隣の誰かと遠くのあなたを

2018-02-07

杉本憲相展と「キャラ・アート」について

中央本線画廊での杉本憲相展で感じた、杉本の真面目さと凡庸さは「キャラ・アート」とでも言うべきものが既にジャンル化したこと証左に思えた。

杉本が既存のキャラを扱う時に、2017年にらき☆すたを選択することの、絶妙な古臭さ。カオス*ラウンジが2010年にらき☆すたを選ぶことには、当時の環境としての必然があるが、それに対して今更ゼロ年代的感性であることの凡庸さ(キッチュですらない)。

画学生がキャラ絵を描きたがるのは別に悪いことではなく、絵を描き始める人間の少なくない数が、最初に自覚的に描き始めた絵はキャラ絵なのだから、キャラ絵そのものに原初的な契機が内在しているというのは正しいと思う。しかし芸術としてキャラを扱うとき、何を持って芸術の問題とするのかという手続きはどうしたって必要になる。

たとえば、キャラの芸術全般の立ち位置で見た時のキッチュさを扱う、というのならば、それはポップアートの方法論となろう。村上の奇形的ポルノグラフィーはまさにそういう方法論だし、会田もそうだ。

一方で、キャラの目といった強固な輪郭や、強固な固有名性をもち、強い現前性を有することに注目するならば、キャラは変形され、解体されるだろう。2009年の「解体されるキャラ」展で、JNTHEDや梅ラボを扱ったのは、(村上よりもむしろ奈良的なものかもしれないが)キャラ的な造形のペインティングが、批評的なジャッジを経ずにアートフェア等に現れてくることへの違和感があったからだ。

藍嘉比沙耶が90年代や00年代初頭に注目するのは、一周まわってはじめて、絵柄がサンプリング可能になるからだろう。「ちょっと古いものが一番ダサい」という消費の速度がどうしても影響してしまう。(それは、我々は享受している文化の文脈連鎖を、身体的に受け取っているということでもあるのだろう。30年という時間によって適度に文脈が脱落してこそ、絵柄や「セル画」の質感が意味操作の具としてそれが扱えるようになるのだ。)

そもそも、絵の具を使ってキャラを描くというのは相性が良くない。白黒のマンガ絵をベースにするキャラ絵においては、Gペンを代表とするイリヌキのはっきりした線によって囲まれた輪郭の内側には、実際の紙は平面であるにも関わらず、仮想的(理想的)なヴォリュームが発生する。ここで重要なのは、実際には平面であるが故にそのヴォリュームが感じられるのであって、そこに凹凸があれば、人の目はそこに凹凸を見るということなのだ。油絵具というのは、筆の運動による微かな凹凸を演出することのできる画材なのだが、その画材を何故だか選択してしまうのは、ペインティング=アートというような固定観念なのだろうか。ここはもっと気を使ってほしいところで、藍嘉比もあいそ桃かも乙うたろうも、もっと表面を徹底してほしいなと思う。というか、村上すらも。その意味で、改めて考えると、谷口真人は盛り上がった絵の具で理想的な平面を描くことの困難には自覚的であったとは思うし、オースティン・リーのやっていることはやや保守的だと思うけれど、「表面」への扱いの丁寧さや、空間をきちんと違う視覚のモードに仕立てあげることについては素晴らしい仕事をしていたなと思う。

2017-12-27

シックスハートプリンセス第2話

TOKYO MXシックスハートプリンセス第2話を見た。これは30年前のOVAを見せられている気分に近いのではと思った。つまり、類型的な表現を採用する必然性が薄れ、なんとなく型を踏襲していること。演出が拙く整合性の無いこと。一部にはやたら気合の入ったシーンや、レジェンド級のアニメーターがちょろっと参加していること。設定資料が先行して妙に充実し、グッズとして販売されていること。など(ちなみに設定資料集とポスターはもちろんゲットした)。一方でどこに差異があるのかといえば、現場に悲壮感が漂っていることと、「純粋芸術としてのアニメ」を宣言していること。まぁ純粋芸術ならば、それがつまらなければ芸術家の責任である。

村上隆は「オタクに対する勘違い芸」において威力を発揮する作家で、たとえばS.M.P.ko2やHIROPONにおいては「類型性を採用しつつ批評的には突き刺す」仕事をしているが、今回採用されている類型性は単に類型的なだけだ。

2017-08-07

ゲンロン5刊行記念トーク 東浩紀×梅沢和木「視覚から指先へ」を聞いた(twitterまとめ)

昨日の東浩紀梅沢和木トークは「視覚と視覚以外」という区分が面白く、そこから「人を分断するメディアと人を連帯させるメディア」と敷衍されていた。会場からの質疑にこたえる形で、東がまだ自分の中で説得的に語ることができない事柄(自分の中では理路として成立している)を語ろうとしており、そういうものに何らかの形を与えようとするという意味ではむしろ東こそアーティスト的だった。

