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疑問と考察 備忘録

 

2018-08-09 道徳教育

国家や宗教は「道徳教育」に労力を費やす。

それは「道徳教育」という名称(名目)の「奴隷製造教育」であり、

「疑問を持たず(疑い無く)服従する奴隷」を製造するという利益があるからだ。

道徳教育とは「国家や宗教に盲目的に服従する事が正しい」と信じ込ませる古典的な洗脳手法

「9割の正しさ」の中に「1割の服従(盲従)」を組み込み、

さも「1割の服従」も、正しいものであるかの様に錯覚させる。

(「皆で協力し合って生きて行こう」の中に、

「神 天皇 為政者 体制 = 善(絶対的に正しいもの)」

「全体の為(と見せ掛けた為政者の利益の為)に犠牲になる事 = 善」

「信じる(考えない)事 = 善、美徳

「疑う(考える)事 = 悪、醜い行為」

「従う(自分の考えを放棄する)事 = 善」

「従わない(自分で考え行動する)事 = 悪」

などを組み込むのが基本。


洗脳道徳の本質(目的)を抜き出すと、「考えるな!従え!」となる)

彼等は「それ」を愛国心信仰心と呼び、本質(本当の利益)から目を逸らさせる。


真に「道徳」を教育したい(理解させたい)のであれば、まずは、

「これが道徳だ」と信じ込ませるのではなく、

「何故それを道徳に見せ掛けたいのか?」を教育する対象に考えさせなければならない。




では、そもそも「道徳」とは何なのか?

道徳の定義とは とてもあやふやで曖昧なものだ。(だからこそ洗脳手法としてよく利用される)

それは、現在の人類がとても原始的で、

「人間は意志や理性で意思決定している」という幻想に支配されており、

「人間が感情や感覚と呼んでいる本能」が全く理解出来て(見えて)いないからだ。


洗脳道徳を排除して道徳を見ると、

「集団を維持する為のバランスをとる原始的本能 及び それぞれの集団(社会)歴史から生み出された集団維持規範

を人間は道徳と呼んでいるが、

困った事に人間は、「自分達(人類)はとても高度な生物である」という自己満足(猿の快楽)に酔い痴れていて、

高度な生物の規範は高尚なものでなければならない。という幼稚なプライドが道徳や倫理を無駄に装飾し、見えにくくしてしまう。

それがまた洗脳道具としての使い勝手の良さに拍車を掛けてしまう。

2018-08-04 猿から人間になる為の、最も手前にある3つの課題

経済や権力などの社会構造や、

人間の精神構造(脳の反応)の理解や変革 などの高度な課題は置いておいて(少しずつ進めるとして)、


現在の人類が、猿から「人間」というものに成る為にクリアしなければならない最も初歩的な3つの問題。

それは、

「薬物依存(タバコも含む)」 「ギャンブル」 「宗教

からの卒業だ。


これらは、一個人の意志で簡単に関係を断ち切る事が可能。

しかし現在の人類は、とても原始的な生物なので、全く原始的な本能を自覚コントロールする事が出来ず、

これら3つが強力に人類(人類社会)の足を引っ張り(猿の本能を刺激し)、いつまで経っても猿の領域から抜け出る事が出来無い。

2018-07-10 天国と地獄

この世界の何処にも、天国も地獄も存在しない。

この広い世界の中、人間が生きられるのは唯一ここ(地球)だけだ。


一昔前までは、地面の下は地獄であり、雲の上は天国(神の世界)だった。


存在しない「天国や地獄」に送られる「選別手法」を論じ合うよりも、

人間が唯一生きられる「この場所」を、

「天国にするか地獄にするか」を論じ合うべきだろう。



妄想を見ている割合が多い人間程、

現実と向き合う割合は少なくなる。

(あの世があると洗脳されている人間は、

現実を真剣に生きる気が まるで無い。

その上、その事実に全く気付いていない)


人間の処理能力は有限であり、それは人間自身が考えているより遥かに低い。

人間は、言語や文字で、過去の膨大な情報の蓄積を、さも自身だけで得た(獲た)情報であるかの様に錯覚しているが、

一個体が獲得出来る情報は微々たるものだ。

人間が所持している情報の多くは、他者が獲得した情報であり、

であるが故に、人間はとても洗脳され易い。

他者からもたらされる膨大な情報を、正しく判断し処理するには、それ相応の知識・能力が必要となる。

しかし、知識や経験が少なく、能力の低い人間程 それに気付けない。







では何故 人間は現実より妄想を重視しようとするのか?

