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kom’s log


- きみ、そこはきみの家ではないのだよ - ミラン・クンデラ


07-10-2004

日本のバンドに移籍した友人のラジオインタビューをネットで聴いた。「10年ヨーロッパにいました」という彼女の言葉を聴いて、6年前に初めてあったときのことを思い出した。なんとなくしみじみ。

[][] 情報からの逃避行動  情報からの逃避行動を含むブックマーク  情報からの逃避行動のブックマークコメント

つい半年前のことだが、イラクで日本人人質事件が起きたときに、自作自演説が流布され、特に掲示板やブログをはじめとするネットの世界では、あの誘拐は自作自演である、すなわち反イラク戦争の急先鋒である日本人たちが、地元のイラク人と共謀して誘拐を演出したのである、という説がやたらと幅をきかせ、なおかつかなりの人間が支持していた。それを受けたハードメディアまでもが自作自演に傾いた。あまつさえ、政治家までも。

その様子を眺めながら、私がどことなく感じていたのは、自作自演説を唱える人たちの姿がどこか精神的な逃避を起こした人間に似ているということだった。自作自演説を唱えていた人間は、当事者ではない。いわば野次馬である。野次馬が精神的な逃避を起こすほど、つらかろうはずがない。どこが似ているのだろう、とあれから後、考えているのだが、結局、現実の幅の広さ、ダイナミックレンジを受け止めるだけの想像力が欠如している、ということではないか、と思った。それは他の国に軍隊がいる、ということの重さを感じる想像力でもある。

とてもではないが正面きって向かい合うことができないほどのつらい状況に直面したときに、逃避は起こる。物理的に逃げるわけではなくても精神的に退行したり、妄想の世界に閉じこもろうとする。目の前にしている現実に精神的な余裕がなくなると生じる。外界をシャットダウンして自分を守ろうとする防衛機能である。自作自演論者にどこか共通したものを私が感じたのは、彼らがあたかも外界をシャットダウンしているかのように私には見えたからだ、と今では思う。イラク人が本当に誘拐したのではなく、日本人が筋書きを書いて演じているのである、この事件はイラクと日本の関係の中で起きた事件ではなく、あくまでも日本国内(的に)で起きた事件であるとどうしても思いたい、必死で自作自演論者達がそう願っているように私には見えたのだ。虐待を受けた幼児が、大人が悪いのではなく自分が悪いのであると思うことで、虐待という現実から逃避するのにもよく似てる。虐待される幼児がとてもつらいのは私にもよく分かる。でもなぜイラク日本人誘拐事件の野次馬である日本人は、なにがそんなにつらいのだろうか。

話はやたらと飛ぶが、リリカさんのウェブサイトが閉鎖したのちに、いろいろな人が書いているコメントを見ていると、「あんな高校生がいるはずがない。中身はもっと年上の人間である」という意見が多かった。その根拠は彼女が一年間書いていた内容が単に高校生にしてはとても信じられないぐらい高いレベルだったから、という果たしてこれが根拠といえるのかどうか実に不明確な一点にだけである。私はid:hotsumaさんのページにリンクされたさまざまな人のコメントを見ていくうちに、又再び逃避=外界をシャットダウンする人々を眺めているような気になったのだった。

外界をシャットダウンしてしまう大きな理由は、情報を受け取ったときに、その情報にリアリティを感じるだけの想像力と経験がないことではないか*1。ネットの圧倒的な情報の幅とその実在に、その情報を受け取る側の想像力や経験がついていけていない。だから自閉する。自閉して安心しようとする。

私は日本人が誘拐された、という報道を聞いたときに、さもありなん、と受け止めた。昨年から折に触れてなんども書いたことだが、小泉のブッシュ擦寄りによって、外国に暮らしている私の危険度は著しく上昇した。だから、起こるべくして起きたことだ、と私は思ったのである。ましてやイラクのご当地である。この経緯は当時いろいろ書いたから繰り返さない。いずれにしろ、その後頻発したさまざまな国の人間に対する誘拐事件を思い起こせば、今や「自作自演」は実に虚しく響く。

リリカさんに関しても同じことだ。すさまじい勢いで読書をし、なおかつその内容を極めて深く理解している高校生がいることのどこが不自然なのだろうか。あるいは、高校生の三島由紀夫でも想像してみればいい。例えば高校生の三島由紀夫が現存したとして、今ブログを始めたとする。いや、高校生の三島由紀夫には実はゴーストライターがいるのである、そんなに頭の切れる高校生が世の中にいるはずがない、とやはりネットは盛り上がるのだろうか。「中の人」がいるはずである、云々。

