グランド・ブダペスト・ホテル(ウェス・アンダーソン) その1

 業界的にはすっかり「形式主義者」ということになってしまったウェス・アンダーソンだが、今作を覆っている不穏さはただ事ではない。

 この作家とは思えないような血なまぐささと残虐さに満ちたショット、何より何かに急き立てられるような語りと画面のスピード感、全編を通じて死に向かって駆り立てられている感じだ。

 ウェス・アンダーソン自身、インタビューでこう述べている。

うーん、つまり残忍な仕打ちによって、血を流し、手足を切断するように国土を分断した。今まで僕は作品のなかでそういうことを描こうとは思わなかったけれど、この作品では自然に……。たぶん主人公のグスタヴや参考にしたツヴァイクは僕なんかよりもっと鬱病のようなものを抱えていて、大きな喪失感に襲われていたんだと思う。だから、このストーリーも彼らの喪失感にもとづいて書き進んだと言えるんだ(『ユリイカ』6月号)

 すでに多くの言及がある、画面サイズを描かれる時代ごとに変えることや、かつての名作からの引用や模倣なども、確かにそういった「形式」的な試みをすればするほど、現在との距離が生じて「喪失感」をより際立たせることに貢献している。

 では、その喪失感とはいかなるものか。やはりそれは、今作がインスパイアされたというツヴァイク昨日の世界』(1942年)によるところが大きいだろう。

 1881年ウィーンに生まれたツヴァイクは、ユダヤ人解放区となった世紀末ウィーンで、コスモポリタン世界市民)の精神をもった芸術家として才能を開花させる。だが、大戦間になると、それはまるでポーランドウォッカであるズブロッカの酔いがさめるようにさめていった(本作の舞台は、ヨーロッパの東端にある架空の国であり、その名も「ズブロフカ共和国」という)。

 コスモポリタンの精神なるものが、いかに脆弱な夢想であったかを思い知らされていくのだ。無国籍であることが世界市民的であると感じられたのは、もはや『昨日の世界』の出来事だった、と。

 1930年代に入ると、急速に移動の自由が失われ、無国籍であることは、単に「難民」をしか意味しなくなった。グランド・ブダペスト・ホテルのロビーボーイ「ゼロ」(「無」国籍!)のように、国境で取り締まりの対象となる不審者であるほかないのだ。それは、ドイツのヒトラー政権によるオーストリアの崩壊後、ツヴァイクを襲ったものでもあろう。

 「一九一四年以前には、大地はすべての人間のものであった。各人はその欲するところに赴き、欲するだけ長くとどまった。許可もなければ承認というようなこともなかった。」

 国境をまたぐのにパスポートも必要なかった、そのひとつながりだった大地が、一夜にして「手足を切断するように国土を分割」させていったのである。「ドミトリー」(エイドリアン・ブロディ)の手下であり用心棒の「ジョプリング」(ウィレム・デフォー)に、弁護士「コヴァクス」(ジェフ・ゴールドブラム)が四本の指を切断されるシーンは、単に残虐なのではない。

 その死亡証明書における四本の指紋の不在は、国境を超える際に「初めは拇指だけであったが、やがて十指全部となった」指紋押捺という大地の「切断」を象徴する出来事を、血をしたたらせながら示しているのだ。

(続く)