Hatena::ブログ(Diary)

KAZUO Nakajima 間奏

2018-10-15

シンポジウム「日本近代の〈知〉と大学」

学内的な「お祭り」イベントですが、参加自由です。

すがさんの講演「1968年以後の大学」、綱澤さんによる文芸学部創立の頃をめぐる講演(タイトル未定)があります。

2018-09-22

1987、ある闘いの真実(チャン・ジュナン)

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 韓国民主化の映画を見ると、ある種の羨望を覚えずにいられない。冷戦の崩壊は、さまざまな意味でわれわれから「未来」を奪った。だが、まだここでは冷戦が終わっていないのだ。

 それが「幻想」であることもよく分かっている。それは、実質的にはとうに「崩壊」しており、今やあの二人の「ロケットマン」の手によるイベント化された「終焉」を待つばかりだ(実際、先日の南北会談朝鮮戦争の「事実上の終戦宣言」がなされた)。それは、何と言う「冗談」だろう。またしても、フェイクニュースに終わるかもしれないことも含めて。

 だが、韓国が、いよいよ実際に到来するかもしれぬ冷戦終焉を前にして、まさに30年前に冷戦を終わらせ損なった1987年を再び三度見つめ直し、今度こそ未完の民主化を成し遂げようとしていることは決して「冗談」とは言えない。本作が、同じく光州事件を扱った『タクシー運転手』ともども韓国で大ヒットしたことがそのことを告げている。その熱狂は、現在も持続する民主化運動=ロウソク集会の炎を絶やさんとする、現実政治を動かそうとする熱と一体のものである。ここでは、「芸術」と「実生活=政治」とが分裂していない。

 内容については細かく触れない。一見、例によってこの国特有の「民主独裁か」の「闘い」の記録に見える。だが、興味深かったのは独裁軍事政権側が決して一枚岩ではないことだ。「独裁」は、いつでも風向きが変われば、都合の悪い部分を「トカゲの尻尾切り」できるよう、複数の「班=組」に分裂しつつ共存しているのである(「パク所長」(キム・コンソク)と対抗勢力の「所長」のマウント合戦)。これは、1987年時点で、もはや大きな「民主」化の流れが避けられない中、いかに全斗煥軍事政権を守っていくかという「独裁」側の「知恵」であり「悪あがき」だろう。

 本作には、新聞や教会はもちろん、イ・ハニョルが興じるマンガや、ヨニのウォークマンから聴こえる音楽(ポップス)といった、広義の民主化象徴する「メディア」が多数登場する。もちろん、本作が主題化するように、民主化運動の学生の拷問死は語り継がれなければならない「闘いの真実」だ。だが、もはや時代はさまざまなメディアを介して、「独裁」側による拷問を隠しきれなくなっていることも、また「真実」なのだ。本作では、ハニョルとヨニの白いスニーカーが、デモの中を駆け抜けていく様子が、民主化象徴として印象的に描かれているが、今まさに民主化は国中を走るように広がっている(そう言えば、同じく「民主化」を背景としたポンジュノ出世作殺人の追憶』(2003年)でも、警察に拷問された村の男のスニーカーが印象深く映し出されていた)。

 ジジェクは、冷戦終焉の際、「なぜ西側諸国はかくも東欧での〈共産主義〉の解体に魅了されてしまったのか?」という問いにこう答えている。そのとき西側は、自らの民主主義が腐敗と危機に埋没してしまっているので、「東欧においては、あたかもそうした民主主義が初々しさと革新性を身に纏って再発見されているように見えるのだ」と(『否定的なもののもとへの滞留』)。

というのも、東欧に西側が求めるものとは、自らの失われた起源であり、「民主主義の発明」という失われた起源の経験なのであるから。いいかえるなら、西側にとって東欧は〈自我理想(Ich-Ideal)〉として機能しているのである。それは、西側が自分自身を愛するに値するものとして、自らの理想化された姿を見つめる視点である。それゆえ、西側が魅せられている実際の対象とは、まなざし、すなわち彼らが素朴であると思い込んでいるまなざしなのである。

