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KAZUO Nakajima 間奏

2017-01-14

ホドロフスキーの虹泥棒(アレハンドロ・ホドロフスキー)

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 日本では初公開、1990年ホドロフスキー長編6作目だ。「幻の未公開作」と言われてきたが、噂に違わぬ傑作だった(カルトホドロフスキー好きには、やや物足りないかもしれないが)。

 『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥール、『ドクトル・ジバコ』のオマー・シャリーフ、『ロード・オブ・ザ・リング』のクリストファー・リーの共演は、それだけで心踊る。そしていざ作品が始まれば、そこはまるでサーカスのような、めくるめくホドロフスキーワールドだ。世界の本質と理想をいっぺんに描かんとする、良質な大人のファンタジーに酔わずにいられようか。

 冒頭、テムズ川だろうか、水に浮かぶ一匹の魚を、街のコソ泥「ディマ」(オマーシャリーフ)がすくいあげる。空腹のディマは早速食べようとするが、物欲しそうな一匹のネズミが目に入ってしまう。「俺の方が腹ペコだよ」。いったんはネズミを追い払おうとするが、「しょうがないなあ。少しだけだぞ」。結局は尾の部分をナイフで切り取って、ネズミに分け与えるのだ。

 風変わりな大富豪「ルドルフ公爵」(クリストファー・リー)は、彼の遺産にしか興味のない親族にうんざりしている。彼らとの晩餐会に嫌気がさし、「本物の人間を!」と娼婦たち「レインボウ・ガールズ」を呼び寄せて乱痴気騒ぎを繰り広げるのだが、その最中に心臓発作を起こし、その後何年も昏睡状態に陥ってしまう。

 一方、ルドルフの甥「メレアーグラ」(ピーター・オトゥール)は、彼が相続すると見込まれている公爵の莫大な遺産を、自分たちこそ得ようと画策する親族たちの会話を耳にしてしまい、失望のうちに愛犬クロノスとともに姿をくらませる。後に一族の写真を眺めるシーンからもわかるように、彼は遺産には目もくれず、ただルドルフたちとの絆を愛していただけなのだ。

 街をさ迷うメレアーグラに声をかけたのがディマだった。ディマは住処である地下に彼を誘いこむ。ディマにすれば、むろんいつかは手に入れるだろう遺産のおこぼれを期待してのことであり、コソ泥最大の盗みであったろう。親族から身を隠したいメレアーグラにとっても、これは渡りに船。こうして二人の奇妙な地下生活が始まる。

 ディマが地上から持ってきた食料を「盗んだものは食べない」と拒絶し、「金貨ではなく真実を探してこい」と訴えるメレアーグラは、自身認めるところの「時代遅れの信念」を抱き続けるコミュニストだろう。当初は、単なる泥棒だったディマは、このメレアーグラを盗むことで、その信念と精神をも盗む存在となる。それこそ引き継ぐべき真の「遺産」なのだ。

 この「地下」は至る所に通じている。メレアーグラとともに地下生活を送るなかで目覚めていくディマの「地下」は、ワイダ『地下水道』(1956年)から、クストリッツァアンダーグラウンド』(1995年)へと続く「地下」の道のようだ。

 地下生活において、さかんにメレアーグラは、ディマに「水位を測ることを覚えろ」と言う。この水位は、したがって革命の水位だろう。地下=アンダークラスに抑圧され、日ごろは「サーカス」でガス抜きされている者たちが、「水位」の上昇によっていよいよ息苦しくなってきたその時、「それ」はやってくる。メレアーグラは、その「時」(愛犬「クロノス」=時の神)の水位の上昇に備えて、鎖でベッドを宙づりにして待機しているのだ。

 公爵の死去が報じられ、その遺産が「レインボウ・ガールズ」に渡ると知るやいなや、ディマはメレアーグラに食ってかかる。遺産が約束されていたからこそ、彼の面倒を見てきたのだ。対するコミュニストたるメレアーグラは言う。「お前に約束したのは遺産ではない。永遠のパラダイスだよ!」。共産圏崩壊期に撮られた本作が、何を人類の「遺産」と考えていたかが、この一言に明瞭に表れていよう。

 クライマックス。70年ぶりの大洪水が街を襲う。街中の人々はもちろん、地下のネズミまでも我先にと逃げ出している。ディマもまた、メレアーグラを一人地下に残し、人ごみをかき分けては外国へ渡ろうと必死だ。

 この先はやめておこう。クライマックスからエンディングにかけては見事というほかはない。「今度こそ俺の勝利だ!」というメレアーグラの笑みとともに放たれる雄たけびと、盗まれた「虹」の得も言われぬ美しさは、劇場で目撃しなければならないと断言できる。

