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KAZUO Nakajima 間奏

2016-06-12

柄谷行人の「中野重治と転向」について その3

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 そのように二元論対立が失効していたにもかかわらず、むしろ中野の方が「救いがたいほど」対立を生きていたのだ。1948年から58年まで、日本共産党専従だった増山太助の以下の証言は、その背景を伝えていよう。

中野と窪川(鶴次郎)はともに旧制四高出身で、中野の方が一歳年上だが、『驢馬』同人以来の親友であった。そして、二人とも「転向」していたから宮本夫妻からはきびしい態度で扱われ、中野は「近代文学批判の先頭に立たされ、人のいい窪川は頭脳明晰な百合子の“小姑”的な引き回しにあってくたくたになっている感じであった。(『戦後期 左翼人士群像』)

 

 ここで言われる「「近代文学批判」は、平野らの雑誌「近代文学」に限らず、広義の近代文学批判という意味だろう。すなわち、「政治と文学」の二元論が失効し、両者の対立がなし崩しになっていこうとするなかで、宮本顕治ら「政治」陣営は、なし崩しに曖昧になっていく対立点を、近代文学批判し続けることによって明確にしようとした。

 その「先頭に立たされ」たのが、中野にほかならなかったというのである。中野が、宮本らに対する転向者の負債感情から、平野と「政治と文学」論争に進み出たことは想像に難くない。転向者でありながら、なお(だからこそ?)政治=宮本顕治につき続けようとするこの姿勢が、また平野の驚きを生むのだ(むろん、後に平野は、この中野の姿勢にも、高名な「日本の革命運動の伝統の革命的批判」を見出し、「転向を再生のバネとする」のを見ようとするだろう(「転向文学中野重治1959年))。

 中野も平野も転向者だった。すると、その転向に対する疚しさの大小が、両者を「政治」と「文学」とに振り分けたことになる。二元論対立からズレた「ちょっとの違い」の本質は、この疚しさにこそあったのであり、具体的には宮本=政治=党からの距離の「違い」を意味していたのである。

 繰り返せば、柄谷の「中野重治と転向」は、冷戦崩壊=マルクス主義の終焉の「前夜」において、「主義」とは異なる「マルクス的なもの」へと「転向=転回」したとして、中野重治を再評価した。「その1」で述べたように、それは当時アクチュアルな意味を帯びていた。

 だが、今となっては、中野の転向に、二元論対立に解消されない「個」を見出し得たこと自体の歴史性を問うべきだろう。それは、「政治と文学」や「知識人と大衆」という二元論対立が、すでに失効していたからこそ見出された「個=単独性」であった。私自身、この「個=単独性」に当時「解放」されたことを否定しない。だが、やはりそれは、幻想(ファンタスム)だったことが、今やはっきりしてきたのではないだろうか。

 「ちょっとの違い、それが困る」という「個」は、今や各自が個々のスキルの「ちょっとの違い」を、自己責任的に見つけ出すよう「せき立て」(ハイデガー)られており、完全に人的資本主義に捕捉されてしまっているように見えるからである。

戦後に、中野重治平野謙らの「近代文学派」に対して不当と見えるほどに反発したのは、「近代文学派」の構えがこの時期に形成されたものであり、彼にとって、それはいわば政治という五七五に内面という七七をつけ加えたもののように見えたからだ。政治的な挫折から「内面」に行くというのが、明治における近代文学の形成である。その政治的起源が忘れられたとき、「内面」が牙城となり、聖域となる。それがほとんど「文学」と同義語になる。近代文学はいわばすでに転向文学なのだ。しかも、それが忘れられて自明のものと化していたのである。

 この柄谷の認識にまったく異存はない。だが、この後「中野が「わかれ」ようとしたのは、そのような「文学」である」と続く一行は、冷戦崩壊によって無効化したと言わなければならない。「政治と文学」の二元論が崩壊し、「すべてが政治的になった」ということは、裏を返せば「すべては文学的になった」というのと結局は同じことだったのではないか。もはや、「文学」への「わかれ」は不可能になったように見える。その政治=文学包摂された「現在」を、『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』の石川義正なら、「総力戦」と呼ぶだろう。

