隣の誰かと遠くのあなたを

2017-08-07

ゲンロン5刊行記念トーク 東浩紀×梅沢和木「視覚から指先へ」を聞いた(twitterまとめ)

昨日の東浩紀梅沢和木トークは「視覚と視覚以外」という区分が面白く、そこから「人を分断するメディアと人を連帯させるメディア」と敷衍されていた。会場からの質疑にこたえる形で、東がまだ自分の中で説得的に語ることができない事柄(自分の中では理路として成立している)を語ろうとしており、そういうものに何らかの形を与えようとするという意味ではむしろ東こそアーティスト的だった。

思想家が「物事の捉え方に視座を導入」している話はとても面白いのだが、作家は思想家の大胆な切り口で自身の作品の持つグラデーションが見えなくならないかには敏感であるべきだ。たとえば「身体性」という時に「指先の身体性」とひとくくりにするべきなのか、マウスとタッチスクリーンの道具の差異に重要性を置く作家であるのかは、明らかにすべきだろう。たとえば絵画論で語られる「筆触」という語をひとつとっても、「道具の(インターフェイスの)身体性」が作品に刻み込まれることが示される。梅沢和木については「解体されるキャラ」の中で「Photoshop的身体性」と言ったこともあるけれど、自動選択や、切り口のジャギーのような細部や、レイヤー構造といった、道具の固有性が現れてくる。そこで鑑賞者が感じるのは、道具による操作の痕跡(ということはつまりありえたかもしれない一手=操作可能性)だろう。それはやや飛躍するが、トークに出ていたゲームプレイにおいてプレイヤーがカメラを支配できること(操作可能性)と通底してくる話とも思う。

音ゲー弾幕シューティングが一方ではコメント弾幕やもう一方ではtumblrtwitter的なタイムラインの「ストリーミング・ハイ」的な感覚が時代的な共感覚として作品に結晶したのは、梅沢初期作品における明らかなる達成だと思うが、画面に結晶するべきものや、インターフェイス的感性が適切にアップデートされているかというと微妙だろう。自分より後の世代の小林健太のタッチスクリーンに言及していたが、後続がやっているからいいや、というのでなく、適切に現代的な視覚感覚にアップデートする努力はあってしかるべきだ。作中において、何度も再引用されるパーツを見ると自家中毒的と思わざるを得ない。近作はパーツが細かくなる傾向があって、その物量性を指して「触覚的」な方向に振れているというなら指摘としては正しいかもしれないが、作品として成功させるためならもっと(もともと筆触的なフィールドである)絵画をたくさん見た方がいいだろう。「単に時代を反映するだけが作家ではない」は見識だと思うが、同時に時代に連なるならば過去の達成に対し、一体なにで比肩するのかを突き詰めないとならない。

「連帯させるメディア/分断するメディア」という区分で面白いなと思ったのは、音や声は同心円的に空気を揺らしているので、それはみんなを一つにするメディアなのだということとインターネットの性質で、「見たいものに目を向ける」というのは区分で言えば明らかに「視覚的」なのに、twitterの投稿は「つぶやき」と呼ばれ、さらには「エコーチャンバー」とまで呼ばれるわけで、人は「見たいものを見ている」感覚ですらない(これこそ世論だと素直を思い込んでしまう)装置ということになるなぁという点(ただ、過去のメディアにそのような性質が無いわけではないか)。東が「俺カーナビ使わないんだよ」みたいなことを言っていて、そういう感覚的なレベルの個人的な偏差の話も東の方が興味深く聞こえた。

2017-02-11

「新・方法」メールマガジンに寄稿しました。以下転載。

「新・方法」第54号

寄稿と作品からなるEメール機関誌「新・方法」第54号をお届けします。今号の寄稿者は、キャラ・画像・インターネットの研究を行っているgnckさんです。


[寄稿]

となりのトートロジー、遍在を再演する場

gnck(キャラ・画像・インターネット研究)

神様はいないかもしれないが、神様がいる「ことにして」執り行われる諸々の所作や手続きは存在する。トートロジカルな行為は、内容が無いような行為なので、形式だけが前面化する。

芸術には目の芸術と、概念の芸術があり、目の芸術における「革新」そのものを抽象化し、それ自体を目的として概念の芸術が立ち上がってきた。しかしその概念の芸術における批評性は、視点を変えれば「頓智」とか「ナンセンス」として呼び習わされてきたものだ。それを「(概念の)芸術である」と思わせるためには、(目の、あるいは先行する)芸術の形式を再演しつつ、それとのズレを見せつける必要がある。

