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SUPAIっぽい(スパイっぽい)の日録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2015-11-01 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

ブログは下記リンク先へ移転しました。
スパイっぽいの日録 -奇抜な副会長#M.K.-
http://kmdsahj-spy.hatenablog.com/

しかし、全てのデータはてなブログインポートすると、こちらのページの一部は見れなくなるので、古いこちらのページも残しておきます。

2013-11-12

愛媛県旅行2013【後編】串駅・下灘駅再訪 17:40 愛媛県旅行2013【後編】串駅・下灘駅再訪を含むブックマーク 愛媛県旅行2013【後編】串駅・下灘駅再訪のブックマークコメント

2013-11-11

2013-03-18

[]第一回 【「核」の待遇18:44 第一回 【「核」の待遇】を含むブックマーク 第一回 【「核」の待遇】のブックマークコメント

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・第一部 ヒロシマナガサキ 〜非人道的な原爆投下〜


第二次世界大戦末期、アメリカ日本に対して人類史上初めて、 核兵器」を実戦使用しました。
記事「広島旅行」と同じ主張をここでもしたいと思います
戦争で、民間人を殺すことは明確な国際法違反です。
アメリカは、原子爆弾投下を「性能テスト」や「人体実験」としか思っていないのでしょう。 
そうでもなければ市街地中心部」に原子爆弾を投下した理由に説明がつきません。
東京裁判において日本の戦犯処罰を受けましたが、連合国側の戦争犯罪責任は追及されませんでした。まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」の状態なのです。

アメリカは「戦争の早期終結」の為にやったと、原子爆弾投下を正当化しています。しかし、それによって広島、長崎合わせて30万人以上の人々の命が失われました
第二次世界大戦のアメリカ軍太平洋戦線戦死者数は約十数万人です。

まり、二発の原爆によりアメリカの戦死者を上回る日本の民間人が殺されたことになるのです。なんとも異常な事でしょうか。
アメリカ軍は「自分たち(軍人)の被害を減らす為」と称して、日本の無抵抗かつ無実の民間人を虐殺したのです。
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8月15日、日本はポツダム宣言を受諾しました。
正午からラジオで流れたいわゆる玉音放送で、昭和天皇は次のようにおっしゃっています。

敵(アメリカ)は新たに残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用し、無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。なのにまだ戦争を継続するのなら、我が民族の滅亡を招くだけでなく、人類文明をも破滅しかねないであろう。

9月2日に、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に日本は署名し、第二次世界大戦は終結しました。

・第二部 GHQ圧政期とその後  

戦後、日本はGHQの占領下におかれ、報道情報に対する厳しい規制がかけられました。
「広島と長崎の実情」をありのまま伝えてしまえば、反米感情が高まり安定した統治ができなくなります。
よって、そういった反米的要素を含む被爆地や核の情報は、シャットアウトされてしまいます。

それが、目に見えない核に対する人々の不安、そして偏見につながったのは言うまでもありません。
この時代に、核への正しい認識を持っていた人はほんの一握りしかいなかったのです。
その為、「広島出身」と言うだけで、明らかに差別されたりするなど、被爆者および広島・長崎の人々は不当な扱いをされることになってしまいます。
風評被害」は今に始まった話ではないのです。


また、戦後アメリカをはじめとする核保有国は各地で核実験を繰り返しました。それにより、多くの被爆者を出しました。
(atomic soldier:自国の兵士でさえも水爆実験体として使用されたケースは少なくありません)
特に、我々がよく知るのはアメリカによりビキニ環礁で行われた水爆実験でしょう。
この実験により漁船乗組員の日本人が被爆し、一人が亡くなるという「第五福竜丸事件」が起き、
日本では反核運動が繰り広げられました。この事件がきっかけとなり第一回原水爆禁止世界開催が広島で開催されるに至りました。
しかし、それでも第五福竜丸事件を起こしたアメリカは核実験の正当性を訴え、一切の謝罪をしませんでした。

・第三部 冷戦下の核の脅威 〜核戦争で世界が消える〜

アメリカは「しばらくの間は自分たち以外に核兵器を保有する国は現れないであろう」と思っていました。
しかし、1949年ソビエト連邦が核兵器の開発に成功してしまいました。それにより、
世界は核戦争によりいつ滅んでもおかしくない状況になりました。 


