Hatena::ブログ(Diary)

KAZUO Nakajima 間奏

2016-04-27

「総力戦」の時代における文学・批評・政治

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 5月21日(土)、紀伊國屋書店新宿本店にて行われるイベントに参加します。

https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20160426100059.html


以下、パネリストの最近の言葉から。

トークの内容と直接には関係ないものの、これらは互いに交錯している。おそらく当日は、これらの延長線上で、言葉が交わされるはずである。

第二次世界大戦およびそれ以降の総力戦というシステムは、現在かたちを替えてふたたび私たちの生の総体を捕捉しつつある。それは国民国家の代表=表象制度を揺るがさずにはおかない。国民の「一般意志」つまり主権を代表=表象する立法府およびそれを規定する憲法に抵触するのは明らかだからである。つまり総力戦は私たちがこれまで「文学」と呼んできたものの根拠をあからさまに無と化すのだ。(…)それを拡散しているのはテロリストではなく国家である。原発を稼働させつつ戦争状態を生成させるなど正気の沙汰とは思えないが、しかし私たちはそれを現に生きているのだ。(石川義正『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』2016年

むしろ、われわれの周辺で言えば、詩人稲川方人が「彼方へのサボタージュ」と言ってきたことを想起すべきである。「生きさせろ!」と主張する人的資本と、もちろん生きさせようとするところの新自由主義との相補性の「彼方」で賭けられる「サボタージュ」にほかならない。それが同時に、われわれを動員してやまない「技術」の「急き立て」に対するサボタージュを意味することも、言うまでもないだろう。

サボタージュとは総動員に対するサボタージュであり、スキルアップなどやっていられないという意識である。(…)「彼方へのサボタージュ」とは、「詩の理念とは散文である」(ベンヤミン)ことなのである。もちろん、現在のわれわれは、その具体的なイメージを、ほとんど手にしていないにしても、である。(すが秀実天皇制の隠語』2014年

世界は単に変化しているのではなく、それを構成している国家とそこに生きている人間の関係を根幹的に変えるように変化している。性急な言い方をすれば、人間の同意なしの「世界」が一方的な権力によって構築されようとしている。「世界」がそうであっても、詩は「人間の同意」なしには書き得ない。

(…)私は、ただ「破壊すべきものは破壊しよう」とだけ言った。しかし、何をどんなふうに壊しても「悲しみ」と「怒り」だけは残る。それが生きている者の姿の本質だと言いたかった。生の形態において消えることのない「悲しみ」と「怒り」に、私は残された自分の「詩」の時間を賭けてみる。(…)そこに書かれる言葉が「詩」にもならず「文学」にもならなくても私はなんらかまわない。(稲川方人『詩と、人間の同意』2013年)

逍遥から、硯友社自然主義という順で、狭い純粋化を実現してきた我国の小説は、結局天皇絶対の観念と、強大な軍備に支えられた「帝国」にふさわしいものであった」。中村は、文学が、小説が、「帝国」に抑圧されてきたと言っているのではない。むしろ、文学こそが「近代化を実現してきた」のであり、その意味で「帝国」に「ふさわしいもの」だったと言っているのだ。中村は、「現代ほど、政治が人々の嫌悪の的になった時代もない」という。重要なのは、そうさせてきたのは文学だということなのだ。(中島一夫「復讐の文学―プロレタリア文学者、中村光夫」「子午線 vol4」)

2016-04-21

伯爵夫人(蓮實重彦)

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 遅ればせながら、この話題作を読んだ(『新潮』4月号)。

 冒頭近くに「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか」とあるように、さまざまな映画や小説あるいは作家を想起させるような記号がちりばめられている。だが、一つ一つそれらを解読していくことをこちらに促してくるような作品でもないし、その余裕もなくなるだろう。読み進めていくうちに、ある一つの問いが、頭から離れなくなるからである。

 それにしても、なぜこれほどまでに「エロ」なのか、と。

 今、それに対する明確な答えを持ちあわせているわけではない。だが、例えば、作者と江藤淳との次のようなやり取りは、それを示唆しているのではないか。

蓮實 これは、そう思いになりませんかね。ぼくは、中村光夫先生とか大岡(昇平)さんなんかにお会いしていると、非常に女性的な感じするんです。(中略)ある繊細さがあって、おそらく最近の女性なんか持っていないかもしれないような肌ざわりを、表情とか振舞とかいうものをこえて風のように送ってこられるんですね。

