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KAZUO Nakajima 間奏

2016-12-10

PK(ラージクマール・ヒラニ)

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 嘘と詩を知らない星からやってきた風変わりな男が、優しい嘘と詩を覚えて帰っていく――。

 前作『きっと、うまくいく』同様、いわゆるマレビト=物語である。どこからともなくやって来て周囲に影響をもたらし、共同体を変革して去っていく「マレビト」(折口信夫)。

 『きっと、うまくいく』の原題「3idiots」のidiotは、文字通り「バカ」というより、世間の常識を共有しないがゆえに、それを疑い、覆す力をもつ変革者だった。今作の「PK」もまた、PK=酔っぱらいと見まがうほどに常識が通じない存在だ(何せ宇宙人)。

 『きっと、うまくいく』では、徹底した競争によって互いに分断されている大学生たちを、分け隔てられた教室、部屋、トイレやシャワー室から飛び出させては、全員で歌い踊ることで彼らに連帯の力を思い出させていった。主人公「ランチョー」が唱える「きっと、うまくいく」という言葉は、相互不信と疑心暗鬼に苛まれ頑なになっている心を、いわば「麻痺」させることによって孤独から解放する「まじない」だった。

 今作は、周囲に「導師」とあだ名された前作のランチョーを、自身が(ランチョーもPKも、アーミル・カーンが演じている)呪術的な言葉もろとものり越えていくような話だ。

 今作については「前半が長い」という声が聞かれる。奪われてしまった宇宙船を呼ぶリモコンを取り返して「家」に帰ろうとするPKが、「神様に聞け」「神様のみぞ知る」という人々の言葉を、嘘を知らないがゆえにコンスタティヴに受け取り、「本気」になって神を探す姿が前半では描かれる。

 別々の神と宗教がバラバラの教えを言うので、それぞれの宗教が求める苦行を次々に実践し、だが一向に神にたどり着くことができない。嘘を知らないPKが、さまざまな宗教的実践を愚直に一通り試してみる、その経験(論)的な過程が描かれる、だから前半が「長い」のだ。その過程がなければ、後半、シヴァ神を崇めるヒンドゥー教の導師との論争というクライマックスにおいて、あれほどまでにPKの言葉が説得力をもつこともなかっただろう。

 前作も今作も、一見特権的な力に恵まれた者が、超越的なポジションから啓蒙的に人々の分断を解消させていく夢物語に見えるだろう。なるほど、PKは現行の神や宗教を、人々に不安や恐怖を植え付け「信仰」に縛りつけようとする「恐怖ビジネス」だと喝破し、人々に「魔術からの解放」(ウェーバー)をもたらす。導師との論争は、神を守ろうとする者と、神は死んだという者との、ある意味で近代における普遍的な論争だ(実際、ヒンドゥー教徒の多いインドでは、上映禁止運動も起きたようだ)。

 だがそれも、前半、PKが人々と一緒に実際に食べ物の施しを受け、その瞬間神を信じたことが重要なのだ。いや、正確には、彼は神を「信じた」のではない。嘘のない星から来たPKには、「信じる/信じない」という対立は存在しない。彼は、人々が口々に言っていた「神」が、存在することを経験的に「知った」のだ。

 だから、なかなか神にたどり着けない理由を、彼は「番号のかけ間違い」に見出すだろう。導師(代理人)が神にきちんと祈りを伝えていない、すなわち間違い電話をかけ続けているのだ、と。決して嘘を言っているのではなく。

 PKが教えずして、結果として教えているのは、嘘と信仰はともにこの「かけ間違い」によるということだ。「かけ間違い」が起こるのは、心(真実、神)と言葉(嘘、代理人)とが互いに離れているからにほかならない。人間にとって不可避的なこの言葉の構造そのものが、常に「かけ間違い」を引き起こし、人に嘘をつかせ、神にたどり着くことを拒んでいるのである。

 

 クライマックスの論争で、導師はPKに言う。「あなたは私の言葉を「かけ間違い」だと言う。では「正しい番号」を示せ」。PKは苦渋の決断を迫られる。なぜなら「正しい番号」を示すことは、自分が恋し始めているジャグーに、まだ彼女の心の中にいる、ベルギーで出会ったパキスタン人の恋人サルファラーズへと、文字通り「正しい番号」で電話をかけさせることになるからだ。論争の勝利が恋の敗北になるのである。