 「独裁」側の「所長」らは「対共」を謳っているが、「民主化」がイコール「共産主義化」であるとは、もはや「独裁」側も「民主」側も信じていないだろう(もし、そう信じられていたとしたら、果たしてそれでも「民主」側は「民主化」を推し進めようとするだろうか…)。「北」と民族統一することこそが、その初期から軍事政権が日米と結託することでねじ曲げ、腐敗させてきた韓国民主化を、あるべき「理想化された姿」に「再発明」し取り戻す道である。ハニョルとヨニの「白い」シューズは、その「素朴」な「初々しさ」を持った「自我理想」への「まなざし」を表していよう。冒頭で述べた今作への「羨望」も、そうした「まなざし」に魅せられているということなのかもしれない。

中島一夫

2018-09-19

江藤淳とヘーゲル

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 「子午線6」掲載の「江藤淳のプラス・ワン」で詳しく論じたが、江藤は戦後日本を、民主国ではなく君主国と捉えようとしていた。

江藤 しかし、これについては現行憲法の一条と二条の相互連関をよくよく考えなければいけない。第一条には、天皇日本国象徴で、日本国民統合の象徴であり、この地位は主権の存する日本国民の総意に基くと規定されている。しかし第二条には、皇位世襲であると規定されている。この二つの規定は相互矛盾であるのか、ないのか。私は、第一条と第二条の連関を考える時、市村(眞一)先生のかねてのご主張の通り、日本は依然として君主国だというのが正しいという議論は成り立つと思います。「総意に基く」と書いてありますけれども、この「総意」は国民投票で一々確かめる総意では決してありません。「総意」とみなして皇室の存続を認めるという、みなし規定だと思います。それが当然第二条にも響いていくと考えれば、世襲であるということもまた「総意」に基くと考えられる。……その占領時代に制定された現行一九四六憲法でも、皇位世襲されるということを、国の内外問わず、何人も否定出来なかったということは、控えめに言っても大きな意味を持っていると思います。

市村 日本は共和制だというふうに言う人もいるようですね。ですけれども、おっしゃるように、選挙によって皇室が選ばれるということは、まだ一回もやられてませんしね。「市村眞一との対談「国と王統と民族と」(『天皇とその時代』)

 「子午線」の論考とはあえて違う箇所を引用したが、江藤は『天皇とその時代』で、同様な主張、すなわち戦後日本は、民主国あるいは共和制ではなく君主国である、と何度も言っている。拙稿で述べたように、その強調ぶりはあたかも共和制の到来に脅えていたかのようだ。そして、この「脅え」はヘーゲルが最初に抱いたものだろう。

主権の圏域は、「理性によって規定された他の諸契機から分離されたそれ自身の現実性をもっている」と、『法の哲学』のヘーゲルは言う。「長子相続権によって確定された世襲王位継承」というのは、一見すると非理性的(非弁証法的)であるように見えるが、それで良いのである。君主制ジャコバンテロリズム――それは民主共和制という「理性によって規定された」一契機である――に対するちょっとした蓋なのだ。(すが秀実吉本隆明の時代』)

 この、ヘーゲルにおける「ちょっとした蓋」が、江藤においては「プラス・ワン」としての「天皇」であった(江藤は「蓋」ではなく「羽根飾り」と形容した)。丸山真男は、ヘーゲルの国家論にルソー的な個人主体的自由の「発展」を見る。だがこれは、すがが言うように、「ある意味で正しいヘーゲル理解だが」、それゆえに間違っていると言わなければならない。その理解においては、「なぜヘーゲル共和制ではなく君主制をこそ選択したかということが思考されていない」からだ。「「反動化した」ヘーゲルの方が、「個人主体的自由」について深く思考していると言うべきなのである」。同様に、なぜ江藤が戦後日本を君主国と見なしたか、にこそ江藤の思考の核心があるのではないか。保守化した江藤の方が、「「個人主体的自由」について深く思考していると言うべき」ではないかというのが、拙稿の主張である。

だからこそ、敗戦直後の丸山は、当初は他のオールド・リベラリストとともに、明治憲法の運用で戦後もやっていけると考えたのであり、しかし占領軍から戦後憲法が示されたことに驚愕して、なし崩し的に「八・一五革命」を主張するにいたったのである。