三島由紀夫と「中の人」の例えは少々誤解をうむかもしれない。「仮面の告白」もとい「高校生の三島」は却って大喜びするだろうから。

*1:昨日のコメント欄に即していえば、身体性を取り戻す、というのは想像力と経験を養うことだ、と私は解釈したい。経験によってさまざまなおいしいものを知り、その経験がどこかにおいしいものがあるかもしれない、という未知への想像力を生む。

flapjackflapjack 2004/10/07 09:12 自作自演説を「外界に対するシャットダウン」という視点からみるというのには大賛成です。ただ、これも単にシャットダウンしてるという部分もあるだろうけど、シャットダウンして国内文脈に落としてしまうと何も知らない者同士でも話がつなげやすい、つなげやすいからさらに書き込みが増え(ネタと真実の水準が未分化なまま真実の水準が強まる形で)話が広がっていく、という2ちゃん的コミュニケーションという要素もかなりあったのではないかなあ。もちろん、それは「外界に対するシャットダウン」にますます寄与してしまうわけで、結果は変わらないわけだけれども。リリカさんに関しても重なる部分があると思う。けど重ならない部分もあるのでちと保留。(早朝から北欧での学会に飛ぶのに書き込んでしまうアホ。荷造りしろ>自分)

svnseedssvnseeds 2004/10/07 10:48 うーん、flapjackさんとは反対に、僕はこの「外界に対するシャットダウン」という視点、Ririkaさんの件にはまあまあ該当するけども、例の自作自演説にはあまりあたらないように思うなあ。既にいろんなところで散々議論(ともいえないか)されてたのでここで繰り返す気はないけれども、あの人質事件はおかしなところが多すぎたので諸説入り乱れるのはしょうがないように思う。むしろこの視点は、例の愛国心の話により良く当てはまるんじゃなかろうかとちょっと思った。
「外界に対するシャットダウン」はつまり「ある情報を処理するにあたって想像力の欠如が原因で誤った結論を導いてしまうこと」なわけだけれども、この「想像力の欠如」を要素分解すると、1.背景となる情報/知識が不足している、2.経験/適用能力/視野の広がりが不足している、の2点になるように思う(ここで、1は情報/知識の絶対的な不足、つまりどうしても現時点では知り得ないことを指しており、経験の不足や視点が狭いことからくる情報/知識の不足は含まないことに注意)。kmiuraは2の点を強調しているけれども、1の点が原因となって「外界に対するシャットダウン」が(見た目上)起こることも大いにあり得るんじゃなかろうかと思った次第。
例えば、例の人質事件は真相は藪の中なので、「外界に対するシャットダウン」は主に1が原因で起こっていると僕は思う。つまり「外界に対するシャットダウン」を起こしていると観察される人たちも別に自閉しているわけではなく、単に情報が錯綜している中で論を進める出発点をどこに置くかの違いが結論に現れているだけじゃないかな。この場合、主張が噛み合わない両者はきっとお互いに自閉しているように見えるだろうから余計話はややこしくなるだろう。もっとも論者が論の出発点を絶対的なものだとしているのであればある意味自閉しているとも言えるのだけど、これはひとつメタなレベルへ話が上がっているように思う。
Ririkaさんの件は、まあ2が主だけれども、電話で直接お話したことがなければ1もある程度含まれるのもしょうがない気がする。単に若い連中がやっかみと焦りであれこれ言ってるだけなんだろう。もちろんそうした態度が良いとは全然思わないけれども、気の毒だなあとは思う。
一方、愛国心の件は情報へのアクセスに特に制限がないと考えられるので、これは原因は2だろうな。
おまけ。この文脈で俯瞰すると、flapjackさんの「2ちゃん的コミュニケーション」は「内側」を「quasi-外界」としてしまう、つまり自閉したもの同士が自閉したままcommunicateすることで本来「内側」だったものが「外界」として機能し始める、ということになるのかな。興味深い。
ていうかそもそも「内側」と「外界」の違いって微妙なものなのかも知れぬ。わからんな。長くてごめん。わはは。

suesue 2004/10/07 17:57 目からウロコ、という思いで読みました。2つの出来事(に対する2chの反応)には僕も色々考えさせられたのですが、自分が感じていた違和感の出所が一つ、明らかになった気がします。ただ(svnseedsさんと似た感想ですが)僕もイラクのケースが「逃避」であるかどうかについてはちょっと保留したいと思います。「外界へのシャットダウン」であることはその通りなのですが、それをもたらした原因は他の要素の方が強いように思うのです。このあたり、まだうまく言葉にならないので、もう少し考えさせてください(笑)。

kmiurakmiura 2004/10/07 18:09 さまざまな人間集団に対して、事実が100としたときに、10だけ情報を与え、のこりの90を推定しなさい、という課題を与えたときになにが結論としてでてくるか、というとなにやら集団心理学の実験みたいになってくるんだけど、その過程が私からみたときにとても狭い範囲での合意で推定が進んでいるように思う。その進み方がなにやらとても内向きなのが気になるわけです(”国内文脈に落とす”>flapjackさん。)。理解や想像力がついていかないから、そんなのアリエナーイと多数決で推定作業が内向きに、平均値に進んでいくのを見るのは上でも書いたけど退行していく人間を見ているような気分になる。実験ならばいいけれど、現実に妙なことになったという印象を上で挙げた二つの例で私は持ったのです。