思想家が「物事の捉え方に視座を導入」している話はとても面白いのだが、作家は思想家の大胆な切り口で自身の作品の持つグラデーションが見えなくならないかには敏感であるべきだ。たとえば「身体性」という時に「指先の身体性」とひとくくりにするべきなのか、マウスとタッチスクリーンの道具の差異に重要性を置く作家であるのかは、明らかにすべきだろう。たとえば絵画論で語られる「筆触」という語をひとつとっても、「道具の(インターフェイスの)身体性」が作品に刻み込まれることが示される。梅沢和木については「解体されるキャラ」の中で「Photoshop的身体性」と言ったこともあるけれど、自動選択や、切り口のジャギーのような細部や、レイヤー構造といった、道具の固有性が現れてくる。そこで鑑賞者が感じるのは、道具による操作の痕跡(ということはつまりありえたかもしれない一手=操作可能性)だろう。それはやや飛躍するが、トークに出ていたゲームプレイにおいてプレイヤーがカメラを支配できること(操作可能性)と通底してくる話とも思う。

音ゲー弾幕シューティングが一方ではコメント弾幕やもう一方ではtumblrtwitter的なタイムラインの「ストリーミング・ハイ」的な感覚が時代的な共感覚として作品に結晶したのは、梅沢初期作品における明らかなる達成だと思うが、画面に結晶するべきものや、インターフェイス的感性が適切にアップデートされているかというと微妙だろう。自分より後の世代の小林健太のタッチスクリーンに言及していたが、後続がやっているからいいや、というのでなく、適切に現代的な視覚感覚にアップデートする努力はあってしかるべきだ。作中において、何度も再引用されるパーツを見ると自家中毒的と思わざるを得ない。近作はパーツが細かくなる傾向があって、その物量性を指して「触覚的」な方向に振れているというなら指摘としては正しいかもしれないが、作品として成功させるためならもっと(もともと筆触的なフィールドである)絵画をたくさん見た方がいいだろう。「単に時代を反映するだけが作家ではない」は見識だと思うが、同時に時代に連なるならば過去の達成に対し、一体なにで比肩するのかを突き詰めないとならない。

「連帯させるメディア/分断するメディア」という区分で面白いなと思ったのは、音や声は同心円的に空気を揺らしているので、それはみんなを一つにするメディアなのだということとインターネットの性質で、「見たいものに目を向ける」というのは区分で言えば明らかに「視覚的」なのに、twitterの投稿は「つぶやき」と呼ばれ、さらには「エコーチャンバー」とまで呼ばれるわけで、人は「見たいものを見ている」感覚ですらない(これこそ世論だと素直を思い込んでしまう)装置ということになるなぁという点(ただ、過去のメディアにそのような性質が無いわけではないか)。東が「俺カーナビ使わないんだよ」みたいなことを言っていて、そういう感覚的なレベルの個人的な偏差の話も東の方が興味深く聞こえた。

2017-02-11

「新・方法」メールマガジンに寄稿しました。以下転載。

「新・方法」第54号

寄稿と作品からなるEメール機関誌「新・方法」第54号をお届けします。今号の寄稿者は、キャラ・画像・インターネットの研究を行っているgnckさんです。


[寄稿]

となりのトートロジー、遍在を再演する場

gnck(キャラ・画像・インターネット研究)

神様はいないかもしれないが、神様がいる「ことにして」執り行われる諸々の所作や手続きは存在する。トートロジカルな行為は、内容が無いような行為なので、形式だけが前面化する。

芸術には目の芸術と、概念の芸術があり、目の芸術における「革新」そのものを抽象化し、それ自体を目的として概念の芸術が立ち上がってきた。しかしその概念の芸術における批評性は、視点を変えれば「頓智」とか「ナンセンス」として呼び習わされてきたものだ。それを「(概念の)芸術である」と思わせるためには、(目の、あるいは先行する)芸術の形式を再演しつつ、それとのズレを見せつける必要がある。

新・方法の2011年災害支援ボランティアへの応募」が批評的に機能したのは、芸術による震災後社会への貢献という、焦燥感を歪んだ自己顕示に変換せんとする浅ましさへの痛烈な一撃になったからだ。しかし2017年現在、メールマガジンとは、なんとなく届いて適当にスルーされるようなメディアである。トートロジーそのものは意味の体系の中に遍在するが、それを上演する場所がどこなのかによって、振る舞いの持つ意味合いは変化する。この抽象度の複数性に新・方法はどれほど敏感だろう。つまり、新・方法が何と異なるのかを見せつけることこそが、その芸術性を明らかにするのだ。

