「自然体なハイブリッド」の芸術性をめぐって 藤田明のインターメディア性と自然体さについて

 藤田明の作品を長年近い位置で見てきている。高校ではデザイン科を卒業し、大学では東京藝術大学の先端芸術表現科に進学。ドイツ・ワイマールのバウハウス大学に1年間の交換留学を経てから制作した卒業制作は、飴を舐めて尖らせるというパフォーマンスであった。

 デザイナーとして、文具のデザインに関わったが、その後の初個展では絵画を発表。第2回目の個展「アダージオの香り」では、絵画を中心に構成したインスタレーションを発表した。

 絵画といっても、近作では特に支持体がキャンバスから離れ、ペーパーハニカムボード・・・要は分厚い段ボールの板を切ったような支持体に、ステンシル技法でアクリル絵具をのせ、その上に加筆をしてみたり、あるいは紙面上にやはりステンシル技法とオイルパステル、マスキングとペインティングを組み合わせたりと、混合技法を随分と使っている。とはいえ、それがイラストレーションや絵本の原画といった、複製を前提とした仕上がりということではまるでなく、明らかに絵画として、つまり一点ものとしての仕上がりが追及されており、この豊かさは、ちょっと作品と対峙しないと伝わりきらないものがある。

 線描を用いてごく単純化された少女のモチーフは、最近ではカニのモチーフへとその出現頻度を移行しつつあるが、円形の線描で描画されるカニは、「絵」であることを明らかに宣言しているというよりも、微妙にズレた、あるいはブレたレイヤーにその実態を置いていて、画面と相互作用するのか、しないのか、決定不能なところに漂っている。

 一方ではデザイナーとして名刺のデザインを手掛けてみたり、イラストはイラストでiPadでなんなく制作もしてみせている。多芸だなと思う。

 で、デザイナーとしての美意識と、イラストレーターとしての美意識と、画家としての美意識が、それぞれ独立しているのかといえば、まぁそんなことは普通になく、けっこう確固とした価値判断をして、その作品を成立させているようなのだ。

 

 しかし混合技法を使っていて、それが再現性を求めた結果ということでもなく、とはいえ技法どうしの異化効果を狙っているということでもない(勿論、異化されているのはあるのだが、それは画面にコンフリクトと呼べるほどのものは生んでいない。しかし存分に知覚されるものだ)。これは一体どういう温度感なんだろうなと思っていたのだが、ようやく見つけた言葉としては、これは「自然体にハイブリッド」なのだ。

 

 これはつまり、「俺はハイブリッドだぜ」「俺のユニークさはそのハイブリッド性にあるぜ」「それをレペゼンするぜ」と言いたい作家なのではなくて、「こっちのがいいでしょ」を集積していくと、技法が必然的にハイブリッド化していくということだろう。デザイナーもやり、雑貨の仕様や素材・材質にも詳しい藤田だが、そういった背景から、単なる画家でも、特定のカルチャーをバックグラウンドにオーセンティックな形式に「絵画化」しようということでもなく、単に「いい作品」を出力しようとした一つの形、ということになるのだろう。

 批評家からしてみれば、何かを代表せんとする動機が無ければ、その達成をはかることができない。だからこそ、随分と言葉にし難いなとも感じていたのだが、それは「自然体」と言ってみれば良かったのだなとも思う(とはいえ、作品を一口で言ってみせるのはなかなか難しい。したがって、これは是非鑑賞してほしいところだ)。

 そして何かを代表しようとしないことによって、そこに何が代表されるのか、という問題を考えるに、これは「現代」の「都市」で文化を享受し生きてきたある人間の感性、美意識、ということになるのであろう。現代の都市の文化の享受者は数多い。しかしながら、それを出力する多様な術を、統合してみせようという者はそうではない。人間は、現在に存在する技法を自由に選んでいるわけではないからだ。藤田は、(他の多くの優れた作家たちもそうだが)粘り強く多様な「物」と「道具」を触り続けることで、自分の美意識にストレートに解を出そうとしているのだ*1



*1: https://meifujita.myportfolio.com/painting まぁでもストレートに出た結果が「舐めると美味い石を探している」になるみたいなんですけど。わかります?