実際、米国東海岸の南側の島国キューバに、ソ連核ミサイルを配備しようとして起こった
キューバ危機」で世界は滅亡寸前まで追い込まれました。
ソ連軍は核ミサイルを撃てる状況だったため、もしアメリカがキューバを空爆したら核戦争が始まったとも言われています。)
そんな今も続く危険な状況をよく表したものが「世界終末時計」でしょう。

冷戦下、両国は核兵器の数を競い合うようになります。その理由は、「抑止力の維持」の為です。
お互いに「もし貴国が核兵器を使えば我々も使いますよ
圧力をかける事で核戦争は防がれる、という考えのものでした。


その理屈により、核兵器は次々に作られ続け、しまいには人類が滅亡してもまだ余るほどの数の核兵器が保有されることになってしまいました。ここで、冷戦下に使われた核兵器を見てみましょう。

戦略爆撃機
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↑アメリカ軍の戦略爆撃機「B52 ストラトフォートレス出典:フリー写真サイト GATAG | Free Photo 2.0
最も容易に核兵器を運用できるのは戦略爆撃機です。
実際、アメリカの日本への原爆投下の際、核の使用手段はこれしかありませんでした。
ソ連も、後述する弾道ミサイルの開発までの間は戦略爆撃機が核の主戦力でした。
アメリカは「核のパトロール」と称して、核兵器を搭載した爆撃機を常にヨーロッパなどを飛行させました。これは、ソ連から核攻撃を受けた際に迅速に報復をするためのものでした。
しかし墜落事故による放射能汚染事件により、激しい反発を受け「核のパトロール」は中止されました。

大陸間弾道ミサイル
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↑アメリカ軍の大陸間弾道ミサイル「タイタン2」出典:フリー写真サイト GATAG | Free Photo 2.0様
米ソ両国の大陸間弾道ミサイルのルーツは、ナチス・ドイツ世界で初めて実戦投入した、大陸間弾道ミサイル「V2」です。
戦後ドイツを分割占領した米ソ両国は、ミサイル開発技術を持つ旧ナチ技術者を獲得し、ミサイル技術を得ることになります。
その後、大陸間弾道ミサイル(いわゆるICBM)ははるか遠くの敵を確実に攻撃できるようになり、
核搭載兵器の主力としての地位を揺らぎないものにしました。
大陸間弾道ミサイルの特徴を挙げてみます。
・高射程(何千キロメートル飛ぶ)
・高威力(爆発の直径は何百キロにも及ぶものもある)
迎撃が困難(撃たれたミサイルは成層圏を高速で飛び、僅か数十分で着弾)

大陸間弾道ミサイルは、ミサイルサイロから撃たれるものだけでなく、原子力潜水艦から撃たれるタイプも存在しました。
長期間にわたって潜航が可能な原子力潜水艦を発見するのは困難です。
なので、世界中どこからでも敵の妨害なくして核ミサイルが撃ち込める恐ろしい能力を持っていました。

・第四部 福島原発事故 〜安全神話に裏切られて〜
戦後日本における「核」の待遇とは何だったのでしょうか。
被爆国でありながら「好待遇」で迎えた核に、あっさり裏切られました。
2011年3月11日福島第一原子力発電所事故。
今まで「安全だ」と豪語されてきた原子力発電所は、自然の力を前にあっけなく電源停止。たった一回の事故で、国土の広大な範囲が汚染されてしまいました。将来、何百年・何千年・下手したら何万年もの間残る、核のゴミを我々は出してしまったのです。
放射能」への恐怖は、偏見・風評被害を生みました。しかも、国内にとどまらず海外にもです。
この事故により、「made in japan」の信頼は失墜しました。
日本製品の輸入を規制した(禁止した)国はそう少なくはないのです。
しかし、これ以上の「最悪のケース」も起こりえたということを忘れてはいけません。一歩間違えれば首都圏は壊滅し、日本の国家機能喪失していたかもしれないのです。
今回の事故を見て北朝鮮は「日本の原子力発電所をミサイル攻撃すれば、日本は終わる」などというあまりにも酷い発言をしました。ただ、あながち間違ってもいないのが現状です。原子力発電所がテロに使われた場合、福島以上の被害を出すことは間違いありません。これは国家の安全保障上、あまりにも大きな問題です。