新・方法の2011年災害支援ボランティアへの応募」が批評的に機能したのは、芸術による震災後社会への貢献という、焦燥感を歪んだ自己顕示に変換せんとする浅ましさへの痛烈な一撃になったからだ。しかし2017年現在、メールマガジンとは、なんとなく届いて適当にスルーされるようなメディアである。トートロジーそのものは意味の体系の中に遍在するが、それを上演する場所がどこなのかによって、振る舞いの持つ意味合いは変化する。この抽象度の複数性に新・方法はどれほど敏感だろう。つまり、新・方法が何と異なるのかを見せつけることこそが、その芸術性を明らかにするのだ。

え?「新・方法は○○ではない」じゃあなくて、「新・方法は新・方法である」がたまたま状況によって明らかになるのだって?そう言い切るのならそれはそれで格好いいのだけど。


[新・方法主義者のウェブ作品]

自動的に再読込み

http://hrmtkhr.web.fc2.com/new-method/054_j.html

解説無し

意味と表示 第三番

http://7x7whitebell.net/new-method/shogobaba/054_j.html

ウェブで使用されるHTMLは、文/単語/文字に対して、表示されている記号とは独立した意味を与える。この作品は、HTMLによって意味を与え、意味の錯乱を起こさせる。今作では、「新・方法主義Shift_JIS宣言」の各文字に意味を変える。

(参考)新・方法主義Shift_JIS宣言

http://7x7whitebell.net/new-method/manifesto_sjis.html

  • 皆藤将

人を馬鹿にするためのブービートラップ

http://masarukaido.com/newmethod/b054_j.html

人を馬鹿にするためのブービートラップを作りそれを撮影した。


[お知らせ]


[編集後記]

「第5回AI美芸研」が2017年1月29日、東京美学校にて開催されました。その中で、馬場省吾の作品『なぜ芸術ではないのか』(2010)が中ザワヒデキ氏によって「フレーム問題」の文脈において紹介されました。

http://www.aloalo.co.jp/ai/research/r005.html (新・方法)

発行人

平間貴大 @qwertyu1357

馬場省吾 @shogobaba

皆藤将 @kaido1900

機関誌「新・方法」第54号 日本語版

2017年2月9日発行

2016-09-22

村上隆の五百羅漢展 (twitterまとめ)

村上隆五百羅漢見た。かなりがっかりである。期待もあっただけに。

瓢箪ハーフトーンも画像で見た感じかなり良かったのに、色が全然良く無かったり、表面の磨きがまばらで、白い画面なのに光の反射が汚く見えたり(あれを工芸的というのはちょっと工芸舐めてるのではないだろうか…)、色彩にせよ、羅漢の顔にせよ、手札の種類は大して無かったりする。

村上が話のたとえにハリウッド映画を出すことがままあるけれど、予算は潤沢で、飽きないように一定のクオリティには達しているけど、ひっかかりの無い映画を見せられた気分。

解像度の最後の部分に目をいかせない脅迫性には満ちていて、手業と色数の努力賞にはなるけれど、自身がよく言うように天才性はほんとゼロ。

ただし立体は割とその嫌な感じがなくて、金ぴかでも別に恐怖心からやらしくなっているわけではない。のどちんこちゃんと作ったり、粘性のある感じの作り込みが良かったりする。黒い髑髏も、アレは光の演出ともあいまっていて良い。

主線をシルクスクリーンでやるのは、線の良さが一回死ぬので、そこをどう味付けしなおすのか、というのはMr.がやっていることだけど、その発展が師匠にあるのだと思っていたが、五百羅漢でも装飾によってどうにか保つのみで、装飾性が「駄目な方の装飾性」なのだよな。

五百羅漢の四図の中でも、螺旋の要素は良かったので、そこは発展可能なのではないかな。円相は全然良くないのだけど。

村上は、オタクに対して面白い時は、岡田斗司夫が言うように「勘違い芸」なのだと思うけれど、伝統画題についてもそうなのだろうな。勘違い度が低いとむしろ意味の読み替えも起こらない。

村上の活動が国際的アーティストになる一つのモデルケースなのだとすれば、それがやれる人間を美大で探そうとしてもかなり不可能な気がするが、作品だけ切り取ると方法論が明確なので、天才性が無くても全然やれる範囲という感じだよなこれ…

でかい作品でも、「全部に手が入っていなくても成立してしまう」その技術体系が絵画の神秘だと俺なんかは思ってしまうのだけど、まさに真逆の方法論で成立させようという作品群。しかし、「工芸品には及んでいない」。これってどこに到達したことになるのだろう。

日本画のフラットな空白は、周辺視野が作る奥行きのような空間であり、見つめる時には紙の目という繊細さが立ち上がるけれど(あるいは、箔の肌合いが)、そこがハーフトーンに置き換わると、その解像度で止まってしまう。それだと、ハーフトーンが埋草になってるだけに見えてしまうんだけどな。

いや、これはつまり、美大生の大量動員とかブラック労働とかではなくて、職人を死ぬほど使い潰したらいい作品できるよね、という話をしていることになるわけだけど。

最後の映像で出てきた村上の若い頃の映像や、学級委員長リコールされた話などを見るに、村上もかつては若い作家だったわけだし、意外とトホホ感とかを愛すべき作家なのかもしれん。