ファンネルは何故「敵の武器」なのか



 『機動戦士Ζガンダム』(1985)に登場する、「ファンネル」という架空の兵器がある。番組のボスキャラクターであるハマーン・カーンが搭乗するモビルスーツキュベレイ」に搭載されている兵器で、自在に操ることができる小型の移動砲台である。番組中では、「ミノフスキー粒子」という架空の未知の素粒子が存在しており、これが可視光以外の電磁波を吸収・阻害してしまうため、レーダーやミサイルといった、誘導兵器が満足に使用できないという設定になっているが、このファンネルは例外的に、登場者の思念を増幅する「サイコ・コミュニケーター(サイコミュ)」を用いて操作できる、ということになっている。この能力を持つものは「ニュータイプ」と呼ばれる。

 

 この「ファンネル」は、前作にあたる『機動戦士ガンダム』(1979)では、敵のモビルアーマーエルメス」が使用する「ビット」という兵器の後継兵器であり、正式名称は「ファンネル・ビット」であり、その形状から、漏斗という意味をもつ「ファンネル」と名付けられたとも設定されている。

 

 いずれにせよ、ファンネル、ビットは敵方*1の使用する兵器として登場しており、主人公側が使用するのは、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)における「フィン・ファンネル」を除けば富野由悠季監督作品では例がない。また、この「フィン・ファンネル」も通常のファンネルとは極端に形状が異なる武器となっている。

 

 このファンネルが敵方の武器であるのは何故なのか。その文芸上の意味とは何か。

 

 『ガンダム』におけるミノフスキー粒子は、電磁波を阻害する素粒子であるが、これは、現実の世界がレーダーとミサイルによって、直接の目視を伴わない電子戦へと移行するなか、未来の時代を描くSFとして、番組を成立させるための設定という面が大きいだろう。『ガンダム』では、巨大ロボットが直接銃撃や、格闘する場面が描かれるが、これがレーダーとミサイルだけで、先に発見した側が勝利する電子戦時代の戦闘では、番組としての味気が何もなくなってしまう。劇中の「一年戦争」は、第二次大戦的な総力戦をモチーフに描かれるが、そのような総力戦的な舞台を成立させるための設定といえるのだ。

 しかしながら、その総力戦的な世界の中に、レーダー・誘導兵器的な役割を持つものとして「ビット」が登場することになる。このビットは造語だが、情報通信の単位としてのビットのことだろう。ビットを操るモビルアーマーエルメスギリシャ神話における神ヘルメースであり、ヘルメースは伝令、情報通信の神でもある*2

 

 物語の後半、通常の電波が使用できない状況下で、なおも交信する能力を持つものである「ニュータイプ能力」とそれを用いた装置としての「サイコミュ兵器」が登場し、主人公であるアムロ・レイと、ニュータイプ能力をもつ少女ララァ・スンは、敵同士でありつつ、精神的な交流をするも、悲劇的な結末を迎える。その後の最終決戦において、アムロは爆発する敵拠点から、母艦も、搭乗機も失いつつも、ニュータイプ能力を使って、同艦に搭乗するクルーたちを脱出に導くことになる。

 

 このように『ガンダム』においては情報通信能力が希望的に描かれることとなったのだが、続編である『Zガンダム』で登場する同様の兵器は、ビットではなくファンネルと呼ばれる。そしてこのファンネルとは、「ビット」や「エルメス」が情報通信の謂であったこと、監督である富野由悠季は、「アニメばかりを見ていること」をしばしば批判する発言をしていることを考えれば、テレビに内蔵されていた、ブラウン管のファンネルガラスから取られた名称ということなのだろう。

 

 富野によるメディア(への耽溺)批判は、本人の発言に限らず、その後の作品にもしばしば登場している。『機動戦士ガンダムZΖ』(1986)の主題歌のタイトル『アニメじゃない』。『逆襲のシャア』では戦闘シミュレーターで無邪気に二機撃墜を誇っていたハサウェイ・ノアの残酷な結末。『機動戦士ガンダムF91』(1991)では、最終決戦においてボスキャラクターである鉄仮面は、脳波コントロールによる機械ごしの情報に頼っていたがために、主人公であるシーブック・ノアの機体の「塗料が剥がれ」ることによって現れる「残像」を本体と識別できず自滅するが、この残像とはセル画のメタファーであろう*3。そうであれば、最新作となる『機動戦士ガンダムGのレコンギスタ』のアイーダ・スルガンのセリフ「世界は四角くないんだから!」とは、モニター越しの世界認識批判となる。

