Hatena::ブログ(Diary)

kom’s log

p r o f i l e アンテナに追加 RSSフィード

- きみ、そこはきみの家ではないのだよ -  ミラン・クンデラ

[assignment][link][memo][Iraq][protocol] [scientific community][Books] [impression]
2003 | 10 | 11 | 12 |
2004 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 |

10-11-2008

[] エリート文学と大衆文学  エリート文学と大衆文学を含むブックマーク  エリート文学と大衆文学のブックマークコメント

水村美苗がその語りの対象としているのは実にマイノリティな人々なのであって、「日本人たるものこの本を読むべし」というような内容ではないはずである。内輪のサロンでひそやかにささやかれている話。大衆文学というものがありましてね、英語の席捲もあっていまやホンモノの日本文学は瀕死の体、ご臨終。まことに悲しいことよ… かくなる実に不健康な話なのである。そしてここでいうマイノリティとはエリート。そしてエリート文学。

エリート文学、そんなものを年中気にしている人間は日本語を話す人間全体の中でほんの一部である。そのほんの一部の人たちが「ああ、わたしたちの考える日本文学、それがいまやほろびてゆく」。そうため息をついている、そんな内容の本を毛語録のごとく高々と掲げ、こめかみに血筋を浮かばせながら「日本人は全員読め!」って*1。そりゃ無理。あちらこちらにみかけた水村美苗のこのところの意見を眺めても、やはりこれは水村美苗が想定するエリートに限ってかたりかけている話であって、あるいはもうすこし譲ってもエリートの存在を認識したうえでその語るところを理解せよ、なおかつ国語教育という意味でのエリートの再生産のために教育はかくあるべし、といったたぐいの話なのである。

これはたとえば「この国のかたち」を憂いながら死んだ国士司馬遼太郎の話ではまったくない。それがなぜか「この国のかたち」日本語の危機編、全国民よ結集せよ、みたいに扱われているのをながめて、そりゃちがうでしょ、と私は思った。しかも一部ではなんかこれまた(ほんとにまたでたよ)国民統一戦線とかそうした形で回収されそうな勢いまであって、その様を眺めるに、もう、ネタはなんでもいいんですね、と思ってしまう。

批判するとすれば、これは「パンがなければ」云々といった故事に類する話なのであって、その徹底的な「上から目線」ならぬ「上だけ目線」を評し批判すべきなのである。したがってこの論において「僕たちはハッピーだから大衆文学でいいのだ」とい反論してみても意味はない。だって関係がないのだから。

ありうる反論。ごく簡単にいえば「アナタのいうエリート文学よりアナタがよんでいない”幼稚な大衆文学”のほうがすごい」といった反論以外、ありえないのである。仲俣さんみたいにね。これは決して英語対日本語の話ではない。我々にとって文学とはなにか、という話である*2。「警戒警報!日本人は全員読め!」に目をくらまされてはいけないのである。

[追記] コメント欄のtemjinusさんへの返答。(リンクをいろいろつけたので、本文に。)

昨日から今日の間に、仲俣さんが批判の続きを書かれていて、日本における大衆文学についても説明されているのでそちらが参考になるかもしれません。要は、ここでいうエリート文学はとても狭く、近代日本文学なのです。エリートと大衆の文学、という点でも私みたいなぐたぐたなヨタではなくてちゃんと書いてあります(関係ないけれど、某有名ブロガーがこの本について何度も興奮気味に触れていますが、そのもっとも最近のエントリーで「わたしにとっての日本文学は星・筒井・だれそれなどのSFだ」と書いているのを見てマジで目をうたがった、というか、彼にとっての文学がなんであろうとかまわないのだが、それだと水村美苗の意見を否定することにしかならない。まったくよめてないんだなーと思った):

なお、わたしの問題意識は、こうしたエリーティズムを対象にしているのではなくて、水村さんの本が国民動員的な発想の持ち主の方々に回収・利用されてしまうこと、あるいは文学がそうしたかたちで「国文学」になってしまうことに対するものです。このあたり、なんというかこのところの「革新のツラで新たに現れる社会大衆党」的なるものの動きとこれまた同期しているのが気になるのです。この問題を対象にしている記事はワタクシの見方ではあちらこちらにありますが、最新のものではこのあたり、かな。

共感だけでつながって、形式がどうでもよくなりはじめている風潮、というのか。またの名を文革2008とわたしは呼んでいます。なおわたしは文学のエリーティズムは放置すりゃいいじゃん、というか文学はそんなものでもあるとわたしは思っているし、なおかつ私は水村さんが12歳に渡米した経験をつづった「私小説」に、おなじく12歳で渡米した人間として大変感銘を受けた人間なので(この感銘は文学に対する感銘というよりも経験の重なりによる感銘だったと思いますが)、今回の件の本に関しては動員の発想がちらほら見受けられるのでとても気になるのです。おいおい、それでいいのかよ、というような。エリート自称ならば泰然自若と完璧な「上だけ目線」エリートでいればいいのにな、と思う。そんなわけで来週日本からやってくる客人に本をもってきてもらうことにしました。ちなみに以前書いた「私小説」に関する拙記事はこちらです:

