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疑問と考察 備忘録

 

2018-03-23 『褒める』と『叱る』(分類について)

褒めるべきか、叱るべきか。

よく目にするが、それは「褒めると叱る」が理解出来ていないからだ。


『褒める』も『叱る』も、

実は、その本質は同じものだ。


人間は真逆のものだと信じ込んでいるが。



物事の表面しか見る事が出来ない人間は、

 褒める = おだてる 相手を良い気分にさせる

 叱る = 恐怖を与える 服従させる

などと盲信していて、本質を全く見ていない。



『褒める 叱る』とは、

『相手を見る(理解する)』

という事だ。



相手を見ていない人間が、本質から外れた見解(叱る 褒める)をした所で、

相手の心には全く響かず、逆に不信感や嫌悪感が生み出され、それが増幅されるだけであり、

本来の「褒める 叱る」の効果を生み出す事は出来ない。



褒めるか叱るかは、問題では無い。

相手を理解出来ているのか、理解出来ていないのか が問題なのだ。




「理解する」とは、よくある「叱った方が伸びる・褒めた方が伸びる」という様な タイプ分け を見極めるという意味では無い。(そもそも そんなものは存在しない。典型的な「手抜きの道具」)

分類でものを見るのは、相手そのものを見ていない証拠だ。



人間が分類でものを見たがるのは、それが楽だからだ。

人間は とても知能が低い生き物なので、物事を小さく区切らないと「何か」を理解する事が出来無い。


「分類」は広く浅く見る分には便利な道具だが、

本質を見極める時には邪魔でしかない。


例えば、日本人とはこういう人間だ。

という日本人または外国人のイメージがあるとする。

しかし、そのイメージに100%該当する人間など存在しない。



「極限まで考える(本質を考察する)」には、膨大な時間と処理を要求され、人間の脳にとって、とてもストレスがかかる。

分類とは、そのストレスを回避する為の思考停止・思考放棄でもある。

ステレオタイプレッテル・色眼鏡・曇った目・偏見・宗教・〜らしさ なども分類の一種

人間は一度 分類してしまうと、それを外せなくなり、

自分が「分類を通して対象を見ている」という現実を意識・認識する事が出来無くなってしまう。


「叱る褒める」も それであり、単純手法だけを採用し、真剣に対象を見ていない。

つまり、手抜きの教育の典型が 叱る褒める な訳だ。

(褒めたい・叱りたい は個人欲望に過ぎない)

「怒る」事が指導者の仕事の一部だと信じ込んでいる人間もいるが、

「怒り」と「指導」には、何の関係も無い。

怒るだけで、生徒や部下が成長するなら、24時間365日怒鳴っているだけでよく、何の訓練も必要無いし、手法や論理も無駄で無意味という事になる。

指導の段階で怒りが発生するのは、「己自身の未熟さ」に他ならない。

しかし未熟であるが故に それを自覚する事が出来ず、責任を転嫁する事でストレスを発散し、ストレスを軽減している訳だ。


「怒る」は「中身の無い指示(自己満足・思い通りにならないかんしゃく)」であり、正解に導く指導では無い。

逆に言えば「正解」が見えていない人間程かんしゃくを起こし、指導したつもりになる。

怒られた側は何の指導も受けてはいないのだが、怒られた事に触発され、結果的に自力で成長する(事もある)。

だから無能な指導者程、むやみやたらと怒鳴り散らす事になる。

生徒や部下は自力で問題解決したに過ぎないが、無能な指導者は「それ」を認識出来ず、自分の手柄・功績にしてしまう。

 怒る・怒鳴る→自力で成長・自力で問題解決

それが「指導」だと学習してしまい、楽な指導(気取り)に味をしめてしまい、馬鹿の一つ覚えを繰り返す事になる。





長編小説の中の一文字だけを見て、その小説の全て

(歴史の一部分だけを見て、歴史の全て)

を理解する事が不可能な様に、

「何か」を理解する為には、その対象を観察するだけでは全く情報が足らず、

必ず「出来るだけ多くの その周辺の情報」が必要となる。


人間は「何か」を理解しようとする時、必死に(小さく区切った)その対象だけを認識しようとする

(小説の一文字が「海」だった場合、どんなに海という一文字を観察した所で、それ以上の情報を得る事は出来ず、推測する事しか出来無い)

が、

この世界の全てのものは、必ず「全て」と影響し合っている。

当然 人間は「全て」を認識する事が不可能なので、

自分の認知機能(世界(現実)を理解する能力)を向上させ、出来るだけ多くの(正しい)情報を集めるしかない。



何かを理解しようとする時、常に し続けなければならない事の一つが、

「自分の願望を排除する」

事だ。

人間(馬鹿)は自分の見たいものを見る。という言葉もあるように、

人間は「現実」よりも、「自分に都合の良いこじつけ」を好む。

(その典型宗教


人間は、

「こうでなければならない」 「こうあるべき」

という様な、正義や善に とても弱く、簡単に思考を放棄して こじつけ(つじつま合わせ)を始めてしまう。


「何か」理解しようとする時は、

あるがまま・ありのまま を見なければならない。

そこ(現実を直視する行為)に、

自分の感情・立ち位置・知識・経験・無知さ (現実を歪めて認識しようとするもの)