イラク日本人誘拐事件の真相は藪の中、というのは事実で本当のことは本人達以外わからないというのは確かにそうなんだけど、事実がどうだったかということは差し置いても、議論の進行に”国内文脈に落とす”という強力なバイアスを私は感じたわけです。とてもキモチがワルイ。北朝鮮で生まれて育った拉致被害者二世たちが”日本人であり、日本に帰ってきたいと願っているはずだ”というなにやら思い込みに過ぎない(と私には思える)気分を日本の世論がなんとなく共有しているのもなんか、同じようなベクトル。

sueさん、また是非コメントください。

svnseedssvnseeds 2004/10/07 21:17 あーだいたいわかった。個々人は独立して判断してるつもりがいつの間にか付和雷同になっちゃう気持ち悪さだ。僕が上で書いていたのは他人の意見に左右されない個人を前提としていたみたい。実際には情報がオリジナルソースから得られることはほとんどなく(これ前にも議論したね)他人を経てバケツリレーで伝えられることを考えると、他人の意見に左右されないという立場は幻想に過ぎん罠。
で、その気持ち悪さって、僕が前にしつこく書いていた「政治を前提条件に入れて考えることの怖さ」なんだよね。狭い世界のgivenな前提にそってその中でだけ議論して結論を出してしまう気持ち悪さだ。「狭い世界のgivenな前提」を僕は政治と呼んでいたんだけど、この言葉の使い方が良くなかったのかな。どうだろう。

kmiurakmiura 2004/10/08 10:46 うーむ。はっきりいってよくないと思うぞ。

svnseedssvnseeds 2004/10/08 11:31 ありゃ、そうですか。残念。

kmiurakmiura 2004/10/08 20:22 適した言葉を考えてはいかに。

perfectspellperfectspell 2004/10/09 10:52 2chへ行って気付いたのだが、2chの一部では自作自演説は未だ妄説でなくsvnseedsさんですら信じているのではないだろうか。
事件の最中、何故ひとひねりした丁度映画や小説のような妄説を信じたか?というと僕らは物語しか知らず物語を見る目しかないから。
現実の粗雑の行き当たりばったり同士が事件を生むなんて考えはなく、「登場人物」は全て考え抜かれた末の怜悧な者が事件を動かす物語を信じてる。現実は映画ほどリアリティを考えて演技しないので、現実にはロケット砲(だっけ)で人質を脅し、映画くらいのリアリティに慣れてる僕らは「理屈」の通る物語を信じる。
皆(少なくとも事態を動かしている人)は最適手を打っているという物語を信じたい、というのが妄説盲信の根拠かと。依って立つ世界を信じたいんですよ。悪手ばっかりなのを認めない。国内で杜撰な事が山ほど起こっていても国際政治は信じてる。
現実を知らず物語に耽溺する、とセカイ系ぽく変奏して言ってみました。

SoredaSoreda 2004/10/10 03:29 こんにちは。svnseeds さんのおっしゃる「狭い世界のgivenな前提」に乗っているのと「広い世界のungivenな前提」に乗せられるのも気持悪いと思います(笑)。私がこの事件から受けた気持悪さは若干の具体例から後者でした。また、givenな前提というのは論文の中では開示されているわけですが(でなければならないわけですが)、普通の世界にはそういうのはないうえに、人びとの判断の中にもない。個人のreference系がどうなっているのかを他人は知りようがない。したがって、狭い世界のgivenな前提というのをそれこそgivenと発想するのは、起こったことを整理するためにはあまり役に立たないのではないかとも思われます。▼いくらか具体的に事例にひきつければ、彼らの行動が潔白だ、自作自演と言われていることは何もないというのと、彼らの行動が彼らの意図とは無関係になんらかのプロットの上に乗っている、という話は別だと思うんですが。で、行動が潔白であることを証明しようとすればするほど、もし後者のプロット説が妥当であれば、そちらを促進することに寄与する。この時潔白証明派は俺はそんなことまで言ってないとここでも意図の潔白を証明することになるでしょう。しかしそれがまたプロットに乗る可能性はある。もちろんこのことは、逆にも言えます(i.e. 自作自演擁護派は別のプロットの存在を否定する可能性を保留する)。