なんともう4年前か。ほとんどラブコールな内容ですが、まー、自分の経験を言葉にしてもらったというか。

なお、註に引用したのはリービさんの発言ではなく、水村さんの発言です。nesskoさんが指摘されているように、わたしの引用の仕方がまずかったです。混乱させて申し訳ありません。わかりやすいように訂正します。

*1:あるいは「すべての日本人がいま読むべき」

*2:たとえば以下の水村美苗の2007年の発言を参照にせよ。文学における「頭の階級」の存在について考えるということが今回のトピックでもあるのである: 『気がついたらみんなが本を読める時代にとっくに突入していた。大衆が本の市場を左右する社会に突入していたんですね。でも、日本人は大衆化というものについて考察したがらない。貧乏だったのと、マルクシズムが強かったのとがありますが、そこにさらに農耕社会固有の共同体至上主義が重なって、そもそも大衆についてネガティヴに語ることがタブー視されているんだと思います。でも実際は大衆が本の市場を左右すれば当然起こることが日本でもちゃんと起こっている。同じ文学と名がついても大衆が読む本と一部の人間が読む本とが二分化されるということですね。ただ、それが自覚されていない、というよりもそのことを自覚することに抵抗があるんです。でも自覚しないと、そもそも文学の価値について云々できなくなってしまうでしょう。流通システムも含めて、まともな文学をどうこの大衆文化のなかで残すかという、先進国に共通したそういうあたりまえの問題について話せない。』 リービ英雄と水村美苗の語る日本の階級構造@mmpoloの日記より、リービ英雄「越境の声」(岩波書店・2007)における水村美苗の発言を孫引き。

temjinustemjinus 2008/11/12 06:09 今晩は。kmiuraさんのところから私のところへおいでになる人が多いのでお邪魔しました。なんかすごい議論が沸きあがってるようですけど・・・
上のリービさんの意見、(早苗さんはおいとくにして)しかし紫式部の時代から漢文学は男物、つまりはエリート、仮名手は女子供のもので、というようなエリートとそうでない文学の区別はあったようなきもしますが。万葉にしたって、そこらの連中が書いてるものもあるし。「女もすなる」という前書きは有名ですし・・・それに物語り物で拾遺集とかもあったわけだし。大衆文学とエリート文学というのは今に始まった話じゃないような。。。五山文学を持ち出すまでもないし。下って江戸になっても青表紙や黄表紙というのは当時としては大量生産の(しかもすでにフォード風の分業を導入していた)大衆文学だし。そのときでも藩塾では中国の難しい思想を教えていたみたいだし。。。どうなんでしょう、リービさんの発言はずいぶん軽率だと私の目には映るんですが?それに日本に読者人口が多かったこと、つまりは識字率が当時としては異常に高かったことはライシャワーなんぞも指摘するとろだし。それでなければ一茶の俳句などは存在しなかったろうし・・・ちょっと専門家の意見を聞いてみたい気がします。

temjinustemjinus 2008/11/12 06:13 もう一つ言わせてもらうと『気がついたらみんなが本を読める時代にとっくに突入していた』のは日本じゃずいぶん早かったんじゃないかな。大衆が買わないとやってけない文学なんて、そりゃ江戸の版元はずいぶん苦労してますから、戦後の問題じゃないと思います。これも専門家の意見を聞いてみたいところです。

o-tsukao-tsuka 2008/11/12 10:58 ここの対談が面白いです。
http://blog.lv99.com/?eid=852779
つまり、昼メロをオペラにしてエリートの文学に愛を取り戻せ!というアジテーションなのでは。

nesskonessko 2008/11/12 11:01 引用元は、リービ英雄「越境の声」(岩波書店・2007)ですが、
引用されているのは「水村美苗の2007年の発言」なのでは。

日本では「大衆についてネガティヴに語ること」自体が既に大衆化して久しいのですが、水村氏にはそれが見えていないか、わかっててあえてないことにしてるのではないかとしか思えないご発言ですよね。

hizzzhizzz 2008/11/13 02:35 本は、かってのJIS漢字包摂論争にかいまみる、字形と字体概念を混濁したままに「日本語・日本文化の危機」を叫んだ文学者様方・日本文藝協会のナイーブな反応迷走を思い出しました。
「純粋芸術」>「商業美術」みたいな近代コンプレックスの裏返しの優越感闘争というのは、40代半ば位を境としてなくなっていくのですが、代わりにサブカルスノッブ対立が。若い梅田望夫の共感・ぼやき具合は、昔の拙はてダで論争したオタクが欧州サブカルスノッブに感化された某U氏と、同じポイントなのかっと(苦笑)。>低民度な大衆、最先端を行く孤高なオレ様

temjinusさん:専門家ではないですが、いくら安価な草紙本とて庶民にはまだまだ所有出来る価格ではなかったので、江戸期には「貸本屋」が、富山の置き薬宜しく全国津々浦々まで行商しておりました。