それは「その方が楽だから」だ。


「現実(周囲の環境)」を都合良く改変しようとすると、

高度な情報収集・情報分析・実現する実力などを要求されるが、

人間の脳は「面倒(高度)な思考」を とても嫌がる。


人間の脳は、すでに答えが出ている事柄を記憶・処理(計算)する事には前向きだが、

まだ人類(自分)が認識出来ていない事象を解明する事には消極的だ。


だから、「現実(世界)を解明する労力」を怠ける為に、

「妄想で疑問に答え」世界を解明した気になる。


知能の低い個体程、

「難解な現実の解明」より「思考せずに済む安易な妄想」

選択する傾向が強い。

創造論」などは その典型


科学は論理数式で現実を解明しようとし、

オカルト(宗教)は想像力だけで謎を解明しようとする。



そして、その人間の「楽をしたい」という本能を利用して「支配する為」だ。

「選別基準(善と悪)」を自分(為政者宗教指導者)達に都合良く構築する事で、

「支配されている」と自覚させずに支配する事が出来る。


体制宗教が主張する善悪」には必ず「服従」が組み込まれている。

2018-06-10 多数決と民主主義

多数決を民主主義と信じ込んでいる人間もいるが、

多数決は思考(問題解決)の放棄であって民主主義では無い。



人間は、知能の低い個体程

「人類は高い知性を持って(に到達して)いる」

と何の根拠も無く妄信しているが、

現在の人類は

「人間の方向に歩き出した猿の一種

に過ぎない。


だから「答え」になど全く到達しておらず、「答え」を持っている人間も存在しない。

しかし人間は(思考する事に適していない)猿なので、何も考えずただ楽をする為に「答えを持っている人間(または存在)」を探(捜)す。


その結果、

「答え」を持っている様に見せ掛けている人間

「答え」を持っていると思い込んでいる人間

などに問題解決を委ね、問題を解決した様な気になる。


それで問題が解決されないとしても、

選ばれた人間(集団)が出来無いのだから、他の誰にも出来無い(筈だ)

と、前提条件(人選)が正しいのどうか ろくに検討もせずに結論付け、思考を放棄しようとする。


(一部の人間だけで多数決を取った所で、それは本当の意味での多数決では無いが、人間は「それ」を多数決と呼ぶ)



人間が多数決に依存するのは、人類が明確な答えに到達出来ていないからだ。

答えが理解出来ていない人間で多数決を取った所で、意味など無い。

「皆で決めた事」という大義名分(言い訳)を得る為の作業でしかない。

皆が理解出来ているなら、多数決を取る意味も無い。



多数決に依存している内は、人類は その問題を解決する事が出来無い。(解決する気が無い)。



問題が発生した時、人類が選択すべきは多数決では無く、

民主主義の根源である

「(立場・属性 等に関わらず)出来るだけ多くの個体に問題解決(試行錯誤)させる」

事だ。


民主主義 = (立場・属性 等に関わらず)出来るだけ多くの個体に問題解決(試行錯誤)させる事

と説明されても良く解らない人間もいるかもしれないが、

そもそも何故、

今までの様に「一部の人間」だけでは無く、「全ての人間」に主権を持たせなければならないのだろうか?

民主主義は「権力の暴走の抑止力」と捉えられがちだが、それは民主主義の基本条件・準備段階に過ぎず、民主主義の根源ではない。

権力(役割)の正常化の後に民主主義の本質は発揮される)


そうやって少しずつ問題解決の糸口を掴(つか)み、

試行錯誤・議論を尽くし、「答え」に近付いていくしか無い。

事実、人間はそうやって今まで生き延びて来た筈だ。


多数決で何度も失敗を繰り返し、最終的には(限界が来るとようやく)民主主義で答えを見いだす。

もうそろそろ「多数決の失敗」の部分は卒業してもいいのではないだろうか?



本当の(実質的な)民主主義の為には、猿の時代には無かった

自由や平等、人権

などの人間的社会基盤が必要となり、

それらを行使する為には

知識や経験、冷静さ(客観性)、倫理観、道徳心

などが必要となる。

2018-05-18 哲学と科学と宗教

人間は「哲学」と「科学」と「宗教」の違いが、全く理解出来ていない様に見える。

(特に、哲学者科学者宗教家 などと自称している人間程)

この三つの違い(本質)を、簡単に説明してみよう。



哲学」を説明する為には、まず「科学」を説明しなければならない。

何故なら、哲学は常に科学の周りに存在しているからだ。


「科学」とは何か?