中島一夫

2017-01-11

なし崩しの果てーープチブルインテリゲンチャ、平野謙

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1月15日刊行の『子午線』vol,5に、連載「帝国主義の尖兵ーー文学・転向・擬制」の2回目である上記が掲載されています。

批評家、平野謙をアクチュアルに読み直してみました。

よろしくお願いいたします。

http://shoshi-shigosen.co.jp/books/shigosen5/

2017-01-08

内野光子「タブーのない短歌の世界を」

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 触れそびれていたが、昨年の重要な論考の一つに、内野光子「タブーのない短歌の世界を 「歌会始」を通して考える」(『ユリイカ2016年8月)があった。

 歌人である内野は、自ら短歌空間の渦中にいながら、いかに短歌天皇制と密接に関わっているかを論じてきた。今回も、従来から指摘し続けている、岡井隆のなし崩しの転向について触れながら、これまた『短歌天皇制』(一九八八年)や『天皇短歌は何を語るのか』(二〇一三年)などでも論じてきた、歌会始についての、いわばなし崩し的な変化を見逃さない。

 歌会始選者の一人、今野寿美が、昨年から『赤旗』の歌壇選者になったというのだ。内野はこれについて、「今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか」と問い、さらに次のように主張する。

だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。

 『赤旗』が公然と歌会始選者を迎え、あからさまに天皇制にからめとられていくさまは、共産党が、従来拒否してきた国会開会式に参加し、安保法案の廃止に向け野党と足並みを揃えようとすり寄っていくことと並行していると言うのだ。すなわち、共産党は、世間の「アレルギー」を払拭するために、政治においても文学においても、天皇制への迎合を必要としたということである。的確な指摘だろう。

 内野の指摘は、一昨年の安保法案問題、さらにはその先にある来るべき憲法改正問題が、明確に天皇制と通底していることを突いている。左右を問わず、もはや大衆の支持を得るには天皇制しかないかのような状況だ。

 安保法案が通ったことについては「数」の問題(暴力)だと見なされがちだが、そうではないだろう。与党野党も基本的に天皇制を受容、肯定しているのだから、安保法案に対しても憲法改正に対しても、「反対勢力」を形成することなどそもそも可能なのだろうか。そして、そのことは、政党政治内部だけにとどまらず、「街頭」にあっても同様だろう。

 内野は言う。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表を経て、野党共闘アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、筍の皮をはいで行って、その先に残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウィングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗歌壇への起用であったのである。

 この問題については、内野以上の言葉を持たない。だが、「一枚一枚、筍の皮をはいで行って、その先に残るものは何なのだろう」という、この、なし崩しの果てまで来てしまったという感覚は共有している。

中島一夫

2016-12-23

スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2 倒錯的イデオロギー・ガイド(ソフィー・ファインズ) その2

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 二〇世紀の映画=イデオロギーの認知図を見渡すことでしか、ポスト・イデオロギーの現在とは何かを理解し得ない。そして、ポスト・イデオロギーとは、何よりもポスト共産主義にほかならず、このことを受容しないことには、「迫り来る革命」を思考し得ない。

 ラスト近く、スコセッシ『最後の誘惑』を引きながら、無神論者になるためには、キリスト教徒にならねばならないというパラドックスが提示されるのも、そのためだ。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と言って、神に見放され絶望に陥ったイエスこそ、あらゆるイデオロギーを脱ぎ捨てたポスト・イデオロギーの先駆的存在ではないか、とジジェクは問う。まさに、「イデオロギーの外に出て自由になるには、痛みを伴う」わけだ。

 その意味において、今作(あるいは現在のジジェク)を規定しているのは、ラストに引かれる、絶望の淵にあった『歴史の概念について』のベンヤミンであろう。進歩史観に規定されている社会民主主義は、コンフォーミズム(体制順応主義)にすぎないと喝破し、歴史の連続性を打ち壊しこじ開け、「いまこのとき」に満たされた時間として歴史を捉え直す、「歴史的唯物論者」の力を前面に打ちだそうとした、あのベンヤミンだ。

移行をあらわすのではなく、時間が停止し、静止状態になった現在の概念を、歴史的唯物論者は手放すことができない。なぜならば、この概念こそがまさに、歴史的唯物論者自身が歴史を書きつつあるその現在を定義するものだからだ。

 もちろんそのまなざしは、歴史に、出来事の連鎖ではなく、「ただ一つのカタストロフィーを見る」「新しい天使」のそれであり、「いまこのとき」にもメシアはやって来ると考えるユダヤ人のそれだ。