 父の強要に逆らって、導師を信じていなかったジャグーが、どうして結局は導師の教え通りにサルファラーズと別れてしまったのか。導師の予言「彼はお前を裏切るだろう」に、知らず知らず呪縛されたジャグーの心は、サルファラーズの心を信じ切れなかったのである。

 かくも人間は、横にいる他者を信じ切るには弱く、上にいる神への信仰へとたやすく身を委ねてしまう。「番号のかけ間違い」とは、この「心」の構造そのものだ。人間は、「信じる」ことを貫徹できない(=正しい番号にかける勇気がない)からこそ、むしろ「信仰」に走る(かけ間違いを続ける)のではないか。一度神を信じ、本気で探そうとしたことのあるPKだからこそ、そのジャグーの、人々の心の弱さが分かる。

 「正しい番号」は、神ではなく、人を信じることからしか得られない。そして、一人一人が「正しい番号」でかける勇気を持つならば、代理で誰かに代わって電話をかけてもらう必要もなくなる。その日が来るまで、増殖する複数のPKは、人々に「元気チャージ体操」を伝えようと、何度でも地球にやってくるかもしれない。

中島一夫

2016-12-03

AI的リアリズム

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 先日の記事(11/8)で書いた「移人称小説」について、もう少し。

 渡部直己が言うように、作中で人称や視点が切り替わる「移人称小説」は、「「私小説」を育んできたような描写の持続的覇権が、これを拒んできた」ために、「たやすくは「露出」してこなかった」ということだった(『小説技術論』)。近代リアリズムの「描写」という「技術」が、言説のリアリティを担保していたからだ。

 もちろん、それは複製技術に即応した「技術」だった。描写によってうつし替えられた風景や事物に、オリジナルさながらのリアリティがなければ、それは有効性をもたない。リアリズムのリアルとは、あらかじめある自然ではなく、人工的な「技術」によるレトリカルな効果なのだ(柄谷行人の言う「風景の誕生」)。

 その後リアリズムは、技術の更新に伴うリアルの変容によって、例えば「まんが・アニメ的リアリズム」(大塚英志)や、「ゲーム的リアリズム」(東浩紀)のように更新されてきたが、むろんそれもまた、その名の通りリアリズムであり、オリジナルがコピーされる「等価交換」の原理(異質なaとbとが「等価」と見なされるのは、aの価値がbに複製され転移されていると見なされているからともいえよう)によってリアリティを担保する技術であることに変わりはない。

 そのように考えると、「移人称」もまたリアリズムの変種と捉えることもできるのではないか。例えば、SRシステム(Substitutional Reality=代替現実。被験者のリアリティが視覚的に操作され、現実か虚構かわからなくなるシステム)の研究者である脳科学者の藤井直敬はいう。

幽体離脱はSRシステムを使えば簡単にできます。さっき見てもらった映像は、カメラで過去に撮った同じ視点からの過去の映像だったけど、カメラをそのへんに置いてそのライブ映像を見せると、自分がそっちに行って自由に見渡せるので自分の視点がそっちに移っちゃうんですよね。」

「自分の身体は元の場所にあるけど、視点からは自分が見えるから、分離しちゃうんですよ。カメラの位置を何カ所かに動かしていくと、自分ではない別のところに自分の視点が持っていかれたまんまになっちゃって、それをずっと繰り返していると、部屋に自分が充満したような気になってしまう。神っぽい視点になってしまうんです。」(海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』におけるインタビュー)

 藤井氏は、SRの効果を、他者との「共感能力が、ひとつ違ったレベルになってくる」ことだと言う。すなわち、SRは、先日の記事で述べたように、「描写の衰退=市民社会の衰退」によって、もはや「間=穴」だらけになり、お互いに「共感」するのが困難になっている現在の市民社会を、「ひとつ違ったレベルで」縫合する「技術=システム」だといえよう。むろん、そのとき視点=人称は「操作」されており、人間はその代替現実を「現実=リアリティ」として思いこまされているわけだ。

