―献身という病理」(1996)のような研究が既に存在する(矢幡1996)(4)。最後に、<母なるもの>をめぐる「見捨てられ」感覚の大衆化(バブル化)という観点から、1990年代の先進諸国における「AC現象」を、20世紀の文明史の中に位置付けてみたい。

 まずカミュAlbert Camus 1913ー60)の古典的文学作品「よそもの」(1946)とAC概念との関わりを簡単に論じる。通常、「よそもの」は「神は死んだ」時代における不条理の感覚・実存主義思想を表現した作品だと位置づけられている。しかしながら、かつて小説家落合健二が朝日新聞に掲載されたエッセーで論じていたように、カミュ自身の養育歴と「よそもの」を照らし合わせると、この作品の別の側面、近代日本文学のカテゴリーを転用すれば、母の登場しない「母もの」小説としての側面が見えてくる(落合2001)。

 カミュは父親を第1次世界大戦で亡くし、母子家庭・貧困家庭において、生活苦と戦うのに忙しすぎた母親の愛情に殆ど浴することなく育った。こうしたカミュの養育歴と照らし合わせると、「今日ママン(熊田注:フランス語の幼児語)が死んだ。」という有名な書き出しで始まるこの作品は、現代の視点から振り返れば、また典型的なAC生活感覚を表現したものとしても読めるのではないか。

 ジャン・メルソーアルベール・カミュ自身の家族構成を考えてみると、父は息子が一歳のときに戦死し、あとは母子家庭(母方の祖母がいますが)で育っている。極貧の暮らしで、母は文盲であり、家には一冊の本もなかった。聴覚障害のあった母親は、きわめて寡黙で、子どもたちとのあいだにはほとんど会話らしい会話がなかったらしい。カミュにとっては母の沈黙に寄り添い、その沈黙を計るようにして言葉を紡ぎだすことが、作家として出発するにあたっての重要な課題であったのです。(野崎2006、p.99)

 

 アルジェに住む下級サラリーマン(上昇志向は放棄している)主人公のムルソーは、年齢も覚えていなかった母親の養老院における葬式で一滴の涙も流さず、それどころかその翌日ガールフレンドと喜劇映画に笑い転げる。数日後、近所の不良のいさかいに巻き込まれ、くだらないいざこざから「太陽のせいで」殺人を犯し、死刑に処せられるまでの自分をまるで傍観者のように淡々と見つめている。そして最後には、群衆が憎悪の叫び声をあげて彼の死刑を見物に来ることを願う。作品中彼が唯一「人間らしい」感情を爆発させるのは、自分に悔悛を迫るカトリックの神父に対して怒りをぶつける時だけである。

 

 夜、マリー(熊田注:ムルソーガールフレンド)が訪ねてきて、僕に彼女と結婚する気があるのかときいた。それは僕にはどうでもいいことだ、彼女が結婚したければ、われわれは結婚できるだろうと言った。彼女は僕が彼女を愛しているかを知りたがった。僕は一度したとおりに答えた。それには何の意味もないが、たぶん愛していないと。《じゃあ、なぜあたしをもらうの?》と彼女は言った。僕はそれが何ら重要性を持たないこと、もし彼女が欲するなら、われわれは結婚できることを説明してやった。それに、結婚を求めたのは彼女であり、僕はただ承知しただけではないか。彼女はすると結婚は重大事だと指摘した。僕は《いや、違う》と答えた。彼女はしばらく口をつぐんで、黙ったまま僕の顔を見た。そして話しだした。彼女は端的に別の女が同じように結びついて、同じ申込みをしたら、承諾するかときいた。僕は《むろんさ》と答えた。すると彼女は いったい僕を愛しているのかと自問した。その点は、僕には何とも言えなかった。またしばらくだまったあとで、彼女は僕が変わっている。きっとそのために僕を愛しているが、いつ同じ理由で嫌いになるだろう、と呟いた。(カミュ1946=1984、p30)

 上記の引用部分に典型的に見られるように、ムルソー人間関係には「親密性の欠如」が見られる。こうして見ると、カミュ自身の生い立ちとあわせて考えれば、「よそもの」には典型的なAC生活感覚を表現した作品としての側面があるのではないか。カミュのデビュー作「よそもの」(厳密には「よそもの」のラスト近くで突如母親を理解する場面以降)以後の作品群には、何とかACから回復しようとした必死の努力、という側面もあるのではないか。

2.ブーバーの「私とあなた」

 次に、時代は逆転するが、宗教哲学の(ある意味では異端の)古典であるブーバーの「私とあなた」とAC概念の関係について簡単に論じてみたい。

 ブーバー(Martin Buber 1878-1965)の「私とあなた」(1923)は、ユダヤ教神秘主義の伝統から生まれた、不思議な吸引力をもつ宗教哲学の古典である(ブーバー1923=1979)。カウフマンが指摘するように、「私とあなた」はアカデミックな講壇哲学の伝統に属する書物ではなく、哲学と文学の間のどこかに位置する「哲学詩」とでも呼ぶべき書物である(Kaufmann 1979)。アカデミックな講壇哲学の伝統に属する書物ではないにもかかわらず、今日でも宗教研究者・教育学者・精神医学者などによって引用されることが少なくない。  

 ブーバーの「私とあなた」によれば、世界は人間のとる態度によって、二つの全く異なった現れ方をする。根源語「私とそれ」の我は、「私はかくかくしかじかの者なり」という個別的存在として現れ、世界を経験して利用する「主観」として自己意識し、他の個別的存在を客観視することにとって他の個別的存在から自己を分離させる。それに対して、根源語「私とあなた」の我は、「私あり」という人格的存在として現れ、自分が何者であるかとは無関係に「主体」として自己意識し、他の人格的存在と相互に交流する(出会い対話する)ことによって人格的関係に入る。「私とそれ」の関係性が因果律と時間空間の世界であるのに対して、「私とあなた」の関係性は因果律と時間空間を超越した世界である。

 ブーバーによれば、「私―あなた」の相互性、出会いの相互性によってこの世界の存在が成り立っている。デカルト的な「私」という抽象化された中心点から見る世界存在、人間の社会ではなく、<私>と<あなた>を中心にしてその相互性による関係の中に一切を見直すことが重要である。近代以降営々として築いてきた人間の文化は、この根源語の立場からすれば、「私―それ」であり、「私―それ」は「私―あなた」を基礎にもつ。もし「私―それ」が崩壊しても、「私―あなた」の根源に帰ることによって、ふたたび立て直すことができるし、生存を崩壊させないように努めるためにも、「私―あなた」の純粋化がつねに意識になければならない。そして神は「永遠のあなた」である。

 この「あなた」は理性の認識の彼方に予感したり、超自然として思惟する啓示でもない。この世界の一切のものは、この「私―あなた」に包括されている。人間と人間の間にも「私―あなた」が見出され、人間と自然の間にも「私―あなた」が生起する。幼児にも老人にも、原始未開の部族にも、古代人の文明にも、男女の間、親子、兄弟、友人の間にも、現代の文明の中にも存在し貫いている。ただわれわれがこのことを忘れたか、気がつかなかったか、意識的に考えまいとしたかである。

 ところで、人間の文明史における「私―あなた」の根源性を論ずると同時に、ブーバーは、人間の個人史における「私―あなた」の根源性について以下のように語っている。

 誕生以前の幼児の生活は、純粋なる自然的結合、母親から子供への生命の流出であり、肉体的相互作用である。この場合、生まれくるものの生命の地平はただひとつの方法で、新しい生命の担い手の中に刻み込まれてもいるが、しかし決してそれだけではない。なぜならば、子供の生命は母親の胎内にばかりやすらっているのではないからである。ユダヤの古い諺に、<人間は母の胎内にいるとき、一切を知り、誕生とともに一切を忘れる>、といっている。この母と子の結合は非常に宇宙的であって、太鼓の謎の碑文の解 読が半ばなされたような思いである。そしてこの母と子の結合は、神秘的な願望の姿と して人間に残っている。この憧れは再び母の胎内にかえってゆきたい願いのように考えてはならぬ。このような考えは、精神を知性と取り違え、精神を人間の寄生物と見誤る 人々と同じである。とにかく、この花は種種さまざまの病気にさらされているのだが、むしろこの憧れは、精神に目覚めた人間が、真の<あなた>と宇宙的な結合をつくり出そうとする憧れなのである。(ブーバー、同上、p.35)

 ここでは、「母と子の結合」が半ば「聖なるもの」として神秘化されている(5)。もちろんこのことを考えるには、ブーバーが属していたユダヤ文化における「文化としての母の観念」(cf.山村1971)を考慮しなければならないだろう。ところで、ブーバーの「私とあなた」の執筆の背景には、第1次世界大戦による文明の危機に対する意識だけではなく、ブーバー自身の個人史、青少年時代のニヒリズムの誘惑からの脱却が深く関わっている。そして、ブーバーの青少年時代のニヒリズムの誘惑は、ブーバー自身の母との関係が深く関わっていた。ブーバーは、離婚した両親の双方から引き離され、祖父母のもとで育つという複雑な養育歴の持ち主である。後の半自伝的作品のわざわざ冒頭に置かれた「母」と題する章で、ブーバーは自分の母との関係について以下のように語っている。

 この書物の目的は、私自身の生涯について語ることではなく、むしろ、ひとえに、私の思想の性質と方向とに決定的な影響を与えた、瞬間のいくつかを、思い出のなかから浮かぶままにひろいあげて、報告することである。

 私にとってこのような性格をもつ最初の記憶は、4歳のときにまでさかのぼる。はぼ一年前に、ウィーンにあった幼年時代の家庭は、両親の離婚によって崩壊してしまっていた。(中略)子供自身は、母親に間もなく会えるものとばかり思っていた。しかし、それを口に出してたずねることはできなかった。そのとき、これから語ろうとする事がおこったのである。

 (中略)しかし、この姉のような少女が、「いいえ、あなたのお母さんはもう二度と帰ってきません」といった言葉は、まだ、私の耳にひびいてくる。私はだまっていた。しかし、同時に、この言葉の真実さについて、もはや疑っていなかったことも、よくおぼえている。この言葉は、私につきささったままであった。そして、年とともに、ますます深く心にくいこんでいったのである。しかし、およそ10年ほどたつと、私は、すでに、この言葉が私だけではなく、人類そのものに関係していることを、感じはじめていた。そして、やがて、人間と人間の間の真の出会いの欠如をあらわす、「ゆきちがい」(Vergegnung)という言葉を自分の手でこしらえたのであった。それから、さらに20年たって、遠方からはるばる私と妻と子供たちに会いにやってきた母と再会したとき、わたしは、どこからか、「ゆきちがい」という言葉が自分に向かって語られるのを聞かずには、彼女の、相変わらずびっくりするほど美しい目を見ることはできなかったのである。自分の生涯を通じて、真の出会いについて経験した一切のことは、バルコニーの上のあの時点にこそ、その出発点をもっているのだと、私は思っている。(ブーバー1960=1966、pp.5-7)

 ブーバーの、上記の4歳から34歳頃までの母親からの「見捨てられ」感覚が、ユダヤ文化における母性の重視とあいまって、青少年期に感じたブーバーのニヒリズムへの誘惑の基礎となっている、と考えられる。言い換えれば、34歳頃までのブーバーは、現代的表現を用いれば、ACだったと考えられる。この「見捨てられ」感覚は、34歳頃に母親と再会したときに完全に解消されている。そしてブーバーは45歳で主著「私とあなた」を著している。以上のことから、ブーバーの「私とあなた」には、通常言われる「ハッシディズム(ユダヤ教神秘主義)の思想表現」としての側面だけではなく、AC概念に基づく現代的な表現を用いれば「サバイバー(回復せるACのこと)の思想表現」としての側面があることに注意を促しておきたい。ブーバーは、母親から永遠に「見捨てられた」という感覚からニヒリズムの誘惑に苛まれる(「ゆきちがい」=「生きづらさ」の感覚を抱えた)ACとして育ち、母親との再会によって回復しているからである。さらに、「私とあなた」の献辞がブーバー夫人に捧げられていることから判断すれば、「私とあなた」には「妻に対する親密性の表現」としての側面があることにも注意を促しておきたい。


3.おわりにー20世紀における「見捨てられ」感覚

 ブーバーもカミュも複雑で偉大な思想家・作家であり、AC概念だけで彼らの作品を理解できるなどという暴言を吐くつもりは、もとより筆者には毛頭ない。筆者が言いたいことは、彼らの代表的作品にはAC概念によって理解できる「一側面もある」というだけにすぎない。付け加えると、ブーバーやカミュの作品が先進国で1960年代70年代の若き知識人に人気があったことは興味深い。ブーバーやカミュの作品の愛読者の少なくとも一部には、自分のACとしての感覚やサバイバーとしての感覚を重ね合わせていた者もいたのではないだろうか。

 最後に、本節では巨視的観点に立ち、ブーバー、カミュ、そして1990年代の先進諸国におけるAC概念の流行を、20世紀における「見捨てられ」感覚の系譜とその大衆化(バブル化)という観点からまとめてみたい。また、今後AC運動が医療の領域から「再宗教化」されていくという見通しを述べてみたい。

 ブーバーはディアスポラしたユダヤ人であり、カミュフランス植民地アルジェリア育ちであり、どちらもヨーロッパの主流文化から見ればマージナルマン(ウェーバー)であった。これらのことは、彼らの近代的「国民国家」(Nation State)への帰属意識を弱める方向に働き、「親子関係の葛藤」を抱えて育った彼らの(親からの)「見捨てられ」感覚(アイデンティティの危機)をより尖鋭化させたに違いない。

 ブーバーやカミュの置かれていたマージナル・マンとしての状況と比較して、1990年代の先進諸国の大衆が置かれた状況を考察してみよう。グローバル化の進行に伴い、国民国家の相対化が進行し、大衆の国民国家への帰属意識は低下した。経済の脱産業化に伴い、彼らを取り巻く家族以外の持続的共同体は減少した。地域共同体の力も弱体化した。これらのことは、ブーバーやカミュの場合と同様に親子関係の葛藤を抱えて育った大衆の(親からの)「見捨てられ」感覚(アイデンティティの危機)をより尖鋭化させた。これが、1990年代の先進諸国におけるAC現象の社会的背景の重要な一部だと思われる。「見捨てられ」感覚は20世紀初頭から一部の知識人の間では存在した。それが1990年代の先進諸国の大衆の間で一気に広がった(たぶんにマスメディアによってバブル化された)のである。