 「近代文学転向文学だ」という柄谷の言葉はまったく正しい。この認識もなく文学をやっている連中は、はっきり言って問題外だ。だが、さらに言えば、冷戦崩壊は、中野の「わかれ」を不可能にし、したがって中野をも「近代文学転向文学」に包摂したのである。もはや、そこにおいては、中野と平野の「ちょっとと違い」など無意味化されてしまっているのだ。

 ならば、今やむしろ、平野の「政治と文学」(あるいは「知識人と大衆」)に立ち戻って考えるべきではなかろうか。今は余裕がないので論証抜きに投げ出しておくが、平野は、「政治と文学」が二元論対立を成す以前から、それが形成されていく過程を、良くも悪しくも、最も「生きた」批評家だからである。その認識から提示された文学史観(「平野史観」と呼んでおく)は、「政治と文学」の「文学」が、当初は「政治=マルクス主義」に対する別なる「政治」(オルタナティブ!)だったことを明確に示していよう(平野の「人民戦線」もそこから出てくる)。

 その別なる「政治」など「転向」にすぎないと、事後的に言うのはたやすい。だが、その姿勢は、結局「なし崩し」の転向に加担することにしかならないだろう。今必要なのは、安易に平野を忘却の彼方に押し流さず、平野史観を「善用」して、「なし崩し」になっていく過程を解きほぐしていく作業ではないだろうか。文学が、そのような、なし崩しの転向の累積(建築?)だということが、もはや見えなくなっているからである。

中島一夫

2016-06-08

柄谷行人の「中野重治と転向」について その2

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 例えば、中野が『むらぎも』の有名な場面――芥川に、「才能として認められるのは」堀辰雄と君だけだから、文学をやめないで続けてほしいと言われ、「あ、あ、あ」この人は「学問・道徳的にまちがっている」と考える場面――についても、柄谷は、「文学をやめて政治をやるとか、政治をやめて文学をやるとかいった考えそのものがまちがってい」て、その種の二元論を拒否することが、中野の「道徳」だったと述べる。だが、それは極めて「わかりにくい」もので、いわば「それは「あ、あ、あ」という「感じ」のなかにしかない」のだ、と。

 だが、当時の状況をふまえれば、これについても平野の見方に分があるように思われる。平野は、当時中野は、林房雄亀井勝一郎らとともに東大新人会の社会文藝研究会のメンバーで、彼ら「鋭敏な青年インテリゲンツィアの多くは」、「山川イズムにかわる指導理論となった福本イズムの信奉者たちであった」と。亀井の回想記によれば、そこではゲーテプロレタリア文学者より偉いか偉くないかと議論になったようなとき、中野はきっぱり「ゲーテだって偉くないさ!」と断言したという。

 芥川が、あえて中野を呼んで「文学を続けてほしい」と語ったのも、そうした文脈――中野がラディカルな福本イズムに吸引されていった――の中にあった。それに対して中野は、その後自殺した芥川に対して「かわいそうに思った」と、一見傲慢にも聞こえる言い方(あるいは、シェストフ的不安を、「よだれを流した芥川ほどにも不安がっていない」と言った、あの嫌らしい言い方)をしたのである。この「かわいそうに思った」と、『むらぎも』の「あ、あ、あ・・・この人はまちがっている」は、つながっているのだ、と。平野は言う。

これは中野の若さの特権でもあったろうが、痛恨にみちた芥川龍之介の不安感を乗りこえ得る立場に、すでに立っていると確信していたからでもあろう。その立場とは、いうまでもなくマルクス主義のさし示す方向だった。(『昭和文学史』)

 すなわち、先の中野の「言い方」は、宮本顕治にならって、芥川を「敗北の文学」と見なしていたことに基づいているのだ、と。芥川の死後、中野は蔵原惟人と芸術大衆化論争を繰り広げる。これも、日本プロレタリア芸術連盟が、蔵原、青野季吉らの「労藝」側と、中野や谷一らの「プロ藝」側に分裂したのを受けたもので、あくまでマルクス主義文学運動の内部におけるヘゲモニー争いだった。