・第五部 戦後日本の皮肉現実非核三原則は建前?〜

2013年4月NPT(核拡散防止条約)」の核不使用声明に日本は署名しませんでした。
被爆地からは憤りの声が多く聞こえてきていますが、日本は署名したくても出来ない苦しい立場でした。
それは、何故なのでしょうか?
条約の条文にある次の一文が焦点になります。

いかなる場合においても、核兵器を利用しない」

いかなる場合においても」核兵器を利用できないという事は、核抑止力が機能しなくなる という、安全保障上重大な欠陥を抱えることになります。
核兵器はまず使わない事を前提としつつも、抑止力としての核利用の余地は残しておかなければ、周辺国の核戦力の脅威を考えた場合、非常に危険です。
北朝鮮が日本への核攻撃を示唆している現状況ではなおさらでしょう。
「貴国(北朝鮮)が使えば、我々(日本を防衛する米軍)も核兵器を使いますよ」とは言えなくなるのです。 
そのような事情から、日本は「いかなる場合においても」という条文を削除するように求めました。
しかし、条文削除は認められず、結果として日本は当条約に署名できませんでした。

ちなみに、同じような事情で米・露・英・仏・中の核保有国も当条約には署名していません。

所詮、唯一の被爆国の日本は、冷戦下、そして今なお(ソ連およびロシア中国・北朝鮮の)核の脅威にさらされ、
アメリカの「核の傘」に頼らざるを得ないのです。
この皮肉な現実に目を背けてはいけません。


・・・・・しかし、日本政府自身もこの問題に「目を背けて」いるのが問題です。

戦後の日本政府は、国民に対しては「非核三原則」を唱えましたが、それはあくまで建前でした。その一方で、沖縄返還の際のアメリカとの密約で「戦術核」を沖縄に配備することを黙認しているのです。これでは、国家のプライドなんてクソもありません。まさにアメリカの属国傀儡政権です。
そんな具合に、政府は今まで二枚舌を使い、政府の都合の良い方向に事を運ばせてきました。
国民には建前を話し、アメリカの本音に従う。
それが、誤解に誤解を招くだけでなく、政府に対する不信感を増長させてしまったのです。

それでは、「今すぐアメリカの核兵器に頼ることはやめろ」と言えば全ての問題は解決するのでしょうか?
私にはそんな無責任かつ非現実的な発言はできません。
この問題はこうすればああなる、といった短期間・単純明快で決着がつけられる問題ではないのです。だからこそ、日本政府は国民に対してまず「今の日本の現状」をキチンと説明する必要があります。

冷戦期から現在まで日本は核の脅威にさらされているという事を。
日本を守っているのは、日本にかつて原子爆弾を使用したアメリカであるという事を。
現状況下では単純に「核兵器をいかなる場合においても使いません」と言えないという事を。

決して今までのように、二枚舌を使って国民を騙してはいけません。
国民に真実を話し、その基でこの核に対する問題を大いに議論していくべきです。
今までの様に、国民(特に若者)は無関心でいるのではなく、的確な考えを持つ必要があります。
重大かつ意見が分かれる問題を「無関心」「なんとなく」のままなんてもってのほかです。

そして、政治家は自分達だけお花畑状態に陥ってしまった、
矛盾だらけの「非核三原則」を打破する新たな行動を起こす必要があります。
これからの真の平和を作るためには、もう建前だけでは通用しないのです。

今まで、政府が現実逃避してきたツケはたまりにたまり切っています。 原発・核兵器などの問題を我々は後世まで延々と残していく訳にはいきません。 

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2012-12-12

[][]愛媛県旅行!後編 11:42 愛媛県旅行!後編を含むブックマーク 愛媛県旅行!後編のブックマークコメント

坂の上の雲ミュージアム」へ行ってみました。
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施設内展示のテーマは「ポーツマス講和条約」。
日露戦争終戦に至るまでの交渉の行方と、
日本の勝利に対する世界ジャーナリズムを取り扱った内容。