猫屋猫屋 2008/11/13 04:36 タイトルを、エリート大学と大衆大学と読み間違えてしまいました:ゴネンナサイ。

kmiurakmiura 2008/11/13 10:07 temjinusさん
お返事がながくなったので、上に追記しました。

o-tsukaさん
あとで読んでみます。といいつつ読む前に。オペラじゃなくて漱石じゃないとダメかも。

nesskoさん
中俣さんの読みを正しいとすれば水村さんのメッセージは「近代日本文学の重要性を大衆に再注入せよ」という近代日本文学ファンとしての運動なので、大衆をネガティブに語るというよりもやはりエリートからエリートへのメッセージなのだな、と思う。自分もまたmassの中のエリートだという認識みたいだし。前提にされている社会構造が、まあ強烈なわけです。…でも日本の中学だか高校の教科書に「私の個人主義」ってはいっていなかったっけ。

hizzzさん
実は理学と工学でもそんな話が日本でもひそひそとあったりするんですけどね。
関係ないですけど、わたしなぞは30年後ぐらいに「中上健次を読まずして日本人とはいえない!読まねば日本は滅びる!」とか外国のどこかの飲み屋でこめかみに青筋立てて旅行中の日本人学生に説教たれているかも。

猫屋さん

ついに老眼ですか!関係ないけど(というかフランスつながりか)、かつて活躍されていたFenestraeさんにぜひ意見をうかがいたいものだ。おもしろいこと書いてくれそう。

猫屋猫屋 2008/11/13 11:45 >ついに老眼ですか!
そりゃないいすよ:RSS表示じゃあそう見えただけ。でも案外エリート大学と大衆大学って境界線はあるように思ったからコメントしてみました。個人的には大衆文学と純文学の違いがまったく分からない。問題はかえって、1)日本でも本を読む人がきわめて少ない。2)出版社はマンガと話題本でどうにか生き延びてる。3)でもって、古典なんて儲からない。ってことだと思います。

あらまあらま 2008/11/13 11:57 文学経済論のつもりなんじゃないの。需要と供給のバランスがとれていれば、大衆だろうが純文学だろうが関係ないのだけど、ちょっと国際的経済状況に置き換えてみただけで、日本の特殊性に不安に思えてしまって、自分がアイシュタインにでもなったような考えに憑依されてしまったような。そもそも、叡智、普遍の言葉の使い方がおかしいから、そこでダメでしょ。何が叡智なのかは、読者まかせの仄めかしだし、普遍は、英語が今後も普遍であるということはただの予測にしかすぎないし、誰にとって普遍なんだろうね、日本人の普遍は、日本語のままでしょ、歴史から見れば。日本語は、漢語にも中国語にもなっていないし、今だ、米国語になっていない。つまり、仮説でしかなくて、仮説を証明する材料が少ないから、論拠がとぼしくなっているんだろうね。仮説を仮説で証明することはできません。仮説を否定してみて、否定できないということで、仮設の証明にかえることもできないこともないけど、個々の仮説を簡単に否定できてしまうことを、重層的に構築してみせているだけ。この言語の重層的に構築するのは、小説には有効だし、新しさをだすことができるけど、現実の状況を論証するには、問題がありすぎ。で、梅田氏も、文献を重層的に構築することで、web進化論を書いているし、弾氏は、プログラミングそのものが、重層的な構築であるから、ビビっときたんだと思うな。ちなみに、漱石文学は、重層的な構築のように見えるけど、彼がやっていたのは、俳句を連ねる、連句の技法。重層的な構築のようにもなっているけど、もっと気楽なもの。そもそも、他人の考え方を重層的構築する風潮って、日本の高度成長期にしみついた、マネシタ・カルチャーだよね。そんなもん、英語圏の人が喜ぶわけがないじゃん。