 だから中野は、のちにこの論争を回顧して、「自分でも力を入れ、蔵原に何度も叩きかえされ、非常にためになった」と頭を垂れることになる(その実蔵原は、二度しか書いていないし、しかも一度目は中野個人に向けられたものですらない)。芥川に対する態度とは、えらい違いだ。

 一方、終始人民戦線を模索していた平野は、ほかならぬその、蔵原=政治に対抗しようとした中野の方にこそ、「急進的な文学インテリゲンツィアによるマルクス主義文学」の「象徴」を見出した。戦後、皮肉にもその中野と平野の間で「政治と文学」論争が戦われなければならなかったのは、すでに「政治=マルクス主義の優位性」が徐々に失効し、その水位が下がっていたからにほかならない。

 本当は、「政治と文学」論争が、すでに「「政治と文学」理論の破産」(奥野健男)を示していたのだ(だから、「政治と文学」ではなく、「人間性」が論争のテーマになった)。むしろ、「政治と文学」という二元論が機能していたら同じ陣営にいた(かもしれない)中野と平野が、陣営を分かたねばならなかったところに、この論争の歴史性を見るべきなのだ。平野が、中野の反発を招いたことに驚いたのは、中野をリスペクトしていたからばかりではない。

(続く)

2016-06-04

柄谷行人の「中野重治と転向」について その1

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 柄谷行人は、冷戦崩壊直前の1988年に、中野重治の転向について論じている(「中野重治と転向」、『ヒューモアとしての唯物論』)。おそらく、この時柄谷は、目前に迫っていた冷戦崩壊によって、いよいよ訪れようとしていた、マルクス主義の終焉に備えようとしていた。そして、マルクス主義の終焉に、すなわちマルクス主義自体の「転向」を前に、マルクス「主義」ではない位相に、本来のマルクス的なものを見出そうとしていた。そのとき、中野の特異なあり方が、にわかに視界に浮上してきたのだろう。

 柄谷は、普通「転向」と言えば、マルクス主義「からの」転向を指すが、中野にとって(というか昭和初期には)マルクス主義「への」転向を意味していたと言う。そしてそれは、ニヒリズム=意味の希求である、と。ここで言われるニヒリズムは、ハイデガーが、キリスト教の衰退ではなくキリスト教そのものがニヒリズムだと言った意味において、だ。

 人間は無意味に耐えられず、したがってニヒリズムとはすでに意味の希求である――。このニヒリズム=意味の希求を、イマ風に「オルタナティヴの不在」とでも言い直せば、冷戦崩壊以降、依然としてわれわれがこの渦中にいることがわかるだろう。与党しか存在し得ない日本の政治空間、トランプ現象に席巻されるアメリカの政治空間……。いまだわれわれは、オルタナティブの不在とその希求を乗り越えられない状況にある。

 話を戻せば、柄谷は、マルクス主義「への」転向も、それ「からの」転向も、ニヒリズムに根差している以上同じものだと考えていた。そして中野は、そうした「主義=意味の希求ニヒリズム」という回路とはズレた地点で、マルクス的であろうとした文学者だったのだ、と。

 そのズレ方は、「ちょっとの違い、それが困る」と言って、小さな差異にこだわるあり方だった。これによって、中野は、「意味/無意味」という大きな二元論対立ではなく、「非意味=ノンセンス」を導入し得たのだ、と。それによって中野は、「意味と無意味」、「転向と非転向」、「知識人と大衆」、「政治的価値と芸術的価値」…といった、一見対立に見える二元論対立が、その実同じ回路に回収されてしまう偽の対立(中野の表現で言えば「罠のようなもの」)にすぎず、それに対して「ちょっとの違い」をつきつけることで、その回路からズレた存在たり得たのだ、と。