 すると、「移人称小説」とは、そうしたSRのような「技術」によって変容しつつある「現実」を、リアリズムという「技術」によって捕捉した試みだと考えられよう。「SR的」あるいは「AI的リアリズム」? いずれにせよ、それはリアリズムの衰退ではなく、その都度「更新」されてきたリアリズムの一形態にすぎないと捉える方が、より近代文学の総体を俯瞰する視点が開けるのではないだろうか。

 問題は依然として「リアリズム」そのものなのだ。マルクス中村光夫が言ったように、資本主義は自分の姿に似せて世界を変革してしまう。等価交換の原理に「似せ」リアリズムは、今後も技術の更新に「似せて」、「〜的」「〜的」と更新されていくだろう。

中島一夫

2016-11-13

何者(三浦大輔)

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 就活とSNSは似ている。

 分かりやすく短い言葉(キーワード)で、的確に自分を表現し、承認を得る。ツイッターは140字で、面接は1分間で、自分が「何者」かを語る。今や政治もワンフレーズだ。

「いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった」。「ほんの少しの言葉と小さな小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか」。

 タイトルの「何者」とは、まずもって、この「短い言葉で自分を表現しなければならなくなった」社会の総体を捉えた、まさにキーワードだと言えよう。ツイッター表象空間や、それと地続き(と本作では捉えられる)就活空間にいる者たちが、「何者」かになろうともがきながら生きている。現在とは、表象空間への参入に成功し、「何者」かになれるかなれないかをめぐる、dead or aliveなのだ。

 本作の登場人物たちは、それぞれの事情で大学5年生をやっている。新卒採用ベースの就活において、この一年の「遅れ」は、必ず説明を求められる「徴」だ。だから、たかが一年の遅れが、焦りや気遅れになる。これは、そんな「何者」未満の大学5年生5人の物語である。

 語り手「拓人」(佐藤健)と同じ劇団の「二枚看板」だった「烏丸ギンジ」は、今は自分の劇団を立ち上げ、ネットでは「いつまでたっても学生劇団ぽい」と叩かれながらも、月一回のハイペースで公演を続けている。彼は最後まで作品には登場しない。拓人が「監視」し続けるツイッターの画面以外には。

 この、最後まで本人が登場しない構造は、原作の朝井リョウの代表作『桐島、部活やめるってよ』と同じものだ。名前も「k」i「r」i「s」hi「m」aに対して「k」a「r」a「s」u「m」a。「桐島」が生徒全体の自我理想であり精神的支柱であったとしたら、この「烏丸ギンジ」は、拓人が就活で見失ってしまった、あり得たかもしれないもう一人の自分である(以下、小説版と映画版を区別しない)。

 拓人は、ツイッター就活空間にどっぷりはまり、その沼から抜け出せない。彼にとっては、「表象=表現」されたものは、見せるための「嘘」でしかない。「面接って、確かに自分が持ってるカードを出していく作業みたいなもんだろうけど、どうせどんなカードでも裏返しで差し出すんだよ。いくらでも嘘はつけるわけだから。まあ、もちろん嘘だってバレたらおしまいなんだけど」。彼にとっては、表象は「嘘だとバレたらおしまい」の「嘘」なのだ。だからこそ、本音を吐き出すために、裏アカを必要とすることになる。

 ここでは、常に本音は別にある。「ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない」。そうだ、表象表象にすぎない。それは真実ではない。にもかかわらず、「そういうところで見せている顔というものは常に存在しているように感じるから」、いつのまにか相手は、本音を「隠された」と感じるようになってしまう。

 あるとき拓人は、同居人の「光太郎」(菅田将暉)が、成績証明書が必要になる最終面接にまで進んでいたことを知って、うろたえる。「ツイッターフェイスブックもメールも何も無ければ、隠されていたような気持ちにはならなかったかもしれない。ただ話すタイミングが無かったんだ、と、思えたかもしれない。だけど、日常的に光太郎のことを補完してくれるものがたくさん存在してしまうから、意図的に隠されていたような気持ちになってしまう」のだ。

 気軽に手軽に、140字で自分を表現できるのに、なぜしない? ここでは、沈黙は罪であり裏切りだ。今や古典的な言葉だが、ロラン・バルトは、ファシズムとは、「何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるもの」だと言った。そのような意味で、ファシズムは静かに、だが着実に進行している。