江藤 それはどういうことかな。それはある意味で羨むべきことかもしれないし、ある意味では大変な問題かもしれないし、よくわからないですね。小林さんにはなかったですね。

蓮實 ないですね。吉本隆明氏もない。

江藤 吉本さんにも全然ないですね。

蓮實 やっぱり昭和十年代というところにいきつくのかなア。(中略)でも、ぼくはね、大岡さんや中村光夫さんの女性性というのが、なんか懐かしくてしようがないんですね。(中略)これはこまやかさというのかな、きめが違うんですね。このきめが、たえず記号を読んでいくときに、いや、読むまい、これは撫ぜておくほうがずっと大きな喜びを与えてくれるに違いないと。その喜びを絶えず与えてくれる。(『オールド・ファッション 普通の会話』1985年

 「伯爵夫人」は、まさに「記号を読んでいくときに、いや、読むまい、これは撫ぜておくほうがずっと大きな喜びを与えてくれるに違いない」作品だと思われるが、今述べたいのは別のことだ。

 あまり注目されてこなかったが、蓮實重彦は、小林秀雄吉本隆明のラインで形成された文芸批評のパラダイムに対する、最も激烈な批判者だった。これについては、蓮實重彦論として別のところで書いたのでそちらに譲るが(近日刊行予定)、一言で言えば、蓮實の「凡庸」という概念は、まずもって小林―吉本的な「悲劇」に対する批判だったということだ。

 「悲劇」は、ある特権的な固有名=天才の卓越化によって、あたりに適度な起伏をもたらすことで「凡庸」を忘却させる。本作の「平民主義者の伯爵夫人」は、「いくら帝大出とはいえ、どこの馬の骨もつかぬあんなぼんくらによもぎさんを嫁がせるなんざあ、子爵だった爺さんの家系を孫の代で完膚無きまでに平民化させてしまうというコンミュニズムめいた魂胆があってのこととしか考えられん」と評されており、したがって「コンミュニズムを信奉する伯爵夫人かよ」などと嘯かれる存在である。

それに、このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから、いまはひとまずひかえておられるのがよろしかろうといった婉曲な禁止の気配のようなものを、とりたてて挑発的なところのない彼女の存在そのものが、あたりにしっとりと行きわたらせている。

 

 「とりたてて挑発的なところのない」凡庸な「伯爵夫人」は、だからこそ「このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりする」なと言って、「あたりにしっとりと」エロを「行きわたらせている」存在なのである。

 そして、このエロは、先に引用した江藤淳とのやり取りで、すでに露わになっていたものではなかったか。

蓮實 若手批評家たちが「中村光夫の近代批判」なんて書くわけですね。そんな言葉の問題じゃないんですね。(笑)

江藤 そうじゃない。それは違う。そうじゃないでしょう。中村さんていう人はそんな近代なんてものじゃないですよ。あの人は、小説が書きたくてしようがない人ですよ。

蓮實 変にエロですよねエー。存在そのものがエロっていう感じですね。

江藤 そうそう、エロです。あの人はエロそのものですよ。(中略)だからもう、デエーンとエロでやって欲しいと思う。いや、ひょっとしたらあるのかもしれない。じいっと隠してね、ドカーンとやるのかもしれない。そうであることを望むけれどもね。

 ならば、『伯爵夫人』は、二人が中村光夫に見出していたエロを、「ドカーンとや」ったという作品だということになる。だからこれは、小林―吉本パラダイムに対する、中村―蓮實による批判としても読まれるべき作品だろう。「完膚なきまで」のエロによる「平民化」。果たして、「わが帝国」の住民は、みだりに「悲劇」にしがみつくことなく、このエロの平民化に耐えられるだろうか。

 時あたかも、開戦前夜である。

中島一夫

2016-04-17

リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二)

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 さまざまなところに、「3・11以降」が刻印されている。

 主人公の「七海」(黒木華)は、宮澤賢治の故郷、岩手花巻出身(SNSのアカウントも、「クラムボン」に「カムパネルラ」)で、現在は東京の高校で派遣非常勤講師をしている。

 監督はインタビューに言う。「市民レベルで見れば、一回は「きずな」とか言ってみんなでまとまってみたりはしたものの、その後は権力のある人たちが適当にやっている姿や長いものに巻かれていく様を見て、多くの人たちが残念な気持ちになっている」。