 だが、本当にそうか。

 例えば、「政治的価値と芸術的価値」という対立について見てみよう。中野は、平林初之輔の提示した「政治的価値と芸術的価値」(1929年)という二元論に対して、「芸術に政治的価値なんてものはない」(1929年)と断言した。平野謙は、その中野のスタンスを、二元論ではなく、「芸術的一元論で割りきってみせたもので、芸術的にはすぐれていても政治的に(あるいはイデオロギイ的に)劣っているなどということは本来あり得ない、それは政治的にではなく芸術的に劣っているということだ、と見事に論破してみせた」、またそれは「さきに芸術大衆化論において、芸術的にすぐれていることが大衆的ということの唯一最高の条件だと論じたときとおなじ筆法である」と論じた(『昭和文学史1963年)。

 それに対して、柄谷は次のように批判する。

しかし、中野は二元論一元論で「割りきった」のではなく、二元的な「対立」を「差異」にもっていったのである。中野がいうのは、芸術に政治的価値と芸術的価値があるのではない、芸術的価値の「差異」があるだけだということだ。(それは芸術に政治的な意味がないということを意味するのではない。いかなる言説も、非政治的言説も政治的な意味を帯びるのである。だが、それは積極的な主題=価値とはべつのことだ。)それはまた政治についてもいえる。こういういい方をしてよければ、政治には政治的価値の差異があるだけだ。このために、中野は「あるときは政治至上的であり、あるときは芸術至上的である」ようにみえる。だが、これが不可思議に見えるのは、平野が救いがたいほど「政治と文学」の二元論に陥っているからである。

 だが、このとき柄谷が、「いかなる言説も、非政治的言説も政治的な意味を帯びる」と言えたのは、いわゆる「68年」以降、大文字の政治が失効し、政治が小文字化していくことで、「いかなる言説も」「政治的な意味を帯びる」という地平にすでにいたからではなかったか。

 この時点で「政治と文学」という二元論対立は、とうに失効していたことに注意しなければならない(奥野健男による「政治と文学」の破産宣告(「「政治と文学」理論の破産」)は1963年)。すなわち、中野の「ちょっとの違い」が、二元論からズレたところに見えたのは、すでに二元論対立が無化していたからではなかったか。

 したがって、「平野が救いがたいほど「政治と文学」の二元論に陥ってい」たという柄谷の見方は、いわゆる遠近法的倒錯である。「救いがたいほど」「二元論に陥ってい」たのは、中野もまた同じだったはずなのだ。

(続く)

2016-05-28

ディストラクションベイビーズ(真利子哲也)

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 「イミフ」(意味不明)という声と、絶賛する声(特に俳優の怪演)とに二分されているようだ。

 ストーリーらしきストーリーはほとんどない。全編、ひたすら喧嘩しまくるだけ、よく企画が通ったと思わせる問題作である。

 『イエローキッド』や習作の頃からこの監督の秘められたディストラクション(破壊)への傾斜には注目してきた

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%BF%BF%CD%F8%BB%D2%C5%AF%CC%E9&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail

が、この新作でそれが一気に噴き出した印象だ。まるで上田秋成のような、あるいはサドのようなピカレスクロマンである。

 愛媛県松山市の造船所が立ち並ぶ港町・三津浜。芦原泰良(柳楽優弥)と将太(村上虹郎)の兄弟は、造船所のプレハブに二人きりで暮らしている。兄の泰良は喧嘩に明け暮れ、弟の将太はいつも内に何かを抱えている様子だ。同じく松山の作家、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を反転させたような兄弟構成だ。

 冒頭、弟は対岸にいる兄が、多勢に無勢のなか喧嘩しているのを目にし駆けつけるが、いつのまにか兄は姿をくらませてしまう。それ以降、ずっと弟は兄を探し続けることになる。ニアミスを繰り返しながら、いつも弟は兄に一歩遅れてしまう。兄は、手に届かない存在であるかのようだ。

 いや、兄・泰良は、松山の街全体にとって得体の知れない存在である。彼はふいに松山の中心街に現れ、自分より体の大きく強そうな相手を見つけては、次々に喧嘩をしかけていく。その行動の「意味」はついに分からない。