 嘘のカードを見せあっているつもりでも、それこそが「自分」が「何者」かを表す言葉=キーワードになっていく。ツイッターもまた表象である以上、このような代表制が機能するのは必然だろう。

 だが、そのように、「自分」が「何者」かとしてキャラ化、アイコン化できたとして、それは本当に「何者」かになれたということなのだろうか。拓人は、「理香」(二階堂ふみ)に、メールアドレスから辿られ自らの裏アカを突き止められ、恐慌を来たす。

「だってあんた、自分のツイート大好きだもんね。自分の観察と分析はサイコーに鋭いって思ってるんもんね。どうせ、たまに読み返したりしてるんでしょ? あんたにとってあのアカウントはあったかいふとんみたいなもんなんだよ。精神安定剤、手放せるわけないもんね」

「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」

 ここに、「何者」というタイトルにこめられた二重性が表れていよう。すなわち、この表象空間において、「何者」かになれたとして、まさにそれは顔のない“何者”でしかないのではないか。それはバレない限りの虚像であり、隠れたいのに、でも見てもらいたいという、奇妙な「何者」かである。

 こうして、現在のワンフレーズの表象空間は、「何者」なのか分からないモノへと我々を不断に駆り立てている。この空間が支配的なところでは、そうした「何者」かよく分からないモノにすらなれない「何者」未満の者は、端的に死=無でしかない。だが、時にそれは、今回の大統領選のように、「代表制」のもとで、突如として蘇生する。あたかも、無数の裏アカが露わになったかのように。

中島一夫

2016-11-08

小説技術論(渡部直己)

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小説技術論

小説技術論

 この批評家による近作である本書と『日本小説技術史』とを、今ひとつ自らの関心に引きつけあぐねていたが、最近ようやくそれが見えてきた。

 本書冒頭の「移人称小説論――今日の「純粋小説論」について」で、渡部は「一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たちによる作品の数々が、その中枢をひとしく特異な焦点移動に委ねるという事態」を指摘し、それを「移人称小説」と命名する。だが、それは、横光利一が「純粋小説論」(1935年)で提唱した「第四人称」問題の反復(あるいは変奏)ではないかと論じるのだ。

 とりわけ渡部は、横光に対する勝本清一郎の反論に注目する。「従つて第四人称設定の問題は、結局、第一人称小説(乃至は一元描写小説)と第三人称小説との、露出したる複合形式の提唱として解されるべきが本当である。さう解釈されさへすれば、問題は極めてやさしく受け取れるのである」(純粋小説とは?」)。

 これを受けて、渡部は次のように論じる。

にもかかわらず、当時より久しく、その「複合形式」がたやすくは「露出」してこなかったのは何故か、と。それこそ「私小説」を育んできたような描写の持続的覇権が、これを拒んできたからだ。描写は、ある次元では、言葉の再現=反映機能をみたして作中もっとも安定した機会となる。対して、勝本のいう「複合形式」は、人称構造にいわば恒常的な不安定を導く。ゆえに、同一の作品内に両者は馴染みようがない。

 要は、「描写」と「人称」とは水と油で相性が悪く相克的なものだ、したがって、現在の「移人称」ブームも、その「起源」たる横光の「第四人称」同様、描写の「減衰」を背景にしているのではないか、と。

 ならば、この問題は、これまで社会を包摂していた資本が社会から撤退し、それにともなって市民社会が「減衰」、人的資本主義と化した現在と重ね合わせて捉えるべきだろう。

 おそらく描写の衰退(とそれによる移人称)とは、市民社会の衰退なのだ。いまや労働力は、社会(正規社員)にではなく、その「外=間=穴」(非正規、フリーター、ルンプロ)へと落ち込んでいる。「移人称小説」とは、「穴」だらけで飛び地と化した、衰退しつつある社会を転々としながら、何とか依然として社会が機能しているように装おうとする、「不安定性」(プレカリティ)の小説=労働ではないだろうか。

