あたまのわるさリターンズ

子供のころを思い出すと、前回書いたような意味であたまのわるい教師や親ほど偏差値がどうの、塾がどうの、ということにこだわっていたように思う。平均値の範囲の中で上下を決定するのに、わかりやすいスケールが必要なのだ。多次元の能力の原野に散在するようなあたまのよさをそれぞれの子供に獲得させようと思ったら、教師ないしは親である人間にその進む先、生き方が理解できるはずがない*1。あたまのわるい人間によって設定された「普通」の中におけるスケーリングでは、その狭いスケーリングの限界を超えることはないのである。困ったものだ。これに抵抗し、反発しえた子供はそのスケーリングからようやく離脱し、スケーリングを広げることに成功する。ひどい努力である。逆に反発できなかった人間はあたまのわるいスケーリングを再生産する。ましてやそのスケーリングでシステムが構成されるとなれば、狭いスケーリングによる安心システムの駆動はさらに補強される。井の中の蛙、とはこのことだ。わたしは人間の能力は本来的に千差万別、ものすごい幅と奥行きのスペクトラムを持っていると考えている。それをわかりやすく狭いスケーリングが圧殺し、単純な世界にしてしまっているのである。
たとえば前回の項では説明のために「平均値」としたが、そもそも平均値など意味がないのではないか、と私は思いながら書いていた。多次元の能力の空間にはさまざまな大きさをもついくつものゆるやかなクラスタがあるだろうから、平均値をとること自体に実は意味がないのである。たとえば単に三次元の能力空間を考え、そこに5つのクラスタがそこここに分散しているとする。それぞれのクラスタはある傾向をもつ能力のクラスタである。こうした状態ですべての人間の平均値をとってみても、それは散らばっている人間の能力のもっとも凡庸なる存在のありかた、として代表されるわけではない。クラスタが散在しているのだから、平均値に意味はないのである。しかしこの散在した点を、一次元(たとえば学力テストによる偏差値、学歴)に投射し、その中における上下に一喜一憂してもなんの意味もないことは明らかだ*2。かくしてあたまがよくないこととは「みんなが進む方向に進もうとする」ことではないかとrnaさんがコメントしていて、お見事、と思ったのはこのためである。あたまのわるさは、平均値さがしという行為に反映されるのだ。あたまのわるさが平均値によって規定されるわけではない。前回のこの仮説はしたがって撤回する。すなわち、平均値なるものを作り上げるのがあたまのわるさである。平均値をつくろうとする志向性において、あたまのわるさは規定される。
以上、さまざまな人によってさまざまな形で発言がなされているから、そんなに理解しがたい内容ではないだろう。というか、なんかよく聞いた話だな、と思う人も多いと思う。ゆとり教育が喧伝されはじめたころ、あるいはそれ以前にはこうした話はよくあったと思うのだが、ゆとり教育の失墜とともにナイーブな話ということになったのかみかけなくなった。私は元文部省が行ったゆとり教育のシステムが破綻したのは、上に述べたような形。すなわち虎を野にはなつような教育を行う覚悟が足りなかったからだ、と思っている。つまりハンパもの。本当にやるのであれば、数十年の先を見越して社会システムを変える覚悟でやる必要があったのだ。
さて、『あたまのわるいスケール』に戻ろう。そうしたあたまのわるさに向かって「おまえはあたまがわるい、世界はもっと広い」と教え諭し、その広い多次元のスケールを理解させることは容易ではない。できる、と信じるのが教育であるが、はたしてネット上でそんなことができるのか、と思う。膨大な情報の検索が可能な世界では、自分の狭いスケーリングにしたがって情報をつまみ食いすることが可能であるから、狭いスケーリングの世界に実に複雑なフィクションを構築することができる。また、そのスケールの狭さが批判の対象になるという事態はまさに理解しがたい事態、あるいはもっとすすんで人格の否定であるとうけとられかねない、というよりも受け取られやすいのである。これは実にこまったことだ。ネットではスケールの幅を広げることができないのである。あるいはもっとちがうスケールがありますよ、というオルタナティブをしめしても、それは現実的ではない、とこれまたその狭いスケール外にあるがゆえに単に非現実的であるとうけとられてしまう。
蛇足になるが(というか、本当は次の部分を最初にかいた)以上のようなことを考えて、ネットは実に人の成長をそこねる存在でもある、と私は思う。諸刃の剣。暗記や習得の次のステップである学ぶという作業はいわばギリギリの自己否定を繰り返すことによる成長だと思うのだが、このような学ぶという態度そのものにはそれなりに訓練が必要なのであって、その訓練ができていなければ、ネットは阻害的にしか働かない。たとえば本来ポジティブに機能するはずの「ソースを探す」というネットにおける基本的な態度にしても、その所作が本来の意味を失って単に自分の論を押し通し他人の議論転覆をもくろむだけの道具と化して都合のよい情報の断片をみつけるだけの作業に徹堕しているのを実に頻繁にみかける。かくなる不十分なコレクター的作業をもってして溜飲を下げる人々を眺めるのはなんと絶望的なことか。もちろん、私自身への反省も含めて、そう思う。

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*1:教育基本法はこうした教育の投機的な面まで考慮されたうえで教育の仕方については自由である、という精神で書かれていたので私はスゲエとおもっていた。その旧教育基本法もかえられてしまってドロナワ。国による教師に対する拘束が新設の条項としてずらずら加わった。実にあたまがわるい

*2:同様のことが美人という認識にもいえる。顔面像の二次元投射だけでは、しぐさ、表情などさまざまなファクターが失われる。この意味でネイチャーの論文は”あたまがわるい”のであるが、科学とはパラメーター化、単純化がその作業の本質にあるので、そもそもはあたまをわるくさせるものである。