 七海の友人?「真白」(Cocco)のセリフで言いかえれば、「この世界は本当は幸せだらけ」、「優しい人たちだらけ」、「私にはその幸せが耐えられない。だからお金を払う。お金ってそのためにあると思うの」。これは、震災以後の「絆」の鼓舞に対する違和感だろう。本作はまずもって、直接的で感情的な共同性に対して、何とか間接的で媒介的な関係性を肯定していこうとする物語だと言えよう。

 七海は二度「結婚」(かぎかっこの理由も映画で見てほしい)する。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。だが、一見そう見えるものの、最初の結婚が「嘘」に満ちた失敗で、二度目が「真実」に満たされた成功というわけではない。この作品には、嘘、詐欺、ヤラセ、偽装、虚業、…などが次から次へと出てくるが(ほとんどそれらによって作品が構成されていると言ってよい)、かといってもう一方に「真実」があるわけではない。いや、この世界には、「嘘/真実」という見やすい境界や二項対立などもはや存在しないというのが、三時間にわたって展開される本作の「世界」なのだ。

 貨幣やネットによって、あらゆる関係=コミュニケーションは媒介され、かつてあった真実の関係性が毀損されているなどと言っても始まらない。むしろ、安易にそう捉えてしまうことで、時に人は、極端に真実=本来性へと振れてしまうのではないか。あくまで本作は、「故郷喪失」を前提にしようとするのである(一度目の結婚に失敗した七海は、夫の母(原日出子)にタクシーで故郷・岩手に追い戻されそうになるが、東京に踏みとどまる)。

 一見、純粋で世間知らずであるゆえに、何事にも受動的な七海が、綾野剛演じる、人たらしで詐欺師の「安室行桝」(「アムロ行きまーす」)に翻弄されまくる物語に見える。だが、七海の純粋性に騙されてはならない。ラストの七海と安室の握手(パートナーとして大きな「仕事」を終えた後のような)や、タンスに無造作に置かれた報酬、あるいはエンドロールの「ねこかんむり」(狐の嫁入り?)は、明らかに七海の「演技」性を告げていよう。

 安室のクライアントで、末期がんに侵されていた真白は、最後に「一緒に死んでくれる」真実の友を求めていた。七海と真白の「結婚」は、そのための契約=儀式だ。真白は安室に、まさに莫大な金を払って(AV出演はそのためだろう)、七海という永遠=死の友を手に入れた。

 だが、その「依頼」に逆らって、七海は生き残ってしまう。これは、それまで七海をコントロールし続けてきた安室にとって、唯一の誤算だっただろう(このとき、初めて安室は「驚き」の表情を見せる)。

 だから、この後安室は、真白の母(りりぃ)との「宴」で、それまでの虚飾をかなぐり捨てるように素っ裸にならなければならなかったのだ。一方、七海は、安室に裸になるよう促されるものの、せいぜい肩をはだけさせる程度で、あくまで半身は演技性を保とうとするのである。

 転々と移り住んできた七海が、最後に(?)たどり着いたアパートの部屋は、何と風通しが良さそうなことか。この風通しの良さこそ、本作が求めてきたものであり、本来性=裸に回帰することのない関係性そのものを表しているのではないだろうか。

中島一夫

2016-03-31

断食芸人(足立正生)

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 パレスチナ革命に身を投じたこの監督の新作が、カフカの『断食芸人』を題材にしたものだと知って、やはり、と思った。私もまた、昨年の国会前のハンスト行動を見たとき、『断食芸人』を思い出していた。

 修行や健康のためではなく、芸=表現としての断食

 何も食べないだけではない。同時に、何も言わないという点が重要である。それはあらゆる意味で「等価交換コミュニケーション」を拒絶する行為なのだ。

 資本制においては、「食べる」ことは、単なる空腹を満たす行為を超えて、労働力再生産の意味を帯びる。「働かざる者、食うべからず」というイデオロギーが生じるゆえんである。ここでは「食べる」とは、労働力商品=aと、その再生産に必要な生活の資=bとの等価交換の成立を意味する。

 本来交換されるはずのない異質なaとbとが、等価であると見なされ交換される。この資本制の根本にある等価交換システムは、「食べる」という行為を媒介とする、労働力商品化によって成立する。

 

 労働力商品化は、元来「無理」(宇野弘藏)であるにもかかわらず、「働く=食べる」という等式によって「合理」と見なされていく。労働力商品化の「無理」は、食べる行為によって乗り越えられるわけだ。そして、いったん成立した等価交換システムは、まさに食物を内臓に飲み込むように、やがて社会全体に浸透していくだろう。