あらまあらま 2008/11/13 12:05 日本文学で、海外から高く評価されるとしたら、英語で書かれるより、日本語で、「蒲団」みたいな作品とか、四畳半で家族4人で暮らしている様子とか、そんなんでしょ。普遍というのは、文化の継承も含むのだから、日本人が英語で書いたって、ダメじゃん。継承できていないし、できないのだから。だから、日本語で、彼女が書く大切さを問うなら、日本文化を正しく継承することだろうね。英語なんて、捨てて、長野の山奥で暮らすとか。ま、よくわからん。「蒲団」には叡智があるけどなぁ〜♪

hizzzhizzz 2008/11/13 17:31 おたくサブカル等のJ回帰を「土着」といって切って捨てた浅田彰、自分が興味ない過去・場所なんか一切知らん存ぜぬといってのける東浩紀と、水村のは同じ対処仕様でしょうね。近代以降のねじれを、自分としてはどう決着つけていくか(どの範囲を自己エリアとするか)という。>http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20080619#p4
明治初頭に「猥雑卑陋」のレッテルをはられて排斥され、後に露伴や紅葉らによって少しずつ復権してきた井原西鶴の上げ下げに見られるように、西洋-非西洋な価値観の揺らぎは、日本近代芸術全般にあります。そして最も西洋的日本であろうとしたのが明治期・日本近代文学なんだろうけど、それは史実的には否定されまくり精神文化としても脆弱なまま近代日本的個は活路を見いだせず低迷。そんな感性から、表面的には違う形式スタンスをとる者たちが「革新のツラで新たに現れる社会大衆党」的テーマに便乗するという図式は十分に考えられます。
中俣さんは彼女が岩井夫人(柄谷グループ)であることを根拠にあげていますが、それに加えてワタクシ的には、彼女が仏文を専攻する前に「美術学校」にいて転向?したという点が、西洋(12歳以後の日常&漱石文学の文字世界:言語)-非西洋(12歳までの子供日本体感世界:非言語)な価値観の落とし込み方として、ひっかかっています。60年代アメリカ芸術は、コンセプチャルアート=抽象言語主体が全盛だったからです。

kmiurakmiura 2008/11/14 09:54 猫屋さん

失言しました。もうしわけない。ところで確かにそうした出版業界の商売上の問題も認識した上なのでしょうけれど、もしそれだけならば青空文庫を社会運動に!みたいなことで十分近代日本文学へのアクセシビリティは確保されるし、確かに残っていくのだろうと思うのです。たとえば今どこかの外国で不本意に住んでいる12歳は、それを読むかもしれない。そうしたプロジェクトを水沢さんが提言しているのだったらとてもわかりやすいけど、そうじゃないらしい、というのがわたしの引っかかっている点です。

あらまさん

うーん。日本文学はいかに世界市場においてマーケティングするか、という話では今回ないように思うのですが…。特定の分野のエリートがエリートの系譜を残すためにいかに腐心するか、というある種特殊な話なのだと思います。広い意味での日本文学は少なくともヨーロッパでは大売れです。わたしの周りのヨーロッパ人はほぼ理系ばかりですが、ハルキムラカミやバナナヨシモトは普通にみな読んでいる。水沢さんにとってはこうした状況も危機感を感じさせる原因なのかもしれない。まあ、結局私自身が読まないとなんともいえません。わたしが問題にしているのは、水沢さんの提言をいかに日本社会がうけとめたか、という誤謬の点です。で、その誤謬には日本文化を誉めてもらいたい、ポジティブに評価されたい、という潮流が背後に駆動していると思っています。そうでなければ、アジテーションにこんなにスムースに乗るはずがない。この点で、昨今話題の自衛隊の人の「日本はよかった」問題もつながるのです。

hizzzさん

近代におけるねじれ、という意味で水沢さんは漱石を受け継ぐような小説をテーマにしていると思うのですが、もしかしたら破綻したのかな、なんて想像しています。あるいは、政治的に受容されてしまった、という不幸なのか。水沢さんと同じような子供時代の経験をもつわたしは、美術や近代日本文学に世界における自分を見出すのではなく、科学とか数学をやってたらねじれを少しは軽減できたんじゃないか、と思ったりします。「そこはきみの家ではない」などと冒頭に掲げつついいかげん、我田引水ですが。

nesskonessko 2008/11/14 15:09 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
この読売での紹介のされ方が既に「憂国の書」扱いですよね。
水村氏がこの扱いをどう思っているのかはまだわかりませんが、水村及び彼女の周辺にいる知識人たちが生き延びるために、誤謬を利用する可能性すらあるのではないかと危惧しています。
これから水村美苗と佐藤優の対談が企画されるかもしれない。
動向が気になります。

temjinustemjinus 2008/11/14 15:23 "水村美苗「私小説」" のエントリ、拝読しました。丁寧な返答、感謝します。

References
  • 飛ぶ教室 (岩波少年文庫)
  • 輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)
  • 例外社会
  • “癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究
  • ポストモダニズムとホロコーストの否定 (ポストモダン・ブックス)
  • 戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源
  • ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
  • ゆきゆきて、神軍 [DVD]

07年07月24日からの
ページビュー
1191436

04年1月30日からのユニークアクセス