セールスマン(アスガー・ファルハディ)その1

 冒頭、ベッドやイス、テーブルなどの家具が映し出される。
 すると、いきなり外で「早く逃げろ、建物が崩れるぞ!」と叫び声がする。エマッド(シャハブ・ホセイニ)とラナ(タラネ・アリドゥスティ)夫婦も、何が起こったのか分からぬまま、とるものもとりあえず、アパートの外へと逃げる。階段では住民たちが右往左往している。

 いったい何が起こったのか。テロか何かか。訝しく見ていると、カメラがゆっくり建物の下を映し出し、どうやら日本製と思われる大型の重機が、地面を根こそぎ掘り崩しているではないか。やがて、冒頭の家具は、しかし、崩された夫婦のアパートの部屋のものではなく、現在二人が演じる劇団の舞台装置であったことが明らかになる。マリリンモンローの夫でもあったアメリカの劇作家、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』(1949年)。ある意味で、すべてはこの冒頭のシークエンスに語られている。

 60歳を超える老いたセールスマンが帰宅し、人生の虚しさを感じて自殺する――。今作は、その二日間を描いたアメリカの戯曲の世界が、イランの夫婦の現実にまで滲み込んでくる作品だといえよう。過去作で、近代化の進行するイラン社会が、まさに理由もわからないまま足元を掘り崩されていくさまを一貫して描いてきた、この監督の真骨頂と言ってよい。今回主演の二人も、『彼女が消えた浜辺』(2009年)でカップル(未満)の役を演じた二人ということもあって、見ようによってはその続編(があり得るとしたら)として見ることもできよう。

 物語は、冒頭の騒ぎで、壁や柱、窓ガラスにひびが入ってしまった部屋から、劇団員の紹介で夫婦が新たな部屋に引っ越すところから展開する。前の住人は、この部屋で夜な夜な怪しげな商売をしていた娼婦だったようだ。二人はそのことを知らされないまま移り住む。ある晩、そこへ彼女の「客」らしき男が押し入り、ラナは暴行されてしまうのだ。

 依然、男尊女卑の激しいイランでは、被害を受けた女性の方が社会的に責められる傾向にあるという。まさにこの出来事が、夫婦の間や周辺に文字通り「ひび」を入れていくことになる。冒頭の、重機による理由のない建物への蹂躙は、その予兆だったのだ。

 だが、やはり最大の予兆は、今二人が演じている『セールスマンの死』の舞台そのものだろう。『セールスマンの死』には、ウィリーと息子のビフ、そして娼婦の女をめぐって次のような場面がある。

女が舞台裏で笑う。

ビフ「誰かがバスルームにいる!」
ウィリー「いや、となりの部屋だよ、パーティーをやってるんでね――」
女「(笑いながら出てきて、彼女も舌足らずに言う)もう出てきてもエーエ? バスタブの中に何かいるの、ウィリー、動いているの!」

ウィリーはビフを見る。ビフはあっけにとられ、呆然と女を見つめている。

ウィリー「ああ、もう部屋にもどられたほうがよろしい。ペンキの塗りかえも終わったでしょう。このかたの部屋が塗りかえちゅうなもんで、シャワーを使わせてあげたんだよ。さあ、帰った、帰った……(彼女を押す)」
女「(さからって)でも、服を着なくちゃ、ウィリー、だって――」
ウィリー「出て行け!さあ、帰った……(急に平常さをよそおい)こちらはね、ミス・フランシスといって、お得意さんなんだ。部屋の塗りかえをやっているもんでね。さあ、ミス・フランシス、お帰りください……」
女「だって、服が……裸じゃ廊下を歩けないでしょ!」(倉橋健訳)

 劇中のこの「女」が、現実では前の住人の娼婦に当たることは言うまでもない。映画には、この場面の稽古(予兆?)シーンもある。しかも、娼婦役の女優の子供をラナが預かるシーンもあるのだから、舞台が呼び水となって、前の住人=娼婦からラナへと「何か」が譲り渡されていっていることは明らかだ。夫のエマッドが劇で演じているのは、セールスマンの主人公のウィリー・ローマンだが、現実では、どちらかというと、何が起こったのかわからずにいる「ビフ」(ウィリーの息子)の位置にいる。実際の職業も教師であり、セールスマンではない。

 では、なぜこの場面が予兆なのか。

(続く)