Hatena::ブログ(Diary)

KAZUO Nakajima 間奏

2017-02-17

ボヤージュ・オブ・タイム(テレンス・マリック)

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 3/10公開の本作にコメント寄せました。

 さまざまな意味で驚嘆、絶句する作品。

 以下のコメント欄です。よろしくお願いします。

  http://gaga.ne.jp/voyage/

 

2017-02-14

淵に立つ(深田晃司)

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 見逃していた昨年の作品だが、噂に違わぬ怪作である。

 「淵に立つ」とは、「人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇をのぞき込む」ような行為だと言う、監督の「師」である平田オリザの言葉からだという。だが、『歓待』(2010年)、『ほとりの朔子』(2013年)、『さようなら』(2015年)といった過去作を見てくると、この監督の視線は、崖の底=垂直性というよりは、「淵」や「ほとり」という「場」、言いかえれば、人と人との「間」=水平性に注がれているように思える。

 例えば、前作『さようなら』ではアンドロイド演劇が取り上げられていたが、そこでは人間とアンドロイドとの間に、あたかも「心」が通い合っているようにも見えた。それは人間と人間の間と何が違うのか。当たり前だが、心は見えない。われわれは相手が人間である場合、両者の間には心の通じ合いがあると思いこんでいるだけなのかもしれない。実は、人と人との間とは常にすでに「淵」であり、すると人間関係とは「淵に立つ」ことなのではないか。

 しかも人は、主体的能動的に「淵に立つ」こともできない。われわれは、人間関係に対していつも受動的でしかない。いつのまにか、それに巻き込まれ、しかも一度関わると、そう簡単に都合よく解消してもくれない。『歓待』の不法移民のように、それは突然押し寄せてきては、必ず残響を残してゆく。われわれは、構造的に先行するものの存在に気づかずに、個的な経験としてはいつも突然、淵に立た「される」のである。

 金属加工工場を営む「鈴岡利雄」(古館寛治)と「章江」(筒井真理子)夫婦は、突然現れた「八坂草太郎」(浅野忠信)を拒絶できず、ずるずると工場に住み込みで働くことを受け入れざるを得ない。八坂と利雄は、拭いがたい、ある過去を共有しているからだ。

 その後、この夫婦と娘「蛍」に起こる出来事は、八坂に対するこうした受動性によって引き起こされていく。この家族を一変させてしまった、あの出来事も含めて。

 章江が、自らのキリスト教信仰を、主体的な「サル型」ではなく、受動的な「ネコ型」だと八坂に指摘されるシーンがある。まさに、首根っこをくわえられ運ばれていくネコのように、一家は、主体として振る舞う八坂との関わりに、受動的に翻弄されていくほかない(八坂は、人との約束を「死んでも守ろうとする」人間(おそらく元ヤクザだろう)で、それを「正しさ」として他人にも求めてきたという。今は、それを「独善的」な「罪」として自覚はしているようだ)。

 ある決定的な事件が起こった後、八坂は家族の元から消える。それで一家と彼との縁は切れたように見えた。だが、そうはいかない。八坂の息子「孝司」(大賀)が、不意打ちのように、父親同様この家族に接近してくるのだ。八坂とこの家族との関係は、まるでそれが宿命や業であるかのように切っても切れない(母が子に食われることを代々繰り返すという蜘蛛のエピソード)。しかも孝司は、父・八坂と会ったこともないというのだから、彼にとっても、(彼が寝たきりの母にしたことも含めて)すべてが受動的なのだ。

 孝司の父に対する記憶は、いつか河原で撮られた、家族と八坂が横に並んで寝そべっている写真による。その写真を手掛かりに、彼は家族の元へとやってきたのだ。ラスト、ある出来事が起き、今度は孝司が、父の代わりにこの家族と河原に並んで寝そべることになる。まるで、あの写真の構図が「ネガ」であったかのように。