 沖公祐は、恐慌期には、このように資本が社会から撤退し、社会が「間」と化していくと述べる。

すなわち、恐慌から不況期にかけては、解雇による債権債務関係の解消と雇用の非正規化による債権債務関係の縮小・短期化が進行する。かくして恐慌後に到来する世界(不況期)は、債券債務関係が皆無とは言えないまでも、きわめて希薄化した世界であり、市場(交換)の論理が支配する「間」に近似した世界である。現代のいわゆる慢性的不況において生じているのも、このような社会(ゲマインヴェーゼン)の内部から「間」への回帰にほかならない。(「制度と恐慌」『情況』2013年6月別冊)

 つまり、1930年代世界恐慌と、「現在進行中の世界恐慌」においては、資本が社会と社会の「間」へ回帰しようとする傾向を共有しているということだ。渡部が指摘する、1930年代の横光「第四人称」を想起させる現在の「移人称」も、そのような文脈で捉え直すことができよう。

 社会が衰退すると、それこそ「描写のうしろに寝てゐられない」(高見順1936年)のである。渡部も言うように、描写とは「言葉の再現=反映機能をみたして作中もっとも安定した機会となる」、すなわち言葉の表象=代行機能が円滑に機能する、安定した社会を土台とする「技術」だからだ。

 さらにここから、横光が「純粋小説論」で論じる「偶然性」と、沖の言う「偶然性の唯物論」(「間という外部」)とを重ね合わせてみたい誘惑に駆られるが、それについてはまたいずれ。

中島一夫

2016-10-23

永い言い訳(西川美和)

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 「後片付けはお願いね」。そう言って、妻の夏子は旅行へ出かけていった。「そのつもりだよ」と夫の幸夫(サチオ)は応え、それが夫婦の最後のやりとりとなる。

 今となってはあのとき妻は、まるでそれが死出の旅路であることを知っていて、死後の後始末を「お願い」していったようにも思える。また、映画はそれを裏付けるように、「後片付け」のシーンで閉じられる。

 冒頭、作家である幸夫は、美容師である夏子に、いつものように髪を切ってもらっている。リビングのTVには、クイズ番組で「ヌエ」と正解し、得意げにヌエの蘊蓄を語っている幸夫の姿が映っている。ヌエが日本古来の想像上の生物なら、その蘊蓄を画面の向こう側で傾けている自分は、いったいどんな「生物」なのか。すべてが嘘だ。「似非野郎」だ。そもそも作家という職業からして虚業ではないか(現に小説版では、夏子にそう言われる)。

 しかも幸夫は、あの連続試合出場で有名な野球選手「衣笠祥雄」と同姓同名であり、幼少のころから、その「鉄人=本物」性に対するコンプレックスと「偽物感」を背負ってきた。作家になってペンネームを持ったのも、本名を捨てるためでもあったようだ。

 いや、作家になったのは、ある意味で夏子の「せい」だ。大学卒業後、再会したとき「衣笠くんは将来小説を書くって言ってたわよね」と。その時は「まだ」書いていなかった幸夫は、もし夏子と出会わなければ、今も永遠の「まだ」に待機していたかもしれない。それは、いつか訪れる真実の時に向けて自分は備えているのだという、終わりのない「永い言い訳」の時間でもあっただろう。

 だが、「きっと書くといいわよ」という夏子の一言で、言い訳もできなくなった。その時の幸夫には、まだわかっていなかったのだ。小説を書きだすことこそが、永遠に終わらない「言い訳」の始まりなのだということを。小説を書けば書くほど、真実(本物)からますます遠ざかっていくほかない。「あんなものはクソですよ、クソ!」。幸夫は酔って毒づき続けるほかはない。

 新作小説『永い言い訳』に、幸夫は「人生は他者だ」と書きつける。それは、人生には他者が必要だという意味ばかりではない。それ以上に、書くという行為こそが「人生を他者」にするということ。それを思い知らされた者の言葉だ。書いていくこと自体が、書けば書くほど真実=本物に至ることのない「永い言い訳」なのである。