 かといって、彼はダークヒーローではない。彼よりも喧嘩の強い者はいくらでもおり、実際、彼の方が殴られて動けなくなることもたびたびだ。だが、そういう相手も、意味もなく食い下がり続けてくるその「非意味」(ノンセンス)に、根負けして屈していくのである。

 そして、これこそが悪漢小説の主人公のあり方だろう。中上健次は言う。

悪漢小説への入口はどこでもころがっている。或る日或る時、現代の青年Aは、街で人にぶつかる。相手は当然Aが不注意でぶつかったのであやまるだろうと思った。Aはあやまらない。それで相手は激怒した。威勢のいい相手だったら殴りかかってもくるだろう。普段われわれはこのあたりで、市民生活を営む者の常として双方、うまく自分の気持ちをなだめるのだが、「それ何事かは」と思っているAだから、相手を小突きもする。警察が出て来ても、「それ何事かは」という態度は変わらない。警察をAが小突いたとする。警察官が殴り返し公務執行妨害で逮捕しようとしたとする。Aは「それ何事かは」と警察と取っ組み合いになる。このままAが「それ何事かは」を言いつづけ、行動をしつづけると、どうなるだろう?(「物語の系譜 上田秋成」)

 泰良の行動原理も「それ何事かは」(それが何だというのだ)に尽きている。強烈な自己肯定の衝動であり、法・制度に抵触、侵犯する主人公の行動のダイナミズムである。タイトルの「ベイビーズ」(曲名から来ているようだ)は、まさに中上が言うように「法・制度上において表れた悪がもし悪として貫徹されるならばそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれる」ことを示していよう。すなわち、「法・制度上において悪は善の前期的状態であり、悪とは法・制度への慎しさを欠いた事にすぎない」。泰良の行動を単に「悪」と見なす視線は、すでに法・制度に馴致され成熟した、「大人」のそれなのだ。

 それを市民社会視線と言い換えることもできよう。それは作中、彼の暴力を、許可なくスマホで撮影し、これまた断りもなくネット上にアップし、あっという間に拡散、炎上させていく、懲罰感情に突き動かされた不特定多数の群れとして先鋭化する。映画は、泰良と市民社会の、どちらが暴力的か、とでも言いたげだ。

 スマホを持って、「すげえよ、アンタ。俺と面白いことやろうぜ!」と泰良に近づいてくる高校生「裕也」(菅田将暉)は、そうした市民社会の一人だった。だが彼は、泰良とともにあり、彼の上着を着る(笠に着る)ことで増長する。調子に乗って女子高生らにふるう暴力は、だが超人願望や承認欲望にすぎず、背後に「意味」や「理由」があるぶん、泰良のような強度も持続力も持たない。法・制度に抵触するや否や、彼はたちまち脱兎のごとく逃亡をはかろうとし、その情けないありさまを、自らが暴力をふるったキャバ嬢の「那奈」(小松菜奈)に「キモいんだよ!」とののしられるのがオチだろう。

 市民社会は、「万人の万人に対する戦争」(ホッブズ)を体現するような泰良=暴力を、法制度で抑圧したところに成り立っている。だが、それが露呈したらどうなるか。

 繰り返し注意しておくべきは、泰良が決して「誰でもよかった」と嘯きながら、道具を使って人を殺すような卑劣な男ではないということだ。その卑劣さには、「誰でもよかった」という「理由」と、道具を使って自分の身は守りながら他人を殺めたいという、小心な「意味」とがつきまとっている。

 もちろん、だからといって、泰良の行動を肯定することなどできまい。それは、肯定することも否定することもできない、カントなら「非社交的社交性」とでも言うだろう領域にある。実際、泰良は、相手を殺そうとは思っていない。それどころか、それが自己流の社交だとばかりに、「まだイケルだろ?まだイケルだろ?」と相手の反撃力=社交性を確かめながら殴り続ける。