 言うまでもなく、被写体は写真=記憶に対して受動的でしかない。何とか主体的たろうと、人は必死にポーズをとろうとするが無駄である。こうして写真は、そこに写っていない者すら、記憶=過去の受動性へと巻きこんでいくのだ。

 人が人から生まれ、すでに出来上がっている関係の中へと生まれ落ちてくる以上、誰もがこの根源的な受動性を免れない。鈴岡夫妻は、消えた八坂の足取りさえ掴めれば、この家を襲った出来事の全貌が明らかになると考えて生きてきた。だが、やがてそうではないことに気づく(ついに八坂らしき男を見つけた利雄は、だが「道を間違えました」と引き返してしまう)。なぜなら、結局この家族は、すでに記憶=過去を受け入れたうえで、その取り返しのつかない事態を、主体的に引き受けて生きていかねばならないからだ。娘「蛍」の現在の状態が、そのすべてを語っているだろう。

 全編救いのないように見える本作に、かすかな希望の光が射すとしたらこの瞬間だ。エンドロールの暗闇の中、利雄が必死に息を吐く音だけが聞こえる。その音は、冒頭のメトロノームの音と呼応しているだろう。

 本作の英題「Harmonium」とは、「調和」とも「オルガン」ともとれる。そういえば、冒頭では、メトロノームの機械音に合わせて、調和するようにオルガンが奏でられていた。これは、機械的アンドロイド的?ともいえる、結局何者か分からない八坂に対して、受動的に突き動かされていった、一家のその後の道行きを暗示しているともとれよう。だが、ラストで利雄は、それまでの受動性と言い訳ばかりの人生をかなぐり捨てるように、今初めて、自分の主体的な意志で、必死に呼吸をしているのだ。この、機械音でない、極めて不「調和」な、人間の息の音によって。

中島一夫

2017-02-12

タイム・スリップの断崖で(すが秀実)

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 本書の書評が、「週刊読書人」2月10日号に掲載されています(以下のwebでも読むことができます)。

http://dokushojin.com/article.html?i=843

 本書は、ざっと挙げても、イラク反戦運動(2004年)、反日デモ暴動(2005年)、フランス暴動(2005年)、年越し派遣村(2008〜9年)、反原発運動(2011年)、Occupy Wall Street(2011年)、ヘイトスピーチ2014年)、SEALDs2015年)など、2000年以降の運動論としても読まれ得るものだが、私の能力には余るので、書評では触れられなかった。それについては、『子午線』誌上で最近の運動の言説を読み解く批評を展開している、長濱一眞による、圧倒的に詳細かつ精緻な本書脚注の参照を求めたい。

 また、とても90年代の新宿とは思えない、もっとずっと昔の光景ではないかと見まがうような、迫川尚子による本書表紙の写真(写真集『日計り』参照)は、本書が「表層」においては見失われている記憶への問い=タイムスリップであることを換喩的に示していよう。

 これまた書評では書けなかったが、本書を読みながら最も想起したのは、ベンヤミン「歴史の概念について」(1940年)であった。知られるように、ベンヤミンは、クレーの絵画「新しい天使」を「歴史の天使」と呼んだ。

彼はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局カタストロフィー)を見る。

 天使は、強い嵐のために、「もはや翼を閉じることができない」。「嵐」とは、「われわれが進歩と呼んでいるもの」だ。

 本書のみならず著者の批評全体に言えることだが、そこにある視線は、この「歴史の天使」のそれではないだろうか。「彼」はその顔を「68年」という「過去」に向けており、「われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局カタストロフィー)」を、すなわち「断崖」を見ているのだ。本書の『タイム・スリップの断崖で』というタイトルから、進歩の嵐に抗って68年の「断崖」にたたずむ著者の姿を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。