 もちろん、こうした議論に対しては、現在の、特に日本のACは親からの「見捨てられ」感覚ではなく、一見「見捨てられ」感覚の正反対にも見える親の「過剰な期待」から生じたものが多いのだ、という反論があるだろう。しかし、現在の、特に日本の多くのACが抱えている親の「過剰な期待」は、「あるがままの自分」に対する親の「無条件の愛」ではなく、「親の期待する(と少なくとも子供が思いこんだ)自己」に対する「条件付きの愛」であることに注意しなければならない。「条件付きの愛」の背後には、親の期待を裏切れば「見捨てられる」という恐怖感が常に存在する。つまり、現在の、特に日本の多くのACが抱えている親からの「過剰な期待」は、「見捨てられ」感覚と同じコインの表裏の関係にあるのである。

 ブーバーやカミュと現在の先進国の、特に日本の大衆とでは、宗教的バックボーンの有無という点に大きな相違がある。ブーバーやカミュは、たとえ逆説的な形であったとしても、宗教的バックボーンをはっきりと有していた。ブーバーの場合、ハッシディズム(ユダヤ教神秘主義)に深い共感を抱いていた。カミュの場合、フランスのカトリシズムは拒否したが、逆説的に彼の実存主義哲学は古代のグノーシス主義と多くを共有することになった(ヨナス1960=1966、pp.427-452)。これらの宗教的バックボーンが、彼らの生きる強さの背後にあった。

 それに対して、少なくとも1990年代の日本のACムーブメントを観察する限り、宗教的バックボーンは比較的弱い(6)。信田が指摘するように、日本の(広い意味での)AC運動は、「回復とはこういうものだ」という形を、少なくとも現時点でははっきりと提示しない(信田、同上、pp.180-181)。「救われた」生の形を明示する宗教運動(思想運動)と異なり、「回復の形」が明示されないということは、大衆運動としては大きな弱点である。ほとんどの大衆は、生活指針の「形のはっきりしない」生を生きるほどには強くない。従って今後は、日本のACムーブメントはおそらく宗教色を再び次第に強めていくことになるであろう。


<注>

(1)広い意味でのアダルトチルドレンの概念が1990年代に急速に日本社会で普及したのは、精神科医斎藤学臨床心理士信田さよ子のマスメディアを利用した活動によるところが大きい。

(2)マルティン・ブーバーの本は普通「我と汝」と訳されるが、Kaufmannが指摘しているように、「私とあなた」と訳す方が適切である。本稿では、ブーバーのいう「我と汝」をすべて「私とあなた」に言い換える。

(3)アルベール・カミュの本は普通「異邦人」と訳される。しかし、野崎歓が指摘するように、「よそもの」と訳す方が適切である。本稿では、カミュの「異邦人」はすべて「よそもの」に言い換える。

(4)矢幡は、宮沢賢治の献身活動に典型的な「関係嗜癖者」の姿を読み込んでいる。筆者は、矢幡の議論に大筋では賛成しつつも、やや一面的ではないかという批判的感想も抱いている。 

(5)こういう「聖なる母性」のような記述をすると、「女性を母役割に押し込めようとするものだ」という批判をフェミニストから受けるかもしれないが、ここでいう母性は 現実の女性から抽象化されたものであり、女性差別につながる必然性はない。

(6)日本のAC運動がアメリカのそれと比較して宗教色が弱いのは、斎藤学の当初の方針によるものであろう。


<参考文献>

アルベール・カミュ(中村訳)『異邦人』「カミュ全集2」新潮社、1946年(=1984年) 

落合健二(朝日新聞2001年4月13日夕刊所収)『母が死んだ』朝日新聞社、2001年

信田さよ子『<アダルト・チルドレン>完全理解』三五館、1996年

野崎歓カミュ「よそもの」きみの友だち』みすず書房、2006年

マルティン・ブーバー(植田訳)『我と汝・対話』岩波文庫、1923年(=1979年)

マルティン・ブーバー(児島訳)『出会い(自伝的断片)』理想社、1960年(=1966年)

山村賢明『日本人と母―文化としての母の観念の研究』東洋館出版社、1971年 

矢幡洋『<賢治>の心理学―献身という病理』彩流社、1996年

ハンス・ヨナス(秋山・入江訳)『グノーシスの宗教』人文書院、1964年(=1986年) 

Walter Kaufmann 1970“I AND YOU―A PROLOGUE” in Martin Buber(translated by Kaufmann)“I and Thou” Simon&Schuster、1970年

<追記>

この論文は、2001年の学会誌招聘論文、「AC異邦人・ブーバー―『見捨てられ』感覚をめぐって」日本嗜癖行動学会(72)『アディクションと家族』vol.18-4を大幅に改稿したものである。

2016-03-05

非定型うつ病の信仰治療について―マインドフルネス瞑想と禅宗―

愛知学院大学人間文化研究所紀要31号原稿(2016年9月刊行)


<題名>「非定型うつ病の信仰治療について―マインドフルネス瞑想と禅宗―」

<著者>熊田一雄(文学部宗教文化学科准教授)


<要旨>

 この論文では、非定型うつ病が坐禅によって治癒したという事例研究を取り上げ、それを現代日本の宗教状況と絡めて分析する。最初に、非定型うつ病が坐禅によって治癒したという事例研究を紹介する。次に、現代先進国の宗教界において流行しているマインドフルネス瞑想を紹介する。そして、マインドフルネス瞑想と坐禅の関係について検討する。最後に、坐禅がマインドフルネス瞑想よりも深いレベルで精神疾患に働きかけていることをみる。


<キーワード>

非定型うつ病/信仰治療/マインドフルネス瞑想/宗教的回心/禅宗


1.非定型うつ病と坐禅

 最初に、非定型うつ病が坐禅によって治癒したという事例研究を紹介する(1)。この事例研究は、貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅の脳科学と精神療法』(新興医学出版社、2007年)所収の、貝谷久宣の論文「坐禅により軽快した非定型うつ病の1例」(同書、pp.89-101)に詳しく紹介されており、詳しくはそちらを参照されたい。しかし本稿では、紙数の都合もあり、また精神医学の論文ではないので、別書に掲載されている要約版を紹介しておく。

瞑想(坐禅)によって

非定型うつ病が劇的に改善

時田栄子さん(仮名)大学生・22才・女性

*成績優秀なのに自信がなくリストカットをくり返す

 栄子さんは、小学生のころから成績は常にトップで、級友からも特別視されていました。でもそのせいか、親友と呼べる人ができず、自分は嫌われているのではないかという思いがありました。

 中学生になると、自分の言ったことや他人から言われたささいなことが気になるようになりました。成績はトップなのに、常に劣等感があり、完璧にやらなければという強迫観念のようなものにつきまとわれていました。急に動悸が起きたり、呼吸が浅くなったりしたかと思うと、理由もなく不安になったり、泣きたくなったりしました。

 国立大学に入学後も成績はトップでしたが、周囲の学生が自分より優秀に見え、容姿についても自信のない状態が続きました。こんなに劣等感に苦しむなら、死んだほうがましだと思い、リストカットをくり返すようになり、悩んだすえに精神科クリニックを受診しました。

 家庭環境は、経済的には恵まれていたものの、両親の夫婦げんかがたえませんでした。父親は無口で、栄子さんにはやさしかったのですが、母親にはときどき暴力をふるいました。母親は神経質で感情的なところがあり、しょっちゅう栄子さんに夫のぐちと悪口を言いましたが、よく面倒をみてくれました。

*薬物療法だけでは治らなかったが、坐禅により世界が一変

 クリニックでは、中程度のうつ、気分反応性、鉛様麻痺、過眠、過食、人間関係に過敏、などの症状があることから、「気分変調性障害」(非定型の性質をともなうもの)と診断されました。抗うつ薬、抗不安薬、少量の抗精神病理薬などで治療を行いましたが、なかなか改善しませんでした。両親がけんかをするたびに、父親に対する恐怖感や母親に対する同情心だけでは説明がつかない複雑な気持ちにかられ、大声で叫びたくなりました。大学はいったん休学、その後復学しましたが、長くはつづかず、結局、長期間の休学になりました。

 主治医からは、薬物療法だけでは限界があるといわれ、坐禅をすすめられました。病気(熊田註;非定型うつ病)が治るものならと、栄子さんは積極的に坐禅に取り組みました。自宅で坐禅を組むだけではなく、坐禅会に出席して禅僧の指導も受けました。

 しかし、朝から晩まで座禅しても、なかなかつらさはなくなりませんでした。2ヶ月ほどたって、これでダメなら死んでしまおうと、最後の力を振り絞って坐禅に取り組みました。すると突然、自分に「自信」が戻ってきたことを実感しました。なぜかはわかりません。失っていた「自信」が体の中心に入ってきたと感じたのです。

 それからは、世界が一変しました。母といっしょにいてもイライラせず、むしろ母のすばらしさがどんどんわかってきて、幸福を感じました。夜も30分以内に眠ることができるようになりました。軽い過眠と鉛様麻痺はしばらく残りましたが、やがてそれも消え、完治しました(2)。

 いまは、栄子さんにとってすべてが新鮮です。そして、生きている喜びを全身で感じています(貝谷2011年、p67)。


2.マインドフルネス瞑想

 次に、先進国で流行しているマンドフルネス瞑想について簡単に紹介する。

 現在、アメリカを中心に欧米では、第三世代の認知行動療法として瞑想がさかんに行われていますが、ベースとなっているのはマインドフルネスの考え方です。マインドフルネスという英語の言葉は、日本人にはあまりなじみがありませんが、「気づくこと」という意味です。何に気づくかというと、「いま自分が生きている、この瞬間の現実」に気づくのです。現実を「正しい・正しくない」「すべき・すべきでない」「良い・悪い」といった評価を加えずに、あるがままに感じ、受けいれていくのが、マインドフルネスの考え方です。

 マインドフルネスの考え方を身につけることは、「不安」「うつ」のほか、「あがりやすい」「緊張しやすい」などいろいろな心の悩みの解決にも効果があります。また、がん、エイズ、高血圧などの患者さんのQOL(生活の質)改善にも利用されています(貝谷久宣2011、pp.76-77)。


「マインドフルネス」をご存じですか?

 聞きなれない言葉ですね。正確にはマインドフルネスストレス低減法といって心理学的治療の一つです。今米国の多くの心理学教室にはマインドフルネスセンターがあり、仕事、家庭、経済に関するストレスを抱えた人、慢性疼痛の患者、不安症やパニック障害の患者、過敏性腸症候群の人、不眠や疲労に悩む人、高血圧症や頭痛患者、そしてうつ病の回復期の人が数週間から数か月間のプログラムに通っています。マインドフルネスはうつや不安症の医学的治療効果だけでなく、健常人の生活の質を高める作用もあります。では、マインドフルネスではいったいどのようにするのでしょうか?

 マインドフルネスとは、意識的に現在の瞬間に、そして瞬間瞬間に展開する体験に判断を加えず注意を払うことなのです。手元の現代精神医学事典(弘文堂2011)をひも解くと次のように書かれています。1979年にジョン・カバットジンによりマサチューセッツ大学医学部にストレス低減プログラムとして創始された瞑想とヨガを基本とした治療法。慢性疼痛、心身症、摂食障害不安障害、感情障害などが対象となる。ジョン・カバットジンは鈴木大拙の禅に影響を受け、仏教を宗教としてではなく人間の悩みを解決するための精神科学としてとらえ、医療に取り入れた。その基本的考えは、煩悩からの解脱と静謐な心を求める座禅に軌を一にしている。マインドフルネスの語義は”注意を集中する”である。一瞬一瞬の呼吸や体感に意識を集中し、”ただ存在すること”を実践し、”今に生きる”ことのトレーニング実践する。これにより自己受容、的確な判断、およびセルフコントロールが可能となる。マインドフルネスはに認知行動療法に取り入れられ脚光を浴びるようになった。しかし、認知行動療法は認知の変容を目指すのに対して、マインドフルネスは認知のとらわれからの解放を誘導する。

1.

 このマインドフルネスストレス低減法の創始者ジョン・カバットジンが昨年11月に来日しました 。私は以前「マインドフルネス・瞑想・座禅の脳科学と精神療法」(新興医学出版社2007)と題する本を編んでいたので、彼のシンポジウムや講習会などを催すマインドフルネスフォーラム2012の実行委員を引き受けることになりました。このフォーラムで私は”マインドフルネスの活かし方”というテーマのシンポジウムの座長を引き受けました。演題1は長谷川メンタルヘルス研究所所長遊佐安一郎氏の「境界性パーソナリティなどで感情調節が困難な方のために」と題する演題でした。遊佐先生は、マインドフルネスは感情調節を促すことを通じて「気付き」を増やし、他のさまざまなスキル学習が上達し、治療への道を開くという話をされました。演題2は早稲田大学人間科学学術院教授熊野宏昭先生の「マインドフルネスとはどんな行動なのか」でした。この講演の中でマインドフルネスは”防衛することなく自分に生じていることを十分に体験する”(アクセプタンス)、思ったこと、考えたことがすべて現実化するという信念を捨て去ること(脱ヒュージョン)、自身を自覚する(”今ここに”の感覚に注意を集中する)、自己の客観視といった機能を高める作用を持ち、この働きが種々な心理的悩みを解決していくことが述べられました。演題3は曹洞宗国際センター所長藤田一照老師による「日常生活の中で生かすマインドフルネス」という演題でした。そのなかでジョン・カバットジンとともにマインドフルネスに貢献したもう一人の大御所ティク・ナット・ハンの偈頌についての話がありました。偈頌とは短い詩句のことで、それを唱えることにより日常生活の中の一つ一つの行為にマインドフルネスのエネルギーがいきわたるようになるということです。たとえば、手を洗う時には次のような偈頌を唱えるのです:「水が両手の上を流れていく。かけがえのない地球を保つために、どうかこの水を上手に使えますように」と。老師は、”偈頌を唱えるということは今この瞬間にとどまる一つの方法であって、自分自身に立ち返り、一つ一つの動作に対する気づきができるようになる”と述べています。このシンポジウムは日本教育会館一ツ橋ホールの900席近い会場を満員の人で埋め尽くし、熱気の中で進められました。

 2.

