年間第20主日(ヨハ6:51-58)

ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」(6・52)ユダヤ人のつぶやきは、現代人も含めイエス・キリストという食べ物を知らない多くの人のつぶやきでもあります。私たちもユダヤ人のつぶやきを出発点に、今週の糧を頂きましょう。

ユダヤ人のつぶやきに答えを得るヒントを見つけました。共観福音書の中に、「耳」に関連する次のような戒めがあります。「耳のある者は聞きなさい」この表現がマタイ・マルコ・ルカの中に出てきますが、これは今週のユダヤ人のつぶやきに答える強力な説明となるでしょう。

もちろん、耳が備わっていない人はいないわけですから、この場合「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。マルコ4章9節やルカ8章8節がそれに当たるでしょう。同様の箇所をマタイはあえて「耳のある者は聞きなさい」とだけ書きます。13章9節がそれに当たりますが、間違った読み方をするはずがないという前提でしょうか。

いずれにしても、イエスが「耳のある者は聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と念を押す時、話を聞いている人々は準備が必要になります。耳は備わっているのです。ですがあなたの耳はイエスの言葉を謙虚に聞く状態になっていますか?と問われているのです。

同じように、イエスがご自分をパンとして示す時、聞いている人はこのパンを食べる口を用意していなければならないのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)

「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」ユダヤ人たちは口は備わっていても、生きたパンを食べる準備ができていませんでした。いつの時代でも、準備がととのっていなければ天から降って来た生きたパンに触れることはできません。

ときおり耳にするでしょう。葬儀ミサの中で中田神父は聖体拝領に移っていく直前、参列者の皆さんに「聖体拝領の準備ができている方は列にお並びください」と案内をしています。イエスという生きたパンに触れるためには、心と体がふさわしい状態である必要があるのです。

私たちはこのミサに、生きたパンに触れるために、集まりました。命の糧をいただくのに、どんな準備をしたでしょうか。列聖されたマザー・テレサは、最も小さな人にお仕えする時、イエス・キリストをいただくと言っていました。人に示した愛や、ゆるしで心の準備をすることもできるでしょう。イエスは福音朗読を通して、「食べるにふさわしい口のある者は食べなさい」とおっしゃっています。

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ちょっとひとやすみ
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▼一つのニュースに釘付けになった。アメリカの有名大学医学部が、次の年度から入学した生徒すべての学費を免除すると発表した。報道によると、その大学の学費は年に610万円だと言う。太っ腹だなぁと思った。もちろん原資のあてがあるのだろうが、それにしても世界中の注目を浴びるに十分なニュースだった。
▼これを召命の話と結びつけたい。自分自身振り返ってみると、少なくとも中学高校を長崎の学校に行かせてもらったのだから、親の負担は地元の中学生高校生以上に重かったと思う。長崎からの行き帰り、必ず船に乗らなければならない。仕送りもしてもらった。余計な本も買ったかもしれない。
▼もしこれが、司祭たちの寄付で「神学性が小神学院を卒業するまでの交通費・学費は免除される」となれば、相当のアピールになるのではないか。先に触れた大学の医学部も、入学した新入生500人が全員医者になるわけでもないだろう。それなのに何の線引もせずに免除している。似たようなことが召命の道にあってもよいのではないか。
▼もちろん召命の道は信仰の道だから、経済的問題だけではないだろう。けれども家庭だけが応援するのではなく、司祭真っ先に、神学性を見える形で支えることは、信仰の面でも経済的なのではないだろうか。
▼福岡の神学校に進学した時、自分たち日本の大神学生が海外の援助を受けていることを初めて知った。一つの例だが、ドイツのあるご夫婦に手紙を書きなさいと言われた。生徒一人ひとりが海外の多くの支援者の誰かに支援のお礼の手紙を割り振られていて、日常生活のことや、召命への決意や、恩人のために祈っていることなど、一通り書いたものを担当の教授が翻訳して送っていたようである。
▼一度、手紙の書き直しを命じられたことがあった。教授の言い分はこうである。あなたの手紙では、日本の神学校に寄付をしてよかったと感じられない。それは文章の内容だけでない、司祭を目指すふだんの生活が文章に現れるのだという注意だった。寄付に甘えることなく、真剣に司祭への道を求めるようになった。

† 神に感謝 †