 

 だからこそ「ファンネル」は敵役の武器である必要があり、『逆襲のシャア』において、アムロが扱うファンネルは漏斗型をしていない「フィン・ファンネル」であり、小惑星アクシズの中では「ラジオ」という「メディアを使って」みせる側なのだろう。

*1:機動戦士ガンダムは、アニメ史的には、敵味方を善悪とせず、国家同士の戦争とした点を画期として指摘することが多いが、「にも関わらず」ファンネルは長らく敵役の武器としてしか登場しなかった。

*2:

ここは筆者の見解ではなく、確か高橋裕行による見解だったはず

 

ララァエルメスという機体。あれはヘルメスですから「交通の神」ですね。ですから、アムロ、シャア、セイラを引き合わせる役回りになっています。そして、遠隔兵器の名前が「ビット」。いうまでもなく情報通信の基本単位であります。

午後10:52 · 2010年1月4日·Twitter Web Client」

 https://mobile.twitter.com/hyt/status/7367346300

*3:

これも筆者独自の見解ではない。

 

ねおらー31♎

@neora31

質量を持った残像 肉眼で見れば「剥げた塗料が宇宙に浮いてるだけ」何だけど 「機械のセンサーを目にしてモニターから世界を見てる」鉄仮面には「熱量反応」として探知してしまうから 攻撃を止められないっていう話になるので まぁ みんなもやっと飲み込めたね?

午後10:58 · 2022年6月21日·Twitter Web App

 

https://mobile.twitter.com/neora31/status/1539246283709632512

批評やめようと思った話

 

 ここから書くことは、記憶を頼りに書いている。記憶違いや、狭い視野での話になっているかもしれない。その点については断っておきたい。

 

去年の7月に激怒する案件があって、批評をやめようと思った。

 

 何があったのかというと、カオス*ラウンジの実質的な運営母体となっている合同会社カオスラにおいて、ハラスメントがあったという件だ。この件は確かカオス*ラウンジと共同企画を行うゲンロンの代表東浩紀twitterでなんだか匂わせたつぶやきをはじめ、あれよあれよとカオス*ラウンジとの提携を打ち切り、ハラスメントがあったと明るみに出た。

 黒瀬陽平の謝罪があり(黒瀬からはブロックされているが)、その後プレスが出るも(美術手帖もやたらと記事をつぶやきまくっていた)、「被害者のプライバシーが云々」と、詳細はうやむやにされたままだったかと思う。

 

 直前には、三越の新しいコンテンポラリーギャラリーで開催されていたパープルームによる「フル・フロンタル」展と、「吉村誠司」展会場で、両者挑発の末に吉村による人種差別発言があったとのインターネット上の書き込みをうけ、作家のHouxo Que(公開質問状の作成には長谷川新が協力)が三越伊勢丹HDに対して公開質問状を送っていた。カオス*ラウンジの展示にも度々参加するQueの公開質問状には、合同会社カオスラの社員である黒瀬、梅沢、藤城嘘、小松尚平も賛同者として名を連ねていた。

 

 激怒したその日は、たしか相模原のパープルームギャラリーの展示から、CASHIで梅沢個展、そのままQueらに夕食に誘われたが浅草橋のシェアハウス(ギークハウスではない)に久々に顔を出し、その後Queらに遅れて合流したのだった。

 

 前日がカオスラから「ハラスメントを確認し、第三者による調査を行う」という発表が成された日だったと思うが、パープルームギャラリーでは、梅津から詳細は話せないがけっこう大変なことになっているという発言や、黒瀬の批評的才能については惜しいので、今後も何かしらは書いてもらいたい旨の発言があった。これについては「そうはいってもしぶとく戻ってくるのでは?」と返した記憶があるが、告発があったのちに思い返せば、大きなことになっていた。

 