 翌日はマインドフルネス1日の実習に参加しました。瞑想の方法を懇切丁寧にジョン・カバットジンは解説してくれました。彼の話の中に日本曹洞宗の開祖道元禅師の言葉がしばしば出てきました。それはマインドフルネスが東洋の禅をアメリカに持ち込んで西洋禅として生活の中に生かしているように思われました。親睦会でジョン・カバットジンと直接話す機会を得ることができました。長年瞑想をやっている人だけあって、穏やかで、柔和で、重厚な人柄がにじみ出ていました。彼はマインドフルネス=禅だとはっきり断言していました。となると、マインドフルネスというソフトな言葉を持った概念を我々はいま逆輸入をしていることになります。言葉を変えていえば、日本の禅は孤高を保ち、大衆のなかに分かりやすい言葉で入ってきていなかったのかも知れません。もちろん、禅は仏教という宗教がもとになっています。しかし、仏教は宗教というよりは人の心から苦痛を取り去る方法を教える精神の科学といった局面のほうが強いのだと私は思っています。この点も、”Science of Mind”という点でもカバットジンも同一意見でした。

 現在、ほとんどの先進国ではマインドフルネスが広まっており、禅の本拠地日本での普及が一番遅れていました。これからマインドフルネスは日本でも徐々に広まっていき、不安を持つ人の光明となるでありましょう(「マインドフルネス」、http://www.fuanclinic.com/blog/?p=181

このマンドフルネス瞑想は、非定型性うつ病の治療においても一定の効果はあるようである。

 非定型うつ病の人は、感情の浮き沈みに振り回されがちです。

 瞑想は、まず体の緊張をとくことによって心の緊張もとき、「今ここでのありのまま」の自分の感情や感覚に気づくことからスタートします。自分の感情と行動の関係や、自分と周囲との関係を客観視することで、自分が本来おこなうべき行動を発見することができるのです。

 瞑想は、認知行動療法に取り入れられており、米国でも、心の病の治療に効果があると報告されています。非定型うつ病の人では、薬を使わず瞑想だけで症状が改善した人もいます(貝谷久宣(監修)2008、p82)。


3.マインドフルネス瞑想と日本の仏教界

 それでは、アメリカと異なり禅仏教の分厚い蓄積をもつ日本の仏教界は、こうした先進国で流行するマインドフル瞑想をどう受け止めているのであろうか。宗教専門紙である『中外日報』2015年10月28日号は、「どう受容するのか仏教界 マインドフルネス流行の兆し」という特集で、賛否両論の意見を紹介した上で、次のように論じている。

 だが、心理療法としてのマインドフルネスは無宗教だが、それを入り口として禅を目指す人が増えている。首都圏で坐禅道場を開く寺院では、ここ5年ほどで参加者が急増している。

 新宿・歌舞伎町に隣接する曹洞宗長光寺は毎週末、坐禅会を開くが参加者が殺到するため、2年ほど前からネットでの予約制にした。松倉太鋭住職(67)は「マインドフルネスを体験した人が増えてきた。あまりにも希望者が多いので、他の寺院も坐禅会を開いてほしい」と語る。

 臨済宗妙心寺派の東京禅センター(東京都世田谷区)では、土曜日の回を11月から予約制にした。昨年までは15人ほどの参加者だったが、今年から倍増。中山宗祐・同センター主任(31)も「女性が7割。マインドフルネスを口にする人がいる」と話す。

 曹洞宗宗務庁が認可する参禅道場の数は近年、380カ寺と横ばいだが、地方では減少傾向にある一方で、首都圏で増加している。宗務庁に届け出のない道場も多い。


「注目」「不要」の賛否両論


 仏教者はマインドフルネスをどのように受け止め、何を発信すべきか。

 井上副住職は浄土宗の教えとの整合性は模索中だが、身体や精神的な問題解決に効果があることを認めている。しかし、マインドフルネスだけをすればよいわけではないと指摘する。「震災のように多くの方が亡くなった場合、精神的な苦痛を瞑想だけで乗り越えるのは無理で、慰霊や供養などのグリーフケアが必要。命のつながりや自分の実存性などを伝えるには、やはり浄土教の教えが大切だ」と確信する。

 全国曹洞宗青年会は今年5月、マインドフルネスを知る機会を設け、ハン氏の弟子らと交流会を開いた。村山博雅・同会顧問は「これだけ流行する理由を知らなければと思った。マインドフルネスの内容に真新しいものはないと感じたが、瞑想についての詳細な分析や一般人への分かりやすい発信の仕方が、とても参考になった」と語る。

 戸松住職は「日本で流行すれば仏教に興味を持つ人が増えるだろう。だが、そのような人たちは檀家になるとは限らない。寺檀関係とは違う、信仰による新たな関係を築けるビッグチャンスとなる」と前向きに捉える。またマインドフルネスは各宗派の行や瞑想に通じるものだと指摘した上で、寺院は葬儀や法事だけでなく、念仏などを含め、このような行を実践できる機会や場所を増やすべきだと主張する。

 一方で否定的に捉える宗教者もいる。瓜生崇・真宗大谷派玄照寺住職(41)は「『本願念仏』は常識やとらわれ、思い込みから解放される教えであり、何かを行って結果を得るというものではない。自分の体験や行に依存したり、自分の心を変化させることで安らぎを得ようとすると、どうしても救われない人が出てきてしまう」と述べる。

 ネルケ無方・曹洞宗安泰寺住職も「日常の行いを一生懸命すればよいのであって、マインドフルネスを用いる必要はない。日本人は欧米の流行に弱い。気を配ること、注意することは日本人が生活の中で既にやっていることだ。主張の強い欧米人が自分を見つめるためには必要だが、内向的な日本人にはなじまないのでは」と話している。


仏教にヒントでも別物 正しい方向づけが必要

藤田一照さんに聞く 曹洞宗国際センター所長


 国内外でマインドフルネスや禅の講演、指導をする藤田一照・曹洞宗国際センター所長に聞いた。

 カバット・ジン氏が説くのは「信じなくても効く」というもので、心のエクササイズ。それは筋トレと同じで、初めから宗教的な文脈から切り離されているので、抵抗感なく受け入れられる。もともと仏教にヒントを得ているが別物と思った方がよい。それでも禅や仏教の要素があり有効であることは間違いない。

 ただ私は二つの点で批判的にも捉えている。本来、マインドフルネス(サティ)は八正道の一つの正念で、その一つだけ取り出して実践するべきではない。八正道の初めの正念と正思が、此岸から彼岸へと向かう方向を示し、残りの八正道を方向付けている。マインドフルネスには仏教でいう“正しい”方向付けが全くない。方向性がなければ、「無心で人を殺す」などのようにかつて戦争に利用されたようなものになってしまう。企業に都合の良い企業戦士を育成するマインドコントロールとすることもできるだろう。

 もう一つの問題は“私”がマインドフルネスになろうとして、単に心を飼いならそうとしているにすぎないこと。しかし、本来は努力ではなく、“私”を入れずに直接分かるような無心の心がある。禅では「求める心を捨てなさい」と言う。

 世俗的なマインドフルネスを乗り越えて、仏教者としてのビジョンを示さなくてはいけない。もっと奥(の瞑想)を望む人たちを、寺院はどのように受け入れることができるだろうか。

 まず僧侶自身が流行するマインドフルネスとは何かを学び、彼らが何を求めて寺院に来たのかを理解するのが第一歩だ。入り口はマインドフルネスでもよいが、(瞑想や修行は)それだけでは終わらない。薄っぺらな理解だけでなく、仏教はさらに奥にあるものを示すことができる。(談)(『中外日報』2015年10月28日号)

 藤田はまた、別のところで脱宗教化されたマインドフルネスに対して、仏教でいう「正見なき正念」になりかねないことに、以下のように注意を促している。

 臨床現場での応用を可能にするためにマインドフルネスをあえて仏教的文脈から切り離し、宗教色のない、万人のための注意のテクニック、スキルとして成形しなおし普及しようとした事情は理解できる。しかし筆者は縁起やつながりといった、マインドフルネス実践を正しく方向付け、その枠組みを提供するヴィジョン(仏教ではそれを正見と呼ぶ)はいわゆる宗教としてではなくても、あくまでも世俗的文脈において自然科学や心理学の知見として充分提示することができ、そのようなヴィジョンに沿ったナチュラルなマインドフルネスの訓練プログラムや指導法を工夫していくべきではないかと考えている。仏教はその工夫の作業をバックアップできる資源が蓄積されているはずである。

 今後このような展望のもとで、仏教と臨床現場が交流しつつ、マインドフルネスについてのより深い理解とより有効な実践法が結実することを願っている(藤田一照「仏教から見たマインドフルネス―世俗的マインドフルネスへの一提言―」貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子(編)『マインドフルネス―基礎と実践―』日本評論社、2016年、pp.76-77)。

 私は、マインドフルネス瞑想は「仏教にヒントでも別物、正しい方向付けが必要」「正見なき正念になる危険性がある」とする藤田一照の意見に全面的に賛成である。マインドフルネス瞑想は、肯定的に見れば精神医療が宗教(東洋の宗教)を取り入れようとする試みであるが、否定的に見れば、精神医療は宗教的伝統のなかでもエビデンス(科学的根拠)が取れた部分しか取り込もうとしない、と見ることができる。先進国のなかではマインドフルネス瞑想の指導が出来る認知行動療法の専門家が少ない日本では、仏教、特に禅仏教の分厚い蓄積を生かして、むしろ禅仏教の伝統を再活性化すべきではないか、と考える。

  そもそも精神疾患に坐禅を適応することに関しても、我流の坐禅は危険で、注意深い信仰指導が必要である。

 とにかく、頭を使わない。考えない。脳みそに、考える時間を与えない。頭を空っぽにしましょう。

 「頭を空っぽに」なんて言われると、「座禅」を思いつく人がいるかもしれませんが、一人で座禅をするのは危険です。座っている間中、色々な事が頭を駆け巡り、余計に余計な事を考えてしまいます。もし座禅を組むのなら、どこか座禅を組ましてくれるお寺に行って、たくさんの人と座りましょう。禅寺には、「作務(さむ)」といって、庭仕事や掃除、農作業をさせてくれるところもあります。作業中は、何も考えなくても良いので、助かります。探して通って下さい(「うつ病」になってしまった時、または、なりそうな時に読むページ、http://www.geocities.jp/gurakuan_acupuncture/disease090612stress.htm

4.宗教的回心と信仰治療

 最後に、本稿の冒頭で述べた「非定型うつ病の信仰治療」の事例研究に立ち返って、藤田一照がいうように、仏教はマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるものを示す」ことができることをみておく。

 冒頭の事例研究には、「非定型うつ病の信仰治療」が起きたときに患者が主治医に送ったメールが掲載されている。

 主治医は、薬物療法や日常的な精神療法の限界を感じ、X+3年10月、患者に坐禅を勧めたところ、病気が治るならやりたいと積極的な意志を示したので、主治医が指導して、家で坐禅をはじめた。また、それから間もなく座禅会に出席し、禅僧の指導も直接受けた。坐禅を始めて2ヶ月目のある日、次のようなメールを著者に送ってきた。

 ここ一週間、一日三時間瞑想して、昨夜ようやく第三の目が開眼しました。実を言うと、一週間前、“騙されたと思って一日中坐禅をしよう。それで三月になっても完治しなければ命を絶とう”と決心していたのです。先週は、過食、過眠、全身の重さで寝たきりになり「皆には悪いけれど、私はもうこれ以上耐える力は残っていない。」と実感し、最後の力を坐禅に使って、使い切ったところでどこか遠い島でひっそりと一人死ぬつもりでした。昨夜、戻るための準備をして荷物を下に置いたとき、次の瞬間、気付いたら私は自信を持っていました。その自信は今私の身体の中心に入ってきています。母と一緒に居ても一切イライラしません。むしろ母の素晴らしい面がどんどん私に飛び込んできて幸せです。夜も30分以内に眠ることができるようになりました。以前先生の「頭のいい貴女なら絶対できますよ」という言葉を信じて藁をすがる気持ちで坐禅しました。今はすべてが新鮮です。植木も花もみんな生きていて、その中で生きていられる素晴らしさを実感しています。数年前に死ぬ覚悟をして薬を飲んだとき、友達が心配して来てくれて、すぐ救急車で運ばれたのを思い出すと、足がガクガクして生きている喜びで号泣しました(3)。坐禅を通して、命の尊さを実感し、早く社会人になり世の中に尽くしたいと思います。来年からの勉強が楽しみでたまりません。病気をしていなかったら、こんなに命が尊いものだとは実感できなかったと思います。これが悟りかは、私にはわかりません。ただ、悟りかどうかはどうでもいいことです。私が楽になったのは真実ですから。命があるだけで今は十分です。それ以上は求めません。

 彼女は3時間の坐禅以外にも立っているときも歩くときもほぼ一日中坐禅の気持ちで過ごしたという。これ以後、不安感や抑うつ気分は一切認めていない。また、恐れていた高校の同窓会には楽しく出席でき、その後も陰性感情に襲われることはまったくない。しかし、過眠や鉛様麻痺は軽いがなお残っており、生活リズムは完全に正常に復しているとは言えない。この状態は、復学して生活リズムが健常人のそれに馴化していけば問題はなくなると推定される(貝谷久宣「坐禅により軽快した非定型うつ病の1例」貝谷・熊野(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅の脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年、pp.93-94)。

 これは、「精神疾患が坐禅で軽快した」というよりも、「坐禅を契機とした劇的な宗教的回心」が生じたので、「精神疾患が軽快した」のは副次的なことだと思われる。命の尊さの自覚、自然とのつながりの感覚、周囲への感謝―いずれも典型的な宗教的回心のモチーフである。そして、この「劇的な宗教的回心」は、仏教がマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるもの」を提示した例だと思われる。

