復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)

あらためて主のご復活おめでとうございます。本日の福音朗読の中から、「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)という部分を、徹夜祭に引き続き行われている今日の洗礼式に結びつけて話したいと思います。

福音朗読は、主の復活を連想させますが、描かれている事実だけですと「空の墓の出来事」と言える場面です。しかし、先に墓に着いた弟子は、状況からイエスの復活を信じました。肉眼で見ているものを超えて、その先にある真実を捉え、信じることは可能でしょうか。

わたしは幼い時に、山内豊神父様から洗礼を授けてもらいました。その時の代父は、本家のおじさんで、霊名もおじさんの霊名をもらいました。記録を見れば、授けた神父様も代父も分かりますが、それを信じることができるためにはもう一つの出来事が必要でした。

わたしが中学生で神学校に入学してから、山内豊神父様が一度わたしに声をかけてくれたことがありました。わたしには、山内神父様のあとの神父様からしか記憶がありませんので、わたしにとっては見知らぬ神父様でした。けれどもわたしの神学校入学をどこからか聞きつけて声をかけてくれた。その姿を見て、わたしにここまでしてくれるこの神父様はどんなにわたしを可愛がってくれているかが分かりました。

代父のおじさんも、わたしが神学校に入学してからはことあるごとにわたしに導いてくれました。ここまで面倒を見てくれるのは、わたしの神さまの子供としての始まりに関わってくれたからに違いないと思いました。洗礼の台帳に記録されている以上の愛を、二人から受けたので、わたしは山内神父様が洗礼を授けてくれて、本家のおじさんが代父になってくれたと納得し、信じることができるようになったのです。

エスの復活を、弟子たちが空の墓から信じたのは、彼ら弟子たちの心の目が、肉眼で見える以上の何かを捉えたからだと思います。イエスは死の束縛にとどまっておられる方ではない。死に対して勝利し、死を超越して、今復活しておられる。自分たちは、肉眼で今見ている場面の向こうにある真実を告げ知らせなければならない。墓に来た弟子たちの中に、まだ十分ではないけれども、希望が芽生えていたのです。

今日わたしたちは、一人のお子さんの洗礼を見届けます。この子は小さいので、ひょっとしたら堅信を受けたばかりのお兄ちゃんが洗礼の代父になってくれたことも、中田神父が洗礼を授けたことも、忘れてしまうかもしれません。けれども後に、信仰の成長のために惜しまず協力してくれる姿を見たら、どうしてここまでお世話してくれるのか、気付いてほしいと思います。面倒を見てくれるお兄ちゃんの姿のその先に、代父として手伝ってくれた姿を見つけてくれたら嬉しいなと思います。

それでは洗礼式に移りましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼あらためてご復活おめでとうございます。車が趣味の人は、今はいい時代だろうか。3ナンバーの車だといろいろカッコいい車もあるようだし、少々維持費がかさんでも、納得いく車が選べそうだ。
▼わたしは、たぶん、一生涯3ナンバーには乗らない。理由はいろいろある。司祭が3ナンバーを乗るメリットは何かが分からない。さらに車を大切に扱う趣味がない。車は汚れていても、走ればいいと思っている。洗剤で洗うのは年に2度くらいか。
▼かつて、教区報の「ほしかげ」というコーナーに、「車に司祭が300万円も使う理由が分からない」みたいなことを書いた。このときわたしの中で、「わたしは3ナンバーは買わない」と決めた。300万円以下で納まる車を買って、50万円別のことに使えるほうがわたしにはお得感があると思っている。
▼3ナンバーというのは、どういうくくりか知らないが、そりゃあ、お金が出せるなら好みのものが選べるのは当然だ。わたしは、「制約がある中の一品」を選びたいと思う。道具はすべてそうだ。金に糸目をつけなければ、良いものが買えるのは当然だ。
▼だが使えるお金はここまで、という制約を決めて、その中で「これだ」という物を見つける。わたしの信念。そういうわけで、次の車はトヨタカローラと決めている。決め手は3ナンバーでなく、5ナンバーだということだ。
▼いつだったか一度だけ軽自動車でバイパスと高速を乗り継ぎ、田平から長崎に行ったことがある。このとき日産のAD(たぶん)という車と、トヨタカローラに何度も追い越された。「くそっ」と思ったが、ADにはイマイチ魅力を感じず、カローラにはなぜだか「ふーん」と興味を持って後ろからのスタイルを眺めた。まるで女性の後姿を眺めるようなものか。
▼「やはり間違いない。」わたしの感性はADではなくカローラを選んだ。

† 神に感謝 †