隣の誰かと遠くのあなたを

2009-02-23

必要とされる美術教育

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習

no title

最近私は、指導要領の改定を受け、美術での鑑賞教育が更に強化されることを受けての、授業開発のお手伝いをしています。その中で、私が特に本質であると考え、心がけていることが、「自分自身の感性を発見する」ということです。*1

芸術作品、特に絵画や彫刻といった所謂ファインアートのジャンルにおいて、その作品の解釈に正解はありません。*2作品を見て、どう感じたのか?何に注目したのか?それを生徒に問いかけ、何かしらの解答を提示させることで、自分と他の生徒では注目の仕方や、好みの作品が異なり、その理由も様々であるということを発見していく。更には、自分が何故そのように感じるのかを言語化し、他者にも共有可能なものにしていく。

作品から感じられるものは、多種多様です。その作品が持つパワーや、味わい。歴史的な文脈から、何か崇高なものを感じるかもしれません。あるいは、昨日サンマを食べたから、作品のサンマに興味が行くのかもしれない。それらは、私たち一人一人が持つ経験によって育まれた「感性」に左右されるものです。感性とは、どうしようもなく、他のあり様ではなく「そう」体感してしまう、ということです。これが即ち背骨ということではないでしょうか?そういった背骨も、経験と、自身の背骨を確認し、確信/修正していくプロセスを必要としていて、美術教育はその一環になり得る。

鑑賞と表現は渾然一体です。作者は作品(化していくなにものか)の第一の鑑賞者です。鑑賞は、ただ呆然と見ることではありません。作品からなにがしかを感じ(感じるためにも様々な経験や訓練や文脈を必要とします)、それを言語化することで、「何故私はそう感じるのか」という問いかけをするということです。当然、感性の違う人にも、どうにか説得力のある表現を考えなければいけません。価値観は対立し得ます。故にその調停の方法も模索されなければいけません*3

制作や、言語化とは「私の感性」をいかに共有可能なものにするか?という作業であると言えます。(なんだか研究と近づいてきた気がしませんか?)個々人で異なる「私の感性」を発見し、それを共有可能にしていく営為。*4これこそが、今日の芸術の、根底にあるものではないのでしょうか?*5

芸術こそが、人間の根底に作用する、というのは、こういう意味ではないでしょうか。こんな中美術の時間を選択にしちまえとか、ふざけるなよ、という話で。*6

追記

あ、タイトルで、何故美術教育が必要とされるかって、初等、中等教育の段階で、そういった訓練をしておかないと、何の目的意識もなく大学に行く人が増えてしまうのでは?ということ。

追記2

表現者という言い方をした理由 - 発声練習

representation - へぴゅーNT/というわけで(ry

どうやら、芸術表現と論文の違いがあるんじゃね?というのが割とあるみたいんですが、制作においても、作者は必ず説得力を生み出す必要にかられます。そして、その説得力を付随する方法にも様々に研究開発されてきた「型」がある。*7表現を説得的なものにするための諸々の手続きが必要である、という部分では芸術表現と変わりない、と思います。*8

いや、うーん、違うな。だんだんぶれているけど、いいや。書いてしまうけれど、ことの発端のエントリーでは、「自己肯定できない若者たち」とでも題して新書で発売されそうな現代の若者のある種の振る舞いに対して、「クリエイティブ」なことに必要とされる、正解のない事柄に向かっていく姿勢の欠如、失敗の忌避なんかを、どうにかこうにかしようとして、でもできなかった、というエントリーだった訳なんだろう。そして、それがはてなブックマーク上で、「俺のことか」という人が出てくるくらいには、ある程度一般的な傾向であった。

で、ある種嫌悪感を催させたのは、論文なんか自己表現じゃねえ!という感覚か?(ここら辺あやしい)つまり、自分の問題意識を向けるようなことは、もっともっと別のところにあって、単位とるためにやってんだよ。的な。あとは、結局できなくてブログで書くのはどうよ、といった意見もあったが、それは、できないことは色々あるだろうよというか。自己肯定感の醸造や、価値判断の基準を人に説明できるような訓練をするのは、大学に入る前とか、卒論に取り組む前段階でやっておくべきことなんだろう、というか。そこでババーンと出てくるのが美術教育というか。じゃじゃーんというか。


関連:鑑賞教育と感性と自分探し - 隣の誰かと遠くのあなたを

*1文部省的にはどうなんでしょ。

*2:デザインだと少し鑑賞の作法は異なる

*3:ここのところまでは、鑑賞の授業開発では至っていませんが。また、何かを決定する際や、道徳の問題には如実に対立が生まれる。対立の回避ではなく調停の技術が必要。

*4:これこそ民主主義、ですかね。俺は民主主義者だったのか。

*5:と私は考えております。間違っていたらごめんなさいですよ。

*6:当然、美術教育であっても、作品を作って、ハイ終わりではいけない。ただ、経験したことのないことを経験させるというだけで有意義なのかなぁ、と思えるような状況なのは悲しい。