 この事例研究を紹介している貝谷は精神科医であるから、坐禅についてはさらりと触れるだけですませている。しかし、これは宗教学者から見れば、非定型うつ病を契機とした宗教(禅仏教)への入信体験記である。瞑想(坐禅)に効果があったことは確かだろうが、宗教(禅仏教)のそれ以外の要素―(内在する仏性への信を説く)宗教的世界観・指導者の信仰指導・坐禅仲間との交流・さらには坐禅堂の「雰囲気」もあいまってこそ、非定型うつ病が治癒したのだと思われる。上記のメールのなかで、「戻るための準備をして荷物を下に置いたとき、次の瞬間、気付いたら私は自信を持っていました」とあることから、この宗教的回心は坐禅堂で生じたのだろう。そして、よみがえってきた「自信」とは、「自己に内在する仏性への信」のことだったのではないだろうか。

 いずれにせよ、この「非定型うつ病の信仰治療」の事例は、藤田一照がいうように、仏教はマインドフルネス瞑想の「さらに奥にあるものを示す」ことができることを示しているように思われる。


<注>

(1)非定型うつ病とは、うつ病性障害のサブタイプの一つの正式な診断名であり、メランコリー型うつ病や気分変調性障害の典型的な症状も併せ持つものの、これらとは異なる特徴を有する気分障害である。症状としては、肯定的出来事に元気づけられる気分の反応性、過食や過眠、手足が鉛となったような重さと感覚鈍麻、拒絶への敏感性を特徴とする。

 メランコリー型うつ病の患者は一般的には、うれしいことがあっても気分が改善することはないが、非定型うつ病の患者はうれしいことがあると気分が改善するといった特徴がある。また、非定型うつ病は、著しい体重増加もしくは食欲増進、過眠、手足の鈍重感、拒絶過敏性(社会でのあるいは職場での人間関係を著しく損なう)という特徴も持つ。

(2)鉛様麻痺は、手足が鉛のように重く感じられる、非定型うつ病の症状のことである。

(3)この人は、一度過量服薬によって自殺未遂をしていた。


<参考文献>

貝谷久宣・熊野宏明(編)『マインドフルネス・瞑想・坐禅の脳科学と精神療法』新興医学出版社、2007年

貝谷久宣『非定型うつ病のことがよくわかる本―「気まぐれ」「わがまま」と誤解を受ける新型うつ病のすべて―』講談社、2008年

貝谷久宣『よくわかる/薬いらずのメンタルケア―うつ、ストレス・不安に負けない―』主婦の友社、2011年

『中外日報』2015年10月28日号

貝谷久宣・熊野宏昭・越川房子(編)『マインドフルネス―基礎と実践―』日本評論社、2016年 

<参考インターネット関連サイト>

・「マインドフルネス」(2017年3月5日アクセス)、http://www.fuanclinic.com/blog/?p=181

・「「うつ病」になってしまった時、または、なりそうな時に読むページ」(2017年3月5日アクセス)、

http://www.geocities.jp/gurakuan_acupuncture/disease090612stress.htm

2015-09-15

AC・異邦人・ブーバーー『見捨てられ』感覚をめぐって

『アディクションと家族』vol.18-4、日本嗜癖行動学会、pp.570-576、2001年

投稿原稿(編集委員の野口裕二先生からの依頼原稿)


<表題>

「AC・異邦人・ブーバーー『見捨てられ』感覚をめぐって」

<著者名>

熊田一雄

AC, The Stranger, Buber−about the Sense of“Being Abandoned”

抄録;この論文の目的は、通俗心理学で言うアダルトチルドレンの概念を用いて、フランス文学の古典的名作であるアルベール・カミュの「異邦人」、および宗教哲学の古典であるマルティン・ブーバーの「我と汝」の新しい解釈を提出し、更に1990年代の先進諸国における「AC現象」の社会的背景を考察することにある。「異邦人」には「アダルトチルドレン生活感覚の宣言」としての側面が、「我と汝」には「回復したアダルトチルドレンの妻に対する親密性の表現」としての側面が、見られる。カミュもブーバーも、彼らの属する社会の「マージナル・マン」であった。1990年代の先進諸国のおける「AC現象」の社会的背景のひとつは、20世紀の後半までは一部のエリートの問題であった親からの「見捨てられ」感覚の問題が、グローバル化による国民国家への帰属意識の低下・産業構造の転換による持続的共同体の減少・地域共同体の弱体化の中で、急速に大衆化したことにあると考えられる。


索引用語:アディクション、アダルトチルドレン異邦人、我と汝、「見捨てられ」感覚

addiction , adult children, The Stranger, I and Thou, the sense of “being abandoned”


1.はじめにーAC概念について 

 最初に、アディクションに関する臨床領域におけるアダルトチルドレンの概念を簡単に説明しておきたい。ここでは、信田さよ子(1996)の定義に従って、アダルトチルドレン(ACOD, Adult Children of Disfunctional Family)を「自分の生きづらさが親との関係に起因すると自覚する人たち」と広く定義する(1)。そもそもはアルコール依存症の治療現場から提出された「アルコール依存者を親にもつ家族で育った子供達」(ACOA, Adult Children of Alchoholic Family)という意味の狭い概念であったが、アディクション・アプローチ(Addiction Approach)を採用するアメリカの臨床家たちは、この概念を拡張解釈して、一般に「機能不全家族で育った子供達」という意味で用いる(注1)。なぜかこんな所で「機能不全家族」という機能主義社会学の、現代の家族社会学では古びてしまった概念が転用されている。

 このような広い意味でのアダルトチルドレン(以下ACと略記)の概念は、必ずしも精神科医臨床心理士が全員認める概念ではない。時としてACが通俗心理学(大衆心理学、popular psychology)の概念と呼ばれることもあるゆえんである。「概念を拡張しすぎている」(何でもかんでもアディクション=嗜癖に結びつけている)というのが、少なからぬ精神科医臨床心理士が広い意味でのAC概念に対して突きつける主要な批判点である。筆者はこうした批判はある程度までは正当な批判だと考える。

 しかしながら、こうした批判にも関わらず、AC概念は1990年代には先進国全域で流行するようになった。AC概念が流行する最大の理由は、おそらくこの概念のaccountabilityの高さ、わかりやすさにあるのであろう。摂食障害を例にとってみよう。精神医療の専門家ではない一般生活者には、例えば「食欲に関係するホルモン」の話はほとんど理解できない。しかし、摂食障害者の背後にある家族関係については、専門家でなくともよく理解できる。しかし筆者は、単にそれがわかりやすいからというだけではなく、AC概念が現代の先進国に生きる人たちの精神生活の一面を確実に捉えている、という側面もあると考える。

 この論文では、こうした広い意味でのAC概念を用いて、宗教哲学の古典マルティン・ブーバーの「我と汝」、およびフランス文学の古典アルベール・カミュの「異邦人」の解釈に新たな光を投げかけて見たい。こうした試みには宮沢賢治の作品群を対象とした矢幡洋の「<賢治>の心理学ー献身という病理」(1996)のような研究が既に存在する(2)(注2)。最後に、<母なるもの>をめぐる「見捨てられ」感覚の大衆化(バブル化)という観点から、1990年代の先進諸国における「AC現象」を、20世紀の文明史の中に位置付けてみたい。


2.カミュ異邦人

まずカミュAlbert Camus 1913ー60)の古典的文学作品異邦人」(1946)とAC概念との関わりを簡単に論じる。通常、「異邦人」は「神は死んだ」時代における不条理の感覚・実存主義思想を表現した作品だと位置づけられている。しかしながら、かつて小説家落合健二が朝日新聞に掲載されたエッセーで論じていたように、カミュ自身の養育歴と「異邦人」を照らし合わせると、この作品の別の側面、近代日本文学のカテゴリーを転用すれば、母の登場しない「母もの」小説としての側面が見えてくる(3)。

 カミュは父親を第1次世界大戦で亡くし、母子家庭・貧困家庭において、生活苦と戦うのに忙しすぎた母親の愛情に殆ど浴することなく育った。こうしたカミュの養育歴と照らし合わせると、「今日ママン(熊田註;フランス語の幼児語)が死んだ。」という有名な書き出しで始まるこの作品は、現代の視点から振り返れば、また典型的なAC生活感覚を表現したものとしても読めるのではないか。

 アルジェに住む下級サラリーマン(上昇志向は放棄している)主人公のムルソーは、年齢も覚えていなかった母親の養老院における葬式で一滴の涙も流さず、それどころかその翌日ガールフレンドと喜劇映画に笑い転げる。数日後、近所の不良のいさかいに巻き込まれ、くだらないいざこざから「太陽のせいで」殺人を犯し、死刑に処せられるまでの自分をまるで傍観者のように淡々と見つめている。そして最後には、群衆が憎悪の叫び声をあげて彼の死刑を見物に来ることを願う。作品中彼が唯一「人間らしい」感情を爆発させるのは、自分に悔悛を迫るカトリックの神父に対して怒りをぶつける時だけである。

 主人公ムルソームルソー自身にとっても他人であり、また彼の行為は、世間の人々によって勝手に意味づけをされてしまう。


  夜、マリー(熊田注;ムルソーガールフレンド)が訪ねてきて、僕に彼女と結婚する気があるのかときいた。それは僕にはどうでもいいことだ、彼女が結婚したければ、われわれは結婚できるだろうと言った。彼女は僕が彼女を愛しているかを知りたがった。僕は一度したとおりに答えた。それには何の意味もないが、たぶん愛していないと。《じゃあ、なぜあたしをもらうの?》と彼女は言った。僕はそれが何ら重要性を持たないこと、もし彼女が欲するなら、われわれは結婚できることを説明してやった。それに、結婚を求めたのは彼女であり、僕はただ承知しただけではないか。彼女はすると結婚は重大事だと指摘した。僕は《いや、違う》と答えた。彼女はしばらく口をつぐんで、黙ったまま僕の顔を見た。そして話しだした。彼女は端的に別の女が同じように結びついて、同じ申込みをしたら、承諾するかときいた。僕は《むろんさ》と答えた。すると彼女はいったい僕を愛しているのかと自問した。その点は、僕には何とも言えなかった。またしばらくだまったあとで、彼女は僕が変わっている。きっとそのために僕を愛しているが、いつ同じ理由で嫌いになるだろう、と呟いた(4)。


 上記の引用部分に典型的に見られるように、作品全体を通して、どこか現実からフワフワと浮き上がっているような、「離人感覚」が読みとれる。ところで信田さよ子によると、こうした離人感覚こそ広義のACの一大特徴である。

 

 「ふわふわ浮いて」生きている

  ACの人はふわふわ浮いている現実感のなさを、ずっと持っています。

(中略)

  私たちのいまの状態は、全部理由があるし、必要だからやっていることで、ふわふわ浮いているということは、その必要があるから浮いているわけです。なぜ必要があるかというと、生々しい現実はとても過酷であったり、そのなかにどっぷり浸っていくには耐えられないような現実であれば、どこかで浮いているしかないわけです。それがその人の生き方そのものになってしまっただけなのです。そんなことをずっとつづけてきた人もいるわけです。決して病気ではありません(5)。


 こうして見ると、カミュ自身の生い立ちとあわせて考えれば、「異邦人」には典型的なAC生活感覚を表現した作品としての側面があるのではないか。カミュのデビュー作「異邦人」(厳密には「異邦人」のラストで突如母親を受け入れる場面以降)以後の作品群には、何とかACから回復しようとした必死の努力、という側面もあるのではないか(注3)。


3.ブーバーの「我と汝」

 次に、時代は逆転するが、宗教哲学の(ある意味では異端の)古典であるブーバーの「我と汝」とAC概念の関係について簡単に論じてみたい。

 ブーバー(Martin Buber 1878-1965)の「我と汝」(1923)は、ユダヤ教神秘主義の伝統から生まれた、不思議な吸引力をもつ宗教哲学の古典である(6)。カウフマンが指摘するように、「我と汝」はアカデミックな講壇哲学の伝統に属する書物ではなく、哲学と文学の間のどこかに位置する「哲学詩」とでも呼ぶべき書物である(7)。アカデミックな講壇哲学の伝統に属する書物ではないにもかかわらず、今日でも宗教研究者・教育学者・精神医学者などによって引用されることが少なくない。  

 ブーバーの「我と汝」によれば、世界は人間のとる態度によって、二つの全く異なった現れ方をする。根源語「我とそれ」の我は、「我はかくかくしかじかの者なり」という個別的存在として現れ、世界を経験して利用する「主観」として自己意識し、他の個別的存在を客観視することにとって他の個別的存在から自己を分離させる。それに対して、根源語「我と汝」の我は、「我あり」という人格的存在として現れ、自分が何者であるかとは無関係に「主体」として自己意識し、他の人格的存在と相互に交流する(出会い対話する)ことによって人格的関係に入る。「我とそれ」の関係性が因果律と時間空間の世界であるのに対して、「我と汝」の関係性は因果律と時間空間を超越した世界である。

ブーバーによれば、「われー汝」の相互性、出会いの相互性によってこの世界の存在が成り立っている。デカルト的な「われ」という抽象化された中心点から見る世界存在、人間の社会ではなく、<われ>と<汝>を中心にしてその相互性による関係の中に一切を見直すことが重要である。近代以降営々として築いてきた人間の文化は、この根源語の立場からすれば、「われーそれ」であり、「われーそれ」は「われー汝」を基礎にもつ。もし「われーそれ」が崩壊しても、「われー汝」の根源に帰ることによって、ふたたび立て直すことができるし、生存を崩壊させないように努めるためにも、「われー汝」の純粋化がつねに意識になければならない。そして神は「永遠の汝」である。

 この「汝」は理性の認識の彼方に予感したり、超自然として思惟する啓示でもない。この世界の一切のものは、この「われー汝」に包括されている。人間と人間の間にも「われー汝」が見出され、人間と自然の間にも「われー汝」が生起する。幼児にも老人にも、原始未開の部族にも、古代人の文明にも、男女の間、親子、兄弟、友人の間にも、現代の文明の中にも存在し貫いている。ただわれわれがこのことを忘れたか、気がつかなかったか、意識的に考えまいとしたかである。