などは関係無いし、必要無い。

2018-03-17 グルメ番組 〜パンとサーカス〜

メディアは国民を映す鏡。

(メディアが無数の情報の中からそれを選ぶのは、それが利益(バナナ)になるからだ)


何処を見てもグルメ グルメ グルメ・・・

うんざりするね・・・

他に興味が無いのだろう・・・。


ニュース番組でさえ、5分10分世界情勢や政治の情報を扱った後は、延々とグルメ・旅行・娯楽 情報が流れる


「政治や世界情勢など興味無い!」

「おいしいバナナが食べられれば、それでいい!!」

「それ以外の事には一切興味が無い!!」


もし、政治や環境汚染の影響が「自分の範囲内」に入ってきたら、

日本死ねっ!」



・・・まぁ、仕方無い。

まだ猿から人間の真似事を始めて数万年程度しか経っていないのだから。

人間なるものに成るのは、まだまだ先の話。


人間社会が平和であるなら、グルメに興じる事も構わないだろう。

しかし現在の人間社会は、解決しなければならない問題が山積みであり、それらを放置しての現実逃避は滅亡の結末が待つだけだ。(アリとキリギリス)

日本死ね」自体は、普通の人間の反応であり、問題では無い。

問題なのは、

「人間は自分の範囲内に入ってきた情報しか認識する事が出来ず、ほとんどの人間はそれを意識する事すら出来ない」

という事だ。


「人間が認識(共感)出来る範囲」

には個体差があり、

知識や経験が多く、精神的に成熟している人間程 範囲は広く、

知識や経験が少く、精神的に未成熟な人間程 範囲は狭い。


人間はそれを 器 と呼んだりもする。

他を認識・共感出来ない人間は、他の為に思考・行動する事も無い。


その範囲の極端に狭い人間の事をサイコパスと呼ぶのも一時期流行ったね。



毎日 人が死ぬニュースを目にしても人間は気にも止めないが、

「自分の範囲内にいる人間」が死ぬと、脳は(その距離に応じて)強く反応する。



わざわざ猿の惑星などという映画を作る必要など無い。

ここが猿の惑星なのだから。

一時期ゾンビものも流行ったね。

アレは人間の事だ。

目の前のバナナ(利益)に反応して動くだけ。

他の情報はほぼ全て遮断・無視される。



(ちなみに政治を扱っている政治家の半分程は政治自体には興味が無く、頭にあるのは利権という名のバナナの事だけ。

それは勿論、政治に興味の無い人間が、政治に興味の無い立候補者を当選させているからだ(類友))





人間は「金さえあれば何とかなる」と思い込んでいて、

環境を金に変えては、せっせと金を溜め込んでいるが、

「金に変えてしまった環境」を元に戻すには、100倍以上の金と時間が必要になる。


「金」という道具は、人間社会内では便利な道具だが、

人間社会の外では全く無価値だ。


人間社会という井戸の内側にしか興味の無い人間は、井戸のちっぽけさを知らず、

自分が「世界を知らない」という事を知らない。

無知の知」の言う所の「無知な状態」だ。

知識が少ない状態を無知と定義すると、全ての人間が該当する。「無知」とは、自身の知識が矮小である事に全く気付けていない状態。無知の知とは、それに気付く事)



人間が

「理性・自制心・良識・道徳心・倫理観」

などと呼んでいる

「原始的本能を抑制しようと働く本能」

を、目先の利益で抑制し、環境を破壊し続けるなら、そのちっぽけな井戸も崩壊する事になるだろう。

(人間は理性の壊れた動物)



「自分」

「家族」

「親友」

「属している集団(企業・学校・性別・世代宗教・民族・国家)」

「人類」

「生物」

地球

「世界全体」


など、どの範囲まで思考(認識・反応)する事が出来るのかで、

それぞれの人間の答えは決まる。

最近の言葉だと「〜ファースト」という奴だ。

「何」を基準に思考するのか。


しかし人間(生物)は、

遺伝子が決定した結論(本能・感情・情動)」

に従うのは得意でも、

「自分で基準を設定する」

という事がとても苦手だ。

(ほぼ全ての人間は、自身で基準を設定する事無く人生を終える)