よく知られているように、ユダヤ人には未来を探ることが禁じられていた。律法(トーラー)と祈祷は、そのかわり、彼らに想起(アインゲデンケン)を教えている。想起は、予言者たちに教えを請う者たちがとらえられた未来の魔力から、彼らを解き放つ。しかし、それだからといって、ユダヤ人にとって未来は均質で空虚な時間とはならなかった。なぜならば、時間のうちの一秒一秒が、メシアがそこを通ってやってくるかもしれない小さな門だったからだ。

 ベンヤミンの言う「歴史的唯物論」とは、共産主義唯物史観を、予言者の「未来の魔力」のごとき進歩史観イデオロギーとして捨て去った、絶望の淵においてしか現れない。それには、激しい痛みが伴うだろう。人類の無意識として構造化されているのだから、待っていればそれはやって来るという未来など存在しない。

 自ら無神論者を名乗る者ほど、何らかの超越性を信じている。ポスト・イデオロギーというなら、徹底的に無神論者たれ。今作のジジェクは、その存在にいらだつように、自らの鼻=ファルスをさかんにいじりながらそうまくしたて、画面の向こうから挑発してくる。

中島一夫

2016-12-22

スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2 倒錯的イデオロギー・ガイド(ソフィー・ファインズ) その1

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 古くは、レニ・リーフェンシュタール『意志の勝利』、デヴィッド・リーン『逢びき』から、近くはジェームズ・キャメロンタイタニック』、クリストファー・ノーランダークナイト』まで。数多の映画作品を矢継ぎ早に引用し、シーンに潜むイデオロギーを浮かび上がらせては、主演?のジジェクが早口に語り倒していく。監督は、前作に続いてレイフ・ファインズの妹ソフィー・ファインズ。いかなる学校教育も受けていないという異色の経歴の持ち主だ。

 ジジェクの著書に親しんでいる者にとっては、今作での分析に何か目新しさがあるわけではない。そもそも、ポスト・イデオロギーと呼ばれる現在、なぜ今「イデオロギー・ガイド」なのだろうかという疑問も湧く。いや、「だからこそ」なのだというのが、今作の核心である。

一九八九年から九一年にかけての共産主義体制の解体という出来事は、イデオロギー終焉の合図だったと言われてきた。全体主義の崩壊という終わり方を余儀なくされた大きなイデオロギーの時代は終わり、われわれはプラグマティックで合理的な政治の新たな時代に入ったなどともされてきた。しかし、われわれがポスト・イデオロギーの時代に生きているというこの常識が何らかの意味をもっっているとすれば、それが露わになったのがこうした暴力の打ち続く暴発である。二〇一一年、イギリス暴動が続いている間、抗議者側からはいかなる個別の要求も提起されなかった。われわれが直面したのは、ゼロ・レヴェルの抗議である。それは何も要求しない暴力的な行為だった。(『2011 危うく夢見た一年』)

 最近のジジェクが凝視するのは、この暴力である。それは、「システムへの対抗が現実的な選択肢あるいは少なくとも一貫したユートピア的なプロジェクトという姿勢をとってみずからを明らかにすることができず、無意味な暴発という形式しか取れないという悲しい事実」を示している。

 今作では『意志の勝利』や『永遠のユダヤ人』などを引きながら、ナチス反ユダヤ主義が俎上に上る。たとえどんなにおぞましいものであっても、それは世界に意味=全体性を与えた、とばかりに。一方、資本主義とは、「世界の欠如」(バディウ)をもたらし、「意味から全体性を奪い取った初めての社会―経済的な秩序なのである」。だから、どんなにグローバル化しようとも、「それは意味のレヴェルでグローバルなわけではない」のだ。

 「資本主義的世界観」や「資本主義的文明」などというものは存在しない。「グローバリゼーションが与えた基本的な訓(おしえ)は、資本主義が、キリスト教的文明からヒンドゥー教的それに到るまで、また西欧文明から東洋のそれに到るまで、いわばすべての文明にみずからを適応させることができるということにほかならない」。

 今作を見て、最も切迫して感じられたのは、もはやジジェク共産主義を捨てつつあるということだ。かつてあれほどまでに肯定的に論じられてきたはずの、レーニンスターリン毛沢東も、ここではほとんど否定されている。

二〇世紀のコミュニズムは、ところどころ、うまく行った部分もありますが、世界的にみれば大失策です。しかし、コミュニズム解決しようとした問題は現在も、これまでにもまして残っています。そうした問題は回帰してきているのです。私が、コミュニズムは答えでないという言い方を好むのはそのためです。コミュニズム解決に付けられた名前ではなく、問題に、コモンズ全体をめぐる問題に付けられた名前です。(『ジジェク、革命を語る』)

 おそらくジジェクは、もはや前世紀の共産主義を捨て去ることでしか、革命はないと考えているのだ。

(続く)