 ところで、人間の文明史における「われー汝」の根源性を論ずると同時に、ブーバーは、人間の個人史における「われー汝」の根源性について以下のように語っている。


  誕生以前の幼児の生活は、純粋なる自然的結合、母親から子供への生命の流出であり、肉体的相互作用である。この場合、生まれくるものの生命の地平はただひとつの方法で、新しい生命の担い手の中に刻み込まれてもいるが、しかし決してそれだけではない。なぜならば、子供の生命は母親の胎内にばかりやすらっているのではないからである。ユダヤの古い諺に、<人間は母の胎内にいるとき、一切を知り、誕生とともに一切を忘れる>、といっている。この母と子の結合は非常に宇宙的であって、太鼓の謎の碑文の解 読が半ばなされたような思いである。そしてこの母と子の結合は、神秘的な願望の姿として人間に残っている。この憧れは再び母の胎内にかえってゆきたい願いのように考えてはならぬ。このような考えは、精神を知性と取り違え、精神を人間の寄生物と見誤る 人々と同じである。とにかく、この花は種種さまざまの病気にさらされているのだが―むしろこの憧れは、精神に目覚めた人間が、真の<なんじ>と宇宙的な結合をつくり出そうとする憧れなのである(8)。


 ここでは、「母と子の結合」が半ば「聖なるもの」として神秘化されている。(注4)もちろんこのことを考えるには、ブーバーが属していたユダヤ文化における「文化としての母の観念」(9)を考慮しなければならないだろう。ところで、ブーバーの「我と汝」の執筆の背景には、第1次世界大戦による文明の危機に対する意識だけではなく、ブーバー自身の個人史、青少年時代のニヒリズムの誘惑からの脱却が深く関わっている。そして、ブーバーの青少年時代のニヒリズムの誘惑は、ブーバー自身の母との関係が深く関わっていた。ブーバーは、離婚した両親の双方から引き離され、祖父母のもとで育つという複雑な養育歴の持ち主である。後の半自伝的作品のわざわざ冒頭に置かれた「母」と題する章で、ブーバーは自分の母との関係について以下のように語っている。


  この書物の目的は、私自身の生涯について語ることではなく、むしろ、ひとえに、私の思想の性質と方向とに決定的な影響を与えた、瞬間のいくつかを、思い出のなかから浮かぶままにひろいあげて、報告することである。

  私にとってこのような性格をもつ最初の記憶は、4歳のときにまでさかのぼる。はぼ一年前に、ウィーンにあった幼年時代の家庭は、両親の離婚によって崩壊してしまっていた。(中略)子供自身は、母親に間もなく会えるものとばかり思っていた。しかし、それを口に出してたずねることはできなかった。そのとき、これから語ろうとする事が おこったのである。

  (中略)しかし、この姉のような少女が、「いいえ、あなたのお母さんはもう二度と帰ってきません」といった言葉は、まだ、私の耳にひびいてくる。私はだまっていた。しかし、同時に、この言葉の真実さについて、もはや疑っていなかったことも、よくおぼえている。この言葉は、私につきささったままであった。そして、年とともに、ますます深く心にくいこんでいったのである。しかし、およそ10年ほどたつと、私は、すでに、この言葉が私だけではなく、人類そのものに関係していることを、感じはじめていた。そして、やがて、人間と人間の間の真の出会いの欠如をあらわす、「ゆきちがい」 (Vergegnung)という言葉を自分の手でこしらえたのであった。それから、さらに20年たって、遠方からはるばる私と妻と子供たちに会いにやってきた母と再会したとき、わたしは、どこからか、「ゆきちがい」という言葉が自分に向かって語られるのを聞かずには、彼女の、相変わらずびっくりするほど美しい目を見ることはできなかったのである。自分の生涯を通じて、真の出会いについて経験した一切のことは、バルコニーの上のあの時点にこそ、その出発点をもっているのだと、私は思っている(10)。


 ブーバーの、上記の4歳から34歳頃までの母親からの「見捨てられ」感覚が、ユダヤ文化における母性の重視とあいまって、青少年期に感じたブーバーのニヒリズムへの誘惑の基礎となっている、と考えられる。言い換えれば、34歳頃までのブーバーは、現代的表現を用いれば、ACだったと考えられる。この「見捨てられ」感覚は、34歳頃に母親と再会したときに完全に解消されている。そしてブーバーは45歳で主著「我と汝」を著している。以上のことから、ブーバーの「我と汝」には、通常言われる「ハッシディズム(ユダヤ教神秘主義)の思想表現」としての側面だけではなく、AC概念に基づく現代的な表現を用いれば「サバイバー(回復せるACのこと)の思想表現」としての側面があることに注意を促しておきたい。ブーバーは、母親から永遠に「見捨てられた」という感覚からニヒリズムの誘惑に苛まれる(「ゆきちがい」=「生きづらさ」の感覚を抱えた)ACとして育ち、母親との再会によって回復しているからである。さらに、「我と汝」の献辞がブーバー夫人に捧げられていることから判断すれば、「我と汝」には「妻に対する親密性の表現」としての側面があることにも注意を促しておきたい。


4.おわりにー20世紀における「見捨てられ」感覚

 ブーバーもカミュも複雑で偉大な思想家・作家であり、AC概念だけで彼らの作品を理解できるなどという暴言を吐くつもりは、もとより筆者には毛頭ない。筆者が言いたいことは、彼らの代表的作品にはAC概念によって理解できる「一側面もある」というだけにすぎない。付け加えると、ブーバーやカミュの作品が先進国で1960年代70年代の若き知識人に人気があったことは興味深い。ブーバーやカミュの作品の愛読者の少なくとも一部には、自分のACとしての感覚やサバイバーとしての感覚を重ね合わせていた者もいたのではないだろうか。

 最後に、本節では巨視的観点に立ち、ブーバー、カミュ、そして1990年代の先進諸国におけるAC概念の流行を、20世紀における「見捨てられ」感覚の系譜とその大衆化(バブル化)という観点からまとめてみたい。また、今後AC運動が医療の領域から「再宗教化」されていくという見通しを述べてみたい。

 ブーバーはディアスポラしたユダヤ人であり、カミュフランス植民地アルジェリア育ちであり、どちらもヨーロッパの主流文化から見ればマージナルマン(ウェーバー)であった。カミュは、フランスの他の左翼知識人との葛藤から、1957年にノーベル文学賞を受賞しているものの、それにさえも非難、中傷の矢が向けられる始末だった。ブーバーにいたっては、ナチス・ドイツによってドイツからも追われている。これらのことは、彼らの近代的「国民国家」(Nation State)への帰属意識を弱める方向に働き、「親子関係の葛藤」を抱えて育った彼らの(親からの)「見捨てられ」感覚(アイデンティティの危機)をより尖鋭化させたに違いない。

 ブーバーやカミュの置かれていたマージナル・マンとしての状況と比較して、1990年代の先進諸国の大衆が置かれた状況を考察してみよう。グローバル化の進行に伴い、国民国家の相対化が進行し、大衆の国民国家への帰属意識は低下した。経済の脱産業化に伴い、彼らを取り巻く家族以外の持続的共同体は減少した。地域共同体の力も弱体化した。これらのことは、ブーバーやカミュの場合と同様に親子関係の葛藤を抱えて育った大衆の(親からの)「見捨てられ」感覚(アイデンティティの危機)をより尖鋭化させた。これが、1990年代の先進諸国におけるAC現象の社会的背景の重要な一部だと思われる。「見捨てられ」感覚は20世紀初頭から一部の知識人の間では存在した。それが1990年代の先進諸国の大衆の間で一気に広がった(たぶんにマスメディアによってバブル化された)のである。

 もちろん、こうした議論に対しては、現在の、特に日本のACは親からの「見捨てられ」感覚ではなく、一見「見捨てられ」感覚の正反対にも見える親の「過剰な期待」から生じたものが多いのだ、という反論があるだろう。しかし、現在の、特に日本の多くのACが抱えている親の「過剰な期待」は、「あるがままの自分」に対する親の「無条件の愛」ではなく、「親の期待する(と少なくとも子供が思いこんだ)自己」に対する「条件付きの愛」であることに注意しなければならない。「条件付きの愛」の背後には、親の期待を裏切れば「見捨てられる」という恐怖感が常に存在する。つまり、現在の、特に日本の多くのACが抱えている親からの「過剰な期待」は、「見捨てられ」感覚と同じコインの表裏の関係にあるのである。

 ブーバーやカミュと現在の先進国の、特に日本の大衆とでは、宗教的バックボーンの有無という点に大きな相違がある。ブーバーやカミュは、たとえ逆説的な形であったとしても、宗教的バックボーンをはっきりと有していた。ブーバーの場合、ハッシディズム(ユダヤ教神秘主義)に深い共感を抱いていた。カミュの場合、フランスのカトリシズムは拒否したが、逆説的に彼の実存主義哲学は古代のグノーシス主義と多くを共有することになった(11)。これらの宗教的バックボーンが、彼らの生きる強さの背後にあった。

 それに対して、少なくとも1990年代の日本のACムーブメントを観察する限り、宗教的バックボーンは比較的弱い(注5)。信田が指摘するように、日本の(広い意味での)AC運動は、「回復とはこういうものだ」という形を、少なくとも現時点でははっきりと提示しない(12)。「救われた」生の形を明示する宗教運動(思想運動)と異なり、「回復の形」が明示されないということは、大衆運動としては大きな弱点である。ほとんどの大衆は、生活指針の「形のはっきりしない」生を生きるほどには強くない。従って今後は、日本のACムーブメントはおそらく宗教色を再び次第に強めていくことになるであろう(13)。


<注>

(1)広い意味でのアダルトチルドレンの概念が1990年代に急速に日本社会で普及したのは、精神科医の斉藤学や臨床心理士信田さよ子のマスメディアを利用した活動によるところが大きい。

(2)矢幡は、宮沢賢治の献身活動に典型的な「関係嗜癖者」の姿を読み込んでいる。筆者は、矢幡の議論に大筋では賛成しつつも、やや一面的ではないかという批判的感想も抱いている。 

(3)ハンス・ヨナスは、ヘレニズム時代におけるグノーシス主義の大流行を論じて、盛んに「異邦人的に」ということを強調している(5)。「テーマはアダルトチルドレン」という1990年代の日本における人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が想起される。

(4)こういう「聖なる母性」のような記述をすると、「女性を母役割に押し込めようとするものだ」という批判をフェミニストから受けるかもしれないが、ここでいう母性は 現実の女性から抽象化されたものであり、女性差別につながる必然性は持たない。

(5)日本のAC運動がアメリカのそれと比較して宗教色が弱いのは、斉藤学氏の当初の方針によるものかもしれない。


<文献>

(1)信田さよ子1996『<アダルト・チルドレン>完全理解』三五館

(2)矢幡洋1996『<賢治>の心理学ー献身という病理』彩流社

(3)落合健二2001(朝日新聞2001年4月13日夕刊所収)『母が死んだ』朝日新聞社

(4)アルベール・カミュ(中村訳)1984(原著1946)『異邦人』「カミュ全集2」新潮社 ;30 

(5)信田さよ子、同上;109-110

(6)マルティン・ブーバー(植田訳)1979(原著1923)『我と汝・対話』岩波文庫

(7)Walter Kaufmann1970"I AND YOUーA PROLOGUE" in Martin Buber(translated by  Kaufmann)1970 "I and Thou" Simon&Schuster

(8)マルティン・ブーバー、同上;35

(9)山村賢明1971『日本人と母ー文化としての母の観念の研究』東洋館出版社

(10)マルティン・ブーバー(児島訳)1966(原著1960)『出会い(自伝的断片)』理想 社;5-7

(11)ハンス・ヨナス(秋山・入江訳)1986(原著1964)『グノーシスの宗教』人文書院 ;427-452

(12)信田さよ子、同上;180-181

(13)熊田一雄1998『現代救済宗教と共依存の病理ーGLA系諸教団の事例研究より』「愛知学院大学文学紀要」第27号


<謝辞>

この論文は、草稿段階で東京大学の島薗進氏と東京学芸大学の野口裕二氏に読んでいただき、貴重なコメントを賜った。特に、「見捨てられ」感覚という言葉は島薗氏のご示唆によるものである。また、ハンス・ヨナスの書物も島薗氏にご教示いただいた。記して感謝したい。


abstract

AC, The Stranger, Buber−about the Sense of“Being Abandoned”

 The purpose of this paper is to present new interpretations of “The Stranger”written by Albert Camus, which is a masterpiece of French literature and “I and Thou”written by Martin Buber, which is a masterpiece of philosophy of religion, using the notion of what addiction approach calls Adult Children, and in addition to consider the social background of “AC phenomena”of advanced countries in the 1990s. We can see the aspect of “manifest of life style of a adult children”in “The Stranger”, and the aspect of “manifest of the intimacy with wife of a recovered adult child”in “I and Thou”. Both Camus and Buber were “marginal man”in the societies to which they belonged. It seems that one social background of “AC phenomena”of advanced countries in the 1990s is the rapid popularization of the sense of“Being Abandoned”, which was a problem of only limited elites until the latter half of the 20th century, by the decline of the sense of the belonging to the nation states in the process of globalization, the decrease of the continuous communities in the change of the industrial structure, and the fact that local communities have been weakened.