 言葉もそのシステムで駆動する。言葉が、交換=コミュニケーションの「ため」のものとなる。「コミュニケーションせざる者、言葉を使うべからず」というように。もし、誰も見ていない(交換されない)ならば、SNSでつぶやく者などいない。孤独な「つぶやき」もすでにコミュニケーションなのだ。むしろ、真の意味での「つぶやき」は無意味であり、あるいは怖がられ、気味悪がられて排除されるだろう。

 そして、本作の主人公の「断食」は、いわばこの真の意味におけるつぶやきである。監督はインタビューに言う。「3・11以後って「本当に言葉を発することができるか?」っていう悩みを、みんな持ってると思うんだけど、言葉を発しない、発することもできない「民の恨みのまなざし」をテーマにしたいというのがあったんだよ」。「この「恨めしさ」の中身を映画にしたいと思ったね」。

 小気味よくリズミカルな掛け合い=等価交換によって盛りあがるデモは、この「怨嗟」を軽やかに押し流し解毒する(ことによって拡大を目指す)。一方で、現在、怒りや復讐を表現しようとして、ドゥルーズが創造について言ったように、いったんコミュニケーションを切断する必要に直面する者が存在するのだ。

 映画では、30日を超えると、人は断食に関心を抱かなくなり、差し入れ(芸の対価=等価交換)もしなくなる。

 だが、むしろ真の断食はここからだ。その意味を、真に受けとることができたのは、最後まで「断食芸人」を見つめ続け、お互いの傷を舐め合う、あの若い男女だけだろう。今、傷を舐め合う以上の「恨めしさ」のやり取りが存在するだろうか。そのシーンが見られただけで十分だ。

中島一夫

2016-03-28

サウルの息子(ネメシュ・ラースロー)

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 ピンボケの画面を男が近づいてくる。

 その男、サウルは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の「ゾンダーコマンド」だ。ガス室の遺体処理や床洗いのために、ユダヤ人で構成された特別部隊で、背中に×印の囚人服を着せられている。

 ゾンダーコマンドに指名された初仕事は、前任者の処理だったという。その交代劇は定期的に繰り返される。つまり、ここには、ユダヤ人自身がユダヤ人を絶滅させるという、悪夢のような循環システムがを作られようとしているわけである。

 ぼやけた画面の中をゾンダーコマンドの男が現れる冒頭は、事態が「ピンボケ」であやふやであることを許さないという宣言なのだろうか。そう考えると、なかなか戦慄的なオープニングである。

 ならば、殺された息子を埋葬してもらえるよう、囚人の中にラビ(祈祷師)を探し回るサウルにピントを合わせ、あるいはその身体に寄り添うほど異様に近づき、視界の狭まった(スクリーンサイズも正方形)カメラが、混乱する収容所においていったい何を見つめようとしているのかも、自ずと明らかになろう。

 サウルは、ゾンダーコマンドの同僚に、何度も「息子はいない」とその存在を否定され、「お前もレジスタンスに加われ」と迫られる。実は映画では、一度も息子の顔は映されない。「息子はいない」とは、「お前に息子はいないはずだ」とも、「われわれの記憶を継承するような「息子」は存在しない」ともとれる。

 それでも彼は、遺体を「息子」と言い張り、レジスタンス集団から外れて、ただひたすらユダヤの正統的な埋葬をラビに求め続けるだろう。その姿は、敬虔なハシディズムや、敬虔であり過ぎたために矛盾に満ちた孤立の道を歩んだ、ゲルショム・ショーレムのようなユダヤ神秘主義を想起させる。

 絶滅のシステムに送りこまれたユダヤ人――しかもその同胞は、戦後もイスラエルアメリカに移り住むことなくヨーロッパにとどまり続けるだろう、イディッシュ語を話すユダヤハンガリー人――が、存在しないかもしれない「息子」を、ラビの力であらしめようと奔走する姿は、レジスタンスによって事態を打開しようとするユダヤ人とは、全く異質な闘いを実践しようとしているといえよう。それはそのまま、同じくユダヤハンガリー人の監督が、歴史的トラウマを風化させまいと量産されてきた、ハリウッドやドイツのの「アウシュヴィッツ映画」と、全く異なる目で事態を捉えようとしていることに重なるだろう。

 ならば、ピントを合わせたことでかろうじて見出されるサウルが、周囲に抗して「いる」と言い続けた「息子」とは、この監督自身のことだと言うのは、安易に過ぎるだろうか。だが、ラストシーンを見ると、思わずそのようにつぶやきたくなる。

中島一夫