*7:絵画における遠近法など。

*8:当然、それらの作業が楽しいかどうかは別問題ですけど、芸術表現だって、それなりに「だるい」要素だって含んでいるのだと言いたい。これは変な意地を張っているんだと思いますけど。

igorigor 2009/02/26 09:24 はじめまして。
研究と芸術には、「クリエイティブ」な面があるという点では確かに似たところもあります。
しかし、二つはその社会的な存在意義が異なっています。つまり、何のためにあるかが違います。
上の記事のなかでは、混同されているように思われ残念です。
論文は、客観的に学問体系に対して寄与するために書くものです。その点では理系も文系も一緒です。
「なんでこれが面白いと思うのか」を言語化できるようにすることが、研究の場合も重要ですが、
研究は批評ではありませから、
なにかの作品について論じる場合は、その歴史的な意義、あるいは解釈上の意義、あるいは芸術理論上の問題点などにかんして、学術的にみて新しいことが言えるぞ、という感じのことを述べなければなりません。
新しいことを研究者として述べる、という点に研究のクリエイティヴィティが存在します。
それは自分が個人的に面白いと思うというのとは、全く違います。
芸術作品の製作とも全く違っています。

また、芸術的な感性が人によって違う、というお話が、とつぜん、倫理観や価値観の対立の調停の話と同列に扱われているように見えますが、切り離して扱うべき話題ではないでしょうか。

shiroshiro 2009/02/26 12:47 私はこのエントリに賛成です。が、確かにnext49さんのエントリからの一連の流れにおいて、いくつかの異なるレイヤの話がごっちゃになっている感じがしますね。
igorさんのおっしゃるように、研究と芸術は社会的な存在意義、あるいは方法論においていくつもの違いがあります。が、対象に向き合う時の姿勢、あるいはそもそも{研究|芸術}に向かうことになる内的な動機---自分の心を「くすぐる」もの---をいかに発見し、いかに昇華させてゆくか、というメタなレイヤにおいては同じことではないか、と思いますし、一連の議論で問題になっているのもそこだととらえています。

kno_apm_kgdkno_apm_kgd 2009/02/26 22:02 >igorさん
こんにちは、どうもです。
私は、美術大学の学生ですので、確かに、「(理系における)研究=正解のないことに取り組むこと」程度の認識で記事を書きました。美大ではどうやら学部生の時点で「正解の無いことに取り組む」ことが要求され、最近の私の取り組みと関連があったので、記事にしてみました。あと、「変な意地を張っている」と言っている通り、「論文書くより作品書く方がよっぽど楽だぜ」とか、「作品なら好き勝手やれていいよな」みたいに思われるのはやだな、という意地が出てしまっています。(小説を実際に書いた方なら、実感を持って言っていて説得力あるんですけど、それを読む側に、勝手に「作品作るなんて気楽なもんだな」という読者がいるという風に思ってしまっています。先入観というか、勝手な仮想敵ですけど。)
科学の手法における、文脈をガッチリと固定して話を進めることができる、ということに憧れというか、そういう体系的な学問をうまく学べていない焦りがあったりもするかもしれません。
感性が異なることと、価値観の調停は別の話です。鑑賞教育では、感性を確認するところで止まってしまうことにもやもやしているので、そこらへんが出ています。切り離していないように読まれたのならば、それは、私の落ち度です。ごめんなさい。

>shiroさん
どうもです。
next49さんの問題意識は、大学生として生活を送る身としても分かる所があり、その対処法についても色々と考えていたりしたので、共振するような部分があったのだと思います。ゼミにこういう人がいたらやだなー、とか。その後の「大学院の教授がクソだと言われる一つの理由」を読んで、「なんでこの人は大学に通っているんだろう?」と思ったことが、このエントリーを書くことになった直接の理由です。

igorigor 2009/02/26 23:32 お返事ありがとうございました。なるほど、ご興味の背景が少しわかりました。
仮想敵といいつつも「作品作るなんて気楽なもんだな」という見方に対して反発を感じていらっしゃるのなら、おそらくこれまでにそういった言葉を複数回耳にしたことがおありなのでしょうね。しかしいっぽうでは、芸術家を神聖視する人もいて、「論文とか書く奴はどうせ芸術家の才能が足りなかったからだろう」といったことを言う人もいるのです。どちらの場合も、批判としては的外れなのは言うまでもありません。研究と芸術製作は、その意義も性質も違うので、どっちがより高度かなんて比較するのは無意味だし、非論理的ですから。そもそも、どちらか片方でもしっかり取り組んだことがある人は、そうした批判が無意味と知っていると思います。
というわけで、そうした敵(?)のことは放っておいたほうが、じぶんのテーマをストレートにアウトプットできるのではないでしょうか?

美術の鑑賞教育について、興味深い問題ですね。
私自身は文学研究者なので(若輩者ですが)、学校教育における芸術鑑賞のあり方は、不思議に思えるところがあります。
芸術作品を(研究対象として)分析的な視点をもって眺めることは主に大学院で訓練されたものです。
学校教育における芸術鑑賞は、研究にはほとんど役立たちません。
でも、学校教育における鑑賞は、やったほうがいいと思います。
というか、研究者になる人なんてどのみち少数ですから・・・

「感性を確認するところで止まってしまうことにもやもやしている」という問題意識について、とても、「なるほど」と納得しました。
あまり返事になってませんが、「あえて」確認するところで止めるというのでも、いいんじゃないかな、という気がするのですが・・・
現場を知ると、いろいろ葛藤もでてくるのでしょうね。
お元気でがんばってください。

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