2014-03-29

アンパンマンの孤独−愛と勇気とホモソーシャル−

愛知学院大学人間文化研究所紀要29号原稿(2014年9月刊行)


<題名>「アンパンマンの孤独−愛と勇気とホモソーシャル−」

<著者>熊田一雄(文学部宗教文化学科准教授)

<Title>The Loneliness of Anpanman−Love, Courage and Homosocial−

<Author>Kazuo KUMATA(Faculty of Letters, Department of the Study of Religious Culture, Associate Professor)


<要旨>

 本稿の目的は、やなせたかし(1919-2013)原作の国民的アニメ『それいけ!アンパンマン』(原作絵本1973-、アニメ1988-)の主題歌『アンパンマンのマーチ』を取り上げ、なぜやなせが「愛と/勇気だけが/友だちさ」と作詞したのかを分析し、そのことが、太平洋戦争中にやなせが弟を事実上の「特攻志願」の上で亡くしたことと深く関係していることを見る。『アンパンマンのマーチ』の歌詞は、ジェンダー研究者のイヴ・K・セジウィックのいう男同士の「ホモソーシャル」な絆を否定しているのである。


<キーワード>

アンパンマン/男らしさ/ホモソーシャル/太平洋戦争/特攻志願


―「愛と/勇気だけが/友だちさ」(『アンパンマンのマーチ』)


1. はじめに

 本稿の目的は、やなせたかし(1919-2013)原作の国民的アニメ『それいけ!アンパンマン』(原作絵本1973-、アニメ1988-)の主題歌『アンパンマンのマーチ』を取り上げ、なぜやなせが「愛と/勇気だけが/友だちさ」と作詞したのかを分析し、そのことが、太平洋戦争中にやなせが弟を事実上の「特攻志願」の上で亡くしたことと深く関係していることを見る。『アンパンマンのマーチ』の歌詞は、ジェンダー研究者のイヴ・K・セジウィックのいう男同士の「ホモソーシャル」な絆を否定していることを見る。


2.「愛と/勇気だけが/友だちさ」

 『それゆけ!アンパンマン』(アニメ放映は1988年から)は、現代日本における国民的アニメである。そのオープニング・テーマ曲『アンパンマンのマーチ』も、少なくとも日本の若い世代では、聞いたことがない人はまずいないだろう。

 やなせの太平洋戦争体験と『アンパンマン』の関係について、やなせは以下のように説明している。


 ぼくは優れた知性の人間ではない。何をやらせても中ぐらいで、むつかしいことは理解できない。子どもの時から忠君愛国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、正義の戦いと言われればそのとおりと思っていた。正義のために戦うのだから生命を捨てるのも仕方ないと思った。

 しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。

 正義はある日突然逆転する。

 正義は信じがたい。

 ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本となる。

 逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない(やなせ1995=2013b、p70)。


 自ら作詞した主題歌『アンパンマンのマーチ』の歌詞については、やなせは以下のように説明している。


 アニメのテーマソング「アンパンマンのマーチ」は「手のひらを太陽に」と並ぶ国民的愛唱歌です。

 「あれは相当難しい歌なんで、意味はわかっていないと思う(笑)。でも、ほんとうの意味というのは、なんとなく通じてしまうんだね。ノスタルジーを歌う童謡とちがって現在の歌だから、小さい子どもにもわかるんです」(『ユリイカ8月臨時増刊号』、2013(やなせたかし氏の2012年の発言)、p185)。


 本稿では、やなせが「相当難しい」としている歌詞のなかの、「愛と/勇気だけが/友だちさ」という部分に焦点をあてて分析する。やなせ自身は、歌詞のこの部分について、以下のように説明している。


正義は勝ったと言っていばってるやつは嘘くさいんです。

(中略)

「アンパンマンマーチ」の中に、


 愛と勇気だけが友達(ママ)さ

  

 という歌詞があります。それで抗議がきたことがあるんだけど。これは、戦う時は友達を巻き込んじゃいけない、戦う時は自分一人だと思わなくちゃいけないんだということなんです。お前も一緒に行けと道連れをつくるのは良くないんですね。無理矢理ついてくるなら仕方ないけどね。

 横断歩道もみんなでわたれば怖くない、悪いことする時も群衆でやれば怖くないというのがあるけど、責任は自分で負うという覚悟が必要なんだということです(やなせ、2013a、pp.122-123)。

   

 ひとつはっきり言えるのは、戦争は良くないということ。

 国民を統一していくには、戦争をするのが便利という時もあります。仮想敵をつくっていく方が、正義として国民の心を一つにまとめることができるわけです。政府は自分も悪いやつなんだけど、相手が悪いというのはひとつの政策なんでね。

 戦争は国家の意思でやるものです。その中に国民がまきこまれているわけですね。国家と殺人は全然違う。例えば日本とロシアが戦争をしたって、個人は相手を憎んでいるわけでもなんでもない。それが国家ということになると戦いになって国民は犠牲になるわけなんです(同上、p143)。


 やなせの他の発言と突き合わせて考えると、この部分は、やなせが太平洋戦争中、弟に事実上「特攻志願」されて、戦死(事実上の「特攻」に行く途中で、乗っていた軍艦を米軍に撃沈されて死亡)という形で失ったことと深く関連しているように思われる(1)。


3.やなせ氏の弟の「特攻志願」

 やなせ氏の弟の事実上の「特攻志願」と『アンパンマン』の関係について、やなせは次のように説明している。


弟は小倉の旅館に泊まっていたので、ぼくは外出許可をもらって、弟が泊まっている旅館で、一緒に食事をしながら話しました。

聞くと、海軍の特別任務につくので、最後の挨拶に来たと言うのです。

「なんでそんなものになったんだ」とぼくは怒りました。

若い将校を集めて「特別任務を志願する者は一歩前に」と言われたそうです。千尋(熊田註;やなせたかし氏の弟の名前)は、「志願者は一歩前に」と言われて一歩前に出てしまったのです。

「お前そんなものに出るな」と言ったのですが、「みんなが出るのに出ないわけにはいかない」と言うのです。そんなバカな話はない。でも、行かずにはおれなかったのでしょうね。

 弟は飛行機がダメだったので、特別任務のほうにまわされたのかもしれません。

 当時海軍は、秘密兵器として奇襲作戦用の小型特殊潜行艇をつくっていたのです。

 そのあと何を話したか、忘れてしまいましたが、やるせない気持ちでいっぱいになりました。

 弟の顔を見たのは、それが最後です。

(中略)

 ぼくはそんなつもりはなかったのですが、「アンパンマンのマーチ」が弟に捧げられたものと指摘する人もいます。それだけ、弟と最後の言葉を交わした記憶が深く残っていたのでしょう(やなせ2013c、pp37-39)。


 それでは、やなせの弟は「軍国少年」で、戦時中のやなせのように、単純に「正義の戦争」を信じていたから事実上の「特攻志願」をしたのだろうか。以下のやなせの証言に見るように、やなせの弟は決して「軍国少年」ではなかった。


弟は、京都帝大の法科の学生でしたが、そこから海軍に志願したのです。

「おまえ、なんでそんな特攻隊なんかに志願するんだ。やめろ、やめたほうがいい」

 やむにやまれず、僕は弟にこう忠告しました。すると弟は、こう答えたのです。

「大学に海軍の将校がやってきて、“特攻隊に志願する者は、一歩前へ”っていう。けど、みんなが一歩前へ出るのに、自分だけ出ないというわけにはいかない」

 僕は釈然としませんでした。が、このとき弟は、視力があまりよくなかったために、海軍の特攻隊に落ちたのです。僕は胸を撫で下ろし、「よかったじゃないか、特攻隊なんか行くな」といいました。

 ところが、大学へ志願要請がまた来て、結局、「回天」での特攻隊への入隊が決まったのです。「回天」はひとり乗りの非常にちっちゃな特攻潜行艇で、その艦の中は真っ暗闇。懐中電燈で照らしながら操作して、前進だけしかできない代物(しろもの)でした。訓練も命がけで、その訓練中にたくさんの若者が亡くなったのです。

 弟はその訓練を受け、海軍少尉に任官しました。その当時は“7つボタンの制服”で格好はよかった。「おお、カッコいいじゃないか」と僕がいったら、「いや、こんなものは猿芝居だよ」と弟は一言。海軍の特攻隊に志願はしたけれど、弟は軍国少年ではありませんでした。“猿芝居だ”といったように、本当は特攻隊などに行きたくはなかった。弟は、時代という目に見えないものに、拉致(らち)されたような気がしてならないのです(やなせ2011、pp.77-78)。


 やなせの「軍国少年ではなかった」弟が事実上の「特攻志願」をしたのは、当時の若い将校の間での、「みんなが出るのに出ないわけにはいかない」という「無言の圧力」のためだったようである。


4.ホモソーシャルとは?

ホモソーシャルは、アメリカのジェンダー研究者、イヴ・K・セジウィックが提唱した概念であり、簡単にいえば「男性間の非・性的な絆」のことである(セジウィック1990=1999、1985=2001)。社会学者の上野千鶴子は、この概念を以下のように簡潔に説明している。


 すなわち婚姻とはふたりの男女の絆ではなく、女の交換を通じてふたりの男(ふたつの男性集団)同士の絆を打ち立てることであり、女はその絆の媒介にすぎない。ここに男同士の間の本来の目的があり、異性愛者の「真の絆」の対象は、同性の男と見なされた。

 このセジウィックの説には、以下の三つの概念の構造的な配置がある。第一は、男同士で互いに男と認め合った者たちの連帯である。これをセジウィックはホモソーシャル(男同士の絆)と呼ぶ。第二は、男の欲望を女にさしむけるための、同性の男に対する欲望の禁止である。これがホモフォビア(同性愛恐怖)である。第三は、男同士の連帯から排除され、欲望の対象となる女の他者化(ミソジニー、すなわち女性嫌悪)である。これが<ホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニー>、この三点セットである。

 もっと簡単に説明しよう。男は、互いに男と認めあった者たちのあいだで連帯をつくりだし、その男の集団への参入資格が「女をモノにする」ことである。そしてそのあいだに潜在している男同士の欲望は、そのつど検閲され、排除される。それによって異性愛制度は維持されていく。それが男から同性愛者に対する「おまえ、おかま(原文傍点)かよ」という差別と排除であり、「キモチワルイ」という身体化された検閲の機能である(上野2013、pp.206-207)。


 こうしたホモソーシャルな感性は、戦時中はもちろん、戦後も日本社会に根強く存在し続けている。全共闘世代(1946年から1948年に生まれたグローバルな戦後第一世代)のミュージシャンであり、精神科医でもある北山修(1946-)が作詞したヒットソング「男どうし」の歌詞では、こうしたホモソーシャルな感性が歌われている(2)。





 全共闘世代の精神科医(九州大学名誉教授)にして人気ミュージシャンであったこの曲の作詞者・北山修は、大ヒット曲『戦争を知らない子どもたち』を作詞したが、同時にこの『男どうし』という曲も作詞した。「ふるさとに帰ったら 顔だけは出すんだよ/無理を承知で あの娘もひっぱり出すつもりさ/だって男どうしじゃないか/昔のように話し明かそうよ」という部分に、北山修が、「反戦」を歌いながらも、イヴ・K・セジウィックのいう「ホモソーシャリティ」(男性間の非・性的な絆)の特権性―そのためなら、「無理を承知で あの娘もひっぱり出す」ことすら許される―は全く疑っていないことがよく現れている。

 「無理を承知で あの娘もひっぱり出す」ことは、従軍慰安婦問題のような男性セクシュアリティの諸問題にも直結していると思われる。やはり全共闘世代に属する伊藤公雄氏(京都大学教授)の提唱している「メンズリブ運動」の限界のひとつも、「男どうし」の関係性が持つこの特権性を対象化しきれていない点にあると思われる(cf.熊田2005)。


5.国家権力によるホモソーシャルの利用

 太平洋戦争中、「特攻志願」を募るにあたって、国家権力が、男性兵士の間の上記のようなホモソーシャルな絆を巧妙に利用したことは、城山三郎(1927-2007)の小説『一歩の距離−小説 予科練ー』(城山1968=2001)に説得力をもって描かれている。城山自身も、も昭和の初めに生まれ、1945年に十代の半ばで海軍に志願した世代であり、海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えている。そして、戦後「かつての予科練たち」に取材してこの小説を書いている。こうしたことが、この小説に以下のような迫力ある描写をもたらしている。


前に出る練習生の靴音が聞える。前で、左で、背後で、右で。二人、三人、五人・・・・・・。靴音は脅迫的にひびく。だが、まだ全員はない。

 出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躊躇っているのか。

 腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。

 両親や兄弟のことを思った。飛行機にも乗らずに死ねるものか。おれが行かなくても、幾らでもその要員は集まる。逃げるんじゃない。おれは飽くまで空で死ぬんだ・・・・・・。

 苦しかった。頭が燃えて来る。そっと薄目を開けた。その視野にすぐ左から黒く大きな人影が出た。小手川であった。小手川が行くというのに。塩月の足がふるえた。

「ようし、待て」

 老大佐は台上から消え、大尉が号令した。

「そのまま動くな。全員、目は閉じておれ」

 士官たちが、各分隊に散ってくる。志願者の名前控えが始まる。

 決まったと思った。ほっとしたが、その安堵がたちまち悔いに染められて来る。ありもしない飛行機、その飛行機のせいにして、死を逃げたのではないか。何故、身を投げなかったか、一歩前へ出なかったのか。いまから一歩出てはいけないのか―。

 塩月は、歯を噛み合わせ、眼を強くつむった。みんな、しっかり瞑目していてくれ。

 その日、昼過ぎまで、練習生分隊はひっそりしていた。練習生同士、胸の中を探り合うというより、夫々の決意を静かに反芻していた。前に出るのも出ないのも、余りにも大きな決意であった。一歩の前と後の間には、眼もくらむばかりの底深い谷があった。

 遅かれ早かれ、いずれ死ぬ―という慰めに似た思いが、その谷を煙らせてくれる筈であったが、それにしても、傷口は生々し過ぎた。此方の岸と向うの岸。練習生たちはまだ茫然と断崖に立ち尽くし、眼の下の谷の深みに気を呑まれていた(城山三郎1968=2001、pp.94-95)。


 こうして最初の「特攻志願」をしなかったこの小説の登場人物・塩月は、心理的負い目から、二回目の「特攻志願」には応じる。


 隣の大津空から十五機の水偵が一時に消えてしまったのは、滋賀空の塩月たちにまた一つの衝撃となった。下駄ばきのまま特攻機として突入して行くのだという。壮烈だと思った。口惜しまぎれだが、下駄ばきと蔑んだことに気が咎めた。上尾は行ったかどうか。黙ってやることはやっていく性格だし、命がけで庇うほど九四水偵が好きであった。恐らく、行ったであろう。