 作品は、暴力の「出所」を、この港町で毎年のように行われる(祝)祭に見出し、その伝統に暴力の「意味」や「理由」を押し込めようとしているようにみえる。だが、目深にパーカーをかぶった匿名の「それ」は、「それ何事かは」と、海の向こうから何度でもやってくる気配を漂わせているのだ。

 中上は、自らの故郷について「熊野は人を過激にさせる」、「熊野はもの狂おしい」と言った。今作が見出した松山は、漱石から大江まで、日本近代文学の「風景」としてあった「松山」を、ある部分において継承しつつも(『坊っちゃん』の暴力!)、ある部分では徹底的にディストラクションしている。実際それは、中上の熊野にずっと近いと感じた。

中島一夫

2016-04-27

「総力戦」の時代における文学・批評・政治

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 5月21日(土)、紀伊國屋書店新宿本店にて行われるイベントに参加します。

https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20160426100059.html


以下、パネリストの最近の言葉から。

トークの内容と直接には関係ないものの、これらは互いに交錯している。おそらく当日は、これらの延長線上で、言葉が交わされるはずである。

第二次世界大戦およびそれ以降の総力戦というシステムは、現在かたちを替えてふたたび私たちの生の総体を捕捉しつつある。それは国民国家の代表=表象制度を揺るがさずにはおかない。国民の「一般意志」つまり主権を代表=表象する立法府およびそれを規定する憲法に抵触するのは明らかだからである。つまり総力戦は私たちがこれまで「文学」と呼んできたものの根拠をあからさまに無と化すのだ。(…)それを拡散しているのはテロリストではなく国家である。原発を稼働させつつ戦争状態を生成させるなど正気の沙汰とは思えないが、しかし私たちはそれを現に生きているのだ。(石川義正『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』2016年

むしろ、われわれの周辺で言えば、詩人稲川方人が「彼方へのサボタージュ」と言ってきたことを想起すべきである。「生きさせろ!」と主張する人的資本と、もちろん生きさせようとするところの新自由主義との相補性の「彼方」で賭けられる「サボタージュ」にほかならない。それが同時に、われわれを動員してやまない「技術」の「急き立て」に対するサボタージュを意味することも、言うまでもないだろう。

サボタージュとは総動員に対するサボタージュであり、スキルアップなどやっていられないという意識である。(…)「彼方へのサボタージュ」とは、「詩の理念とは散文である」(ベンヤミン)ことなのである。もちろん、現在のわれわれは、その具体的なイメージを、ほとんど手にしていないにしても、である。(すが秀実天皇制の隠語』2014年

世界は単に変化しているのではなく、それを構成している国家とそこに生きている人間の関係を根幹的に変えるように変化している。性急な言い方をすれば、人間の同意なしの「世界」が一方的な権力によって構築されようとしている。「世界」がそうであっても、詩は「人間の同意」なしには書き得ない。

(…)私は、ただ「破壊すべきものは破壊しよう」とだけ言った。しかし、何をどんなふうに壊しても「悲しみ」と「怒り」だけは残る。それが生きている者の姿の本質だと言いたかった。生の形態において消えることのない「悲しみ」と「怒り」に、私は残された自分の「詩」の時間を賭けてみる。(…)そこに書かれる言葉が「詩」にもならず「文学」にもならなくても私はなんらかまわない。(稲川方人『詩と、人間の同意』2013年)

逍遥から、硯友社自然主義という順で、狭い純粋化を実現してきた我国の小説は、結局天皇絶対の観念と、強大な軍備に支えられた「帝国」にふさわしいものであった」。中村は、文学が、小説が、「帝国」に抑圧されてきたと言っているのではない。むしろ、文学こそが「近代化を実現してきた」のであり、その意味で「帝国」に「ふさわしいもの」だったと言っているのだ。中村は、「現代ほど、政治が人々の嫌悪の的になった時代もない」という。重要なのは、そうさせてきたのは文学だということなのだ。(中島一夫「復讐の文学―プロレタリア文学者、中村光夫」「子午線 vol4」)