2016-09-18

水戸芸術館「田中功起 共にいることの可能性、その試み」(twitterまとめ)

水戸芸術館の「田中功起 共にいることの可能性、その試み」を見た。メインとなる作品は、6日間にわたるワークショップを撮影した映像を、複数のディスプレイ、スクリーンで上映するもので、すべての映像を見ると240分になる。他にはヴェネツィアビエンナーレ日本館で展示されていた、複数のピアノ奏者や複数の陶芸家で一つの作品を作り上げる様をドキュメントした映像作品が展示された。中々見る機会を作ることができないと思っていたが、結局最終日に行くことができた。水戸芸術館ははじめてである。当日はイベント「てつがくカフェ」も開催されていた。

メインとなる「一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置」は、そこに何か人間の共同性における本質が鮮やかに立ち現れるのかと言えばそんなことはない。たとえばワークショップの中で、ある種の「理想」が現前する瞬間が訪れたり、逆に「人間が持つ醜さ」が露呈したり、複数の人間がいることで引き起こされる様々な力学事象はそこには捉えられない。それどころか、最後のディスカッション議論が盛り上がりを見せた瞬間に、作家によって時間切れの宣言(それも、「キュレーター育児がある」が「そのことじたいは議題にのせることができなかった」という言い訳めいたキャプションとともに)がなされる。いや、これ何を見せられてんのよ。単にこの映像の展示は、6日間の「ワークショップ」が「失敗」した様をただ見せつけられるだけのものであって、幾台ものカメラによる撮影、編集、複数の画面の展示という、膨大な仕事量の、あまりに優等生的で、真面目な愚鈍さにげんなりしてしまう。

それは同時に開催されていた「てつがくカフェ」でもそうで、冒頭30分に議論するとは、とかの前段階の説明が入って、ようやくスタートするときに「共にいるとはどういうことか自由に考えてください」とか、その状況に参与できる人種って、アートピープルの中でも更に相当特殊な人に限定されるわけで、ふわっとした入りから3時間半もの議論をさせようという、そういう特殊状況を設定しているにもかかわらず、大した内容も無いことになっている。前提を共有しない人々が、きちんと対話議論を行うための司会進行はかなり高度な技術が必要だし、たとえば「言いたがり」が複数人いるだけで、そういう場は破綻しかねないわけだけれど、その終着点を参加者が共有できる有意義議論は難しいのだが、それを「議論が起きたからよいのだ」とか「ワークショップをやったことで可能性が見えたのだ」というのは、何か理念らしきものを実現する技法というのがあるらしいがそれは成功せず、技法だけを輸入してさも理念ありげに見せつけるということになりはしないのか。

社会問題に関心があり、しかしそれを直接扱うアクティビズムのアートにはしたくないなぁ、というのは別に動機として間違ってないと思うけど、ならば抽象的な題目を立てる前に、社会問題そのものをつぶさに観測しないと抽象化を誤るし、それを普遍性のあるテーマとして作品化することも難しくなる。「特定のクラスタの人がなんかぐじぐじやってる」以上の見えにしなければ作品化しないだろうし、たとえばテレビのリアリティーショーの戯画的な仕掛けが共同性の問題をあぶりだすこともあるし、ドキュメンタリーのように編集が加わっている方がよりまだ面白さが見えてくる。なんとなく無加工っぽくしたい手つきで結局何も出来上がらなかったら、それは倫理的な態度ではない。

2016-05-22

3Dスキャン面白いなぁという話

3Dスキャン(複数写真から生成する3Dモデル。呼び方3Dスキャンでいいのかなぁ。)面白い。具体的には、谷口暁彦と山内祥太、あとノガミカツキか。

思うに、3Dスキャンを見ることって、絵画しか知らなかった人間がはじめて写真を見た経験に近いのではないかな。「魂が抜かれている感じ」というか、3D写真は死体のようだ。山内祥太は反彫刻として、横たわる、力ない人体を作ったけれど、彫刻が「まるで生きているかのような」様相を目指すが故に、その反彫刻は死体が転がっているかのように見える。(つまり「物体」にはもともと生命が無く、「彫刻」は、それに命が与えられたようであり、さらにその命が失われた状態として、「山内の彫刻」がある。)3DCGは、形態を細かくしていく(皺や、毛を再現していく)というアプローチや、光の反射をシミュレートすることによってリアルな表現に近づこうとしていたわけだけれど、3D写真は、ざっくりした方向であっても、現実の色調を取得することで、そこに「生々しさ」や「空気感」が生まれてしまうということに驚きがある。

写真によって絵画が変質したことが、3D写真によって彫刻に起こりはしないかな?とも思う。しかしそれは彫刻ではなく、3DCGに起こっているのかもしれないなぁ。どうなんですかね識者の方々。

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