 塩月は暗然とした。親友という親友においてきぼりをくった気がした。おれだけ生き残っているというひそかな喜びより、死に遅れたという焦りや後ろめたさが、ますます強まった。

 それだけに、十日ほどして、十五機の水偵が舞い戻って来たのを見た時には、喜色を隠せなかった。「よかった、そんなに慌てるな」と声に出さずつぶやく(同上、p178)。


 「親友という親友においてきぼりをくった気がした」「死に遅れたという焦りや後ろめたさ」という心理―「生存者罪悪感(survivor's guilt)」が、「特攻志願」の背景にあったことも少なくなかったのであろう。ここでいう「親友」同士の「連帯感(運命共同体感覚)」を「ホモソーシャル」と形容することに無理はないだろう。


6.おわりに

 本稿では、日本の国民的アニメ『アンパンマン』の主題歌『アンパンマンのマーチ』で「愛と/勇気だけが/友だちさ」とされている理由を、アニメの原作者でありこの曲の作詞者であるやなせたかし氏が、太平洋戦争中に弟を、事実上「特攻志願」された上に戦死という形でなくしたことと関連において分析した。『アンパンマンのマーチ』は、「戦友」という概念をラディカルに否定し、男性の「ホモソーシャル」な絆を否定しているのである。事実、ジャムおじさん以下、アンパンマンの「親密圏」は男女キャラが入り交じっている。

 もちろん、『アンパンマンのマーチ』が男性の「ホモソーシャル」な絆を否定していることには、弟に事実上の「特攻志願」のうえで戦死されたというやなせの重い経験以外の要因も関係しているだろう。やなせは、「男らしく」「女らしく」「子どもらしく」という考え方自体が好きでない、と述べている。


「子どもは、子どもらしくしなさい」「もっと男らしくしないと、女にはモテないぞ」「もっと女らしく振る舞いなさい」・・・・・・。

 僕は、この“らしく”という言葉が好きじゃない。“らしく”というのは、そのものにふさわしい特質を備えているかどうか、ってことでしょうが、人間、人それぞれなのですから、別に“らしく”ある必要はないと思うのです(やなせ2011、pp.199-200)。


 やなせのこうした「ジェンダーフリー」と呼べそうな発想は、1.大正デモクラシーの時代に自己形成したという時代的背景、2.リベラルで知識人だった開業医の養父に育てられた家庭環境、3.自由主義の校風(東京高等工芸学校)の中で青春を過ごしたこと、4.「とても軟弱」という若い頃の気質、などからきているのであろう。

 また、『アンパンマン』がいくら国民的アニメだといっても、視聴者の中心はあくまで3才〜5才くらいの幼児であり、現在(2014年時点)であれば、7才くらいになれば、男の子のヒーロー像は『仮面ライダー』や「男性戦隊もの」などに、女の子のヒロイン像は『プリキュア』などに変わっていくことがほとんどであろう。そういう意味で、『アンパンマン』の社会的影響力はある程度限定されている(3)。しかし、原作者の第二次世界大戦における重い経験が込められた「ジェンダーフリー」な『アンパンマン』は、近現代日本のジェンダー史に確実に一定の影響を与えたし、また今後も与え続けるだろう。


<註>

(1)やなせの実弟・柳瀬千尋氏は終戦直前の1944(昭和19)年に海軍が採用した特攻兵器、人間魚雷「回天」の乗員に志願して、フィリピンへの移動中に亡くなっている。しかし、1943(昭和18)年にやなせが中国に行ってしまっているので、千尋氏が小倉にやなせを訪ねて特攻隊に志願した話をすることはできない。おそらく、千尋氏が語ったのは、もうひとつの特殊潜行艇「甲標的」の搭乗員に志願したことだと考えられる。実質的には出撃すれば戻れる確率の低い、回天と同じような特攻兵器だった(やなせ2013c、p50)。

(2)精神科医「なのに」ジェンダー保守なのではなく、精神科医「だからこそ」、社会常識に疎いところがあり、ジェンダー保守の考え方を相対化できないのであろう。

(3)2013年には、右翼的な思想をもつ作家・百田尚樹氏の小説『永遠の0』とその映画版が、社会現象といっていいほど大ヒットした(百田2006=2009)。「義理(戦友に命を助けられた)と人情(妻娘のために生き延びたい)を秤に掛けりゃ、義理が重たい男の(生活)世界」が国家に利用される(特攻死)という話である。エピローグでは、米軍兵士たちとの「ミニマルな友愛」(J・デリダ)―「好敵手」として認められる―が描かれていた。絵に描いたような「ホモソーシャル礼賛」の物語である。


<謝辞>

 城山三郎の小説『一歩の距離−小説 予科練−』については、作家の彦坂諦氏にご教示いただいた。記して感謝したい。


<参考文献>

上野千鶴子『女の思想』集英社インターナショナル、2013年

イヴ・K・セジウィック『クローゼットの認識論ーセクシュアリティの20世紀−』1999年(原著1990年)

イヴ・K・セジウィック『男同士の絆−イギリス文学とホモソーシャルな欲望−』名古屋大学出版会、2001年(原著1985年)

熊田一雄『男らしさという病?−ポップ・カルチャーの新・男性学−』風媒社、2005年

城山三郎『一歩の距離−小説 予科練−』角川文庫、2001年(初出1968年)

百田尚樹『永遠の0』講談社文庫、2009年(初出2006年)

やなせたかし『絶望の隣は希望です!』小学館、2011年

やなせたかし『わたしが正義について語るなら』ポプラ新書、2013年a

やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫、2013年b(初出1995年)

やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい』小学館クリエイティブ、2013年c

『ユリイカ8月臨時増刊号−総特集☆やなせたかし アンパンマンの心−』青土社、2013年

2013-09-22

現代日本における「認知行動療法ブーム」への疑問ー宗教学の立場からー

愛知学院大学文学紀要43号原稿(2014年3月刊行)


<題名>「現代日本における『認知行動療法ブーム』への疑問−宗教学の立場から−」

<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)


<Title>Questions about“Boom of Cognitive Behavior Therapy”in Modern Japanese Society-from the Viewpoint of Religious Study-

<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor of the Study of Religious Culture)


<要旨>

 本稿の目的は、昨今(2013年時点)の日本社会における「認知行動療法ブーム」を取り上げ、それに対して宗教学の立場から、1.現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面があるのではないか、2.患者の精神的な「成長」ということを軽視しているのではないか、という2つの疑問を提出することにある。


<キーワード>

認知行動療法/宗教/精神分析療法/人間関係の希薄化/患者の精神的な「成長」


1.はじめに―現代日本の認知行動療法ブーム―

 2013年現在、日本社会の「心の業界」(宗教・精神科医療・心理療法の世界)には「認知行動療法ブーム」とでも呼ぶべき現象が生じている。ネット書店大手の「アマゾン」で「書名」に「認知行動療法」を含む本を検索すると、2013年9月22日時点で、168冊もの書籍がリストアップされてくる。

 『読売新聞』2011年7月6日号によれば、現代日本では、イギリスをモデルとして、認知行動療法の専門家を増員しようとする動きがある(cf.清水(監修)2010)。


うつ病治療が薬物治療に偏る中、国立精神・神経医療研究センター(小平市)で、薬だけに頼らない治療の専門家を育てる認知行動療法センターが今月(熊田註:2011年7月)本格的に始動した。

欧米で普及している「認知行動療法」の専門家育成機関という全国でも珍しい組織で、関係者の期待が高まっている。

認知行動療法は、物事に対する考え方や行動パターンを変えることで、患者の心の負担を軽くする治療法。地域医療に認知行動療法が定着した英国では、薬物療法と併用することで、自殺率が低下するなどの効果が出ているという。

国立精神・神経医療研究センターでは4月、「認知行動療法センター」の事務局が発足。6月には、初代センター長に日本認知療法学会の理事長の大野裕氏(1)を迎え、体制を整えた。

今後、医師、看護師、保健師らを対象に、研修会を開催。認知行動療法について講義やグループワークなどを通じて、年間100人の専門家を育成することを目標としている。


 本稿の目的は、こうした現代日本の「認知行動療法ブーム」に対して、精神医学や心理学の立場からではなく、宗教学の立場から、1.現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面があるのではないか、2.患者の精神的な「成長」ということを軽視しているのではないか、という2つの疑問を提出することにある。

 はじめに、上記の「認知行動療法センター」のHPから、認知行動療法とは何か、センターの説明を引用しておこう。


認知行動療法とは


認知行動療法(認知療法ともいいます)とは


認知療法・認知行動療法というのは、認知に働きかけて気持ちを楽にする精神療法(心理療法)の一種です。認知というのは、ものの受け取り方や考え方という意味です。ストレスを感じると私たちは悲観的に考えがちになって、問題を解決できないこころの状態に追い込んでいくのですが、認知療法では、そうした考え方のバランスを取ってストレスに上手に対応できるこころの状態をつくっていきます。

私たちは、自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。これは、通常は適応的に行われているのですが、強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります。

悲観的になりすぎず、かといって楽観的にもなりすぎず、地に足のついた現実的でしなやかな考え方をして、いま現在の問題に対処していけるように手助けします。認知療法・認知行動療法は欧米ではうつ病や不安障害(パニック障害、社交不安障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害など)、不眠症、摂食障害、統合失調症などの多くの精神疾患に効果があることが実証されて広く使われるようになってきました。

認知行動療法では、自動思考と呼ばれる、気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに患者の頭に浮かんでいた考えに目を向けて、それがどの程度現実と食い違っているかを検証し、思考のバランスをとっていきます。それによって問題解決を助けるようにしていくのであるが、こうした作業が効果を上げるためには、面接場面はもちろん、ホームワークを用いて日常生活のなかで行うことが不可欠です。

次に、認知療法・認知行動療法の具体的な方法を簡単に紹介します。そのときに、温かく良好な治療関係を大切にして、力を合わせて現実に目を向けて考えを切り替えたり問題を解決したりすることが大事だとうことは言うまでもありません。

(1)患者さんを一人の人間として理解し、その人の悩みや問題点、強みや長所を洗い出して治療方針を立て、それを患者さんと共有して力を合わせながら面接を進めていきます。

(2)行動的技法を使って生活のリズムをつけていきます。毎日の生活を振り返って無理のない形で、(a)日常的に行う決まった活動、(b)優先的に行う必要のある活動、(c)楽しめる活動ややりがいのある活動を、優先順位をつけて行っていく行動活性化は効果的です。とくに、楽しめる活動ややりがいのある活動を増やしていくことは効果的です。また、一定の身体活動や運動を用いて自信やコントロール感覚を取りもどし、他の人との関わり体験を持てるようにしていったり、問題解決技法を使って症状に影響していると考えられる問題を解決していったりして、適応力を高めていくようにします。

(3)自動思考に焦点をあてて、その根拠と反証を検証することによって偏りを修正し認知の歪みを修正します。このときに、書籍やウェブを使うこともできます。スキーマと呼ばれる性格の振り返りも役に立ちます。

(4)治療終結に進みます。

詳細な面接の流れは、厚生労働省ホームページの「こころの健康」(http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/kokoro/)を参照してください。また、治療ではありませんが、技法の練習には認知療法活用サイト(ウェブ、モバイルともにhttp://cbtjp.net)も役に立ちます。

 このような定型的な認知行動療法の他に、一人の方に使用する人や時間を効率的に少なくしながら効果が得られる簡易型の認知行動療法の研究が開発され、地域や職域の精神保健や福祉、法律や教育の各分野で活用されるようになってきています。そこで使われれている方法としては、(1)当事者や仲間がお互いに支え合うサポートグループ・プログラム、(2)短時間で相談に乗る相談センターや電話相談、(3)認知行動療法の原則に準拠した資料に基づく個人のセルフヘルプ、(4)行動活性化(やりがいのある行動や気持ちが楽になる行動を増やす)、(5)運動療法、(6)問題解決技法、(7)コンピュータ支援型認知行動療法などがあります。(「認知行動療法とは」)

 こうした認知行動療法の効果に関しては、精神医学・心理学内部からも既に多くの疑問が出されている。Wikipedia「認知行動療法」から、「効果に関する議論」を紹介しておく。


効果に関する議論


認知行動療法(CBT)に関する概念や効果研究の方法について、諸問題が提起されています。

1. CBTの基礎概念では、マイナス思考がうつ病の原因であるとされています。しかし、医学精神医学の中では、症状が病気の原因になっているのはこれが 唯一の例です。また、「私はどうでもいい人間」や「私はだめな人間」のようなマイナス思考が、うつ病の根底にある憂うつ気分の二次的な反応という解釈もできます。希望や支えを与えると患者は楽になりますが、うつ病そのものは治療されません。また、うつ病の臨床試験の場合、プラセボ(薬理効果をもたらす成分が入っていない偽薬)の投与群でも、うつ症状がある程度改善することがよく知られています。そのため、効果的な薬剤を服用している希望や期待によってマイナス思考が改善したと思われ、CBT効果と同じ現象ではないかと示唆されます。

2. CBTの効果研究の方法が、ダブルブラインド(二重盲検)でないことが問題とされています。患者と治療者の両方が治療内容がCBTであることを明確に認識 している場合(ダブルブラインドでない)、それによってバイアス(希望による期待)が生じる。そのため、明らかにCBTでない対象群より、よくなりたい患者の症状の方がある程度和らげられ、結果として「CBTがより効果的だ」という誤った結論になってしまいます。また、研究の評価者は治療内容を認識していないが、患者と治療者の両者が認識しているシングルブラインド(単盲検)の効果研究方法は妥当性に欠けてしまいます。2010年に行った過去の 研究をまとめた調査によると、治療内容を認識している研究とある程度しか認識していない研究を比較すると、患者や治療者が治療内容を認識すればするほど、 CBTが優位な結果となりました。これは、バイアスが原因ではないかと強く示唆されています。逆に、患者や治療者が治療内容を認識しなければしないほど、うつ病に対する効果がほとんどなくなります。

3. 軽症うつ病の患者が重症患者より多く、病気なのか、または性格やストレスによるうつ気分なのかが区別しにくくなります。軽症うつの患者は希望や期待に作用されやすく、上記のように症状がある程度容易に和らげられます。また、このような患者は重症のうつ病がはっきりしている患者と比べて効果研究に参加しやすく、客観的な結果が得られにくくなります。

