彼女が死んだ。

一ヶ月の間一緒に住んだ。二ヶ月の間、病院で過ごした。短い結婚生活が終わった。
脳幹の梗塞、ということで一度医師団に見放された後に奇跡的に復活したという話はここに書いた。その後の脳の機能回復は私からみるかぎりかなり目覚しく、瞬きを使ってどの曲を聴きたいか、などのコミュニケーションを交わすことができるようになるまで回復した。一方で脳ではなく体の予後が思わしくなかった。初期の激烈な血圧上昇剤投与を停止したことによる副作用と思われる虚血による後発性肝内胆道炎を起こし、おそらくそのことが原因となった肝膿瘍が発症からちょうど2ヵ月後に発見された。細菌の感染も軽微ではあるが、抗生物質で完全に排除することができなかった。脳、肝臓、感染の三つ巴のなかで、治療方針は難航を極め、集中治療室を出ることができずに時間ばかりが過ぎた。この間に私はリハビリについて調べ、特にリハビリの専門家であるバーバラ・ウィルソンの著述に影響をうけ(cf)、ICUにいる段階からのさまざまなリハビリの必要性を深く感じ、自分なりにさまざまな試みを行った。設定したゴールは親子三人で散歩すること。車椅子でも散歩できたら上出来。しかしながら、出産直後5日目におきたクモ膜下出血発症から64日目、多臓器不全で彼女は天に召された。直接の死因は腎臓機能停止による血中カリウムイオン濃度上昇に伴う心不全、心停止である。
死の3日前、ドーレーン設置の簡単な手術直後に起きた脳内出血および肝機能低下によるものと思われる血液凝固機能の極端な低下によって、医師団は彼女がほぼ脳死とみなし、二度目の治療停止をした。私は拍動をキープするためのカテコールアミンの投与続行だけは頑強に譲らず、一日後に彼女は二度目の奇跡的な復活をとげて医師団を驚愕させた。24時間停止された治療は復活し(これも二度目だ)、半日の間彼女は意識を復活させた。その後に彼女は多臓器不全を起こし、腎機能を停止させ、腹部を血だらけの腹水でぱんぱんにしながら凄絶な死を遂げた。奇跡は二度起きた。しかし三度目はなかった。
生理学的にも腎機能停止の致命性はあまりに明白である。でも血を止められないのだから手術もできない。2ヶ月強にわたる激烈な闘病だった。死に際し彼女はウクレレを聴き、友人の励ましとおしゃべりに囲まれ、安らかなその死顔には微笑さえ浮かんでいた。私の心も静かだった。脳を守る。最後まで彼女はやり遂げた。いつからそれが目標になったのかしらないけれど、体が負けたのだったらどこか納得できる。敢闘賞だよ、と冷たくなる手を握りながらつぶやいた。
死亡時刻は先々週の土曜日、22時45分。ヨーロッパが夏の時間に変わる数時間前だった。私が看護士を手伝いながら彼女の体を拭き、最後となった歯磨きをしてやったのは19時だった。すでに意識はないことがうかがわれた。(他人にはわからないかもしれないが、2ヶ月も最小意識状態の人間と付き合っていればそのぐらいわかるようになるのである)。濃い目の緑茶を綿棒につけて口のなかに含ませてやりながら、これで最後かもな、と思った。かろうじて顎をあけることのできた昼の歯磨きのあとの土曜の午後、血圧は少しづつだが確実に低下し続けた。音楽療法を生業とする友人が来訪した。私と彼女は交代でウクレレを弾きながら歌を歌った。彼女の最期が少しでも楽しいものであるように。へたくそな冗談をいくつもいってみた。そのあとで血圧ががくっと下がると、あまりにくだらなくて失望させたか、と頭を抱えた。必死だった。何人もの友人が彼女を励ました。私は死が怖くないことを泣きながら何度も彼女に説明した。
死んだらね、きみの体は小さな分子になって山や川や海や風になるんだ。水になって流れ、風になって空を飛ぶ。空を飛びたいっていってたでしょ。世界中にいけるよ。だから怖くない。こわくないよ。
この言葉を聴いていた音楽療法の友人が曲をつけて歌にしてくれた。友人はその歌をお別れの会でウクレレを奏でながら披露した。あまりにやさしくて悲しくて美しかった。どうにか抑えていたはずの涙が溢れてとまらなかった。