人間自身は「価値観という基準」を持っていないので。

必然的に「遺伝子の価値観(情報)」に依存せざるをえない。





映画の中の難病の主人公には感情移入し涙を流すが、現実に難病で苦しんでいる人間には見向きもしない。

どうでもいい。関係無い。興味無い。

古典的言い回しに、愛の反対は無関心だ。というものもあるが、

結局の所、全ての愛は自己愛に過ぎず、

「自分を楽しませるもの」

に脳が反応しているに過ぎない。

その範囲に個体差があるだけ。


勿論、それは善でも悪でも無く、ただの本能。


(人間は、あまりにも知能が低いので、意志(意思)や人格が存在していると錯覚(つじつま合わせ)しているが、人間(生物)にあるのは本能だけだ)


簡単に言えば、

「創作の中の人物」は創作だという意識が働き、必要以上に感情移入する事は無い。

しかし、「現実の苦しんでいる人間」に関わってしまうと、

「それ」を どうする事も出来無い自分の無力さに直面する事になり、多大なストレスが発生してしまう。


だから人間はフィクションには夢中になるが、自分の範囲外の現実からは目を背ける。

2018-03-11 引責辞任

いまだに引責辞任という言葉をメディアで見掛けるが、引責辞任など存在しない。

問題を解決しない辞任は、ただの逃げであり「責任の放棄」であって、「引責」では無い。


その人間が辞めた所で、問題が解消される訳でも無く、原因が究明される訳でも無い。

大抵の場合、

「その責任の追求から逃れる為に辞める(逃げる)」

「それ以上 問題を継続・拡大させない為に辞めさせられる」

「原因(上の人間の責任(判断・都合))を解明させない為に 辞めさせられる」

だけであって、何ら責任などとってはいない。


そもそも

「その地位を退いたからと言っても、その地位に居た間に発生した責任は消えない」。

もう辞めました。だから責任も消えました。

とはならない。


「現役か引退しているか」など関係無い。

自分が責任者である間に発生した問題は、たとえ引退・辞任したとしても、

その問題解決(解明)に責任を尽くさなければならない。

2018-02-27 失望という傲慢

最近は少なくなったが、いまだにオリンピック選手に失望という意見を見かける。

失望していいのは、その本人だけだ。

他人に対して勝手に期待し、期待に応えなかったから失望する。

どれだけ自分勝手なのだろうか?

自分では何の努力も苦労もせず、他人の功績に期待し、その人間が成し遂げれば さも自身も成し遂げたかの様に達成感・満足感に浸る。

期待が外れれば「得られる筈だった達成感・満足感がその人間のせいで失われた」と逆恨みし相手に失望する。


失望とは自分自身に向ける概念であって、他人を評価する概念では無い。

それはその選手の指導者や応援者も同じだ。

選手の力になりきれなかった自身の無力さに対する失望であって、選手に対する失望では無い。


例えば、部下が仕事を失敗する。

それは無理な仕事をさせた自分の失敗であり、自分の責任だ。

例えば、10m以上の高さから地面に飛び降り、怪我をする。

それは「自分自身」の責任であって、「自分の体」の責任では無い。





『他人の苦労など、どうでもいい。自分で苦労しろ』

の様な言葉は 時代や国を問わず存在するが、

努力や苦労をしていない人間程、他人の功績に便乗・寄生しようとする傾向が強い。

(オリンピックノーベル賞美しい国・偉大な国・優秀な民族 等々はその典型

自分に『アイデンティティー(自身で造り上げた確固たる自己)』を持っていないが故に『他(主に自身が属している集団)』にアイデンティティーを求める(という本能が強く働く)

子供(部下・弟子・生徒)に過度な期待をしたり、祖先アイデンティティーを求めるのも それ)

努力や苦労をしていないから、他人の努力や苦労が理解出来ず、自身より遥かに努力している人間に対して、安易に応援し励まし失望する。

努力や苦労をしていないから、達成感・満足感が自力では得られず、故に達成感・満足感を渇望し、他人の功績に寄生してまでも、まやかしの達成感・満足感を貪(むさぼ)ろうとする。

2018-02-14 統一論

例えば、

韓国北朝鮮がやたらと「統一」という言葉を繰り返しているが、

その「統一」を阻んでいる一番の原因は何だろうか?

それは勿論「その統一を叫んでいる集団の上層部自身」に他ならない。

そもそも何故 彼等は「統一」を自国民(自集団)に訴えかけて(洗脳)いるのだろうか?

それは当然、自分(達)の利権を増やす為だ。(国民(自集団)の支持も利権の一つ)

勿論日本でも同じ様な行為はいくらでもある。「日本固有の領土」などの子供の屁理屈もそれだ。


彼等が その利権を放棄しさえすれば「統一」など簡単に成し遂げられるだろう。



「統一論(統一思想)」とは、集団の上層部同士の利権争いに過ぎず、実質的に働かされている構成員(国民)は、一部の人間が利権を得る為の道具として利用されているだけだ。