え?「新・方法は○○ではない」じゃあなくて、「新・方法は新・方法である」がたまたま状況によって明らかになるのだって?そう言い切るのならそれはそれで格好いいのだけど。


[新・方法主義者のウェブ作品]

自動的に再読込み

http://hrmtkhr.web.fc2.com/new-method/054_j.html

解説無し

意味と表示 第三番

http://7x7whitebell.net/new-method/shogobaba/054_j.html

ウェブで使用されるHTMLは、文/単語/文字に対して、表示されている記号とは独立した意味を与える。この作品は、HTMLによって意味を与え、意味の錯乱を起こさせる。今作では、「新・方法主義Shift_JIS宣言」の各文字に意味を変える。

(参考)新・方法主義Shift_JIS宣言

http://7x7whitebell.net/new-method/manifesto_sjis.html

  • 皆藤将

人を馬鹿にするためのブービートラップ

http://masarukaido.com/newmethod/b054_j.html

人を馬鹿にするためのブービートラップを作りそれを撮影した。


[お知らせ]


[編集後記]

「第5回AI美芸研」が2017年1月29日、東京美学校にて開催されました。その中で、馬場省吾の作品『なぜ芸術ではないのか』(2010)が中ザワヒデキ氏によって「フレーム問題」の文脈において紹介されました。

http://www.aloalo.co.jp/ai/research/r005.html (新・方法)

発行人

平間貴大 @qwertyu1357

馬場省吾 @shogobaba

皆藤将 @kaido1900

機関誌「新・方法」第54号 日本語版

2017年2月9日発行

2016-09-22

村上隆の五百羅漢展 (twitterまとめ)

村上隆五百羅漢見た。かなりがっかりである。期待もあっただけに。

瓢箪ハーフトーンも画像で見た感じかなり良かったのに、色が全然良く無かったり、表面の磨きがまばらで、白い画面なのに光の反射が汚く見えたり(あれを工芸的というのはちょっと工芸舐めてるのではないだろうか…)、色彩にせよ、羅漢の顔にせよ、手札の種類は大して無かったりする。

村上が話のたとえにハリウッド映画を出すことがままあるけれど、予算は潤沢で、飽きないように一定のクオリティには達しているけど、ひっかかりの無い映画を見せられた気分。

解像度の最後の部分に目をいかせない脅迫性には満ちていて、手業と色数の努力賞にはなるけれど、自身がよく言うように天才性はほんとゼロ。

ただし立体は割とその嫌な感じがなくて、金ぴかでも別に恐怖心からやらしくなっているわけではない。のどちんこちゃんと作ったり、粘性のある感じの作り込みが良かったりする。黒い髑髏も、アレは光の演出ともあいまっていて良い。

主線をシルクスクリーンでやるのは、線の良さが一回死ぬので、そこをどう味付けしなおすのか、というのはMr.がやっていることだけど、その発展が師匠にあるのだと思っていたが、五百羅漢でも装飾によってどうにか保つのみで、装飾性が「駄目な方の装飾性」なのだよな。

五百羅漢の四図の中でも、螺旋の要素は良かったので、そこは発展可能なのではないかな。円相は全然良くないのだけど。

村上は、オタクに対して面白い時は、岡田斗司夫が言うように「勘違い芸」なのだと思うけれど、伝統画題についてもそうなのだろうな。勘違い度が低いとむしろ意味の読み替えも起こらない。

村上の活動が国際的アーティストになる一つのモデルケースなのだとすれば、それがやれる人間を美大で探そうとしてもかなり不可能な気がするが、作品だけ切り取ると方法論が明確なので、天才性が無くても全然やれる範囲という感じだよなこれ…

でかい作品でも、「全部に手が入っていなくても成立してしまう」その技術体系が絵画の神秘だと俺なんかは思ってしまうのだけど、まさに真逆の方法論で成立させようという作品群。しかし、「工芸品には及んでいない」。これってどこに到達したことになるのだろう。

日本画のフラットな空白は、周辺視野が作る奥行きのような空間であり、見つめる時には紙の目という繊細さが立ち上がるけれど(あるいは、箔の肌合いが)、そこがハーフトーンに置き換わると、その解像度で止まってしまう。それだと、ハーフトーンが埋草になってるだけに見えてしまうんだけどな。

いや、これはつまり、美大生の大量動員とかブラック労働とかではなくて、職人を死ぬほど使い潰したらいい作品できるよね、という話をしていることになるわけだけど。

最後の映像で出てきた村上の若い頃の映像や、学級委員長リコールされた話などを見るに、村上もかつては若い作家だったわけだし、意外とトホホ感とかを愛すべき作家なのかもしれん。

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