 本書の「断崖」は、著者の過去作である『1968年』(2006年)の末尾に表れていた「千尋の谷」と別のものではないだろう。すでに断崖(千尋の谷)=破局は68年に現れていたにもかかわらず、われわれは、あたかもその後も「均質で空虚な未来」(ベンヤミン)が続くという進歩史観に流されて、「決断」を引き延ばしては今日まで延命をはかってきたのだ。アメリカ新大統領による現在の「混乱」は、あくまでその一つの帰結にすぎない(ウォーラーステインのいう「アフターリベラリズム」や「ポストアメリカ」の問題だろう)。

 本当は、68年後の「歴史」とは、「断崖」への不断の「タイムスリップ」だということ。それは、歴史の連続性を打ち壊し、それとは異質の「いまこのとき」を見つめようとした歴史的唯物論者=歴史の天使、ベンヤミン視線そのものだろう。

 それを経験していない者が、68年に学ぶべきは、出来事や事象そのものよりも、まずもってこの「視線」ではないか。例えば、先日の記事で触れた68年の新木正人なども、ベンヤミンのように、「時間のうちの一秒一秒」を、「メシア」ならぬ「少女」が「そこを通ってやってくるかもしれない小さな門」として見ていたに違いない。「天使の誘惑」に立ち向かう「新しい天使=歴史」?

 そう見てくれば、本書が、出来事の連鎖が綴られたいわゆる「時評」という枠を、歴史の連続性もろとも、打ち壊そうとした一冊であることがわかるだろう。「決断の書」などと書いてしまったのはそのためだ。言うまでもなく、その「決断」も、書評で述べた「ディレンマ」の中にある。

中島一夫

2017-02-04

天使の誘惑(新木正人)

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天使の誘惑

天使の誘惑

 68年革命の渦中で書かれたこれらの言葉を、まともに論じる能力も資格もない(詳しくは、すが秀実による『遠くまで行くんだ』復刻版の「解説」など参照)。

 橋川文三『日本浪漫批判序説』を筆頭に、六〇年安保の後、桶谷秀昭磯田光一村上一郎など、保田与重郎や日本浪漫派を論じるのがブームだった一時期があったと言われる。以前はそれを、単なる「転向」としか思わなかったが、当時の保田の論理と昨今のISのそれとが類似している(まさに「非西洋」が「もの」(フェティッシュ)ということだろう)と感じて以来、妙にリアリティを帯びてきた。

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%CA%DD%C5%C4%CD%BF%BD%C5%CF%BA&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail      

 本書所収の新木による日本浪漫派にまつわるエッセイは、そのブームの中で、しかしそれらと決定的に距離を置こう、「遠くまで行」こうとする試みである。少し読んでみればすぐにわかるが、なるほど、先に挙げた日本浪漫派論とは文章からしてまったく異質なのだ。

 本書で新木は、何度となく「マルキシズム憎悪する献身的マルキストの快感」と言う。これは、いわば68年のテーゼだろう。既成左翼社会主義勢力の担保たるマルクス主義を「憎悪」しつつ退けながら、なお「献身的マルキスト」たり得るか。そしてこれは、68年の「成果」たる冷戦崩壊後の現在においても、なお一層われわれを規定している「前提条件」である。

 だから、当時の日本浪漫派=保田ブームは、「そこには、マルクス主義(反スターリン的なものも含む)の思考に欠落していたものを埋めるというモティーフがあり、主観的にはマルクス主義放棄ではなかった」(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』)という。すなわち、マルクス主義前衛党が見出すプロレタリアートではなく、それが見逃してきた「生活者」、「大衆」、「民族」、「アジア」、……一言で言えば「故郷」へと向かったのだ。むろん、実体としてではなく「喪失」された「故郷」として。ロマン的イロニーである。

 新木が重要なのは、半ばそこに不可避的に吸引されながらも、最後のところで何とかそれらを断ち切ろう、踏みとどまろうとしていることだ。その耐え方が、いわゆる「少女論」なのである。