 江藤が、「占領軍から」示された「戦後憲法」の欺瞞性を暴くことを通して、「なし崩し的」な「八・一五革命」を批判し続けたことは繰り返すまでもない。

 「君主」に対する思考、同時にそれと裏腹にある「個人主体的自由」に対する思考においては、丸山はもちろん、吉本隆明らと比較しても、江藤ははるかにラジカルだった。その思考は、ジャコバンテロリズムを思考したヘーゲルに匹敵すると言ってもよいのではないだろうか。それとも、それは過大評価だろうか。

中島一夫

2018-09-14

ドライブイン蒲生(たむらまさき)

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 人生はドライブインのようだ。

 ドライブインのメシは不味い。うまかったら、長居してしまうから。ドライブインは、どこからかやって来た人を、またどこかへと向かわせる、そんな場所でなければならない。それは、来し方と行く末を中継する「橋」だ。

 冒頭、窓枠が映し出され、窓ガラスにハエが這っていく。そのように、稀代のカメラマンたむらまさきが、最後に監督として、「ここしかない」とばかりに据えるカメラのフレームに、役者たちが入り込んできてはやがて外れていく。それは、映画そのものであり、人生そのものだ。人は、順番に生というフレームに入ってきては、他人と何かを演じ、やがて順番が来たら退場する。

 磯田勉も触れていたが(『映画芸術2014年春)、たむらは、小津安二郎厚田雄春増村保造小林節雄、三隈研次と牧浦地志といった名コンビと呼ばれる監督を持たないカメラマンだった。かといって孤立しているわけでもない。こう言ってよければ、映画も人生も、「最強のふたり」になるのもいいけれど、フレームの中で出会った誰かと何かを始められればそれでいい。そんなふうに割り切っていたのではなかろうか。今作も、監督だからと言って力こぶの入ったところがまったく見られない。

 「ドライブイン=フレーム」においては、何かが受け継がれているのかもしれない。何の意味があるのか、よくは分からないまま。退場したら、作中染谷将太が呟くように「仏」になるのだろうか。窓枠の中のガラスを這うハエたちは何も分からないまま這っていく。「蒲生家」の人々が「バカ」なのではない(彼らを「バカ」と言う、周囲の人間たちのバカっぷりを見よ)。人生の意味など何も分からずに、「ドライブイン」を訪れては去っていくわれわれの人生が、「バカ」であり「ハエ」なのだ。

 だから、せめて優しくあろうと思う。どうしても人を殴らなければならない時は、せめて右手ではなく左手だ。傷を負った者には、傷口に煙草の葉を擦り込んでやれ。果たして、それが本当に優しさなのか、そんなこともよく分からないし、傷は余計に痛みを増してくるばかりなのだから矛盾に満ちているように思うが、とにかく父(永瀬正敏)はそんなふうにしていたと、娘(黒川芽衣)と息子(染谷)は思う。

 そこではアイスピックも、本来の目的としても凶器としても用いられず、広げた指と指の間を素早く突き立てるナイフトリックや、入れ墨を肌に塗り込む道具として受け継がれるだろう。「蒲生」のドライブインに何がしか固有性があるとしたら、そんな「バカ」な受け継ぎに宿っているだろう。遺骨に染まった入れ墨のように。

 九条シネヌーヴォで、今年亡くなったたむらまさきの追悼上映。生前に見て、亡くなってから見る。これ以上にふさわしい「ドライブイン」の鑑賞はない気がした。

中島一夫

2018-09-09

判決、ふたつの希望(ジアド・ドゥエイリ)

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 レバノン映画として初めてアカデミー賞にノミネートされた作品。

 違法建築の補修作業にやって来た現場監督とその家の住人とのささいな行き違いが、しかし二人がパレスチナ人レバノン人であり、さらに難民と彼らを差別し排除しようとするキリスト教右派政党の熱烈な支持者だったことから、またたくまに民族的、政治的な対立へと拡大、炎上していく。出口がないように見えた両者の法廷闘争に、「希望」をもたらしたのはいったい何だったのか――。

