国家無き戦争

とうとうこういう日が来たのかと思った。

テロルの恐ろしさは無辜の市民を巻き込むことにあるのではない。近代戦争が総力戦となり、国家を構成するすべての要素が戦争に参与する以上、戦争が非戦闘要員を無差別に攻撃するのは当然の成り行きであり、事実それは何度となく行なわれてきた。したがって、その無差別性はただテロルに特有のものではない。

テロルの真の恐ろしさは、戦争という行為がもはや国家の司掌するところではないというその事実にある。国家以外の何者かが戦争を行なうとき、それに対する国家の取り得る手段はきわめて限られる。

20世紀後半のさまざまな局面が証明してきたように、国家という装置はその概念を共有しないものに対し致命的に無力である。国家という装置がその力を発揮するのは、国家によって仕切られ統制された世界だけなのだ。単一の構造であるからこそ保たれる力。

しかし、「近代国家」を形作るべく整備された民族(国民)、国土(領土)などの概念が綻びを見せ、国家という装置によっては解決できない問題が厳然と存在することを痛感させられていた状況に、とうとうここに来て戦争までが国家の手からこぼれ落ちるのを見てしまった。

おそらく、この百年のうちに「近代国家」は実質上の終焉を迎えるだろう。そして今日はその「終りの始まり」の日なのかもしれない。