 「更級日記の少女」といい、「黛ジュン」といい、「赤い靴」の少女、「上海帰りのリル」、「雪村いづみ」、果ては「中森明菜」、「きゃりーぱみゅぱみゅ」まで、次々と連鎖される(非行)少女たちが、いったい何を意味し、どうして彼女らが選ばれたのかは、ついに分からない。

 おそらく、彼女らは、それが「美空ひばり」ではなく、「藤圭子」ではなく、「山口百恵」「ではない」ことにおいて重要なのだ(「明菜が明菜であり、百恵ではない理由はここにある」)。そして、その「ではない」ことを、新木は「軋み」(本書のキーターム)と呼んだのだろう。

 輪島裕介が言うように、美空ひばり藤圭子は、ニューレフト(竹中労五木寛之)によって「演歌」のスターとして祭り上げられた(『創られた「日本の心」神話』)。既成左翼が「低俗」、「頽廃」として下位に置いてきたレコード歌謡を、それらに対抗する必要上、「土着的」、「民族的」、「民衆的」として肯定的に読み替えていったわけだ(典型的な吉本隆明「転向論」のロジックだ)。これが先の、日本浪漫派=保田ブームと同じロジックに基づくことは言うまでもない。まさに、「喪失」されている「もの」として創造された「日本の心」である。

 新木は、「国民的」な美空ひばり藤圭子山口百恵との差異=軋みにおいて、先の「少女」たちに寄り添ったのではなかったか。『山口百恵菩薩である』を書いた平岡正明同様、新木にしても、例えば「百恵は私にとって神である。かつて山口百恵という歌手がいた、ということだけを支えに私は生きることができる」と言う。そのとき新木は、「百恵はなによりもアジアの子であり、アジアの最良の魂を具現していた」と、日本浪漫派=保田ブームの論理にからめとられそうになっていただろう。

 だが、ぎりぎりのところで、「百恵の影」である「明菜」を選択するのである。百恵の自意識は「アジア的に円環して」おり「その強さと鋭さが、自分と他者を傷つけることはな」いが、「明菜は違う」からだ。

アジア的円環とは無縁の、自分を傷つけ、他人を傷つけ、もがき苦しみ、のたうちまわったあげくに時間とともに衰えていく、そんな悲しい自意識だ。(「中森明菜」)

 美空ひばり藤圭子山口百恵の「アジア的円環」に吸引され、からめとられた帰結が、「天使の誘惑」に「身を任せきった」天皇制なのだと、今は論証抜きで断言しておく(最近の宇多田ヒカルの、母・藤圭子への「回帰」もこの文脈で見るべきだろう)。とりわけ3・11以降、またしても「故郷=天皇制」への「誘惑」が激しくなるなかで、横になれないほどのひどい不整脈、ユンケルをがぶ飲みしないと立っていられなかった新木が、「少女」をもって必死に耐えようとする姿は、何とも言えず胸を打つとともに、極めてアクチュアルではなかろうか。

 もちろん、この程度の読みでは、唖然とするほどひたすら遠くまで行こうとしていた新木には、まだまだ届かないだろう。

中島一夫

2017-01-14

ホドロフスキーの虹泥棒(アレハンドロ・ホドロフスキー)

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 日本では初公開、1990年ホドロフスキー長編6作目だ。「幻の未公開作」と言われてきたが、噂に違わぬ傑作だった(カルトホドロフスキー好きには、やや物足りないかもしれないが)。

 『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥール、『ドクトル・ジバコ』のオマー・シャリーフ、『ロード・オブ・ザ・リング』のクリストファー・リーの共演は、それだけで心踊る。そしていざ作品が始まれば、そこはまるでサーカスのような、めくるめくホドロフスキーワールドだ。世界の本質と理想をいっぺんに描かんとする、良質な大人のファンタジーに酔わずにいられようか。