 CASHIでは梅沢が、マンガ『ブルーピリオド』の今後の展開について「藝大の闇も描いてもらいたい」という発言があった。これについては、はっきりとおかしいのではないかという感情をもった。合同会社カオスラの役員である梅沢が「ハラスメントがあった」とプレスを出した翌日に、他人事のように「藝大の闇」について発言していたのだ。(展覧会会場での雑談ではある。しかし梅沢は、展覧会会場での吉村の発言を問う、公開質問状への賛同者である。)「藝大の闇」の前に、「カオス*ラウンジの闇」について向き合うべきなのでは?というその姿勢に対して、しかしその場で、自分は何も言えなかった。

 

 遅れて参加した食事会では、Queがカオスの件について「動いてて凄い大変」とか「黒瀬は退職ということにしようと相談したのは俺」とかいうことを語っていた。(なので、後の「関知していなかった」というQueの発言には時系列がおかしいと感じたが、「記名時点では」ということなので、そこはそうなのかもしれない)「具体的な内容に触れることで公的に声を上げることさえ封じられるというのなら、勝手に情報を聞かされてインナーサークルの一味にされたくない」というようなことを言ってすぐに店を出たと思う。怒りで声が震えていたと思うが、慌てる周囲に対してQueが「大丈夫大丈夫、gnckはこういう奴だから」と言っていたことははっきりと覚えている。

 

 店を出た後に怒りが爆発した。

 

 何への怒りだったか。黒瀬の行いは聞く限りにおいて「かなりまずい」ことをしたという(その後告発が出た事によって、その内実は明らかになったわけだが)。しかし、会う人物の誰もが、黒瀬の件をどう「軟着陸させるか」ばかり語っていた。なおかつ、最も近くにいる人間は「藝大の闇」だのと呑気に言っていて(繰り返すが、プレス発表を行った翌日である)、自分たちの行いを顧みることもないのか。

 

 俺の批評は、別に誰に対しても行おうとしているのではないのだ。

 俺の批評は、JNTと梅ラボの二人展からはじまっているのだ。

 この2人を素晴らしいと感じることを、どうにか言語化できやしないだろうか。

 この2人の作品をどうにか下らなくないものとして擁護し、歴史に刻むことはできはしないだろうかと。

 

 この2人は、擁護し難さをも抱えている。

 

 一つは、デジタル画像という「正統なジャンル」から外れた隘路ゆえの難しさから。

 一つは、コラージュという、著作人格権を踏みにじりかねない行為から生まれるという難しさから。

 

 コラージュがアートとして擁護されるべき時は、どのような時なのか。それはその芸術性が、その技法からしか生まれえない批評性を孕むときだろう。

 コラージュは、人を怒らせるかもしれない。それは、創作物が愛され、創作者が尊敬されていることの証左だろう。しかし、その可能性を踏まえてなお、コラージュが作り出され、しかも公に向かって発表しようと言うのなら、それは批評性を第一に置くがための行為であり、道徳をひとまず二の次に置いてでも、やらなければならない使命なのだろうと。

 あるいは、別の形で、創作物や、その世界そのものを愛しているのだろうと。

 

 そう思っていたのだが。

 

 しかしそれは一方的な期待をかけすぎていたのだ。作品の素晴らしさと、それを扱うための倫理の持ち方は別だったのだ。そして、その程度のコミュニケーションも、自分と梅沢はとっていないのだ。

 

 批評なんかやめてしまおうと本気で思った。そのような発言もした。その時の振る舞いは、周囲にも随分と心配をかけてしまった。

 

 (その後QueからのDMでは「カオスラ側に責任を認めさせるために動いている」と言っていたが、荒れている自分とやりあっていても、Queが公開質問状の件に集中できないと思い、「あなたに過大な負担をかけて、本当もうしわけない。俺のフォローはどうでもいいので、やれることをやってくれ。」と送ってブロックした。最悪の後味で、泣いた。



 人が弱っているところに目をつける人間はいるもので、あまりに人の自由意志をないがしろにする発言をくらったことで、少し正気に戻り、恥をさらして批評の活動は再開した。

 

 しかし、別に絶望したことについては何も解決していないのだ。

 

