こうじ神父 今週の説教

2017/01/29 (日) 山上の説教を生活のあちこちで響かせる(No.867)

年間第4主日(マタイ5:1-12a)

年間第4主日、今週選ばれた福音朗読箇所は「山上の説教」です。今耳を傾けたイエスの招きが、自分の生活にどうすれば当てはまるのか考えてみましょう。あわせて、わたしが出会う人に、この招きを語って聞かせることができるか、考えてみましょう。

今週の福音朗読に合わせて、山上の説教の教会の写真を掲載してみました。ここはガリラヤ湖畔の、少し高い丘の上にあります。以前ここを訪問した時、「あー、『心の貧しい人は幸い』とそれに続く八つの幸いが八角形の屋根にラテン語で書かれている。なるほどー」と頷いて帰りました。しかし今回二度目の訪問をしてみると、八角形の屋根に八つの幸いがラテン語で書かれているのは十分理解した上でこの場に訪れていますから、もっと何か吸収して帰りたいと思いつつ訪問の時を過ごしました。

結果的に、その場では新しい学びはありませんでした。がっかりしました。しかし田平に戻ってみて、説教を準備するためにもう一度思い出してみたとき、新しい気付きがありました。それは、「自分は小高い丘の上でこのみ言葉を味わい、そして持ち帰ってきた」ということです。前回はその場の雰囲気に圧倒されて、その場に立てたことで満足して帰ってきました。ただその喜びや感動は、その場限りで、言ってみれば丘の上に置いてきたのでした。

ところが今回は、たしかに持ち帰って来たという実感があります。その場に立つことができない方々にも、山上の説教の教会でイエスが語りかけてくださった言葉は、あの丘の上だけで響いているのではない。この地上のあらゆる場所で響いてこそ、本当に意味ある幸いの言葉に生まれ変わる。そのためには持ち帰ったものをどう生かすかが大事だ。田平に帰ってもう一度考えてみて、そのような答えにたどり着きました。

以前気付かなかったことに改めて気付くことができるのは、たいてい一つの場所を二度三度訪ねてみて理解できるようになるのです。なかなか一度ですべてを理解できるものではありません。あえて違う場所から眺めてみたり、時間を置いて眺めてみたりしなければ、そこに込められた多くの思いを汲み尽くせるものではないと思うのです。

そういう意味でも、わたしは今回のイスラエル巡礼は大きな収穫があったと思っています。17年前、ほとんどすべての場所を「わぁ、すごい」と感嘆して帰って来たのですが、その体験をほとんど持ち帰ることができませんでした。今回は、体験をある程度まで説明できるのです。本当にありがたいことだと思います。

み言葉に戻ってみましょう。「心の貧しい人々は、幸いである」この招きから「義のために迫害される人々は、幸いである」に続く八つの幸いは、互いに関連があります。そのあとの11節「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである」は、わたしはそれまでの八つの幸いをまとめる一言だと考えています。それについては最後に触れたいと思います。

そこで最初の八つの「幸いである」という招きですが、最初の四つ「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」は、迫害の中でじっと耐えている人々のことです。例えるなら畑の作物が雨に打たれたり強風にさらされたりして、じっと雨風をしのいでいる様子で、迫害にもへこたれず、神がきっと計らってくださると信じて日々を過ごす人たちです。

後半の四つ「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」は、迫害の中にあっても正しいことのために行動する人々です。

魚の中には、自分が生まれた川に遡上して、卵を産み付ける種類がいます。なぜそんなに自分が生まれた場所にこだわるのか分かりませんが、どんな困難をもはねのけて、子孫を残して息絶えます。迫害の中でも平和のために働き続ける人も、どんなに活動を妨げられても、否定されても、正しいことのために行動することをやめないのです。

こうした生き方が、11節以下でまとめて言われているのだと思います。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(5・11-12)

山上の説教で説かれた生き方の招きは、わたしたちが生きるとき、本当に意味ある幸いの言葉になります。わたしたちが、カトリックの信仰のためにへこたれそうになる。雨に打たれたり、強風にさらされるような思いをするかもしれませんが、イエスはそんなわたしたちを必ず助け起こしてくださると信じ、一日ずつ積み上げていきたいものです。

迫害の中で行動を起こすとなると、さらに困難を感じることになるでしょう。いのちを守るために、いのちを大切にしましょうと声を上げたり立ち上がったりすること。学校の話し合いの中で、カトリック信者としてわたしはこう思うと意見を述べること。それらは相当風当たりが強いかもしれません。わたしたちが風当たりをものともせずに立ち上がるなら、イエスはわたしたちに答えて報いを与えてくださいます。

わたしたちがイエスの示す幸いを生きようとするとき、山上の説教は山の上だけで響くのではなく、生活のただなかで響く福音となります。わたしたちはイエスの神秘体の一部として、生活のあちこちで、山上の説教を生きていきましょう。山上の説教に生きるわたしに報いてくださるのは、他の誰でもない、真の幸いを語ったイエス・キリストです。

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ちょっとひとやすみ

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▼ハングルにはまっている。以前「ハングルを勉強する」という内容で「ちょっとひとやすみ」を書いたかもしれない。一般的なハングルの勉強はぼちぼちしながら、聖書の一節とかを「読み」「聞き」「書く」作業を通してハングルに親しもうとしている。

▼長続きするかが問題だが、幸いここ田平教会にはひっきりなしに韓国からの巡礼団が訪問してくれて、ミサをささげてくれている。彼らが田平教会を訪ねて来た時、少しでも話しかけたり話を聞いたりしたい。それが当面のモチベーションになっている。

▼何が正解かはよく分からないが、いろいろ試してみて、身に付きそうな方法を最後に選んで続けてみたい。できれば、この1年で、聞き取りと読み書きの両方ができればいいなと願っている。ハングルは系統立てて編み出された文字なので、慣れれば書物やメモを書き写すくらいはすぐにできるようになる。

▼もう一つありがたいことは、日本語と語順がよく似ている(らしい)ということだ。それは韓国人にとっても同じなのだと思うが、語順の違う英語やその他のヨーロッパ言語に比べれば、ハードルは相当低いと言える。

▼ハングルを覚えたいと思った理由はもう一つある。巡礼で田平教会を訪ねてくれる人たちが、ほとんど英語を話してくれないという点だ。英語が話せないのかもしれないが、同行する司祭に英語で話しかけてもたいていの司祭が英語を話そうとしないのである。少しは意思疎通を図りたいと思っているのに、これではどうにもならない。

▼それなら自分が汗をかいて、ハングルを覚えることにしよう。そう決意したわけだ。どこまでたどり着けるかは分からないが、長らく経験していない「今やっと分かった」「今はっきり分かった」そういう経験ができそうなので、大いに楽しみだ。

† 神に感謝 †