 冒頭、テムズ川だろうか、水に浮かぶ一匹の魚を、街のコソ泥「ディマ」(オマーシャリーフ)がすくいあげる。空腹のディマは早速食べようとするが、物欲しそうな一匹のネズミが目に入ってしまう。「俺の方が腹ペコだよ」。いったんはネズミを追い払おうとするが、「しょうがないなあ。少しだけだぞ」。結局は尾の部分をナイフで切り取って、ネズミに分け与えるのだ。

 風変わりな大富豪「ルドルフ公爵」(クリストファー・リー)は、彼の遺産にしか興味のない親族にうんざりしている。彼らとの晩餐会に嫌気がさし、「本物の人間を!」と娼婦たち「レインボウ・ガールズ」を呼び寄せて乱痴気騒ぎを繰り広げるのだが、その最中に心臓発作を起こし、その後何年も昏睡状態に陥ってしまう。

 一方、ルドルフの甥「メレアーグラ」(ピーター・オトゥール)は、彼が相続すると見込まれている公爵の莫大な遺産を、自分たちこそ得ようと画策する親族たちの会話を耳にしてしまい、失望のうちに愛犬クロノスとともに姿をくらませる。後に一族の写真を眺めるシーンからもわかるように、彼は遺産には目もくれず、ただルドルフたちとの絆を愛していただけなのだ。

 街をさ迷うメレアーグラに声をかけたのがディマだった。ディマは住処である地下に彼を誘いこむ。ディマにすれば、むろんいつかは手に入れるだろう遺産のおこぼれを期待してのことであり、コソ泥最大の盗みであったろう。親族から身を隠したいメレアーグラにとっても、これは渡りに船。こうして二人の奇妙な地下生活が始まる。

 ディマが地上から持ってきた食料を「盗んだものは食べない」と拒絶し、「金貨ではなく真実を探してこい」と訴えるメレアーグラは、自身認めるところの「時代遅れの信念」を抱き続けるコミュニストだろう。当初は、単なる泥棒だったディマは、このメレアーグラを盗むことで、その信念と精神をも盗む存在となる。それこそ引き継ぐべき真の「遺産」なのだ。

 この「地下」は至る所に通じている。メレアーグラとともに地下生活を送るなかで目覚めていくディマの「地下」は、ワイダ『地下水道』(1956年)から、クストリッツァアンダーグラウンド』(1995年)へと続く「地下」の道のようだ。

 地下生活において、さかんにメレアーグラは、ディマに「水位を測ることを覚えろ」と言う。この水位は、したがって革命の水位だろう。地下=アンダークラスに抑圧され、日ごろは「サーカス」でガス抜きされている者たちが、「水位」の上昇によっていよいよ息苦しくなってきたその時、「それ」はやってくる。メレアーグラは、その「時」(愛犬「クロノス」=時の神)の水位の上昇に備えて、鎖でベッドを宙づりにして待機しているのだ。

 公爵の死去が報じられ、その遺産が「レインボウ・ガールズ」に渡ると知るやいなや、ディマはメレアーグラに食ってかかる。遺産が約束されていたからこそ、彼の面倒を見てきたのだ。対するコミュニストたるメレアーグラは言う。「お前に約束したのは遺産ではない。永遠のパラダイスだよ!」。共産圏崩壊期に撮られた本作が、何を人類の「遺産」と考えていたかが、この一言に明瞭に表れていよう。

 クライマックス。70年ぶりの大洪水が街を襲う。街中の人々はもちろん、地下のネズミまでも我先にと逃げ出している。ディマもまた、メレアーグラを一人地下に残し、人ごみをかき分けては外国へ渡ろうと必死だ。

 この先はやめておこう。クライマックスからエンディングにかけては見事というほかはない。「今度こそ俺の勝利だ!」というメレアーグラの笑みとともに放たれる雄たけびと、盗まれた「虹」の得も言われぬ美しさは、劇場で目撃しなければならないと断言できる。

中島一夫