 今年に入って、カオス*ラウンジを告発した安西彩乃の支援サイトについて、梅沢は「有志の方々によって安西さんの支援サイトがリリースされました。経緯や情報、支援の手段などがまとまっています。自分は元カオスラの役員という立場ですが、状況が少しでも良くなることを願います。」とつぶやいているが、事案発生時にはまだ役員だったのだ。そしてそのカオスラは被害者である安西に訴訟を起こしているのだが、そのことに触れずに「状況が良くなることを願う」というのはどういうことなのだろう。

 

 Queは公開質問状の返答に対する声明を、去年の9月に「今週中にも書く」と言ったままその後の動きはない。

 

 そこには「個別の事情がある」のかもしれないが、果たしてそれが「公的な声明を出さないこと」「公的な声明のリアクションに答えないこと」の理由になるのだろうか。

 

 記:2021/2/10

 

杉本憲相展と「キャラ・アート」について

中央本線画廊での杉本憲相展で感じた、杉本の真面目さと凡庸さは「キャラ・アート」とでも言うべきものが既にジャンル化したことの証左に思えた。

杉本が既存のキャラを扱う時に、2017年にらき☆すたを選択することの、絶妙な古臭さ。カオス*ラウンジが2010年にらき☆すたを選ぶことには、当時の環境としての必然があるが、それに対して今更ゼロ年代的感性であることの凡庸さ(キッチュですらない)。

画学生がキャラ絵を描きたがるのは別に悪いことではなく、絵を描き始める人間の少なくない数が、最初に自覚的に描き始めた絵はキャラ絵なのだから、キャラ絵そのものに原初的な契機が内在しているというのは正しいと思う。しかし芸術としてキャラを扱うとき、何を持って芸術の問題とするのかという手続きはどうしたって必要になる。

たとえば、キャラの芸術全般の立ち位置で見た時のキッチュさを扱う、というのならば、それはポップアートの方法論となろう。村上の奇形的ポルノグラフィーはまさにそういう方法論だし、会田もそうだ。

一方で、キャラの目といった強固な輪郭や、強固な固有名性をもち、強い現前性を有することに注目するならば、キャラは変形され、解体されるだろう。2009年の「解体されるキャラ」展で、JNTHEDや梅ラボを扱ったのは、(村上よりもむしろ奈良的なものかもしれないが)キャラ的な造形のペインティングが、批評的なジャッジを経ずにアートフェア等に現れてくることへの違和感があったからだ。

藍嘉比沙耶が90年代や00年代初頭に注目するのは、一周まわってはじめて、絵柄がサンプリング可能になるからだろう。「ちょっと古いものが一番ダサい」という消費の速度がどうしても影響してしまう。(それは、我々は享受している文化の文脈の連鎖を、身体的に受け取っているということでもあるのだろう。30年という時間によって適度に文脈が脱落してこそ、絵柄や「セル画」の質感が意味操作の具としてそれが扱えるようになるのだ。)

そもそも、絵の具を使ってキャラを描くというのは相性が良くない。白黒のマンガ絵をベースにするキャラ絵においては、Gペンを代表とするイリヌキのはっきりした線によって囲まれた輪郭の内側には、実際の紙は平面であるにも関わらず、仮想的(理想的)なヴォリュームが発生する。ここで重要なのは、実際には平面であるが故にそのヴォリュームが感じられるのであって、そこに凹凸があれば、人の目はそこに凹凸を見るということなのだ。油絵具というのは、筆の運動による微かな凹凸を演出することのできる画材なのだが、その画材を何故だか選択してしまうのは、ペインティング=アートというような固定観念なのだろうか。ここはもっと気を使ってほしいところで、藍嘉比もあいそ桃かも乙うたろうも、もっと表面を徹底してほしいなと思う。というか、村上すらも。その意味で、改めて考えると、谷口真人は盛り上がった絵の具で理想的な平面を描くことの困難には自覚的であったとは思うし、オースティン・リーのやっていることはやや保守的だと思うけれど、「表面」への扱いの丁寧さや、空間をきちんと違う視覚のモードに仕立てあげることについては素晴らしい仕事をしていたなと思う。