人間は、

「この世界を動かしている法則(物質の性質)」を、

「人間の言語(論理)や数式」に訳したものを、

「科学」と呼んでいる。


その「科学」の外側に広がっている、

「(宗教家や一部の科学者たちが「神」と呼んでいる)人間が言語化出来ていない法則(世界)を、理解しようとする行動」

の事を、人間は「哲学」と呼んでいる。


そして、1000年前、2000年前の「科学や哲学」(の表面)を寄せ集めたものを、人間は「宗教」と呼んでいる。



物理学」とは「物理法則(世界)を解明しようとする学問(行動)」の事。



例えば、目の前に大きな紙があるとする。

その紙の中心に点を打つ。

その「点」は人類だ。

その点を中心として小さな円を描く。

その「円」の内側は科学。

円の外側は人類が理解出来ていない森羅万象。


円(科学)のすぐ近くの法則を理解しようとする行動を、人間は科学的アプローチと呼び、

円(科学)から遠く離れた法則を理解しようとする行動を、人間は哲学的思索と呼んでいる。



昔の哲学者が解明しようとしていた現象の中で、現在では解明されている現象は、哲学ではなく、科学として説明される。

つまり、科学の領域は時代を経るにつれ広がっていき、哲学の範囲も移動していく。

しかし現在の科学は生まれたばかりの試作品程度のレベルであり、哲学の位置もほとんど変化は無い。




宗教は「哲学や科学の表面を寄せ集めたもの」だが、

宗教は「科学や哲学」では無い。

何故なら、

科学や哲学は「現実(世界)を理解(解明)しようとする行動」の事だが、

宗教は「自分(達)に都合が良い妄想(願望)に説得力(周囲や自身に対して)を付加する為(こじつけの為)に、科学や哲学を利用しているだけ」だからだ。


科学や哲学が相手にしているのは「現実(世界)」であり、

宗教が見ているのは「自身の妄想」だ。



科学や哲学は「答え(現実)を解明する為」に試行錯誤するが、

宗教では、先に「答え(願望)」が存在し、その答え(妄想)に擦り合わせる為に、科学や哲学を利用し、現実(論理)をねじ曲げ、願望に着地させようと こじつける。

全ては神(人間・善)の為。

全ては神の意思。

正義や善や愛 などは絶対的に正しいものであり、それを疑うものは悪。




宗教家は(思考を放棄しているが故に) よく哲学者を気取りたがるが、

哲学とは「解明されていない現象を解き明かそうとする行動(姿勢)」の事であり、

現実から目を逸らし、妄想だけを見て思考を放棄している宗教家哲学者には成り得ない。


哲学者を自称している人間の90%程度は、自分を哲学者だと思い込んでいる宗教家だ。

現実を解明する事よりも、自分の願望に執着してしまっている。


(いつの時代も一定数いるが)近年また問題視され始めている

似非(えせ)科学・歴史修正主義者・陰謀論者」たち。

彼等は 科学者哲学者有識者 を自称している ただの宗教家(中二病患者)だ。



例えば、

「人間が想像する様な神が存在しているのか?」

を考察・検証する事は科学や哲学だが、

現実を解明(真実を追究)する労力から逃げ怠ける為に、何の検証もせずに

「神は存在する」

「人類が説明出来ない全ての現象は神の力」

と決めつける(信じる)行為は宗教だ。


(だから宗教世界では、

神に祈れば(媚びへつらえば)全ての問題は解決(解明(悟り))される。問題が解決されないのはお前の信心が足らないからだ!もっと宗教服従しろ!もっと金を払え!

となってしまう訳だ。

現実と宗教には何の因果関係も無い。神に祈っても現実は何も変わらない。

しかし、宗教の卑劣な所は、

科学や哲学の分かり易い表面(論理化した一部)をすくい取り、

人類が手に入れた知識や経験、または人類が生み出した道徳心や倫理観を、さも神や宗教が創り出したかの様に見せ掛け、自分達の手柄功績に仕立て上げる狡猾さだ。

宗教自体は「妄想」で構成されているだけなので、中身は空(から)だが、巧妙に科学や哲学を取り入れ、「科学や哲学の正しさ」を利用して、大衆を騙す)




「悩む事」が哲学だと信じている人間もいるが、

「解明する為の思考」が哲学であって、悩む(自己満足に浸る)事は哲学では無い。



過去の科学や哲学を記憶しただけで、科学者哲学者を自称している人間もいるが、彼等は科学者でも哲学者でも無い。

彼等は科学も哲学もしていないからだ。


特に哲学者を自称している人間には、それが多い。

彼等は哲学マニア哲学者マニアであって哲学者では無い。


哲学者の言葉や哲学者自身を「絶対的に正しいもの」と妄信する行為は宗教であって哲学では無い。




まだ「この世界に存在していない(人類が認知出来ていない)何か」を構想し、実現(論理化)する為の思考・努力をしている人間が科学者であり、哲学者だ。


(実現(維持)出来ない論理は ただの自己満足(妄想(宗教))だ。

必ず どこかで破綻している。


文系理系と わざわざ分けようとする馬鹿もいるが、

論理とは数式(言語式)であり、数式とは論理の事だ)