日露戦争末期、日本は物資・兵員不足ロシアは相次ぐ敗北による国民感情の悪化や革命運動の激化等により両国とも戦争継続が困難な状況にありました。
(ちなみに、日本が行った対露工作活動もロシアで革命運動が激化した一つの大きな要因です。)
日露戦争が終結した条約が締結された都市、ポーツマスはアメリカ東海岸の都市です。
この地に、日露両国の使節団が講和条約締結のために訪れました。
交渉は困難を極め、かろうじて日本側に若干有利な条件での講和が成立しました。

ポーツマス講和条約

1.日本朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは中東鉄道の内、旅順長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権日本人に与える。

この条文では、ロシアから日本への領土譲渡(南樺太)こそあるものの、「賠償金」の項目がありません。
当時、世界では戦争の講和条約では「賠償金」を取るのが通例でした。
しかし、日本側が賠償金の要求をしなかった(したくなかった)理由は「早く講和を結びたかったから」でしょう。
もし、ここでの交渉が長引けば、戦争はさらに長期化していました。そうなれば、日本とロシアの国力の差が明るみに出てきて、日本は不利な状況に追い込まれたとも言われています
そういった意味で日露戦争は当時の日本にとって「苦い勝利」だったに違いありません。

そんな苦しい事情を知らない一部の国民は「賠償金を取らないとは何事だ」「政府弱腰だ」などと不満を隠せませんでした。戦争にありきたりの国力をつぎ込んでいたので、当時の国民たちの生活も良いとはいえない状況だったのです。
この賠償金をめぐる問題によって、「日比谷焼打ち事件」などの暴動が発生するに至ります。
f:id:kmdsahj:20121202210833j:image:w200「途中に柱がない作りの階段」。かなり珍しい階段だそうです。
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「ツートントン」と、モールス信号を発信する打電機を自由に操作できるコーナーがありました。
おなじみの「ニイタカヤマノボレ1208」とかを打ってみました。
D
旧軍のモールス信号を実際に打電している動画YouTubeにあったので参考までにどうぞ。(作者さん、ありがとうございます。)
間違えずにきちんと打電するのは思ったより難しい。
これを使いこなしていた当時の通信手の人は凄いですね…。

「坂の上の雲ミュージアム」はとても充実した施設でした。
また、新しい展示ができたらもう一度行ってみたいです。
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JR松山駅に戻り、秘境駅串駅」を目指します。
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四国の駅ランキング」に見事入賞した駅弁を購入。昼食です。
酢飯の程よい酸味と魚のうまみが程よく調和した味です。
なかなか満足できました。
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向井原駅から予讃線は、内子経由の新線(写真左)と伊予長浜経由の旧線(写真右)に分かれます。
串駅があるのは、旧線です。

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串駅の一つ手前の駅、有名な「下灘駅」です。
今回はあえてここで降りずに、マイナーな串駅を選んでみました。
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串駅に到着。
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どこかレトロ踏切ローカル線雰囲気満載。
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駅のミラーで一人記念撮影(オイw
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伸びる鉄路を眺めて・・・
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本当に、何もない駅です。しかし、どこか味がある。
そこが魅力です。
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こんなところに駅があるなんて想像もつきません。ゆるいレベルの秘境駅です。
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駅を坂道の上から見上げる。小さいなあ。
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すぐ目の前には瀬戸内の海が。
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心落ち着く風景です。
日々の疲れを忘れさせてくれます。

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駅から少し離れて海の写真を撮っていると、地元農家の方が話しかけてきました。
香川県から来たと話すと、なんとこの方も実家は香川県坂出市にあるとの事でした。
私みたいに、美しい海の景色を求めてここに来る人は意外と多いのだとか。
あと、この海は広いのでたまに海上自衛隊が演習をやっているようです。

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この方曰く、「ここから松山城が見える」そうです。
私はなんとなくそれっぽいようなもの…が見えたような気はしましたw
最近視力落ちているのか・・・?
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列車時間が来ました。農家の方に別れを告げて帰路につきます。
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坂出駅には21時43分に到着。
何かと、発見の多かった一日でした。

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