結論: 1. CBTによって心理的な機能(主にマイナス思考による不快感)がある程度まで改善できる。

2. CBTはうつ病やその他精神科疾患の治療として、その効果が医学的に証明されていない。その上、CBT効果研究のダブルブラインド(二重盲検性)を調査した研究によると、うつ病に対するCBTの効果は極めて低い。

3. CBTは、中途度より重いうつ病に対しては単独治療にすべきでない。

4.主に二重盲検効果研究の実施は不可能なため、CBTの効果研究は「根拠に基づいた医療」(Evidence-Based Medicine)とはいえず、これまでのデーターは、「統制されていない研究結果」にすぎない(Wikipedia「認知行動療法」)。

 話を心理学的な効果に限定しても、既にこれだけの疑問が提出されているということである。しかし、私は宗教(社会)学者であって精神医学や心理学の専門家ではないので、認知行動療法の効果に関するこうした専門的な議論の当否については判断を保留する。

 宗教学の立場から、1.現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面があるのではないか、2.患者の精神的な「成長」を軽視しているのではないか、という疑問を提出するために、次節では、不安障害の患者が「宗教」(具体的には天理教)によって、1.何でも話せる友人と助け合う人間関係の中で、2.精神的に「成長」しながら、「治療」に成功した事例を紹介したい(cf.熊田2012)。


2.不安障害の信仰治療の事例

 以下に引用するのは、ある天理教信者が書いた信仰体験記である。この資料は、天理教教団のご厚意で原文を入手した。著者は、執筆の時点(2010年)で50歳になる主婦で、信仰は初代である。ご主人と二人の子供がおり、娘さんは結婚して二人目がお腹にいる。毎日朝夕教会に来て、朝づとめ夕づとめ(天理教の儀礼)をして帰る信仰生活を送っているそうである。


 これから私の体験したところをお話しします。自分がドッヂボールをしていて、その時にボールが当たったときに仰向けに倒れました。それが原因で自律神経失調症の中の不安神経症という病気になりました。二十四時間全身がしびれ、心臓も体から出てしまうぐらいドキドキして、頭痛もひどく、一時はどうにかなってしまうのではと思い、もうこんなに苦しいのなら、命も絶ってしまおうかと、思いましたが、子供のことを思うとそれも出来ず、毎日生きているのが、こんなに苦しいのかと思いました。

 そんな時、天理教のパンフレットが郵便受けに入っていました。そのパンフレットに『人をたすけて我が身たすかる』という言葉が書いてありました。天理教なら助けてくれると思いました。すぐに教会に電話して助けを求めました。そこから私の天理教が始まりました。

私の家に教会の人が毎日二ヶ月来てくれました。その時教会の人は私の病気の事をよく聞いてくれました。その当時は今とは違って、心の病気はなかなか理解してくれませんでした。怪我と違って見た目にもわからなくて、でも話し(ママ)を教会の人はよく理解してくれました。その後、教会の奥さんのお産があり、教会にこちらから行くようになりました。

 教会では、できることをいろいろさせて頂きました。今まで家からでられなかった私が、教会でいろいろな人と出会い、世界が広がった気がしました。それから毎日教会に通っていましたが、二・三年したら、姪っ子が旦那さんと姑さんとうまくいかなくなり、私に相談してきました。教会に一回行っただけで、姪っ子は夏のこどもおぢばがえり(熊田註:天理市への一種の巡礼)に行きました。そして、その年の秋に天理の修養科(修養科という所は神様の話をしたり、心の勉強したり三ヶ月研修する所です)へ行きました。

そして、修養科を出て、教会に三ヶ月住み込みし、今度は一才(ママ)の娘とふたりでアパートぐらしを始めました、それから私は教会の人たちと姪っ子のお世話をしていたのです。一才の娘の面倒を見たり、アパートの手伝いをしたりしました。それから何もわからず一軒一軒パンフレットをみんなと配ったりしました。

 すると、いつの間にか自分の病気がよくなっていくことに気がつきました。まさに『人をたすけて我が身たすかる』です。そして、今では姪っ子は旦那さんと二人の子供、お腹には三人目の子供がいます。今では、私は教会に行って、掃除をしたり、教会の子供の世話をしたり、スポーツもできるようになりました。毎日がとても楽しいです。

 もしあの時天理教のパンフレットがポストに入っていなかったら、天理教と出会わなかったら、私はどうなっていたかわかりません。病気は辛いけど、今は病気になって、人の病気の痛みも理解することができるし、いろいろな人との出会いもあり、病気になって少しは良かったなと思えるようになりました。そして、天理教の信者さん同志(ママ)なら誰にも相談できないこともできるし、天理教でよかったと思います。

 これからは、たすけてもらった分、困っている人をたすけたいと思います。会長さんからは人をたすけたり、パンフレットを配ることで、いんねんが切れると教わりました。いんねんとは「その家の代々受けついできたもの」です。私の家のいんねんでもある心の病気です(2)。

 人は、どこでどんな人とめぐり会うかわかりません。パンフレットをポストに入れ、感謝・恩を忘れず歩んでいきたいと思います。これが天理教だと思います。

 みなさんも、困ったことや悩みごとがありましたら、ぜひ近くの天理教の教会に相談して下さい。


 もちろん、宗教団体の信仰体験談をそのまま受け取るのには注意が必要である。しかし、この信者が精神科医療の薬物療法だけでは治癒せず、天理教の「人をたすけて我が身たすかる」という信仰指導も実践することによって治癒したことは確かであろう。この天理教信者の場合のように、人によっては、現代日本の精神科医療のように抗うつ薬SSRIの投与を中心とした薬物療法のみ施される場合よりも、こうした「人をたすけて我が身たすかる」という宗教教団の信仰指導が加わった方がより効果があるのであろう。

 この信者が「不安神経症」としているものは、現代の精神医学では「不安障害」の一種である「パニック障害」と診断されるだろう。この信者の場合、天理教の信仰生活が、精神医学でいう認知行動療法代わりとなって、「不安神経症」(=現代の精神医学でいう「不安障害」)が治癒したのであろう。

 不安障害が治癒したといっても、上記に紹介した典型的な認知行動療法の場合と異なり、この信者の場合、1.何でも話せる友人と助け合う人間関係の中で、2.「人をたすけて我が身たすかる」「病気は辛いけど、今は病気になって、人の病気の痛みも理解することができるし、いろいろな人との出会いもあり、病気になって少しは良かったなと思えるようになりました」という形で、病気になる以前より利他的な人間になるという精神的な「成長」を遂げて「治癒」したことに注意を促したい。


3.人間関係の希薄化の追認

 精神科医の中井久夫は、名著『治療文化論』(岩波書店、1990年)において、精神疾患の発症時においてその人の予後を決定する最大の要因は、「なんでも話せる友人が一人いるかいないか」ということではないかと指摘している(p.129)。この天理教信者の場合、教会の仲間が「何でも話せる友人」となったのであろう。天理教では、このように苦悩する人の語りを徹底的に「聴く」ことを、「聴きだすけ」と呼ぶ(熊田2011)。

 この信者の場合、「おたすけ」を行う際の、「たすかりたい」から「たすけたい」への視点・行動の転換が、一種の認知行動療法のような役割を果たしたのであろう。しかし、上記に紹介した典型的な認知行動療法の場合と異なり、この信者の場合、あくまで「助け合う人間関係」の中での「つながりの中の癒し」であった。もしこの信者に最初から「何でも話せる友人」と「助け合う人間関係」があれば、この信者はそもそも長年精神疾患に苦しむことはなかったのではないか。そう考えれば、現代日本の「認知行動療法ブーム」には、現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面があるのではなかろうか(3)。


4.患者の精神的な「成長」の軽視

 日本の精神医学の長老である笠原嘉は、精神分析療法における人間観と対比しながら、認知行動療法における人間観の特徴を、次のように指摘している。


(前略)しかし、残念ながら間もなく起こった学園紛争でこの興味ある試みも頓挫せざるを得ませんでした。今日も私は、こういう形でカウンセラーに精神科教育をする時代がくればよいのに、と思っています。それも新人ではなく、一定の経験を積んだ人が対象としてベターだと思います。外科医が手術を見て上達するように、精神科医は(そしてたぶんカウンセラーも)先輩の診察を見て成長するのです。

 しかし、現実には文科省資格を持つ心理カウンセラーはそのほとんどが教育界で、つまり登校拒否児の世話係として、パートタイマー的に働いておられるようです。精神科サイドでいえば米国精神医学の影響をうけて、認知行動療法という心理療法に軸足を移しつつあります。これは、国際的に見て多すぎる精神科病院の収容者数を減らそうという国策にも合致して、少しずつ盛んになりつつあります。この認知療法の背景にある心理学は昔ながらの伝統的な心理学で、カウンセリングを支えた力動・感情・全体心理学ではありません。

 認知療法が本来得意としたのは恐怖症・強迫症で、これらは「悪いクセ」であるから、それを修正するというのが基本姿勢でした。これに対し精神分析療法はヒステリーを対象として発展し、治療者との人間関係を作り上げてその上で患者の成長を計るという基本姿勢だ、と申し上げればその違いがはっきりするでしょうか(笠原嘉2012、pp.109-110)。


 精神分析療法が患者の「成長」を計るのに対して、認知行動療法は患者の「悪いクセ」を修正するのが基本姿勢だというのである。上記の不安障害が治癒した天理教信者は、もちろん精神分析療法を受けたわけではないが、精神的な「成長」、天理教の教団用語でいう「心の成人」を遂げた点では同じである。比較的短期間に「悪いクセ」を修正しようという認知行動療法には、精神分析療法や宗教が重視しているような患者の精神的な「成長」を相対的には軽視しているのではなかろうか。


 以上、昨今の日本における「認知行動療法ブーム」に対して、宗教学の見地から、1.現代社会における人間関係の希薄化を追認している側面があるのではないか、2.患者の精神的な「成長」ということを軽視しているのではないか、という2つの疑問を提出した。

 日本のジャーナリズムは、うつ病や不安障害の治療において、製薬会社の利権の臭いがする抗うつ薬SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の濫用をめぐる問題には敏感に反応する。しかし、欧米から認知行動療法を輸入することに関しては、手放しで歓迎している感もある。例えば、NHKは、2011年2月7日放送の『クローズアップ現代』「うつは“心”から治せるか/注目される認知行動療法」において、認知行動療法の利点ばかりを取り上げて放送していた。


 もちろん、現代日本における認知行動療法の普及は現在進行形の社会現象であり、今後認知行動療法が私が提出したような疑問を乗り越える形に変容していく可能性はあるし、私はその可能性には期待したい。

 厚生労働省のHPによれば、アメリカにおける不安障害の生涯有病率は年々増加し、今では10人に3人以上が患う病になっている。

一般住民を対象とした疫学調査では、わが国ではH14-18年度に厚労省の研究班(主任、川上憲人)が行った調査があり、何らかの不安障害を有するものの数は生涯有病率で9.2%(12ヶ月有病率では5.5%)でした。

その内訳をみると、特定の恐怖症が最も多く3.4%(生涯有病率、以下同じ)(恐怖症全体では約5%)、次いで全般性不安障害1.8%、PTSD1.4%、パニック障害0.8%でした(身体疾患や物質による不安障害は除外)。

米国の大規模疫学調査では有病率はもっと高く、ECA調査(Epidemiologic Catchment Area Program, 1980-83年)では不安障害全体は14.6%、その後行われたNCS調査(National Comorbidity Survey, 1990-92年、2001-2年に再調査)では31.2%でした。この結果からは、不安障害は年々増えていて、米国では今や10人に3人以上が経験する病気であることが考えられます。パニック障害の有病率はECA調査1.6%、NCS調査4.7%で、調査対象や方法はやや異なりますが、患者数はやはり増えていると思われます。

NCS調査によりますと、不安障害は女性に多く(男性25.4%、女性36.4%)、パニック障害では女性は男性の2.5倍、そのほかの不安障害の下位分類でもすべて女性が多くなっています。年齢分布は、18歳から60歳までのすべての年齢層であまり変わらず、60歳以上になると減少する傾向がみられます。

疫学調査でわかったもうひとつ重要な所見は、不安障害の患者さんは一定期間に二つ以上の診断基準を満たす障害がみられる「併存」を経験することが多いことです。パニック障害では、50〜65%に生涯のいつの時点かにうつ病が併存し、また全般性不安障害25%、社交恐怖15〜30%、特定の恐怖症10〜20%、強迫性障害8〜10%の併存があるといわれています(「みんなのメンタルヘルス/患者数」)。

 日本では、不安障害の生涯有病率はまだ1割弱だが、今後日本社会アメリカの後を追わないことを強く願いたい。


<註>

(1)2013年時点では、大野裕氏は雅子皇太子妃の主治医である。

(2)この信者の「いんねん」概念についての理解は、天理教から見れば間違っている。

(3)私は、雅子皇太子妃に今いちばん必要なのは、大野裕氏のような「精神医療の専門家」ではなく、かつての美智子皇后にとっての女性精神科医、故・神谷美恵子氏のような、「聴きだすけ」(天理教)をしてくれる「何でも話せる同性の友人」ではないか、と考えている。


<参考文献>

笠原嘉『精神科と私−二十世紀から二十一世紀の六十年を医師として生きて−』中山書店、2012年    

熊田一雄「『聴きだすけ』について」『愛知学院大学人間文化研究所所報』37号、2011年

熊田一雄「不安障害の信仰治療について−天理教の事例から−」『愛知学院大学文学紀要』41号、愛知学院大学、2012年

清水栄司(監修)「認知行動療法のすべてがわかる本」講談社、2010年

中井久夫『治療文化論−精神医学的再構築の試み−』岩波書店、1990年

『読売新聞』2011年7月6日

認知行動療法とは」

http://www.ncnp.go.jp/cbt/about.html 2013年9月22日アクセス

Wikipedia「認知行動療法

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%8B%95%E7%99%82%E6%B3%95 2013年9月22日アクセス

「みんなのメンタルヘルス/患者数」

http://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_panic.html 2013年9月22日アクセス