水戸芸術館「田中功起 共にいることの可能性、その試み」(twitterまとめ)

水戸芸術館の「田中功起 共にいることの可能性、その試み」を見た。メインとなる作品は、6日間にわたるワークショップを撮影した映像を、複数のディスプレイ、スクリーンで上映するもので、すべての映像を見ると240分になる。他にはヴェネツィアビエンナーレ日本館で展示されていた、複数のピアノ奏者や複数の陶芸家で一つの作品を作り上げる様をドキュメントした映像作品が展示された。中々見る機会を作ることができないと思っていたが、結局最終日に行くことができた。水戸芸術館ははじめてである。当日はイベント「てつがくカフェ」も開催されていた。
メインとなる「一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置」は、そこに何か人間の共同性における本質が鮮やかに立ち現れるのかと言えばそんなことはない。たとえばワークショップの中で、ある種の「理想」が現前する瞬間が訪れたり、逆に「人間が持つ醜さ」が露呈したり、複数の人間がいることで引き起こされる様々な力学や事象はそこには捉えられない。それどころか、最後のディスカッションで議論が盛り上がりを見せた瞬間に、作家によって時間切れの宣言(それも、「キュレーターの育児がある」が「そのことじたいは議題にのせることができなかった」という言い訳めいたキャプションとともに)がなされる。いや、これ何を見せられてんのよ。単にこの映像の展示は、6日間の「ワークショップ」が「失敗」した様をただ見せつけられるだけのものであって、幾台ものカメラによる撮影、編集、複数の画面の展示という、膨大な仕事量の、あまりに優等生的で、真面目な愚鈍さにげんなりしてしまう。
それは同時に開催されていた「てつがくカフェ」でもそうで、冒頭30分に議論するとは、とかの前段階の説明が入って、ようやくスタートするときに「共にいるとはどういうことか自由に考えてください」とか、その状況に参与できる人種って、アートピープルの中でも更に相当特殊な人に限定されるわけで、ふわっとした入りから3時間半もの議論をさせようという、そういう特殊状況を設定しているにもかかわらず、大した内容も無いことになっている。前提を共有しない人々が、きちんと対話や議論を行うための司会進行はかなり高度な技術が必要だし、たとえば「言いたがり」が複数人いるだけで、そういう場は破綻しかねないわけだけれど、その終着点を参加者が共有できる有意義な議論は難しいのだが、それを「議論が起きたからよいのだ」とか「ワークショップをやったことで可能性が見えたのだ」というのは、何か理念らしきものを実現する技法というのがあるらしいがそれは成功せず、技法だけを輸入してさも理念ありげに見せつけるということになりはしないのか。
社会問題に関心があり、しかしそれを直接扱うアクティビズムのアートにはしたくないなぁ、というのは別に動機として間違ってないと思うけど、ならば抽象的な題目を立てる前に、社会問題そのものをつぶさに観測しないと抽象化を誤るし、それを普遍性のあるテーマとして作品化することも難しくなる。「特定のクラスタの人がなんかぐじぐじやってる」以上の見えにしなければ作品化しないだろうし、たとえばテレビのリアリティーショーの戯画的な仕掛けが共同性の問題をあぶりだすこともあるし、ドキュメンタリーのように編集が加わっている方がよりまだ面白さが見えてくる。なんとなく無加工っぽくしたい手つきで結局何も出来上がらなかったら、それは倫理的な態度ではない。