シックスハートプリンセス第2話

TOKYO MXでシックスハートプリンセス第2話を見た。これは30年前のOVAを見せられている気分に近いのではと思った。つまり、類型的な表現を採用する必然性が薄れ、なんとなく型を踏襲していること。演出が拙く整合性の無いこと。一部にはやたら気合の入ったシーンや、レジェンド級のアニメーターがちょろっと参加していること。設定資料が先行して妙に充実し、グッズとして販売されていること。など(ちなみに設定資料集とポスターはもちろんゲットした)。一方でどこに差異があるのかといえば、現場に悲壮感が漂っていることと、「純粋芸術としてのアニメ」を宣言していること。まぁ純粋芸術ならば、それがつまらなければ芸術家の責任である。
村上隆は「オタクに対する勘違い芸」において威力を発揮する作家で、たとえばS.M.P.ko2やHIROPONにおいては「類型性を採用しつつ批評的には突き刺す」仕事をしているが、今回採用されている類型性は単に類型的なだけだ。

ゲンロン5刊行記念トーク 東浩紀×梅沢和木「視覚から指先へ」を聞いた(twitterまとめ)

昨日の東浩紀梅沢和木トークは「視覚と視覚以外」という区分が面白く、そこから「人を分断するメディアと人を連帯させるメディア」と敷衍されていた。会場からの質疑にこたえる形で、東がまだ自分の中で説得的に語ることができない事柄(自分の中では理路として成立している)を語ろうとしており、そういうものに何らかの形を与えようとするという意味ではむしろ東こそアーティスト的だった。

思想家が「物事の捉え方に視座を導入」している話はとても面白いのだが、作家は思想家の大胆な切り口で自身の作品の持つグラデーションが見えなくならないかには敏感であるべきだ。たとえば「身体性」という時に「指先の身体性」とひとくくりにするべきなのか、マウスとタッチスクリーンの道具の差異に重要性を置く作家であるのかは、明らかにすべきだろう。たとえば絵画論で語られる「筆触」という語をひとつとっても、「道具の(インターフェイスの)身体性」が作品に刻み込まれることが示される。梅沢和木については「解体されるキャラ」の中で「Photoshop的身体性」と言ったこともあるけれど、自動選択や、切り口のジャギーのような細部や、レイヤー構造といった、道具の固有性が現れてくる。そこで鑑賞者が感じるのは、道具による操作の痕跡(ということはつまりありえたかもしれない一手=操作可能性)だろう。それはやや飛躍するが、トークに出ていたゲームプレイにおいてプレイヤーがカメラを支配できること(操作可能性)と通底してくる話とも思う。

音ゲー弾幕シューティングが一方ではコメント弾幕やもう一方ではtumblrtwitter的なタイムラインの「ストリーミング・ハイ」的な感覚が時代的な共感覚として作品に結晶したのは、梅沢初期作品における明らかなる達成だと思うが、画面に結晶するべきものや、インターフェイス的感性が適切にアップデートされているかというと微妙だろう。自分より後の世代の小林健太のタッチスクリーンに言及していたが、後続がやっているからいいや、というのでなく、適切に現代的な視覚感覚にアップデートする努力はあってしかるべきだ。作中において、何度も再引用されるパーツを見ると自家中毒的と思わざるを得ない。近作はパーツが細かくなる傾向があって、その物量性を指して「触覚的」な方向に振れているというなら指摘としては正しいかもしれないが、作品として成功させるためならもっと(もともと筆触的なフィールドである)絵画をたくさん見た方がいいだろう。「単に時代を反映するだけが作家ではない」は見識だと思うが、同時に時代に連なるならば過去の達成に対し、一体なにで比肩するのかを突き詰めないとならない。

「連帯させるメディア/分断するメディア」という区分で面白いなと思ったのは、音や声は同心円的に空気を揺らしているので、それはみんなを一つにするメディアなのだということとインターネットの性質で、「見たいものに目を向ける」というのは区分で言えば明らかに「視覚的」なのに、twitterの投稿は「つぶやき」と呼ばれ、さらには「エコーチャンバー」とまで呼ばれるわけで、人は「見たいものを見ている」感覚ですらない(これこそ世論だと素直を思い込んでしまう)装置ということになるなぁという点(ただ、過去のメディアにそのような性質が無いわけではないか)。東が「俺カーナビ使わないんだよ」みたいなことを言っていて、そういう感覚的なレベルの個人的な偏差の話も東の方が興味深く聞こえた。