 だから幸夫は、第一の読者だったはずの夏子に、徐々に書いたものを読ませなくなる。夏子は「別にひどくけなしたりしてきたわけじゃない。ただ私には、誰よりも長い年月彼の書くものを身近で読んできた者としての厳しさがあった」。「しかし私もいつからか、そうしょっちゅう読まされたりしない方が気が楽だと思うようになった。共に暮らす者からすれば、書かれたものと書いた本人の実態には必ずやギャップがあって、それを許せなくなる瞬間が訪れる」。「仮に事実、そうだとしても、自分の身に起きたことを削り取り、外に向かって書く、売る、という蛮行を、ただ黙って理解し、赦し続けることだけが唯一「書く者」の家族の務めであるはずなのに、それが出来なくなる」。「嘘嘘嘘。どうせどれもこれも、嘘つきが書いた、嘘ばっかりじゃんか。私はいつの間にか、彼の作品の、最大の敵になっていた」(小説版『永い言い訳』。この場面は映画版には存在しないが、ここでは映画版と小説版の区別をあえてしない))。

 この作品が残酷なのは、すでにこのように最初に破局は訪れており、しかももう挽回は不可能だということだ。夏子は永遠に帰らず、再び幸夫の「言い訳」を聞くこともない。幸夫は、夏子に導かれるように、彼女が生前親しくしていた、大宮家の残された親子と関わることになるが、結局幸夫は、小説の世界ではない、あまりにもまぶしいばかりの真実の親子関係(海辺のまぶしいシーン!)の周辺を、うろうろするばかりだ。まるで幸夫の小説のように(大宮家は、父が「陽一」、息子が「真平」、娘が「灯(あかり)」と、まさに「まぶしい真実」を体現するかのような名を持っている)。

 一瞬、大宮家に不在となった「母親」のような位置に、首尾よく代打で収まったかに思えたが、やがてその座も理科の実験をしていた「鏑木先生」に奪われてしまう。幸夫も作家として「センセイ」と呼ばれはするものの、本物の「先生」にはかなわない。本名を捨てても、なお彼は「偽物」なのだ。そもそも大宮親子は、ずっと夏子がそう呼んでいたのだろう、自分を幸夫「くん」と呼ぶのである。

 子供のいない幸夫にとって、子供たちは甘美な毒だ。まるで、免罪符にすがるように、幸夫は子供たちと関わろうとするが、それも一瞬のしゃぼん玉だ。

 それを思い知るのが、出版パーティーで灯からプレゼントされた写真を見た瞬間だろう。河原のバーベキューの写真に映っていたのは、幸せそうな大宮親子の中に自然に溶け込み、今まで見たこともないような笑顔を浮かべている夏子の姿だ。

 いったい、なぜ灯はこの写真を渡してきたのだろうか。もちろん、大宮家からすれば、夏子の思い出の一枚を、ということだろう。だが、幸夫にすれば、幸夫が真平や灯と関わったのは、あくまで夏子の代打だったことを痛感させられる一枚だ。写真に映っている夏子は、幸夫にとっては自分の不在でしかない。夏子と幸夫は、この「風景」を共有していなかったからである。

 さらにそこには、「女の子」である灯の直感からくる「復讐」が重ねられていたと言えば読み過ぎか。夏子が自分たちとバーベキューをしている間に、いったいこの幸夫「くん」はどこで何をしていたのか。思えば、割と早くに男として分かりあえた真平に比べると、最初から灯は幸夫に厳しく、鏑木先生にも真っ先になびいたではないか。

 生前には知るよしもなかった、夏子の充実した「親子関係」。夏子は大宮家との時間に自分を誘ったのか、誘いもしなかったのか。今となっては、それも定かではない。いずれにせよ、一瞬自分にももたらされたかのように思えた充実した「親子」の時間すら、本物ではなかったことを、このとき幸夫は思い知ることになる。かくも、人生は他者なのだ。

 「もう愛していない。ひとかけらも」。まるで幽霊となってそう伝えにきたように、遺された夏子の携帯は、幸夫宛の未発信のメールを一瞬表示する。それを見てしまった幸夫は逆上するが、だから幸夫は駄目なのだ。夏子に本当に愛がなかったのなら、「もう」「ひとかけらも」などとは言わない。そんなふうに書くということは、愛していた、愛そうとしていたということだ。むしろ、こんな言葉を夏子に書かせるほど、彼女を孤独に追いやったのはいったい誰なのか。冒頭の散髪のやりとりを思い出してみるがいい。

 やっと幸夫にもそれがわかったのだろうか、ラスト、しばらく幸夫は、夏子があのとき使っていたハサミを見つめた後、それをゆっくりと箱に収める。

中島一夫