 もちろん、本作の背景には、1970年以降のレバノン内戦、イスラエルレバノン侵攻、サブラ・シャティーラの大虐殺、そして何より主人公に直接関わるダムール事件といった、とても安易に語ることのできない重い歴史が横たわっている。だが、誤解を恐れずに言えば、そうした歴史にこだわっているかぎり、お互いにレイシズムから脱却できないと本作は主張しているのではないか。

 何も、「歴史を忘れないと前には進めない」といったような、単純で「前向き」な「希望」の押し売りではない。本作が提示するのは、レイシズムは何かを覆い隠している、さらに言えば、何かを覆い隠すためにレイシズムは発動されるのではないか、という洞察である。

 ウォーラーステインは、レイシズムを、世界システムの統治の手段と捉えた。「本来」、レイシズムの機能は、人々を外へと排除するのではなく、「劣等人種」としてシステムにつなぎとめておくことだ。だが、ナチによる「最終解決」があまりに行き過ぎたために、かえってレイシズムが無意味化されてしまったのだ、と。

社会科学者たちは、ナチという現象ドイツの歴史的状況のなんらかの特殊性の観点から分析しようとしてきたわけだが、実は、世界システム全体が、ずっと危険な火遊びをしてきたのだということを見ようとはしなかった。それがなんらかの形でどこかに引火して爆発するのは、単に時間の問題だったのである。……そして彼らは単純にも、別の憎悪と恐怖の対象を持ち出して代用してきた。最近になって、いわゆる「文明の衝突」という論争が戦わされているが、その概念自体がこのような社会科学者の発明品なのではないだろうか。(『脱商品化の時代』)

 では、レイシズムが覆い隠しているものは何か。それは、「労働者」という「階級」である。

これは象徴的なことなのだが、今日の批評的、政治的言説からは「労働者」という語が消えた。その語は「移民移民労働者」――フランスにおけるアルジェリア人、ドイツにおけるトルコ人アメリカにおけるメキシコ人――に置き代えられた、そして/あるいは、それによって抹消されたのである。こうして労働者搾取という階級問題は、「〈他者性〉に対する不寛容」、云々という多文化主義的問題に変容する。そして、移民の民族的権利の擁護に過剰に入れ込む多文化主義リベラル派は、「抑圧された」階級の次元からみずからの活力を引き出すのである。……それゆえに、民族をめぐる不寛容に対抗するためには、〈他者〉の〈他者性〉を尊重し、それとともに生きられるようになるべきである。様々なライフスタイルに対して寛容でいられるようになるべきである、云々――を断固しりぞけなければならない。民族嫌悪と効果的に戦う方法は、それと正反対にある民族的寛容ではない。われわれに必要なのは、それとは逆に、さらなる大きな嫌悪である。ただしこれは、政治的と呼ぶにふさわしい嫌悪、共通の政治的な敵に向けられた嫌悪である。(ジジェク『絶望する勇気』)

 ひと昔前に流行った「他者」や「他者性」というタームは、いまや完全に批評性、思想性を喪失した。それらは「絶望する勇気」とともに捨て去られなければならない。むしろ「他者」は、他者世界システムの「周辺」につなぎとめておくことで、レイシズム喚起させる「装置」と化している。それは、「共通の政治的な敵」から人々の目を逸らさせ、労働者を分断させ互いに敵対させる。そうした事態にリベラルは「寛容たれ」と言うが、それは結局システムを維持することにしか貢献しない。

 映画に戻ろう。パレスチナ難民現場監督と、レバノン自動車修理工は、法廷の「外」で一発ずつパンチを互いに見舞い、やがて排水管の設置と車のバッテリー不具合の解決とを「贈与=交換」する。それは、職人労働者としての技能を、商売ではなく、お互いに困っているが対応できないこと=欠陥を補い合おうとする行為としてなされる。

 そのとき、燃えさかる民族対立の法廷では見えなくなっていた、労働者という階級が突如として露呈する。これだけが、両者の対立を乗りこえる「希望」なのだ。この後、リストラされてしまった現場監督に、きっと自動車修理工は何らかの形で手を差し伸べていくだろう。そんな光景が、自然に目に浮かんでくる見事なラストだ。

中島一夫