「新・方法」メールマガジンに寄稿しました。以下転載。

「新・方法」第54号

寄稿と作品からなるEメール機関誌「新・方法」第54号をお届けします。今号の寄稿者は、キャラ・画像・インターネットの研究を行っているgnckさんです。


[寄稿]

となりのトートロジー、遍在を再演する場
gnck(キャラ・画像・インターネット研究)

神様はいないかもしれないが、神様がいる「ことにして」執り行われる諸々の所作や手続きは存在する。トートロジカルな行為は、内容が無いような行為なので、形式だけが前面化する。
芸術には目の芸術と、概念の芸術があり、目の芸術における「革新」そのものを抽象化し、それ自体を目的として概念の芸術が立ち上がってきた。しかしその概念の芸術における批評性は、視点を変えれば「頓智」とか「ナンセンス」として呼び習わされてきたものだ。それを「(概念の)芸術である」と思わせるためには、(目の、あるいは先行する)芸術の形式を再演しつつ、それとのズレを見せつける必要がある。
新・方法の2011年「災害支援ボランティアへの応募」が批評的に機能したのは、芸術による震災後社会への貢献という、焦燥感を歪んだ自己顕示に変換せんとする浅ましさへの痛烈な一撃になったからだ。しかし2017年現在、メールマガジンとは、なんとなく届いて適当にスルーされるようなメディアである。トートロジーそのものは意味の体系の中に遍在するが、それを上演する場所がどこなのかによって、振る舞いの持つ意味合いは変化する。この抽象度の複数性に新・方法はどれほど敏感だろう。つまり、新・方法が何と異なるのかを見せつけることこそが、その芸術性を明らかにするのだ。
え?「新・方法は○○ではない」じゃあなくて、「新・方法は新・方法である」がたまたま状況によって明らかになるのだって?そう言い切るのならそれはそれで格好いいのだけど。


[新・方法主義者のウェブ作品]

  • 平間貴大

自動的に再読込み
http://hrmtkhr.web.fc2.com/new-method/054_j.html
解説無し

  • 馬場省吾

意味と表示 第三番
http://7x7whitebell.net/new-method/shogobaba/054_j.html
ウェブで使用されるHTMLは、文/単語/文字に対して、表示されている記号とは独立した意味を与える。この作品は、HTMLによって意味を与え、意味の錯乱を起こさせる。今作では、「新・方法主義Shift_JIS宣言」の各文字に意味を変える。
(参考)新・方法主義Shift_JIS宣言
http://7x7whitebell.net/new-method/manifesto_sjis.html

  • 皆藤将

人を馬鹿にするためのブービートラップ
http://masarukaido.com/newmethod/b054_j.html
人を馬鹿にするためのブービートラップを作りそれを撮影した。


[お知らせ]

  • 「新・方法」はウェブサイトを更新しました。 http://7x7whitebell.net/new-method/
  • 平間貴大はウェブサイトを更新しました。 http://qwertyupoiu.archive661.com/
  • 馬場省吾はウェブサイトを更新しました。 http://7x7whitebell.net/
  • 皆藤将はウェブサイトを更新しました。 http://masarukaido.com/
  • このEメール機関誌の配信をご希望のかたは新・方法主義者にご連絡ください。
  • このEメール機関誌は転送自由ですが、著作権は放棄されていません。
  • このEメール機関誌が迷惑メールに分類されてしまうことがあります。お気を付けください。


[編集後記]

「第5回AI美芸研」が2017年1月29日、東京・美学校にて開催されました。その中で、馬場省吾の作品『なぜ芸術ではないのか』(2010)が中ザワヒデキ氏によって「フレーム問題」の文脈において紹介されました。
http://www.aloalo.co.jp/ai/research/r005.html (新・方法)

発行人
平間貴大 @qwertyu1357
馬場省吾 @shogobaba
皆藤将 @kaido1900
機関誌「新・方法」第54号 日本語版
2017年2月9日発行