年間第15主日(マタイ13:1-23)

本日から、ミサ前のロザリオの時間に聖書の朗読CDを流し、お一人お一人は手元に聖書を用意して、目で追っていくという形で、聖書愛読マラソンの取り組みを行うこととしました。これから約半年間、日曜日ごとに続けていきますので、ふだんよりも早めにおいでになって、聖書を続けて読む取り組みに参加してもらいたいと思います。

浜串教会の場合は、5月の平日に少し取り組み始めていましたので、今日朗読した箇所はマタイ福音書の最後あたりから、マルコ福音書に入る朗読となっていました。マルコ福音書から始めたのだと思っても結構ですし、最初から参加している人は、半年でどこまで読み続けられるか、楽しみにしていてください。

では福音の学びに入りましょう。今週の、種蒔きのたとえから、「良い土地」について考えてみたいと思います。「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(13・8-9)

「良い土地」について考えてみようと思った理由があります。実を結ばなかった土地については、割合具体的な事情が書かれていました。道端に落ちた種が、鳥に食べられてしまうとか、石だらけで土の少ないところに落ち、根がないために枯れてしまうとか、茨の間に落ちて、茨が伸びて種をふさいでしまうとかです。

これに対し、実を結んだとされる「良い土地」については、「良い」と書かれているだけで、どのように良いのか書かれていないのです。たいへん興味をそそられました。そこで、この「良い土地」について詳しい説明をしてくれる本を探しましたが、あいにくそのような本が見つからないのです。

目の付けどころは悪くないと思うのですが、どうしても「良い土地」について手っ取り早い説明が見つからないので、自分なりに考えることにしました。「良い土地」を考えるために、まず「百倍、六十倍、三十倍」について考えを示しておきたいと思います。

給料で考えてみましょう。月収15万円の人は、珍しくないと思います。その30倍となると、月収450万円です。もしかしたら、町内に1人はいるかもしれません。60倍となると月収900万円ですが、町内にはいないとしても、県内にはいるかもしれません。100倍だと月収1500万円で、こんな人は国内に数人しかいないかもしれません。でも、いないわけではありません。

今話したのは、人間が手に入れることのできる収入で、ある人と別の人では、収入に100倍の差が開くことがあり得るということを考えてみました。では、ある人と別の人で100倍の差が開くのは、環境によるものなのか、本人の努力や素質によるものなのかを考えてみましょう。

100倍の収入を得る人は、必ず都会に住んでいるのでしょうか?わたしはそうは思いません。地方に住んでいて、都会に住んでいる人の何十倍も収入を得ている人はいると思います。ところが、努力と才能のない人で、けた外れの収入を得ている人はいないのではないか。わたしはそう思いました。

つまり、イエスが話したたとえ話で、種が「良い土地」に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったというのは、人間の努力とか、持っている才能のことではないかと思ったのです。

まとめると、イエスが蒔いてくださる種は、どんな環境であっても、努力する人、才能を持っている人の中に蒔かれると、豊かに実を結ぶ。そういうことなのではないでしょうか。

「努力する人、才能のある人」と言いましたが、才能は、注意力や、判断力、分析力と置き換えてもよいでしょう。注意深く観察するとか、なぜこうなるのだろうかと考えることは、だれにでもできることです。

ただ、どれくらい注意深いかは、人によって違うと思います。100倍注意深いということもあり得る話です。マリアは、イエスの話を注意深く聞いて、心の中で思い巡らしました。マリアの注意深さは、わたしたちの100倍であっても不思議ではありません。

こうしてみると、イエスが蒔いてくださる種は、わたしたちが注意深く聞くならば、100倍の実を結ぶ可能性があると思っています。これから、日曜日のミサ前は聖書朗読が続きます。わたしたちが注意深く聞くならば、イエスの蒔いた種のどれかが、あなたの中で100倍の実を結ぶはずです。

注意深く聞き、自分にとってどういう意味があるのかを慎重に判断し、驚くほど実を結んだ姿をイエスに報告することができるよう、このミサの中で照らしと導きを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼教区報「よきおとずれ」の記事のために、巡回教会の写真を撮影して原稿をまとめた。特別念入りに取材して原稿を書いたわけではないが、福見教会は再来年100周年を迎え、高井旅教会は今年6月に50周年を迎える教会である。
▼高井旅教会については、大々的なことは計画しないことになっているが、教会役員との話し合いの中で、希望していることがいくつか出ていて、それらを形にして未来の世代に残してあげたいと思っている。
▼問題は福見教会で、こちらは100周年でもあるし、大司教さまをお呼びして、何か記念行事を計画したいと願っている。ただ、上五島では青砂ヶ浦教会の100周年などをすでに経験しているが、とてもあのような盛大な行事は実行不可能であり、何が可能かと頭を悩ませている。
▼福見教会紹介の原稿をまとめるとき、教会が海岸の丸石で石垣を組んだ土地の上に建っているということに触れているのだが、何か、この丸石がヒントにならないかと個人的には思っている。波に洗われて丸くなった石を、石垣に用いているわけだが、石が丸くなるためには、いったいどれだけの時間が必要なのだろうか。
▼石が丸くなるのに、仮に100年かかるのだとしたら、丸い石を積み上げて造られた石垣は、すでに100年前の石を使用しているということだ。その上に教会を建設し、100年が経過しているのだから、石は200年経過していることになる。ひょっとすると、それ以上の年月を経ているかもしれない。
▼基礎が、200年の時を刻んでいるとしたら、それはみんなで考えてもらうきっかけにすればよいと思う。200年前に何があったのか、200年の間に何が起こったのか、そうしたことを考えると、わたしたちの信仰の歩みはわたしたちだけのものではなくて、次の世代につないでいく価値があるものだと気づくかもしれない。大げさだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===